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鬼覇ノ王眼  作者: 袖山静鹿
 Ⅱ 吸血鬼の性
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Ⅱ-Ⅱ


「と……じょうぶ……君…」女の子の声がした。その声は徐々に大きくなった。「か君……丈夫……飛鳥君」


 空人は闇に包まれていた。そこで誰かが呼んでいる声が聞こえる。

 ――海月か? その声がどこから聞こえるのか判別がつかない。応答しようと試みたが、口どころか身体すら動かない。


「しっかりしなさい」


 感情がこもらない淡泊な声がして、頬に針を刺すような痛みが走る。衝撃は痛みよりも強く、頭が吹っ飛んだ気がした。


 そうして、闇が晴れた。

 翳んだ目に飛び込む光景は薄暗い。空は赤と紺が混ざり合っている。夕方と夜の境界。


 空人はアスファルトに横臥していた。なぜここで寝ていたのか。ここがどこなのか。判然としなかった。


「ここは」空人は身体を起こしながら言葉をこぼした。


「ねぇ」空人の前に座り込む少女は言って、空人の頭を両手で掴んだ。少女は人形のような無機質な顔をしている。


 空人はその時、初めて自分の目の前にいる少女の存在に気がついた。驚いて心臓の鼓動が一瞬跳ね上がる。少女がいたことにも驚いたが、それよりも少女の顔の距離感があまりにも近いことに一驚した。少女はアクアマリンのように透き通った青い瞳で、真直ぐと空人の瞳を覗いていた。ツンと尖った鼻は空人を刺しそうなほど近い。


 空人は当惑した。


「聞こえてる? ここで何があったの」


 少女は空人の心持など気にせず尋ねた。


「ここで?」


「寝ぼけてないで目を覚ましなさい」


 空人は口を結んで思考を巡らせた。海月、血の海と紅い瞳。様々情報が錯綜する。

 空人は自分の腕を見た。空人の心配とは裏腹に、腕には薄っすらと産毛が生えていた。空人は安堵した。自分が黒い怪物になっていなかったことに。


 次に思い出したのは、腹部に空いた穴。思い出した途端に痛みを感じた。腹を咄嗟に抑える。痛みは錯覚だった。腹に触れた掌はサラリと柔らかいものに触れた。腹から手を放し、腹を検めた。腹に空いた穴は無い。それどころか血痕や傷すらもない。だがシャツの腹部にはポッカりと穴が開いていた。そこから白い肌が露出している。夢ではないことは確かだった。


 ――生きてる?


 空人は困惑した。夢なのか現実なのか。


「聞いているの? もう一度張り倒されたいのかしら?」少女は表情一つ変えることなく、淡々と機械のように言った。


 思い耽っていた空人も、少女の言葉にハッと我に返った。

 口を開こうとした。だが問いにどうこたえるべきか逡巡した。話したところで、信じてもらえるとは思えないからだ。それどころか一笑されて終わるかもしれない。そう思い開きかけた口を閉じた。


「どうしたの?」


「いや、何でも……」

 そう言って少女から目を逸らした。少女の綺麗な金髪の髪を透かして、少女の背後に広がる血の海が視界に飛び込んできた。記憶がフラッシュバックし戦慄が走る。腹に痛みが蘇る。腹に心臓があるかのように脈を打ち始め、その脈に合わせて身体を貫くような痛みが走る。痛みは強烈な吐き気を呼び寄せる。脈打つ腹の内側で、胃が痺れ、痙攣し始めた。痙攣した胃は、中のものを押し出そうとする。耐え兼ねて、少女の手を振り払い、顔を少女から背けた。喉から込みあがる吐き気に大きくむせ返ったが、血はもちろん、胃液が出てくることもなかった。


「大丈夫。落ち着いて、私を見て。大丈夫だから。息を吸って」少女は咽る空人の肩に手を置いて、言い聞かせる。


 空人は少女の言葉に耳を傾けた。むせ返る息を、鎮めて大きく息を吸う。周りの臭気が空人の鼻腔を刺激する。その芳香は不思議と食欲を奮い立たせた。呼吸は整い、吐き気も収まったが、口内に多量の唾液を分泌し、胃引っ張るような胃痛がした。甘く柔らかい血肉の香りだ。気がつくと口から涎が溢れ出していた。


 空人は袖口で口を拭う。袖に着いた唾液を見て、眉を顰めた。


 ――どうして。


 それを見ている少女の表情に曇りはなく、顔色一つ変えることはなかった。

 ただ顔を上げた空人と目が合った時、少女の目は極めて僅かに開かれた。空人はその表情に、どことなく恐怖を覚えて俯いた。


「僕の顔に何かついてますか?」


「初めて出会ったわ……」少女は独り言のように呟いた。


 空人は伺うように顔を上げる。少女の表情は相変わらず陶器のようだ。真意が理解できず空人はきょとんとした。


 少女は空人の反応を見取って何かを察した。


「なるほど……理解したわ。たった今、転生したってわけね」


「転生?」空人はまた視線を落とした。


 転生の意味がわからなかった。転生というとアニメや漫画などでよくみる異世界転生的なあれだろうか、と思ったが、どう見ても、ここは変わらず現実世界だ。


 ――じゃあ転生とは。っと思った瞬間、空人の頭に一つの可能性がよぎった。それは空人にとって良くない、答えだ。その答えを導き出した瞬間、顔から血の気が引いていくことを感じた。


 顔を上げると、少女の顔が眼前いっぱいに迫っていた。空人は鼓動が跳ね上がる。


「すいません。近いです」空人は、顔を紅潮させて目線を逸らす。


「あら、ごめんなさい。片目というのも珍しいから」少女は空人から顔を離した。「あ、そういえばこれ、あなたの物よね」


 そう言って差し出したのは、空人の眼鏡だった。

 空人は自らの顔を両掌で弄った。そこに眼鏡は無かった。遠近両用の眼鏡を掛けている空人が、眼鏡なしで周りが見えることはあり得なかった。だが眼鏡を掛けている時のように、はっきりと周りの光景は見えていた。それよりも以前に増して、よりも鮮明に見えた。


 少女から眼鏡を受け取ると、試しに眼鏡を掛ける。不思議と眼鏡を掛けると、逆に視界がぼやけた。眼鏡を外して、掛けてを何度か繰り返した。間違いなく眼鏡の度が合っていない。

 空人の様子を見て少女が口を開いた。


「眼鏡はもう必要ないわ。あなたは吸血鬼に転生したの。それのおかげで視力はもちろん身体機能が格段に上がっているはずよ」


 空人は胸を撃ち抜かれたような気がした。頭をよぎったものの、受け入れずに拒んだ答えを他人に突きつけられると、衝撃は計り知れない。

 ――吸血鬼に転生。この言葉だけが頭の中でこだました。

 ただ呆然と立ち尽くし、これはまだ現実じゃない。そう思い込んだ。


 一拍置いて、空人は苦い笑いを浮かべる。


「なに言ってるんですか。冗談は——―」


 涙がこぼれそうになって、言葉切った。


「この惨事を見て、吸血鬼に転生した以外で生き残っている方が不自然よ」


 空人は目を白黒させた。拒絶する言葉を探した。探した末、項垂れた。もう自覚していた。今この現状を説明することに、最適な答えは吸血鬼に転生した。とい答えだけだ。この答えだけが全てに辻褄が合う。それでも、受け入れることはできない。ましては喜ぶことは決してない。


 抜け殻のようにうちひしがれた空人を見て、少女は大きなため息を一つついた。


「飛鳥君、ちょっとついてきて」少女はそういうと立ち上がり、先を歩き始めた。


「ちょっと待って。どうして名前を知っているんですか?」


 少女は眉間に皺を寄せ、再び大きなため息をついた。呆れたたという様子だ。


「理由は後で話すわ。安心しなさい。採って食おうなんて思わない」


 先を行く少女は、血の海の横を悠然と歩いた。それを見て、空人の不信感が増長した。この陰惨な光景を目の当たりにして、何とも思っていないようだった。少女もまた吸血鬼であろうことは容易に想像がついた。彼女が襲ってこないという保証はない。彼は少女を信用することはできなかった。


「ほら早く」呆然と立ち尽くす空人に少女は言った。


 空人は少女に促され、足を踏み出した。少女はその様子を見て、先を歩いた。

 少女が空人から目を離した瞬間。空人は力いっぱい少女とは逆の方向へ走り出した。


「ちょっと、飛鳥君」少女は振り向いて声を上げた。


空人は呼び止める少女の声に一層恐怖心を抱いた。

空人は後ろを振り返ることなく来た道を走った。


どこへ行こうとも決めずただ少女を蒔くためだけに走った。細い路地を幾つも曲がった。走ってたどり着いた場所は袋小路だった。空人は躊躇なく突き当りにある塀を飛び越えた。三メートルから四メートルほどの壁だ。

飛び越えた先は空き家だった。空き家の庭で空人は立ち止った。不思議と息が上がったり、足が痛むこともなかった。


空人は身を隠すように今飛び越えた塀の内側に身を寄せた。上を眺めると陽が落ちていた。空は紺色一色だ。辺りの街灯もすべて点灯している。後から少女が追ってくる気配はない。

遠くから籠ったサイレンの音が聞こえた。あの場所だろうと空人は思った。

自宅とは真逆の方向へ来てしまった。帰ることが億劫だった。


――また出くわしたらどうしよう。


帰る距離は凡そ直線距離で五百メートルほどある。しかし、最短距離であるあの道は通れない。警察が来ているからだ。もちろんハンターも来ていると考えられた。


呼吸を整えると、空人は立ち上がった。立ち上がった瞬間、目の切れ端で何かが揺れた。揺れたものを確認せず身を屈めた。息を殺し、何かの方へゆっくりと首を捻った。何かを引きずる音がして、人影が一つ見えた。民家の脇から緩慢な動作で現れたそれは、肩が外れたように腕が垂れ下がり、足を引きずっていた。


空人の背中にゾクゾクと怖気が走る。人影は死して尚徘徊する者。徘徊者だった。


徘徊者は鈍足な足取りで空人に歩み寄る。空人は尻もちをついて後ずさりした。見開いた空人の目は徘徊者に釘付けだった。街灯で薄っすらと見える徘徊者を見て更に恐怖は増長した。皮膚は、腐敗して黒くくすみ、白かったであろうシャツは、黄ばみを通り越し茶色く染まっている。ズボンの裾は擦り切れてボロボロだ。頭髪は全て抜け落ちていて、生前の性別の判別はつかない。


徘徊者はいよいよ空人の一メートル手前まで来た。空人は腰を抜かして動けない。徘徊者の姿がより鮮明に見える距離だ。こちらを捉えていると思っていた目は、白く濁りどこを見ているのかもわからなかった。引きずっている脚は拉げていて、つま先を引きずっているせいか親指が半分ほど擦り切れて無くなっていた。口からは涎なのか、血なのか良くわからない錆びのような液体を垂れ流していた。それが空人の足元にポタリと落ちた。


空人は立ち上がった。走れば簡単に逃げ切ることは可能だったが、動くことができなかった。

徘徊者の顔が眼前に迫った時、銀色の白刃が駆けた。一拍置いて、徘徊者の動きが止まる。首が転々と転がった。切り離された頭部は、灰となって崩れた。


徘徊者の首の上、つまりは頭のあった向こうから、金色の長い髪が見えた。先ほどの少女だ。少女の顔が酷薄に見えた。徘徊者の身体は肉塊になり地に伏し、灰になって舞い上がった。

空人の身は縮み上がった。


「大丈夫?」少女は空人へ歩み寄る。その手には刃渡り四十センチほどの鋭い剣が握られていた。


――殺される。


空人の目は見開かれていた。少女の一挙手一投足を見逃さないように。


「聞いているの?」少女は首を傾げる。


空人は何も答えず、気がつくと後ろの塀を飛んでいた。


――高い。飛び越えた時には高さを感じなかったからか、飛び降りるときには相当高く感じた。

最後に見切れた少女の姿は、呆れたようだった。


空人は慌てて大通りまで走った。後ろから少女はついてこなかった。人通りが多ければ着いてこれないのだと空人は思った。

大通りから、分岐した脇道へ折れる。閑静な住宅が立ち並んでいる。空人の家はこの住宅地に、軒並みを揃えている。


三つほど隣の筋では人の喧騒が聞こえた。先ほどまで空人が倒れていたところだ。近所の住民が数人歩いていく姿が見受けられた。


――何事もありませんように。そう願って走った。


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