漆:声が枯れるほどの想いは涙となる
息が止まる。
倒れないよう、必死でマチ針にしがみつきながら、ただ一点を見つめる。
「春辰……」
涙が堰を切ったようにあふれ出した。
優しい声。
透き通った空のような碧落色のにおい。
目の前にいるのは間違いなく、十年間探していた姉、鴉雛だった。
「これには訳があるのだ、春辰」
いることをすっかり忘れていた。
桃夭が喪服の大女に近づき、その頭のベールをとった。
「あ……、あ、アレックスさん」
春辰は訳が分からず、動揺で手が震え出した。
アレックスは葦原国出身の星際救助隊の隊員且つ玄一家の命の恩人である影岩 誠の夫君だ。
「ごめんなさいね。でも、水華朱王殿下に頼まれたら断れなくて……。実は私、皇宮に仕えている双魂の魔術師なの。黙っていてごめんなさい。地球に潜入任務で行く際に、髪も金に染めて、目にも青いカラーコンタクトを……」
双魂の魔術師は、身体の性と魂の性が違う存在で、魔法の力は通常の煌珠を上回るために、古代から皇宮の守護者として迎えられてきた。
「そ、んな……」
心が砕けていくようだった。
信じていたものが、すべて霧散し、意識が遠のきそうになる。
「春辰、聞いてちょうだい。お願い」
鴉雛の声で、なんとか意識を取り戻した春辰は、臨戦態勢を解き、頬を伝い続ける涙を拭った。
「私はあの〈魔法が使えるようになる香水〉の研究の中で、偶然、煌珠の古代種族の存在を知ったの」
鴉雛は髪から簪を引き抜くと、魔法を使い、空に古い文献を写し出した。
――煌珠の始まりは、ここより遥か彼方の銀河を統べるオージンと、その九つの世界から出現した。
――九つの世界の内の一つ、アールヴヘイムルに住んでいるアールヴたちは、世界を彩る特別な魔法を持っていた。それはいかなる場所であっても、花々を咲かせ、麦を実らせ、風で雲を躍らせ、湖を氷から護る魔法であった。
――ある冬の時代を境に、一部のアールヴたちは、神々に匹敵する力を得てしまった。そのため、アールヴヘイムルから追放された古アールヴの生き残りは、最後の力を振り絞り、オージンが持つ金の腕輪から滴った腕輪を飲み込み、その力を使って新たなる棲み処へと時空間移動を果たす。この時、古アールヴはすでに多次元波長であったため、それが可能であった。
――移動した先にあったのは、青と紫、そして豊かな赤に煌めく惑星、パンドラ。
――古アールヴたちは戸惑った。なぜならば、自分たちが住んでいた銀河とは、物理法則が全く違ったからだ。
――このままではまともに形を保つことすら難しい。そこで、古アールヴたちは決断する。
――「胎児に宿るのだ」と。
――古アールヴたちは粒子となり、パンドラ星に降り注いだ。
――しかし、粒子となった古アールヴたちの力はあまりに強すぎた。原住民のDNAを破壊し、そのほとんどを殺害してしまったのである。
――生き残ったのは一億人中僅か一万人。
――それでも、新たな力を得た古アールヴたちは、粒子から自分たちを煌めく珠、〈煌珠〉と呼ぶことに決めた。
――煌珠黎明期古アールヴ記第一章より抜粋
「この論文は煌皇帝家の閲覧禁止の書庫にあったの。桃夭が見つけたのよ」
「春辰、お前のその特別な〈色〉と〈におい〉に纏わる力は、この古アールヴ族が持っていた原初の力を保持していることを示す証拠だ。この資料は絶対に星外に出してはならなかったのに、研究所で働いていた男が小遣い欲しさに地球人の研究者に売ってしまったんだ。それで、私たちは作戦を立てることにした。お前を護るために」
春辰の心に、黒い靄が渦巻いた。
「あなたは私たちと同じく鉱石の力を操っていると思っているわよね? でも、実は少し違うの。私たち通常の煌珠が使う創造魔法と、春辰が使う創造魔法は……」
「お前は存在そのものが伝説の宝玉、〈賢者の石〉と言っても過言ではないんだ」
二人の説明は理解できるが、納得できない事柄が大きすぎて、心がついて行かない。
「春辰、あなたは自身が想像したものを、なんでも作り出せるのよ」
「当然のごとく、物理法則も関係なければ、時空という概念からも解放されている。お前が触れて祈れば、数億年前の遺物さえ、当時の姿に戻るだろう」
「あなたの力は、まさに〈神〉の所業なのよ」
怒りが収まらない。
「この力を知った地球人は、ある魔法族に目を付けたの。それがイネス人であり、星読みたちの力。地球人の研究者たちはこう考えたの。『科学的に説明できない力が存在するのなら、証明できる魔法もあるのではないか』とね」
「で、それが正解だったというわけだ。星読みたちの力はその血によるものではなく、宇宙マイクロ波背景放射……、つまり、超新星爆発の残滓を、体内で生成される特殊な電荷で操作していたんだと判明したんだ。これをさらに解き明かせば、魔法族の生体組織を摂取しなくても、誰でも科学的魔法が使えるようになる。それを知ったイネス人たちは、今、地球人たちと手を組もうと画策しているんだ。星読みの力について研究していた著名な天文学者や宇宙物理学者を殺し、遺体を脅しの材料にしてな」
「星読みの力に関する研究を止める代わりに、煌珠を差し出すという契約でね……。地球人も、『どうせ使うのなら、本物の魔法がいい』とどこかで思っているのでしょうね。最近、イネス人の呼びかけに呼応する地球の研究所が増えてきているのよ。だから、あなたを護ろうと……」
我慢の限界だった。
「で? 十年間も行方不明でよく平気だったね。お父さんもお母さんも兄さんも、いまだに泣いて過ごす日があるのに」
春辰の言葉に、鴉雛は涙を流し始めた。
その肩を優しく抱き寄せながら、桃夭は言葉を繋いだ。
「春辰、仕方がないことくらいわかるだろう? 誰かを囮として能力者だと思わせたまま行方不明にでもしないと、全煌珠が狙われることになるんだぞ? お前の両親だって無事じゃすまない。皇帝家もな」
「わたしの左足が無くなった意味があったんならいいけどね」
それにはアレックスが悲痛な面持ちでつぶやいた。
「本当に、本当にごめんなさい……。煌珠を狙う者の仕業だと思わせるためには仕方なかったの……」
ごめんなさい、ごめんなさいとつぶやき続けるアレックスを見ても、何の感情も沸かなかった。
「お前の苦しみも、家族の悲しみも、私が甘んじて受け入れよう。好きなだけ、私を殴ると良い」
春辰は、頭の中で、そして心の中で何かが弾ける音がした。
桃夭は鴉雛をアレックスに任せ、地表へと降りた。
春辰も降りていく。
地面に足がつき、お互い乗っていたものから離れた瞬間、春辰はありったけのちからで桃夭を殴りつけた。
鴉雛が悲鳴を上げる。
桃夭の身体は宙に浮き、そのまま地面をバウンドしながら飛んでいった。
「春辰!」
非難がこもった声。
でも今は、そんなものどうでもよかった。
「……ぐっ」
桃夭は折れた歯と流れ出る血を吐き出しながら、ゆっくり立ち上がった。
「水華朱王殿下、わたしは身分の違いも考えず貴方様に危害を加えました。きっとこれからもそうするでしょう。さぁ、罰してください。甘んじて受け入れますから」
春辰の言葉に、桃夭は痛む頬を抑えながら自嘲した。
「……すまなかった、春辰。『甘んじて受け入れる』という言葉はあまりに敬意を欠いていた。許してほしい」
「許さない」
「……そうか」
桃夭は尻もちを搗くと、そのまま後方へと倒れた。
鴉雛とアレックスが降りてきてそのそばにしゃがみ込み、桃夭の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。私は無事だ」
泣きじゃくる鴉雛は、春辰の方を向くと、消え入りそうな声で「本当に、ごめんなさい……」と口にした。
「誰のことも許す気はない。でも、協力はする。両親と兄、煌珠の仲間たちを護るためにね」
「鴉雛は、いいのか?」
「あんたが護ればいいだろ。今までもそうだったみたいだし」
「そうだな。馬鹿なことを聞いた。すまない」
「わたしはどうすればいい」
桃夭は鴉雛の支えを借りながら再び立ち上がり、腫れだした頬を抑えながらまっすぐ春辰を見つめて言った。
「煌珠に牙向く者を、すべて調べ上げろ。話が通じないときは、殺せ」
「なぜなら」と、桃夭は今までに見たことないほど真剣な、怒りのこもった表情で言った。
「我が実兄であり、パンドラ星皇帝の監徳もまた、春辰と同じく古アールヴの力を持って生まれたからだ。失うわけにはいかない。兄上は煌珠の日輪なのだ」
春辰は突然目の前が晴れたように、悟った。
鴉雛も桃夭も、ともに『家族』を護るために必死なのだ。
桃夭は監徳を。
鴉雛は春辰を。
何の因果か、特別な力を持つ家族を持った者同士で恋に落ち、そして、ともに戦うことを選んだ。
春辰は心に巣食い始めていた黒い靄が消え、再び涙に変わるのを感じた。
嗚咽する中、やっと出た言葉は、ずっと姉に言いたかったことだった。
「……お、おかえりっ……、姉さん」
鴉雛は思わず駆け寄っていた。
倒れそうになる桃夭をアレックスがすかさず支える。
「ただいま……。ただいま、春辰!」
どちらからともなく腕が伸び、しっかりと互いの身体を抱きしめていた。
「背が伸びたね。それに、とても格好良く育った。嬉しい。大好きだよ」
「姉さんも、とっても綺麗だよ。ずっとずっと、大好きだよ」
二人が十年という時の壁を溶かし、家族の仲を深めていくそばで、桃夭はゆっくりと近づきながら「仲直りできてよかったな」と頷いた。
春辰はそっと鴉雛から身体を離し、アレックスに支えられながら立っている桃夭を見て「あんたのことは別に許してませんからね」と言い放った。
「……いいさいいさ。これからゆっくりじっくり義兄弟になっていこうな」
春辰は苦虫をかみつぶしたような嫌そうな顔をして一歩下がると、その様子を鴉雛はニコニコと微笑みながら嬉しそうに頷いた。
「まあいい。春辰にはまだ伝えきれていないことがある」
「……あぁ、そういえば、わたしの力が他星人にとって脅威となる理由がいまいちわかりません」
「お前はガンマ線バーストを故意に引き起こすことが出来るんだよ。つまり、どの惑星でも絶滅させることが出来るってことだ」
「……わたし、文系なんです。もうすこし詳しく説明してもらえます?」
桃夭はアレックスに介助されながら地面に座り込むと、魔法で頬を冷やしながら説明を始めた。
「お前は願えばなんでも作り出せると言っただろ? それは宇宙においてもだ」
桃夭は空に宇宙図を写し出すと、そこに明るく光る恒星を二つ出現させた。
「お前が願えば、多少時間はかかるだろうが中性子連星を作り出すことが出来る。それも、距離にして各惑星から八千光年以内にな。中性子連星は互いの引力で引き合いながら高速で回転し、衝突することで極超新星爆発を起す」
桃夭が空に向かって指を動かすと、明るい恒星が扇風機のように回転し始め、互いに近づき、激しい光をまき散らしながら衝突した。
「この爆発で生じたブラックホールは回転し、物質は渦を巻きながら落ちていく。その時に出来る降着円盤で生じる摩擦熱によって出来る強力な磁場は、ドーナツ型に両極へ向かうだろ? 磁場は徐々にねじ曲がり、崩壊し、消滅。そのときに、円盤の影響で回転軸に沿って垂直にジェット噴射するのが死の光線、ガンマ線バーストだ」
円盤の中心から放たれる強烈な光。
それが一点集中で惑星に注がれる。
「ガンマ線バーストは大気を切り裂き、惑星内に強烈な紫外線と電磁パルスを生じさせる。その後、すぐにミュー粒子があらゆるものをすり抜け生物の身体に直撃し、DNAを破壊。その結果、その惑星は文字通り死滅するというわけだ。まぁ、何かの幸運で生き残っても、大気中の窒素が二酸化窒素になることで大量の酸性雨が降り注ぐ。長くは生きられないだろうな」
春辰はここまで聞いても、まったく実感は得られなかった。
「……わたしにこれが本当に可能だと?」
「ああ。今すぐにでも出来るぞ。いや、多少の訓練は必要かもしれないが、まぁ、一ヶ月以内には出来るようになるだろ」
「え、えええ……」
困惑で頭が満たされ、実感もないのにまるで『生物兵器』のような言われように、少し居心地が悪くなった。
「おっと、イネス人の警察たちが追い付いてきたようだ。さっさと逃げよう。私の船があるから、それでパンドラへ行くぞ」
「さぁ、春辰。行きましょう」
姉に手を引かれ、春辰は困ったように微笑みながら、再びマチ針に乗って空へと飛びあがった。
「あの赤い船だ」
普通の惑星ならば目立っていただろうが、ここはイネス星。
極彩色の建物が並ぶ空間においては、うまくカムフラージュ出来ているようだ。
四人で船に乗り込むと、アレックスが操縦席に着いた。
「え、殿下が運転するんじゃないんですか」
「私の運転は不評だからな」
ちらりと鴉雛を見ると、ゆっくり頷いた。
「……これ、もしかしてワープとかします?」
「もちろん。最新式だからな」
「げぇ……」
春辰は運転席から一番遠い席を選び、しっかりとシートベルトを締めて席に着いた。
酔うことが確約されているようなものだ。
枇杷の飴を口に放り込み、舐めながら祈った。
(どうか、せめて嘔吐はしませんように)
気付くと、あの赤いにおいは消えていた。
どうやら、あれはアレックスの魔力のにおいだったようだ。
もう気にしなくていいのかと思うと、どこか心がホッとした。
(今度影岩隊長に誘われたら承諾しよう。アレックスさんともちゃんと話してみたいし)
春辰は目を瞑った。
いつの間にか寝入っていたらしい。
起こされたときには、パンドラ星に着いていた。
実に三年ぶりの帰郷だ。
心地よい風が吹き抜ける。
パンドラ星は今、秋のようだ。
惑星全体が紅葉しており、とても美しい。
「ただいま……」
無意識に口に出ていた。
隣で涙ぐむ鴉雛の手を握り、そっと微笑んだ。
「まずは私の水華朱王府で玄家の両親と再会しようではないか」
「あ、たしか兄さんもいるはずです。パンドラで就職しましたから」
「なら余計に素晴らしい再会になるな!」
あっけらかんとしている桃夭の姿に呆れ、春辰は肝心なことはどうするのかと尋ねた。
「全部話すんですか? わたしの力のこととか、イネス人たち、地球人たちとの関係悪化のこととか」
「いや? 鴉雛を取り戻したことと、婚姻の日取り、今後は水華朱王府で暮らしてもらうという提案などをしようと……」
「地元から離れるって言うんですか?」
「安全のためだ」
春辰は一瞬だけ悩んだが、家族の笑顔を考えたら、自分が選ぶ境遇などどうとでもなるような気がした。
「わたしの家族を死んでも守ってくれますか?」
「もちろんだ。皇帝家の祖霊たちに誓う」
春辰は深呼吸をすると、まっすぐと桃夭を見て言った。
「わたし、的になります」
「……は?」
「玄 春辰が古アールヴの力を受け継いだと流布してください。すべての目をわたしに向けるんです」
「そんなこと危険だ!」
「でも、わたしにはその危険に対処する魔法がある。でしょう? それに、親王であるあなたが真に護るべきは国民と皇帝陛下です。わたしは違う。この方法が一番目くらましになることは考えたことがあるでしょう?」
意表を突かれた桃夭は、腫れのひいてきた頬をさすりながら、春辰の目をじっと見つめた。
「……可能な限り、私が同行する」
「え、そんな」
「本当にお前が義弟になれば文句はあるまい。なんせ、お前が言うところの『家族』だからな」
反射的に鴉雛の顔を見た。
すると、鴉雛も同じ意見のようだ。
「わかりました。わかりましたよ。面倒な義兄なんて欲しくないのに」
「私はずっと弟が欲しかったからな。嬉しいぞ!」
「いや、いるでしょう。腹違いの皇子たちが」
「あれらは兄の皇位を狙う悪い奴らだからな。兄弟でも何でもない」
「左様ですか……」
こうして、春辰の本当の〈旅〉が始まる。
煌珠族を護るため、家族を護るため、そして、兵器にならないための戦いが。