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10.生還編

 タイタスらが王宮を出立して数日後。


 フヴェルギの崖から帰還した王子はクローディアスただ一人だった。


「父上、忠実なるクローディアスが、あなたの為にカッタレイクルを取ってまいりました」


 出立の時と同じ謁見の間で、クローディアスは恭しく跪く。


 二人の弟を殺したことをおくびにも出さず、表面上はいつも通りの態度を貫いていた。


 ――私は、普段通りに振る舞えているだろうか……?


 弟たちはぽた、ぽた、と海水を滴らせ、青く虚ろな顔をして、クローディアスの後ろをついてきている。


 皆の様子を見るに、彼らの姿が見えているのはやはりクローディアスだけのようだった。否、彼らはクローディアスの心が作り出した幻影だとクローディアス自身にも分かっている。


 弟二人を海に突き落とし、しばらく経ってからのことである。


 クローディアスは彼の心の一部が彼らとともに海に引きずり込まれ、暗い水底を漂っているかのような、不思議な感覚に陥っていた。


 これは一体……。


 血で汚れている訳でもない、己の白い手をじっと見やる。


 ――あの取り替え子が、最後に私を呪ったのだろうか。


 急に吐き気がこみ上げ、クローディアスは胃の中のものを全部吐いた。どうしようもなく体が重く、気を抜くと眠ってしまいそうになる。


 こんなおかしな状態で王都に戻るのは得策ではなかった。


 フードを深く被って顔を隠し、場末の娼館で一夜の宿と女を買った後、疲れ果てて眠ったクローディアスはその夜、明らかに死んでいる弟たちから海に引きずり込まれる夢を何度も見た。


 呻きながら何度も目を覚ます度、すぐそばに座っている弟たちに顔を覗き込まれる。寝ても覚めても彼らの影は消えず、クローディアスはいつしか悟った。この悪夢は一生続くのだと。


 隠し通すのだ……。


 皆には決して悟られてはならない。


 クローディアスが弟二人を殺したことを。そして、恐らくそのせいで、心に変調をきたしているらしいことを。


「よく戻った」


 今のところ、クローディアスは上手く平静を装えているようだった。肉親である父すら何かに感づいている様子はない。


 出立の時と違い、謁見の間に諸侯の姿はなかった。同席しているのは王国内で特別な地位を持つ、とある一族の当主と、アーサー・ハンブル辺境伯だけである。


 前者は立太子の試練の儀の立ち会いを代々務めるというお役目から、辺境伯は「この場で見聞きしたことは一切口外せぬ」という沈黙の誓いを立てた上で立ち会いを申し出、許可されていた。


 王はくつろいだ様子で尋ねた。


「で、どこで見つけた?」

「え? 崖の……」

「崖の?」

「岩肌に……」

「そうか。どうやって取った?」

「う……上から……。ロープを垂らし、降りていきました」

「そうだな。大変だっただろう」


 詳細を聞かれるとは夢にも思わず、クローディアスはひやひやしなから答えた。かなり曖昧な返答だったが、父はそれ以上追求してこなかった。それどころか労われ、クローディアスは「いえ、これしきのこと」と慎ましやかに謙遜してみせた。


「ただ、弟たちは……」


 クローディアスは声を詰まらせた。演技ではない。彼はこめかみを押さえ、ゆっくりと噛みしめるように語り始めた。


 クローディアスがカッタレイクルを入手したと知るや否や、弟たちの態度が急変し、突如襲いかかってきたこと。そうこうするうち、弟二人が互いに揉み合いとなったこと。


 亡霊たちはじっとクローディアスを見るが、実体のない哀しさ、何か言葉を発することも、拳を振り上げることもない。


「すっかり理性を失った弟たちが、獣のように揉み合っているうち、二人とも崖の上から足を滑らせて……」


 クローディアスはそれ以上喋ることが出来ず、そこで口を噤んだ。


 さりげなく父王の様子を窺うが、普段から病弱そうな顔色はいつもと同じように色味がなかった。表情にも何も表れておらず、心の内が読めない。もしかしたら何も感じていないのかもしれなかった。体の弱い父は生きて呼吸をしているだけで精一杯である。


「あっという間の出来事でした」


 クローディアスは吐き気を堪えながら、そう話を締めくくった。


「せめてもの慰めに」


 クローディアスは荷を解き、球形の容器を取り出した。


「敬愛する父上に、あなたの子クローディアスがカッタレイクルを捧げます。どうぞお納めください」


 透明な球形の容器の中で、その花はたった今摘み取られたばかりのように、瑞々しい輝きを放っていた。


 恭しく捧げられたそれを一瞥し、王は首を振った。


「クローディアス。何のつもりだ」

「はい?」

「それはカッタレイクルではない」

「――馬鹿な」


 クローディアスは王の御前であることも忘れ、そう口走っていた。


 父は何を言っているのだろう。念の為、タイタスの荷は徹底的に調べたが、それらしきものは確かにこの花だけだった。クローディアスは思わず立会人に目を向けるが、彼もゆっくりと左右に首を振るだけである。


「――猫じゃらし(カッタレイクル)なら、こちらに」


 クローディアスとよく似た声質の、だがクローディアスよりやや気だるげな声がした。


 クローディアスが驚いて振り向くと、海の藻屑となったはずの末弟がそこに立っている。


 馬鹿な、何故お前がここにという言葉をクローディアスは吐き出す寸前で飲み込んだ。


 生者とも死者とも知れぬその男は、猫じゃらしと思われる植物を手にしていた。


 特筆すべきはその穂の大きさで、通常の倍はあるだろうか。彼の隣には白薔薇のようなマリポルトの侯爵令嬢、グウェンドリン・ルッツもいた。


「確かに、これぞカッタレイクル――フヴェルギの崖にのみ生える猫じゃらし(カッタレイクル)だ」


 王がそう宣言し、立会人も大きく頷く。クローディアスは行き場を失った美しい花と、何故か生きている末弟を呆然と見比べた。


「では、これは……」

「あ、それは……」


 タイタスは耳を赤くして口ごもった。


「グウェンドリンに似合うと思って、途中で摘ん……」

「おのれタイタス! たばかったか!」


 クローディアスになじられ、タイタスは目を瞬かせた。


「……謀ったとは? 俺がさも大事そうに持っていたから、これがカッタレイクルだと思い込んだという意味ですか?」


 しまった。


「ほう……?」


 ハンブル辺境伯の低い声が謁見の間に響いた。


「どういうことだ? クローディアス王子」

「アーサー、ここはタイタスの話を聞こう。――タイタス、何があったか話せ」


 父王に促され、タイタスは頷いて語り始めた。


「カッタレイクルを摘み終え、戻ろうとしていたところ、途中でオーガスタス兄上の悲鳴が聞こえました」


 足を滑らせたらしいオーガスタスが片腕一本で崖につかまっていたこと、助けようと次兄の手を取ったところ、後ろから強く押されて次兄ともども海に落ちたこと。


 タイタスは最後にこう締めくくった。


「仰向けで落ちていくオーガスタス兄上が、最後に崖の上を見て言いました。――兄上、と」

「誤解を招くような言い方をするな! オーガスタスは私に随分と懐いていたから、最後に私を思い出しただけのことだろう!」


 クローディアスが声を荒げると、タイタスは肩をすくめ、カッタレイクルの穂を物憂く唇に当てた。特に意味もないであろう、優美な黒猫のようなその仕草。ああ、そうだとクローディアスは思い出す。この末弟の、こういうところが昔から気に食わなかった――。


「俺はその後、運よく浜辺に打ち上げられていたところを、俺を探しにきたグウェンドリンに助けられました。ただ、オーガスタス兄上の姿はどこにも見当たらず……」


 そう言って、タイタスは口を噤んだ。


「そうか」

「はい」


 王の言葉にタイタスが答え、グウェンドリンも頭を垂れて、タイタスの言葉に相違ないことを態度で表明した。


 そうか……と王が再び呟き、ハンブル辺境伯も納得したように顎に手を当てた。


 この時、タイタスはすべてを語った訳ではなく、また、彼の語ったすべてが真実という訳でもなかった。


 例えば、グウェンドリンが彼を見つけた経緯である。


 これについては二人で話し合い、そうだったことにしようと決めた。


 もし仮に、真実をありのままに語ったとしても、到底信じてもらえそうになかったから。






 光の粒子が踊る美しいきざはしは、遥か海底まで続いていた。


 とぷんと水に沈んだ後は、体に薄い膜がずっと貼りついているような不思議な感覚があったが、着ているものが濡れることもなく、呼吸も出来る。


 試しに「あ」と言ってみたが、問題なく声も出た。


 体が軽い。


 弾むように駆け降りてゆくと、夢のように美しい宮殿が眼下に見えた。


 大いなる自然が数多の珊瑚礁を組み合わせ、ゆっくりと年月をかけて造ったような、角張ったところのまるでない不思議な宮殿である。


 グウェンドリンが水底に到達すると、階はふわりと霧散した。同時に、宮殿の門が開く。


 中から顔を覗かせたのは、魚のようにぱっちりと大きな目をした綺麗な少女だった。薄青く透き通るような肌をしていて、下半身は魚である。手招きされるまま中に入ると、彼女はついと身を翻し、尾びれを揺らしてグウェンドリンの前を泳いだ。


 最初に潜った門扉以外は扉というものがなく、鍾乳石に似た柱と柱の間を人魚も魚も皆自由気ままに泳いでいる。グウェンドリンの前を泳いでいた少女はいつしか人の姿となり、涼しげな薄物をまとって歩いていた。


兄様にいさま、妖精王が寄越した聖女をご案内しました」

「ああ、ご苦労。あいつが寄越したのなら、無下にする訳にもいかないからな」


 宮殿の中心部にある円形の部屋で、グウェンドリンを案内した少女とよく似た綺麗な男が、大きなクッションにもたれてゆったりと座っていた。


 この宮殿の主――海神だろう。


「ようこそ、陸の聖女」


 海神はそう言って、気さくに笑った。妖精王に対する軽口といい、初対面のグウェンドリンに対するくつろいだ態度といい、妖精王とは真逆の性格のようである。


「ほら、妖精王あいつの機嫌を損ねると厄介だろう?」


 どこか面白がっているような口調で告げ、海神は軽やかに指を鳴らした。


 それに呼応するかのように、薄青の肌の美女が九人、一列になってしずしずと部屋に入ってくる。


 美女たちは皆、それぞれ腕に黒猫を抱いていた。


 ――ホイップ……?


 いずれもよく似た黒猫たち一匹一匹に、グウェンドリンの目が釘付けになった。


「本来ならば、海が呑んだものはすべて、俺に所有権がある。当然、お前の黒猫もだ」


 勿体ぶった前置きに、グウェンドリンは気もそぞろに頷く。


 どうしたことか、美女たちに運ばれてきた黒猫たちは皆、見分けがつかないほどよく似ていた。


 艶やかな漆黒の背、顔の下半分に向かって広がっていく白いぶち模様。首や胸も、四つの可愛いおみ足もまた真っ白。


 すべてはグウェンドリンにとって見慣れた特徴で、グウェンドリンは目を潤ませ、は、と息を吐いた。


 一匹の例外もなく、猫たちは皆、心地よさそうにまどろんでいた。とろりと閉じたその瞼の奥にはきっと、澄み渡ったサファイアブルーの瞳があるのだろう。


「だがまあ、どうしてもそいつじゃなきゃ駄目だと言うのなら、返してやらんこともない」


 黒猫から黒猫へ、せわしなく視線を移すグウェンドリンを面白そうに眺めながら、海神が続けた。


「お前の黒猫を当てよ。――簡単だろう? どうしてもそいつじゃなきゃ駄目だと言うのなら」


 つまりこれは、グウェンドリンの思いの強さを量る為のテストという訳だった。


「当てられなければ、別にそいつじゃなくてもいいと言うことさ」


 海神は事もなげにそう言うが、猫たちには何かのまじないが施されているに違いなく、どれほど目を凝らしてみても、皆寸分違わず同じ容貌である。


「抱いてみても?」

「好きにしろ」


 グウェンドリンは先頭の美女から黒猫を受け取った。


 いつものように腕に抱き、抱き心地を確かめる。


 ――ホイップのような、違うような。


 首を傾げながら猫を返し、二人目の美女から次の猫を受け取る。


 違う――と思う。二匹目を返し、三匹目を受け取る。


 三匹目も違う――気がする。


 四匹目でグウェンドリンは再び首を傾げた。分からない。ホイップのような気もするが、そうだと言い切れるほどの確信はない。


 五匹目、更に分からなくなった。どうだっただろう、ホイップの抱き心地は、表情は。


 グウェンドリンは唇を噛んだ。どうして、普段からもっと意識して、ホイップの体を抱かなかったのだろう。


 海神はグウェンドリンの様子をにまにまと楽しそうに見守っている。


 六匹目、前足の伸ばし方が違う。七匹目、しっくりこない。八匹目、違う――分からない。本当に違うのか。


 グウェンドリンは泣きそうになりながら、九匹目、最後の一匹を受け取った。


 触れた瞬間、そうだと分かった。


「――ホイップ」


 グウェンドリンがそう呼んだ瞬間、黒猫の姿は一瞬で消えた。


 人の姿に戻ったタイタスが、澄み渡ったサファイアブルーの瞳で愛おしげにグウェンドリンを見つめている。


「ホイッ……殿下……!」


 タイタスは均整の取れた裸身を惜しげもなく晒したまま、胸に飛び込んでくるグウェンドリンをしっかりと受け止めた。


 残り八匹の黒猫たちは、それぞれたこうつぼ――恐らく、それが本来の姿であろう――となって、にょろにょろぐねぐねと美女たちの腕の中から出ていく。


「見事――ああ誰か、服を返してやれ」


 背後で聞こえる海神の声など聞こえぬように、奇跡の再会を果たした恋人たちは、互いの顔を寄せ合った。


「グウェンドリン……。長い、夢を見ていました」

「どんな夢ですか」


 タイタスの声音はどこまでも甘く、グウェンドリンの声は涙で震えている。


「記憶を奪われ、猫として暮らしている夢です」


 それは多分夢ではなく……と言いかけるグウェンドリンを、海神が慌てたように遮った。


「あ、いや、この先ずっとここで生きるのならば、人の記憶がある方がつらかろうと思ってな。慈悲というやつだ」


 サファイアブルーの瞳がちらりと海神に向けられた。


 う、と海神が怯む。


 それは、ことによると海神ですらも抗えない、絶対的な地上の王の眼差しだった。


 生きとし生けるものをあまねく統べる、猫という至高の存在の――。


「悪かった! 猫が生きたままここにたどり着くというのが非常に稀なことだったから、お前を手放したくなかったのだ」


 あまりにも可愛くてな……と言われてしまえば、グウェンドリンはつい「分かります」と頷いてしまうが、タイタスは眉間にしわを寄せたままである。


「ほら、お前の服を着せてやるから、これで許せ」


 海神が指を鳴らし、タイタスは一瞬で衣服をまとった。


 懐に入っている大ぶりの穂を大事そうに確かめた後、ふと顔を上げる。


「俺にはもう一人連れがいませんでしたか? 俺と顔がまあまあ似ていて、でも俺より小柄で可愛らしい感じの……」

「ああ、オーガスタスか!」


 海神が再び小気味よく指を鳴らすと、タイタスとグウェンドリンは彼とともに別の広間に移動していた。


 開けた四方から海底の美しい風景がよく見える、海の特等席である。


 座の中心には、薄青の美女たちと楽しげに戯れているオーガスタスがいた。


 海神はオーガスタスの肩に気安く腕を回し、タイタスとグウェンドリンに笑顔を向けた。


「これからオーガスタスと宴会なんだ。お前たちも参加するといい」

「いえ、俺たちは帰ります。兄上も早く出立のご準備を……」

「あー、タイタス」


 オーガスタスはあっけらかんと首を横に振った。


「俺はここに残るよ。ここ、すっごく楽しいし」

「兄上?」

「オーガスタス、よくぞ言った」


 海神とオーガスタスは数年来の知己のように、楽しげに肩を叩き合って笑っている。


 よく見るとオーガスタスの肌は皆と同じく透明な薄青を帯び始めており、文字通り水が合ったようだった。


「そうですか。兄上がそれでいいのなら」

「うん。皆には適当に言っといて」

「分かりました」


 タイタスは一瞬ためらったものの、強いて帰還を促すことはしなかった。


 海神が指を鳴らす。


 開けた一角から、四頭立て馬車二台分はあろうかという巨大なエイが、ズシャァッ……と滑り込んできた。


「送ってやれ」


 エイは身を屈め、二人を乗せる。


「元気でな~」

「兄上も!」


 海神とオーガスタスに手を振られ、二人はエイの背に揺られて海の上を目指した。


 エイの上で二人の手はしっかりと重ねられている。


 何から話せばいいのだろう。だがそれよりも何よりも、こうして二人一緒に地上へ帰っていることが、何にも勝る幸せ。


 水の色がぐんぐん淡くなり、波の上から差し込む光が眩しくなる。


 エイは水しぶきを上げて水平線を抜けた。


 きらきらと天空に虹を生みながら、美しい放物線を描いてズシャァッ……と崖の上に降り立つ。


「世話になった」

「送ってくれてありがとう」


 大きな背から降りた二人にひとしきり撫でられ、労われた後、エイは再び海に還っていった。

ホイップはカッタレイクルを尻尾でつかみ、グウェンドリンにあげる予定の花はお耳の横に挿して崖を駆け上がりました。


次回、最終話です。

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