人類初宇宙旅行
石畳の道をエンリルは歩いていた。
冷たく心地よい風が頬を撫で、髪を揺らし、服を微かにはためかせる。
普段ならば心地良いはずの風が妙に煩わしく感じた。
エンリルは神への冒涜ともとれる、生命体創生を初めから一貫して否定していたうえに、エンキが生み出した、ルルアメル、人類を快く思ってはいなかった。
故に今回のアダパのニビル星訪問に関しては複雑な気持ちであった。
地球人として初めてのニビル星訪問となり、それは間違いなく前代未聞の歴史的な出来事であった。
ルルアメルの存在そのものが認められ、エンリル自身の考えが間違っていたと認めることとなる。
エンリルがアヌの指令を快く思っていないのとまた別の理由で、エンキもまたアヌの指令に関して否定的であった。
エンキはただ心配であった。
アダパは正真正銘エンキの子であった。
出来るならばまだ地球に留めておきたいというのが本音であった。
そもそもアダパをニビルに送るにはまだ不完全であるし時期尚早であるとエンキは考えていた。
しかしエンリルもエンキも、アヌの命令は絶対であり、逆らうことなど出来なかった。
ニビル星にアダパをを送ることに否定的なところでは意見が一致したエンキとエンリルは、ニンマーに心の内を相談すると、彼女もまた同意見であった。
「そうね。私もまだ早いと思うわ。でもお父様の命令は絶対よ」
ニンマーは腕を前に組み、思慮深い表情で一息思案すると
「まず、アダパに出来る限りの教育を施しましょう。そしてさらに誰かを付き合わせてはどうかしら?」
と提案した。
それを聞いたエンキは、
「それならば我が息子のニンギシュジッタとドゥムジを付き合わせてはどうだろうか? アダパもその2人になら懐いている。その2人の言う事ならば大人しく聞くだろう」
「確かにその通りね。ニンギシュジッタであれば賢い子だし、ドゥムジはアダパとそう歳も遠くない。しかも2人はニビル星に行ったこともないものね? しかし2人は地球の環境に慣れすぎてしまっているように思うわ。異常なくらい成長が早いもの。ニビル星でエーテルを服用させて老化を軽減させるのもいいんじゃないかしら」
こうしてアダパのニビル星訪問には、地球生まれでニビル星に訪れたことのないニンギシュジッタとドゥムジを同行させることとなった。
ニビルから迎えの銀河系間長距離航行用の宇宙母船が到着し、案内人として搭乗していたアヌの高官イラブラトをアダパとティティの元へ案内した。
「これは実に驚いた」
イブララトは2人の姿を見ると、あまりにニビル星人と酷似した容姿に驚いた。
髪色は黒く、肌はニビル星人よりは浅黒く、瞳は茶色ではあったが、その容姿はまるで同種と言えるほど似通っていた。
続けてエンリルとエンキ、ニンマーは、イブララトと要人達を交えて、宴を催した。
その場でエンキは事前の打ち合わせ通りに2人の息子を紹介した。
橙色のクシャッとした豊かな髪が印象的な1人の青年は、見開いた眼からは知性を感じさせた。
「お初にお目に掛かります。ニンギシュジッタと申します。この度は、アダパと共に我が父の故郷に赴けることを光栄に思います」
続けて、青みがかった流れるような髪の容姿端麗な若者が進み出た。
「お初にお目に掛かります。私はドゥムジ。父エンキの末息子でございます。兄と共に、光栄な機会を与えて下さり誠にありがとうございます」
ニンギシュジッタとドゥムジは深く一礼して席に戻った。
イブララトは礼に応えると、有望な地球生まれの王子2人の姿を見て喜んだ。
「これはこれは! これは誠に素晴らしい。我らの未来も安泰ですな! 我が王も立派なお二人の姿を見たら大層お喜びになられるでしょう!」
イブララトのその様子を見て一同は顔を見合わせ安堵した。
「はっはっは! では無事と成功を祈って乾杯としましょう!! 乾杯!!!」
エンキは愉快そうに杯を掲げた。
そしてニビル星へ向けて立つ当日が訪れた。
一行が宇宙港へ到着すると、エンキは出発前にアダパを呼び出し忠告を与えた。
「お前はこれから、我々の故郷、惑星ニビルに赴く。我々の父であり偉大なるアヌ王の面前に立つ。教えた通りにお前は跪き、そして余計なことは何も口にするな。尋ねられた時だけ簡潔に、手短に答えるのだ。式典用の服が用意されているのでそれを着なさい。ニンギシュジッダとドゥムジの指示に従うのだ。そうすればきっと無事帰ってこれる」
「はい。お言葉の通りにいたします」
アダパは毅然に答えたが、
『…なぜ自分が?』
『愛するティティと子供達を残して、私は一体何故神の国へ連れて行かれるのであろうか。一体私はこの先どうなってしまうのだろうか……』
アダパは不安をなるべく表に出さないようにしていたが内心恐怖で震えていた。
「安心しなさい。我が息子達も一緒だ。私の言いつけを守れば無事帰ってこられる」
エンキはそう言うとその場を後にした。
アダパは沈んだ気を誤魔化そうと気分転換に外の路地を歩いていた。
するとふと物陰にフードを深く被った人影が見えた。
フードを被った人物はアダパの視線に気付いたのか手招きをした。
アダパがフードの人物に近付くと、小声で話しかけてきた。
「アダパよ、私だ」
「エンキ様…でございますか…? 何故そのようなお姿で…?」
『さっきまで話していたのに…どうして…』
フードを深く被り顔が見えなかったが、アダパは声色からエンキと判断した。
「よく聞け。ニビル星は危険な所だ。お前の事をよく思ってない奴らがうじゃうじゃいる。お前だって気付いているだろう? 兄者はお前のことを嫌っている」
「何故何でしょうか?」
「それは私にも分からない。とにかくだ。ニビルにいる間、ここでは見た事のないくらい美味そうな食物を勧められても決して食べてはならない。食べたらただ死が待っている。あとまたどんなに喉が渇いていても勧められた飲み物を飲んではならない。全て毒だ。常に死の危険があると思え」
「何故そのようなことをなさるのでしょう…」
マントの男は何も言わず身を翻し姿を消した。
ただただアダパは恐怖ですくみ上がっていた。
そんなアダパに追い討ちをかけるように、それまで彼が見たこともない、巨大な宇宙船が目の前に聳え立っていた。
鏡面で継ぎ目一つない滑らかな表面は光を反射しながら輝き、アダパの視界を飲み込んでいた。
それを前にアダパは腰を抜かして動けなくなってしまった。
搭乗口に赴いたエンキはニンギシュジッタジッダとドゥムジを抱きしめた。
その際エンキは、ニンギシュジッタの手を取り、小さな声で耳打ちした。
「我が父に渡すのだ」
ニンギシュジッタは手元の感触からデータを記録するキューブだと察した。
一同は宇宙服に着替え、巨大な宇宙船に搭乗した。
中に入ると、一面白色の世界が広がっており、壁にはどこからともなくモニターが現れ、指定すれば外の景色まで見えるようになってた。
離陸の合図が出ると、音もなくものすごい勢いで上昇し、みるみると地上から遠ざかり、一面海と空になったと思えば、一瞬で厚い雲に包まれ、濃く冷たい群青の空を突き抜け、一気に大気圏を突き破ると、暗闇の宇宙へと突き進んで行った。
アダパは目の前で起きた出来事の刺激が強すぎ、狼狽え、パニックに陥ってしまった。
ニンギシュジッタとドゥムジが、ガタガタ震えて取り乱すアダパを落ち着かせると、後方のモニターを指差した。
「あれが僕達の星だ」
ニンギシュジッタが指したモニターには遠ざかる地球が宇宙空間に宝石のように浮かんでいた。
それは美しく、そしてそれを見たアダパはまた胸を締め付けられたように苦しくなった。
「家に帰して下さい!!」
ニンギシュジッダがアダパの肩に手を置き、優しく諭した。
「帰してください! お願いします!!」
アダパは、自身の主張は全てが無意味であることを理解していたが、彼の精神の許容範囲を超えていた。
泣き喚くアダパの手が負えないと判断したニンギシュジッタは、ドゥムジにアダパを抑えとくように指示を出し、懐から鎮静薬を取り出すとアダパの口に放り込んだ。
アダパは一呼吸するとすぐに静かになり、
「申し訳ございませんでした」
「まぁまぁ、仕方のないことだよ」
ドゥムジが笑って優しく励ますようにアダパの肩を叩いた。
ドゥムジはニンギシュジッタと目を合わせると、
『こりゃ一筋縄では行かなそうですね』
と目配せすると2人は苦笑いした。
その頃ニビルでは、地球から使者が訪れることについての話題で大いに盛り上がっていた。
しかもその使者は、地球で生まれたエンキの息子達、そして地球生まれの地球人であり、彼らニビル星人はまだかまだかと競い合うように話題を口にし、好奇心を露わにして待ち侘びていた。
彼らは到着するなり、イラブラトによって王宮へ連れて行かれた。
身体を清め、香油を塗られ、王への謁見に相応しい衣服を身に着けた。
イラブラトが先導し、その後ろにアダパ、両脇をニンギシュジッタとドゥムジの2 人が続き、王座の間に案内された。
荘厳な扉が開かれるとそこにはアヌと、その血族である王族と、その顧問や大臣達が集まっていた。
「我が息子達よ」
と厳かにアヌは一同を迎え入れた。
アヌはイラブラトに尋ねた。
「彼は我々の言葉を理解するのか」
「如何にも、エンキ様から教わったそうで、話す事も出来ます」
とイラブラトは答えた。
「こちらに来なさい」
アヌはアダパに近寄るよう促した。
「名を何と?」
「アダパでございます」
アダパが流暢に答えると、周囲に響めきが走った。
アヌは手を挙げ、それを制した。
「仕事は? 普段何をしている?」
「我が主、エンキ様の僕でございます」
「素晴らしい。どうやら我が息子はとんでもない偉業を成し遂げたらしい。地球では新たな種族が生まれ、宇宙はより豊かに大きく前進するであろう。さぁ皆の衆、宴といこうではないか!」
とアヌが言うと、案内されるがままに、宴会場である大広間に移動した。
会場には、沢山の豪華な食事が並びんでいた。
アダパは空腹を感じていたが、主であるエンキの言いつけを破るわけにはいかなかった為、これまた美味しそうなパンを勧められたが食べずに断り、美しい輝きを放つ飲み物を勧められたがこれも断った。
これを見たをアヌは気分を害しながら思った。
「アダパよ、お前は何故、何も食さない?」
「エンキ様が何も食すなとお命じになったからです」
「何故だ?」
アヌはイラブラト、ドゥムジを交互に見据え、尋ねたが彼らにも理由は分からなかった。
ニンギシュジッダに尋ねると、答える代わりに彼はアヌに、エンキから渡すように渡されたキューブを渡した。
アヌはただちに私室に戻り、キューブを解読した。
すると、
《父上、実はアダパは私がルルアメルと交わって産ませた子であります。彼の妻ティティも同じく私の子であります。つまり父上の孫にあたります。アダパとティティが種を残し、子孫が広がることにより、私の遺伝子だけではなく、父上の、つまり王の血脈がまた別の惑星で芽吹き、枝が広がり、やがて天にまで届くほどの大樹となり、地球を、そして我々を繁栄させるでしょう。》
と記されていた。
晴天の霹靂とはまさにこの事で、アヌは大いに愉快に笑った。
「はっはっはっ!! エンキの奴め。粋な計らいをしおって」
機嫌を直したアヌはイラブラトを呼び寄せて言った。
「イラブラトよ、どうやらエンキの女癖は直ってないみたいだ。今回の件、王の立場としてはどうするべきか」
「惑星間では我が星の法律は適用されません」
とイラブラトは答えた。
『しかし食さないこととは何も関係がない。不都合なことでもあるのか?』
アヌはどこか引っ掛かりを感じた。この出来事を忘れまいとし、心の片隅に置いておくことにした。
こうしてアダパは、ニンギシュジッタと共に無事地球に帰還することとなったが、ドゥムジだけはアヌの命令でしばらくニビルに滞在することとなった。




