11.完結篇
クローディアスはぽっかりと虚ろな表情で、タイタスが語り終えるのを聞いていた。
彼が生きている以上、クローディアスのしたことはいずれ、白日の下に晒されるだろう。
証拠は何ひとつない。腹を括って一切合切、知らぬ存ぜぬで通せば或いは逃げ切れるかもしれない。だが、もし仮にそうして逃げおおせたとしても、カッタレイクルを持ち帰り、立太子の試練を乗り越えたのはタイタスなのである。
クローディアスが王太子となる芽は、これで完全になくなった。
クローディアスが呆けたように見つめるその先で、どこからか蝶がひらひらとタイタスのそばに寄ってきて、彼の周りを飛んだ。
まるで彼の生還を寿ぐように。
クローディアスは何となく、その蝶に見覚えがあるような気がした。
要所要所で、何故かタイタスのそばにいる蝶。
――あれはもしや、タイタスが使っている下等魔ではあるまいか。
クローディアスの脳内で天啓のごとく閃くものがあった。
そうだ、そうに違いない――邪悪な妖精の取り替え子たるタイタスが、下等魔の一匹も使役していないとどうして言い切ることが出来るだろう。
心臓の音がやけにうるさく響いた。
この蝶がいつも余計なことをしていたのだとしたら。
この蝶があの時、タイタスの危機をグウェンドリン・ルッツに知らせ、救出に向かわせていたのだとしたら。
クローディアスの目が狂人のような輝きを帯びた。
――お前さえいなければ。
ひらひらと飛んでいこうとする蝶に、クローディアスは猛然と手を伸ばした。
その瞬間、タイタスが鋭く叫んだ。
「マーカス!」
――蝶に名前を⁉
驚くクローディアスの動きが一瞬止まったのと、タイタスのおかげで背後からの襲撃者に気づいた蝶がさっと横に避けたのとで、間一髪、彼の体はクローディアスの邪悪な手を免れた。
だが――美しい翅の片方は、間に合わなかった。
「マーカス‼」
「クローディアスを捕えよ!」
王が発した命令により、クローディアスは衛兵に取り押さえられる。ぎらぎらした目で王を睨むクローディアスに、王は静かに言い渡した。
「自室にて沙汰を待つがいい。――この者を部屋に閉じ込めよ」
「放せ、無礼者ッ」
クローディアスは振りほどこうと暴れるも、抵抗虚しく謁見の間から連れ出される。
タイタスは片翅をもがれ、力なく地に落下した親友のそばに座り込んだ。
「マーカス、しっかりしろ!」
――へへっ……油断しちまった……。
「マーカス……」
タイタスが地に伏せ、親友に鼻先を近づける。
――ホイップの旦那……最後に、俺の頼みを聞いちゃあくれないかい……。
タイタス――ホイップは幼子のように何度も頷く。
「何でも言え。でも最後じゃない。お願いだ、マーカス」
蝶はふっと穏やかに笑った。
――姐さんに……伝えてくれ……。愛して、るって……!
「マーカス‼」
「――失礼いたします」
グウェンドリンが横から手を伸ばし、もがれた翅ごとマーカスの体をそっとすくい取った。
マーカスが微かに身じろぐ。
恥じらっているのだと分かったが、そんなものに頓着している暇はなかった。
グウェンドリンは指先を蝶の体に当て、意識を集中する。
――マーカス……っていう名前だったのね……。ああ、マーカス、絶対に死なせないわ。
タイタスの危機をグウェンドリンに知らせ、何度も彼を救った蝶。
グウェンドリンの指先に白い光が宿った。
柔らかに波打つ眩い光が、瀕死の蝶を包み始める。
光はやがてグウェンドリンをも飲み込んだ。
熱い――。
指先が燃えるようだった。だが痛みより心地よさが勝る。大いなる腕に抱かれて、グウェンドリンは聖女の力を解放する。
白く眩いその力は失われた翅を蘇らせ、蝶の体に再び呼び戻した。
王を始め、謁見の間にいる者が皆、固唾を飲んでその光景を見守る中、グウェンドリンの手の中にいた蝶々は、たった今さなぎから羽化したばかりのように美しい翅を羽ばたかせた。
「マーカス……!」
蝶々は何事もなく飛び上がり、照れ隠しのようにひらひらとどこかへ飛んでいった。
ああ、ああ、と言葉にならないタイタスが、隣に座っているグウェンドリンを抱きしめる。
「グウェンドリン……ありがとう……」
「いえ」
グウェンドリンもまた、彼を優しく抱きしめる。
王の隣にいた辺境伯が大股で部屋を横切り、球形の容器を拾った。
「タイタス、ほら」
辺境伯が容器をタイタスに投げる。
タイタスは受け取った容器を開け、中に入っていた美しい花をグウェンドリンの髪に挿した。
第一王子クローディアスは、神聖であるべき立太子の試練において、王に虚偽の報告をしたことで罪に問われた。
試練の過程で彼が弟王子二人を殺害しようとした疑いもまた濃厚だったが、こちらについては確たる証拠がない上、本人が頑として否定し続けた為、それ以上追及することは出来なかった。
この度のことで彼に言い渡された罰は、フヴェルギの崖に再び赴き、自力でカッタレイクルを取ってくるようにというものだった。
手に入れるまでは王宮への帰還は許されない。
嘘を真に出来るならそれでよし、そうでないなら二度と戻るなという沙汰だった。
無論、罰である為、たとえクローディアスが今度こそ自力でカッタレイクルを入手したところで、彼が次の王太子となることはない。
クローディアスが海に突き落としたもう一人の弟、オーガスタスの消息については、タイタスが折を見て、父王と辺境伯に「実は……」と真相を明かしていた。
王は青白い顔で「そうか」と苦笑しただけだった。
クローディアスはやがて王の恩情により、フヴェルギの地に小さな家を与えられ、隠棲を許された。
彼にその沙汰が告げられた時、彼は場末の娼館で、馴染みの女の腕の中にいた。
王宮から放逐されて未だ一年と経っていなかったが、彼の美しかった容貌は、この時、既に見る影もなくなっていた。
行き場をなくした王子は彼だけではなかった。
庇護者を失ったマリポルト元第二王子、マティアス・バイロンは他に頼る当てもなく、マリポルトにすごすごと舞い戻った。
彼が向かったのは、首都から遠く離れたとある地方都市だった。
そこには彼の家族がいた。
彼らは新政府に小さな屋敷をあてがわれ、そこで細々と暮らしていた。
行ったはいいが踏ん切りがつかないマティアスが屋敷の前をうろついていると、丁度帰宅してきたアレクサンダーが彼を見つけた。
「あ~、お前はどこかで生きてると思ったよ」
気まずい顔をするマティアスにアレクサンダーは大らかに笑いかけ、家族は何のわだかまりもなくマティアスを迎え入れた。
王都の洗練を知るアレクサンダーは、田舎紳士たちにマナーを教える気のいい先生となっていた。
彼の教え方は丁寧で、分かりやすいと評判だった。
兄弟の母たる元王妃も負けてはいなかった。
かつて着道楽で鳴らした彼女は、田舎の奥様方の辛口ファッションアドバイザーとして、確固たる地位を築いていた。
何も出来ない元王は「ご飯くらい作ってください」と妻に尻を叩かれ、家事を担当していた。
マティアスもほどなくして小さな会計事務所に職を見つけ、一家は身を寄せ合って、平民の暮らしに適応していった。
元王の料理のレパートリーが増え、元王妃が何度か特殊詐欺を見破って表彰され、アレクサンダーは多少きつい言い方をされても怯まなくなり、マティアスが昇進して係長になった頃。
「あれからもう十年か……」
とある夏の日、庭でレモネードを飲みながら、マティアスがポツリと言った。
「兄さんがあの時、婚約破棄さえしなければ」
「言うなよ~。それに、婚約破棄したのグウェンドリンだから」
「ククッ。よく言う。きっかけを作ったのは兄さんのくせに」
「あいたた~。痛いとこ突かれたなぁ。アッハッハ」
「ハハッ。もう、兄さん。笑い事じゃないよ」
「あらオッホッホッホ」
「ハッハッハッ。ご飯出来たぞ~」
一家はもう、すべての始まりとなったあの出来事を笑い話に出来るようになっていた。
だが、それはまだ随分と先の話である。
アレクサンダーの真実の愛、可愛らしいピンクブロンドが印象的だったあの少女は、王太子が婚約破棄されるという異常事態が発生した翌日、急な病により学園を退学した。
恐らくは王家(※当時)の意向であっただろう。
彼女はその後、本人不在のまま各所で散々、退屈しのぎのお喋りのネタとなったが、皆はきっかりワンシーズンで彼女の名前およびその存在を忘れた。
彼女の退場から遅れること数か月、王太子及びとある公爵の後妻の連れ子が妖精王の愛し子を虐げたせいで、国全体がかつてないほどの不作と旱魃に見舞われていたグラン・ガラテーアが滅亡した。
備蓄されていたはずの食料が担当官僚によって横領され、国境を接する諸外国から寄せられた救援物資が、ことごとく貴族たちによって独占されていたということが、広く民の知るところとなったのである。
グラン・ガラテーア各地で暴動が起き、王や貴族を糾弾する声は日に日に大きく、過激になっていった。
マリポルトと同じく王権転覆待ったなしだったが、グラン・ガラテーア人の気性の激しさは殊に有名である。マリポルトのような無血革命は望むべくもなく、血で血を洗う粛清の予感に人々は恐れおののいた。
だが、事態は予想外の展開を見せた。
マリポルトと国境を接する一州がグラン・ガラテーア王家を見限り、支援を求めてマリポルトに身売りしたことがきっかけである。
独断でマリポルトと交渉し、正式にマリポルト共和国の一部となったその瞬間、かの地に恵みの雨は降り、やせた土地はふくふくと柔らかさを取り戻した。
理由は分からない。分からないが、これを目の当たりにした各州が雪崩を打って後に続く。
受け入れる側のマリポルト官僚はこの後、地獄のような激務に見舞われることとなった。
ソロモン・ルッツの右腕たる有能官吏、ダントンは後年、「あの一か月の記憶がほとんどありません」と語っている。
マリポルト側の記録で灼熱の月と名付けられた、怒涛の一か月であった。
マリポルトに降るのをよしとせず、最後まで粘ったのはグラン・ガラテーア王家と、妖精王の愛し子アデルの実家を含む高位貴族たちだった。
決して口に出すことはなかったが、彼らには不作と旱魃の理由について、思い当たる節があった。
要するに、妖精王に蛇蝎のごとく嫌われているグラン・ガラテーアでさえなくなれば、彼らの領地もまた、豊かさを取り戻すであろうということも。
ずっと舐めていた相手に膝をつくくらいならと、彼らは西ストランドを頼った。
西ストランドとて特に仲が良いという訳でもない。どちらかというと虫が好かない相手だったが、背に腹は代えられなかった。
忌々しい西ストランドからの回答は、現王には伯爵位、その他貴族たちには一律男爵位をご用意出来るが、それで良いなら、という実に足元を見たものだった。
最低でも大公待遇で迎えられると思っていたグラン・ガラテーア王は滾る怒りを押し殺し、自ら交渉に臨んだ。
――このままグラン・ガラテーア全域がすべてマリポルト領になってしまっては、そちらも少々具合が悪いのでは……?
交渉の甲斐あって、現王は公爵位、その他貴族たちはグラン・ガラテーア時代の身分に応じて伯爵位から男爵位を用意されることとなった。
意趣返しか、それとも手続き上、本当にそれだけの日数が必要なのか、彼らを正式に迎え入れるのは一か月後と通告された。
――おのれ、西ストランド。やはり性格が悪い。
そう思ったが、粘れば粘るほどその日は先になっていく為、グラン・ガラテーア王は唇を噛んで大人しく飲んだ。
だが、このひと月をどうやってやり過ごそうかと彼らが頭を悩ませる必要はなかった。
突然、彼らの土地の上にも、まるで呪いが解けたように、惜しみなく雨が降り始めたからである。
これは、ひょんなことから妖精王の所業を知ったアデルが「こんなことはお止めください」と涙ながらに訴えたことに起因していた。
――何故。そなたを虐げた者たちぞ。
――無辜の民を巻き込みたくないのです。
アデルの理屈は妖精王には理解出来なかったが、彼女の悲しげな顔を見るのが嫌で、妖精王は彼女に従った。
グラン・ガラテーア最後の一か月は、歴史上最も実り豊かな月となった。
王家や高位貴族たちが所有しているのは元々条件の良い土地である。雨で潤い、息を吹き返したグラン・ガラテーアの王侯貴族たちは、最早どこにも頼る必要がなくなったことに気づいたが、今更止めたくとももう遅い。国と彼らの名において、正式な調印まで済んでいる。
一か月後、彼らはすっかり豊かになった土地を手土産に、憎たらしい隣国の傘下に入った。
西ストランドでは、第三王子タイタス・アルカディウスが王太子となり、彼とマリポルト共和国国家元首、ソロモン・ルッツの息女たるグウェンドリン・ルッツの婚約が調った。
人付き合いを好まず、一人で静かに過ごすことが多いタイタスと、あまり表情が動かない、安定感のある令嬢と評判のグウェンドリンという組み合わせである。
政略的な意味しかない婚姻だと周囲からは受け止められていたが、大方の予想を裏切り、二人は驚くほど仲が良かった。
二人とも公式の場では取り澄ました顔をしているが、式典が終わればあっという間に恋人同士の顔に戻る。
二人が好んで過ごすのは、西ストランドがグウェンドリンを迎え入れるにあたり、彼女にちなんで造らせた白薔薇の庭園だった。
――白薔薇の精かと思った。
後ろからそう囁いて、タイタスがグウェンドリンを物憂く絡め取る。
グウェンドリンが困ったような顔をして耳まで赤くなる。
――グウェンドリン、ホイップではなく俺のことも見て。
タイタスは白薔薇に囲まれ、今日も二人にしか分からない言葉を甘く囁く。
彼の肩には美しい翅を持つ蝶々が止まっている。
そこへオリーブグリーンの瞳をした、美しい茶縞の猫もやってきて、タイタスに撫でろと要求する。
グウェンドリンが何かを察した様子で悲しげに顔を曇らせた。
「違う、彼女はマーカスの――」と言いかけるタイタスの横っ面を、蝶々がパワーアップした翅で張り倒す。
「待て、マーカス」
逃げるように飛んでいく蝶々を、本能のままといった動きでタイタスが追う。
「殿下、お待ちに」
グウェンドリンもタイタスを追う。振り返ったタイタスがグウェンドリンに手を差し伸べる。
二人の手が固くつながれる。
タイタスは蝶々を追うのを止め、グウェンドリンを引き寄せて口づけた。
蝶々はとっくにどこかへ消えている。
美しい茶縞の猫は、通りかかった侍女に抱き上げられ、我関せずといった様子で気持ちよさそうに撫でられていた。
(完)
おしまい♡
もし万が一、たたみ切れてない風呂敷ありましたらこっそり教えてください~