肆:消し去るために舞うは曇天
春辰は朝の身支度を済ませると、着替えた服の上に霊絹糸で作り上げた防護服を着用した。
今日行くのは日照り地帯。
その地表面は千度にもおよぶ。
防護服なしでは、間違いなく熱と放射線で焼けただれて灰になってしまうだろう。
ブーツも防熱効果の高い魔法の糸で包み、外へ出た。
扉をほどき、巨大化させたマチ針に乗ると、星立気象研究所へ向かった。
黄昏区は、朝焼けなのか夕焼けなのかわからない空模様ではあるけれど、時計を確認すると間違いなく朝七時。
眠気を誘う灯りの中、地図を頼りに飛ぶこと一時間。
身体に触れる温度が急激に上昇するのを感じた。
「うわ、そうだ。日照り地区との境にあるんだった……」
時計を確認すると、気温は四十八度。
鼻から肺に入ってくる空気が熱い。
粘膜が火傷しそうだ。
春辰は急いで気象研究所の中へ入ると、その涼しさにほっと息を吐きだした。
「おお! 待ってましたよ、玄くん」
そう言って出迎えてくれたのは、研究所の所長、ジャック=バランティーナ。
「お久しぶりです」
「何年振りかなぁ」
「……半年ぶりですけど」
「あはははは! カオリン星は一日の始まりと終わりさえ分かりづらくて、つい」
「ジャックさんは地球出身ですもんね」
「恋しいよ。四季折々の草木や気象による景色の違い。それに、旬の食べ物たち……。はぁ……」
「たしか、任期はあと一年くらいじゃなかったでしたっけ? 環境があまりに過酷だから、各星から五年任期の交代制でしたよね」
「そ。はやく地球の気象研究所に戻りたいよ」
ジャックは遠い目をしながらため息をついた。
「そんなこと言っていたらまたカオリン人の職員に嫌われますよ」
「おっと。いけない、いけない。ついね。ちなみに、今地球の季節はなんだい?」
「えっと、葦原国は春ですよ。桜が綺麗です」
「うわぁ……、いいなぁ」
地球の春の景色を思い出しているのだろう。
うっとりとしながら、すぐに疲れた顔に戻った。
「ま、あと一年頑張るよ。さぁ、仕事仕事。今日は第八十地区からずぅーっと先まで覆っている積乱雲の除去をお願いしたいんだ」
「日照り地区のほぼ中心部ですね」
「雷が酷くてねぇ……。やっとの思いで設置した大気熱発電機が壊れそうなんだよ」
「わかりました。さっそく行ってきます」
「よろしくぅ!」
いつもだが、ジャックは物腰が軽い。
誰にでも感情を開く技術が高いのだろう。
春辰は内心とても感心しながら、涼しくて快適な建物から灼熱の外界へと出ていった。
「……あっつ」
またマチ針に跨り空へと飛びあがる。
とはいえ、なるべく低空飛行で。
天空から降り注ぐ恒星の輝きはまさに殺人的。
低く飛ぶのは、少しでも自身への被害を少なくするためだ。
ただ、あまりに低すぎても火傷してしまう。
雷によって硝子化した地表の照り返しは怖ろしい。
「温度計が壊れそう……」
春辰が銀の針山と一緒に腕に巻いている時計の温度計は千五百度までしか耐えられない。
そもそも、針山の銀は千度すら耐えられない。
「そろそろ別の針山に変えなきゃ……」
春辰は針山から輪廻硬針を抜くと、魔法をかけ、針山をタングステンに変化させた。
「これで三千度以上まで耐えられる。……わたしはどうかわからないけど」
春辰は口元を霊絹糸で作り出したマスクで覆い、体内に入ってくる空気の温度を調節した。
はるか前方、積乱雲と呼ぶには背が低く、そしてでっぷりと太ったように横に広がった厚い雲が見えてきた。
近づくほどに、その激しい雷鳴が身体の中まで引き裂きそうなほど響き渡った。
雲の中でいくつもの閃光が奔っている。
本来なら降り注いでいるはずの雨は地表に落ちる前に蒸発し、さらに雲の厚みを増すのに一役買っている。
「こりゃ、積乱雲の永久機関だなぁ」
通常、というか、地球やパンドラ星では積乱雲の出現時間はおよそ三十分から一時間程度。
発達し、成熟し、衰退する。
ただ、衰退中の積乱雲から流れる下降気流が地表のあたたかな空気に触れると、側に新しい積乱雲が生まれることがある。
それがここ、カオリン星では永遠に繰り返され、巨大化を続けているのだ。
「まぁ、ここまで大きいのは……、ね。巨大積乱雲より大きいもん」
目の前に広がる積乱雲はあきらかに様子がおかしい。
地球で言えば、おそらく葦原国の首都東京を覆うほどの大きさはあるのではないだろうか。
「雲というよりも、氷雪と雷鳴の宮殿みたいだなぁ」
激しく回転する雲の中では、風が唸り、電気を帯びた雹や霰が雷を誘発している。
「耳栓しとこ」
春辰は耳に霊絹糸を丸めたものを詰めると、意を決して雲へ向かって行った。
「うわ、押し流される!」
時計回りに流れる強風が、春辰を巻き込もうと吹き付けてくる。
春辰はマチ針をぎゅっと握り、バランスを崩さないよう気をつけながら、身体を雲の内側へ、内側へと傾けていく。
その間にも、子供の頭ほどの大きさの雹が飛び交い、避けようとするたびにバランスが崩れる。
「……風の抵抗は増えるけど、身体を護る方が大事かな」
霊絹糸を輪廻硬針で編み、即席の透過防護膜を周囲に纏った。
さっそく氷の粒がぶつかり、ガンガンと音が鳴る。
「当たったらひとたまりもないや」
風の抵抗が増したことで、飛行操作の難易度が上がったが、それでもなんとか姿勢を保ちながら雲の内側へと入って行った。
「……うわ!」
近くで電撃が瞬いた。
防護服と膜の効果で感電することはないが、それでも音と光で心臓は跳ねる。
「ありゃ……」
積乱雲の中心部。
そこには巨大な氷塊が浮かんでいた。
「え、こんなの初めて見たんですけど……」
自然とは不思議なものだ。
「氷の惑星みたい……」
雹や霰がぶつかり合い、そのたびに結合して大きくなっていく。
風で侵食されながら丸みを帯び、最終的に雷の中継地点として機能し始めてしまっている。
浮かんでいるのは、下降気流と上昇気流とのちょうど中間に位置しているからだろう。
「……壊そう」
春辰は目視で直径十五メートルほどの氷塊に向かい、さらに飛行を続けた。
近づくにつれ、氷塊の透明さが目につく。
密度が高い氷のようだ。
「いや……、これ、壊したら欠片が真下にある発電所を直撃するかも……」
それでは本末転倒だ。
春辰は巨大な氷を目の前に、「面倒だけど、ここは脳筋で頑張るしかないかな」とつぶやき、準備を始めた。
霊絹糸で大きな布を作り、氷塊を包む。
それをさらに魔法のロープで上部を結ぶと、ロープの端を持ったまま雲のはるか上空へと脱出。
ロープを身体に巻き付けながら、今度はまた大きな布を八十枚製作し、自身の周りに配置した。
「さぁ、巨大な下降気流の時間だ!」
春辰は布を激しく動かし、雲に向かって強い下降気流を作り出した。
そう、これは人工的……、いや、魔法的に高気圧を再現しているのだ。
「うん、時間かかりそうだけど、良い感じ」
蒲公英の綿毛が飛んでいくように積乱雲がちぎれて消え始め、密度がどんどんと薄くなっているのが見てわかる。
地球やパンドラ星とは大気の様子が違うカオリン星。
上手くいくかどうかは正直博打だったが、どうやら調子はいいようだ。
「……お、地表近くに乾いた風が吹き始めたな」
砂埃を巻き上げ、暗夜地区の方角に向かって吹き始めた。
「発電所は……、お、大丈夫そう。ちょっと揺れているようにも見えるけど」
過酷な地に建てているのだ。
そう弱いはずがない。
春辰は雲が消え、氷塊が姿を現すまで下降気流を作り続けた。
「出てきた。うん。綺麗な球形だなぁ」
日照り地区の直射日光に当たった氷塊は、激しく水を垂らしながらも、煌めき、その美しさを存分に大気に曝している。
「無くなっちゃうのがもったいないくらいだな……」
いくら日照り地区とはいえ、ここまで大きな氷塊が溶けるにはおよそ四十五時間かかる。
春辰はゆっくりと氷を地表に降ろすと、速く溶けるように、輪廻硬針を大きなハンマーに変え、何度も叩きながら細かく砕いた。
砕いた氷を布に包んだまま暗夜地区まで飛んでいき、少し溶けていた氷を凍土にばっと放り投げた。
この量の氷が解けた水蒸気が立ち昇れば、また積乱雲が出来かねないからだ。
「うう、寒い……」
春辰はすぐに暗夜地区を離れ、灼熱の日照り地区を通り、黄昏区へ。
「新陳代謝がおかしくなりそう」
そういえば、と、時計を見ると十時間が経っていた。
「……体内時計もおかしくなりそう……。なんか、トイレ行きたいかも」
春辰は気象研究所の前に降り立つと、中へと入り、受付の女性に「あの、お手洗いをお借りします」と一言断り、生理現象の解消に向かった。
数分語、すっきりした顔でトイレから出ると、受付には満面の笑みのジャックが立っていた。
「お疲れ様! まさか、一日で解決してくれるとは!」
「わたしも驚いています」
「謙遜しちゃってぇ。ずっと観測してたんだけど、なんかこう、綺麗な解決方法だったね」
「ありがとうございます。結果的に、なんかああなりました」
「ふふ。やっぱり魔法はすごいなぁ……。物理法則を無視した華麗なる技術……。まさに宇宙のダークエネルギーと同じだね!」
ジャックは破願し、嬉しそうに頷いている。
春辰はあまりの賞賛にすこし照れ臭くなり、すっぱいものを食べたような顔になってしまった。
「そ、そんな壮大なものではないですけど……」
「いいなぁ、魔法。今度は地球で見せてね!」
こんな風に、純粋に魔法を喜んでくれる人もいる。
そう思うと、春辰は少し心が軽くなった。
顔も自然とほころんでしまう。
「そうですね。何か安全で楽しい魔法をお見せしますよ」
「楽しみだ!」
その時、受付の側にある待合室のテレビから、ニュースが流れた。
――「昨夜未明、地球のイーグリア国にある天文学研究所にて殺人事件が起きました。今月に入り、犠牲者は二人目です……」
ジャックの顔が一瞬こわばったが、被害者の名前が告げられると、複雑そうな顔で溜息をついた。
「……気を付けてくださいね? 何かあったら……」
「大丈夫。ここには殺人犯も来ないよ。だって、暑いし熱すぎるからね!」
気丈に微笑むジャックと握手を交わし、挨拶を済ませると、春辰は研究所をあとにした。
仮眠室での休憩を勧められたが、自分の領域ですら眠ることが難しいので、丁重に断った。
「はぁ……。一度地球に戻ろう」
春辰はゆっくりとした飛行速度で光速環状線の駅へと向かった。
黄昏区を抜けた先の暗夜地区はとても寒い。
またポンチョを羽織ると、氷と岩石、そしてわずかな凍土が覆う世界を飛んでいく。
鼻をくすぐるにおいは、限りなく白に近い冷たい浅瀬の水面のような色、月白だった。