捌:飛べる力があるのなら空を目指すのは必然のこと
「おかえり……。おかえり、二人とも!」
春辰と鴉雛が実家の扉を開けると、ちょうど掃除をしていた母が霖雨のように流れる涙とともに、二人の身体を抱きしめた。
船から事前に春辰が「帰るよ」と連絡していたため、迎える準備をしてくれていたらしい。
台所の方から好い香りがする。
全部春辰と鴉雛の大好物の香りだ。
母はずっと「鴉雛、本当に無事でよかった……」と繰り返し呟いている。
部屋で仕事をしていた兄も激しい音をたてながら転がりそうな勢いで階段を降り、飛びつくように三人の身体を両腕いっぱいに包み込んだ。
「ちょ、ちょっと二人とも。苦しいよ……」
「あ、ああ、ごめんなさいね。霽藍、パパを薬局まで迎えに行ってあげて頂戴。連絡だけだと、きっと焦って帰ってきちゃうわ。転んだら大変だもの」
「うん。うん、わかった。……鴉雛姉さん、春辰、本当におかえり」
霽藍はもう一度二人のことを強く抱きしめると、サンダルを履き、すぐに父を呼びに外へと出ていった。
「……あ! すみません! 水華朱王殿下に気付かず……」
「いいんだよ、お母さん。このひとはついでで来ただけだから」
「なんだと春辰」
桃夭が不機嫌に口をとがらせる。
春辰が「でもそうでしょ?」とさらに口答えをするのを見て、母は驚き、注意した。
「こら! パンドラの皇子様になんて口を……」
「ああ、いいのです。いずれ義弟になるのですから」
桃夭の言葉に、母は涙を拭い、頬を赤らめながら微笑んだ。
「あら、あらららららら。あら! 今日は鴉雛と春辰が帰ってきた以外にも、何かお祝いがあるのかしら? あらあらあら」
母は「鴉雛には伝えたいことも聞きたいこともたくさんあるのだけど、まずはあなたの健康状態が知りたいわ」と、薬術師としてテキパキと動き始めてしまった。
「……ねぇ、もしかして、お母さんとお父さんは何か知ってるの?」
春辰の言葉に、母と鴉雛、そして桃夭が動きを止めた。
「十年間も行方不明だった娘が帰って来たにしては、なんかこう、軽くない?」
桃夭、鴉雛、母の三人は顔を見合わせると、気まずそうに溜息をついた。
「実はね、三年前に一度だけ、水華朱王殿下がうちにいらっしゃって……。そのときに少しだけ話してくださったの。詳しいことは知らなかったけれど、鴉雛が無事で、しかも水華朱王殿下が護ってくださっているって。このことは通信による他言は無用。例え、親族でもって……」
「……さ、三年前って」
「そうよ。ちょうどあなたが出て行ってから二時間後くらいに殿下がいらっしゃったの」
「え、じゃぁ……」
「もちろん、お前にも言うつもりだったぞ。まったく。本当に向こう見ずな奴だ」
春辰はまたもやどこかに取り残された気持ちになった。
父と母、そして霽藍の泣き顔を最後に見たのは三年前。
三人はこの三年間、「鴉雛は無事に生きている」という希望を持って普通に生きてきたのだ。
それなのに、春辰が出て行ってしまったことで、感じなくてもいい心配をかけてしまっていた。
春辰は顔が徐々に赤くなり、穴があったら入りたい様な、そんな羞恥心にさいなまれた。
「ご、ごめん。お母さん……」
「いいのよ。正直、あなたが出ていったときは、二時間だけだけど、どこか期待もしてた。春辰は昔から不思議な力を持っていたでしょう? それがどう作用するかはわからなかったけれど、でも、あなたにはいつも希望を感じていたの。だから、鴉雛が無事だと知らされていなかったとしても、きっと春辰なら、鴉雛を探し出して、今日みたいな光景を見せてくれると思っていたのよ」
春辰は顔を真っ赤にしながら、少し困ったように、でも嬉しさを隠しきれない様子で微笑んだ。
「時間はかかってしまったけれど、春辰には子供に戻って楽しいことをしてほしいわ。あなたは早く大人になるために色々と諦めていたから……」
母の言葉を聞き、今度は春辰の動きが止まった。
鴉雛が「ほらね」といった視線を向けて来る。
しかし、春辰は誓ったのだ。
自身が持つ、古アールヴの力を兵器利用しない、させないために戦うことを。
それを両親と兄には説明しなくてはならない。
「じゃぁ、鴉雛。パパが帰ってきたら健康診断に向かいましょう」
「わかった。お父さん、どのくらいで……」
玄関の先にある門のあたりから「鴉雛! 春辰!」と野太い声が聞こえてきた。
「お、お父さん!」
霽藍が「と、止められなかった……」と、激しく呼吸をしながら膝に手をついている。
春辰は一瞬避けようとしたが、それをすれば父は落ち込むと思ったので、素直に腕の中へとおさまることにした。
案の定、汗と薬草のにおいがまざって頭がくらくらする。
それでも、久しぶりに会う父は優しくて、あたたかくて、格好良かった。
「うう……。無事でよかった……」
春辰は少しの気まずさと恥ずかしさを感じながらも、父の身体を抱きしめ返した。
「おお、春辰。こうして素直にぎゅってさせてくれるのは……。うん、あの日以来だな」
鴉雛がいなくなった日。
長い間、意図的に避けてきてしまったことを、心の中で反省した。
両親はいつでも、明るく居ようと努めてくれていたのに。
「これからは、三回に一回くらい、ハグに応じるよ」
「ふふ。可愛いこと言ってくれちゃって」
鴉雛は二人のやり取りを間近で見ながら、流れ去ってしまった時の長さを想った。
それでも、愛する家族の為にやったこと。
鴉雛に後悔は一つもない。
「……あ!」
父は大きく口を開くと、二人を優しく離し、桃夭に向き合った。
「す、すみません殿下!」
「いえいえ。先ほど、春辰にも『おまけ』扱いされたので。お気になさらず」
「春辰」
父の困ったような慌てている目が可笑しくて、春辰はつい笑ってしまった。
「ごめんなさいってば。殿下、心が狭すぎません?」
「春辰!」
悲鳴にも似た抗議の声を発する父が可哀そうで、春辰は一度大人しくすることにした。
「殿下、娘を、鴉雛を護っていただき、ありがとうございました」
父は左手で右拳を包む挨拶、拱手をしながら深く頭を下げた。
「礼には及びません。むしろ、これから二つ、お願いしなければならないことがあります」
父は「なんでもお申し付けください」と応えたが、話の中身を知る春辰は胸の奥がチクリと痛んだ。
鴉雛の健康診断が一通り終わるのを待ってから、玄家で話し合いが行われた。
いや、話し合いと言うには一方的で、両親にとっては再び子供を失うのと同じだった。
「許さんぞ、春辰」
父は頑なに春辰の「煌珠のために的になる」ことに対し、反対の意を示した。
それは母も同じ。
「お前に不思議な力があるのはわかっていた。それがいずれ他星人の脅威になるとまでは思わなかったが……。だからこそ、静かにひっそりと暮らすべきなんじゃないのか?」
父は懇願にも似た声色で春辰に言った。
母はその隣で静かに涙を流している。
助け舟を出そうと身を乗り出した桃夭を制し、春辰は立ち上がった。
「これを見ても、それが言える?」
春辰が出したのは、分厚いファイルが三冊。
「地球の新聞だよ」
そこには、目をそむけたくなる記事がスクラップされていた。
「地球だけで毎日二万五千人の子供が行方不明になってる。その中に、魔法族は何人いると思う? 煌珠の子供は?」
両親は黙ってしまった。
つい昨日、パンドラ星の年間行方不明児童が、昨年を上回った。
たった四ヶ月半で、去年一年間の負の記録を抜き去ってしまったのだ。
「これがどういうことかわかる? わかるよね? 地球人の中でも特にいかれた連中が、今こうしているときも血眼になって探しているんだよ。『古アールヴの遺産』をね」
父は拳をきつく握りしめてうつむき、母は父の腕にもたれかかるように縋りついた。
「この記事を見た? こんな残酷な状態でしか子供と再会出来ないひとがいるんだよ」
記事には凄惨な事件の様子や、どうやって被害者特定に至ったかが書かれていた。
その最後の一文は、両親の胸を抉るほどの悲しみとなって襲い掛かった。
――『なお、発見された遺体はバラバラに切断されており、DNA鑑定によって煌珠族の被害者特定に至りました』
「この事件、調べたけど……。歯形の照合も出来なかったんだよ? 全部抜かれてたから」
鴉雛が春辰の腕を掴んだ。
目に溜まる涙に、「もうやめて」と動く唇。
春辰はそれでも、言葉を止めなかった。
「わたしが、たった一人、囮になるだけで……。お願い、お父さん、お母さん。許さなくていい。認めなくてもいい。でも、わたしのことを止めようとしないで。これ以上、煌珠のみんなが傷つくのは嫌なんだ」
重い、あまりにも重すぎる沈黙。
それを破ったのは、意外にも、霽藍だった。
「俺は弟を失うつもりはない。でも、お前がちゃんと約束を守れるのなら、俺は味方してやる」
その言葉に、両親は顔を上げ、「何を言ってるんだ」とでも言いたげな表情を浮かべた。
「いいか、春辰。五体満足……、まぁ、左足は省いてやるけど。五体満足、意識もはっきりした状態で、一切の記憶も失わず、必ず生きて帰ってくると誓えるのなら、俺は賛成だ」
正直、無茶だとは春辰も思った。
ただ、母が言っていたように、誰かが自分に『希望』を見出してくれるのなら、それに応えたい。
春辰は、強く頷いた。
「必ず、生意気なまま、兄さんの元へ帰ってくるよ」
霽藍の涙と笑顔に、風向きが変わり始めた。
「義父上、義母上」
桃夭が姿勢を正し、まっすぐと二人を見た。
「我が近衛より、もっとも腕の立つ双剣を春辰につけます。誰にも見られず、聞かれず、感知されることなく、春辰を常に護ると誓います。それに……」
桃夭はあろうことか身分を気にせず、身体を折り、額を床につけ、稽首した。
「私も可能な限り春辰に同行いたします」
両親はまるで魂でも抜けたような唖然とした表情のまま固まること数秒、すぐに稽首すると、涙を流しながら答えた。
「必ず、必ず、春辰を無事に帰してくださいますよう、お願いいたします」
母は掠れる声で「お願いいたします」と繰り返した。
桃夭は上半身を起こし、二人の腕に触れて顔を上げさせると、そのまま手を強く握りながら「必ず」と告げた。
夕闇を誘う風が吹き抜けていく。
愛はこんなにも不条理で、馬鹿馬鹿しくて、美しく、強い。
これ以上の宝玉など、この先知ることはないだろう。
春辰は目の前の光景を一生忘れないよう、心に刻み込んだ。
夕食のあと、「そういえば……」と、父が桃夭にもう一つの願いをたずねた。
「あ、それはこのあと正装に着替えてからと思っていたのですが……」
隣で顔を真っ赤にする鴉雛。
それを見た父は察し、今度は喜びで興奮しながら母と抱き合った。
「皇帝家との婚姻により、鴉雛さんには肩身の狭い思いをさせてしまうこともあるかもしれませんが、一生をかけて幸せにします」
母は「もう、何度泣かせるのよぉ」と言いながら笑い泣きした。
父も「まさか本当に殿下が息子になるとは……」と感慨深げに頷いている。
霽藍はのんきに「あと妹が出来れば兄弟姉妹コンプだわ」と言いながら嬉しそうに酒を煽っている。
「じゃぁ、兄さんは妹がいるひとと結婚しなきゃね」
「え、お前が結婚すれば自動的に義妹できるだろ?」
「いや、わたし結婚願望無いよ」
「そうなの?」
久しぶりの団欒。
十年間、ずっと求めていたもの。
春辰は余計に気持ちに力が入る。
一番護りたい家族のために。