Ⅰ-Ⅴ
駅は帰宅ルートから少し外れていた。普通に引き返して帰宅ルートに戻ることもできるが、今日は一人だと物悲しい気持ちだった。早く帰りたい、と思った。だからいつもは通らない裏路地を通って帰ることにした。
駅からほどなくして住宅地へ差し掛かった。敷き詰めたように建ち並ぶ住宅街。その合間をぬったように通っている小道には人の気配はない。連日の事件の影響だろうか。人気の少ない場所は通ってはいけない。そう学校で言っていたことを頭の片隅で思いだした。コンクリートの高い塀に囲まれた裏通りは日当たりが悪く薄暗い。その雰囲気に飲まれ気がつくと、身体はは強張っていた。
高鳴った鼓動と金属音のような高い音が微かに耳の奥で聞こえた。そう感じるほど裏通りは静かだ。この静寂が空人の神経も過敏にさせた。
路地を小走りで進む。少し行くとアルファベットのエルの字を描くような、直角の曲がり角に差し掛かった。茜色の夕陽が垂れ込み、壁が燃えるような赤に染まっていた。
夕陽の色を見て空人は安堵した。
それも束の間、アスファルトに何かが落ちたような音がした。低い衝撃音と同時に水が撥ねるような音だ。驚いて肩が竦んだ。何事か、と目を凝らし辺りを見渡した。
赤く焼けた壁に、二つの人影が伸びていた。空人は、生唾を呑んだ。吸血鬼は人間の姿をしていると聞くからだ。二つの影に注意注ぐ。一方がもう一方の影を持ち上げているように見えた。
空人の目が大きく剥かれた。空人の背筋に冷たい汗が伝う。血管が波打つほど、鼓動が大きく高鳴った。動悸が激しく胸が痛かった。
男か女か判別のつかない、呻き声が聞こえた。
空人の呼吸と心拍が限界まで早まった。
空人は影から目が離せなくなっていた。好奇心なのか、恐怖なのか、自分でもそれはわからなかった。
呻き声は、一段と大きくなり、首を掴まれている方の影が高く持ち上げられた。影は苦しそうにじたばたと体を捩っていた。
空人のこめかみに冷汗が伝う。
――引き返そう。
空人の勘は、これは以上先は危険だといっている。だがその場から放れられずにいた。自分でも不思議だった。
一瞬呻き声が喘ぎ声のように大きな声に変わった。空人は戦慄した。短く高い叫び声がした。トマト、いや、卵が握りつ潰されるような音と水滴る音がした。
どん、と柔らかく、それでいて重い音がした。
空人は目を剥いた。人影の一方の頭部が、地面に転がったように見えたからだ。見たくはない、だがそれよりも確かめたいという気持ちが空人を突き動かした。本当にやばかったら引き返せばいい。と安易な気持ちで、曲がり角の向こうを覗き込んだ。
人が一人佇んでいた。逆光で眩暈がした。黒い影が陽炎のように揺れて見えた。
細い身体のラインが黒い線がのように見えた。目が慣れ始める。それは赤い湖の中に立っていた。その姿は同じ年頃の少年だ。まるで血の雨に打たれたように全身赤かった。全身に戦慄が走った。
何かの見間違いかもしれない、と自分に言い聞かせ、もう一つの影を探す。先ほど落下したであろう頭部は頭蓋を砕かれ脳が外の空気にさらされていた。その表情は恐怖と痛みで歪み、血と涙でひどく汚れている。性別も判別つかない。頭が切り離された体躯は、食肉のように大きく腹を裂かれ、そこから臓物が零れだしていた。
血の海だ。この死体を除いて、あと二、三の遺体がバラバラに散らばっていた。木から落ちた柿のように潰れた死体の一部は、どこの部位かもわからない。ただ惨たらしく、凄惨で血の中に沈んでいる。
――この世の地獄だ。
あまりの衝撃に頭が真っ白になった。
数秒の間隙。
鉄の臭いが鼻腔奥深くを痛いほど刺激した。臭いはさらに奥へ足を延ばした。強烈な鉄と生臭い臭い。胃に人肉を押し込まれたような気分がした。胃がひどく波打ち痙攣した。胃液が喉まで逆流し、吐き出しそうになったがそれを飲み込んだ。
全身が恐怖に染まった。連日のニュースもあり、自分の置かれた状況は容易に理解できた。
少年の正体を想像するのに時間は要しなかった。
――ここから逃げないと。
身体は石になったように硬く強張り、身動きができなくなっていた。口から心臓が飛び出しそうなほどの動悸がした。冷汗も次から次へと溢れ出す。全身が濡れている。
そうして動くことができないでいると、少年の深紅の瞳がぎょろりと動いた。目が合った。
ドクンッ、と心臓が止まった気がした。その瞬間石のように固まっていた身体が軽くなった。即座に踵を返し来た道へ駆けだした。
一歩踏み出し、もう一歩。景色が流れない。脚が動かない。口の中で苦い味がした。脚の感覚がない。
腹部に違和感を感じた。じんわりと暖かい。
視線を落とし、腹を見て思考が停止した。違和感の感じた腹には向こう側が見えそうなほど、大きな風穴がポッカリと空いていた。白いシャツには、ほんの少し血が滲み、風穴からは人の手が突きだしていた。手は血糊がべったりと塗られ。血糊から見える地肌は、人の肌の色をしていなかった。低反射ガラスのように透明で地面が透けて見えた。
それを認識した瞬間、腕の突き刺さった腹部は熱を帯び始めた。腹が焼かれているように熱い。内にを溶鋼が流れているようだ。もはや痛いのか、熱いのか、そのどちらもなのか、判別がつかない。
じゅるり、と水気のある音を立て腕が引き抜かれた。その直後ダムが決壊したように夥しい量の血液が飛沫をあげた。
咄嗟に手で押さえる。だが血は手をすり抜け、隙間から漏れ出す。一気に血の気が引き、頭がふわふわとした。視界が真っ白になり、身体が重く身体を支えることがひどく困難だった。
突然ガクン、と足の力が抜けた。身体を支えようとするが踏ん張りが効かなかった。空人はそのまま背中から壁に衝突し、力なく壁に身体を預けるように崩れた。空人は小さく呻いた。
壁には空人の血液が擦りついていた。尻もちをついた衝撃で腹から血の塊が零れる。それは血液と絡み合った弾力のある腸だ。ぶるりと飛び出すと、それは次々と流れ出た。
この一瞬で自分の身に何が起こったのか理解していなかった。
――死ぬのか。
ただそれだけが漠然と頭に浮かんだ。
空人は鉄球のように重い頭を擡げる。自然と閉じる瞼を懸命に開いた。視界は白い光から、徐々に景色を捉え始めた。霞んだ目で自分が立っていた場所を検める。その場から今の自分の位置まで血の川ができていた。その川の終着点に、血みどろに汚れた人の手が宙に浮いていた。
これが一人でに自分の身体を貫いたのか。それが可笑しくなって、苦い笑いを浮かべた。
「なーに笑ってるんだい?」
宙に浮いた手の方から、若い男の声が聞こえた。
空人は更におかしくなって、鼻で笑った。そして、がくりと首を落とした。頭がひどく重かった。頭を擡げているのが限界だった。
――さっきの男子生徒か。
投げやりな気持ちで、驚くこともなかった。
「お腹いっぱいだったんだけどなー」ヘラヘラと軽い口調が聞こえた。「でもまあ、見られたから仕方ないよね」
空人は目だけを上に動かし、声のする方を見た。
宙に浮かぶ手は、布にインクが染みていくようにその色を取り戻した。灰色がかった白い肌だ。それは紛れもなく人の肌。全身染まりきると、何のことはない、血の海の真ん中にいた少年だ。
少年は全身夕陽と血糊で赤く染まっていた。深紅の瞳は血のように黒く濁っているように見えた。その目がキッと狐のように細くなり、口が引き裂けたように大きく口角が上がった。その口元から鋭く尖った牙が垣間見えた。狂気が滲んだ笑顔だ。
少年の白金色の髪には固まり始めた血液がこびりついている。その髪が揺れ、髪の先から赤い血液が落ちた。その雫が空人の血の川に波紋をもたらした。その川の上を渡って、少年は空人の前にしゃがんだ。
接吻するほどの間隙。少年は空人の頬を両の掌で挟んで、空人の頭を持ち上げた。
少年の赤い瞳が空人の瞳を覗き込んだ。黒い瞳は鋭く猫のように尖っていた。その瞳を見て死の恐怖を感じた。死にたくない。そう思った。自分の死が確定していることはわかっている。もう手遅れで無駄だということはわかっている。それでも生きたい。助けてほしい。力を振り絞り震える唇を動かした。
――助けて。
言葉は出なかった。口から出たのは言葉ではなく血の塊だった。
口から吐き出された血液が少年の顔面にかかった。
彼は顔色一つ変えることなくただ笑った。空人の顔から手を離し両手を叩いて笑った。
首を支えるものが無くなり力なく首を垂らした。衝撃で咳き込んだ。夥しく血液が口から吐き出される。冷たい液状の鉄が口から流れ出す。そんな気分だった。吐き出すだけ吐き出して、乱れた呼吸を整えようと空気を吸い込んだ。もう息満足に吸うことができなかった。喉の奥から笛のように高い音が鳴り、ゴロゴロと血の絡んだ音が喉からした。同時に鼓動が徐々に弱くなり、遠のいていくこともわかった。
「君まだ意識あるんだ。強いね」そう言って少年は目を丸くして続けた。「あれ、その制服うちの制服じゃん。でも君のこと知らないなぁ」
目に捉える形は無くなっていた。もう光しか見えない。ただ赤と黒だけの景色だ。けれど少年がほくそ笑んでいることは手に取るように分かった
目が効かなくなると身体の感覚も徐々に消えていった。痛みは不思議と和らいだ。穏やかな気持ちになって、緩やかに意識が遠のいていく。
思い返すといつも一人だった。死ぬときもやはり一人だ。
中学の頃に亡くなった祖母のことを思い返した。おばあちゃんに会えるかな。
一度はついている人生を歩んでみたかったな。そう思った。
人生の中でも今日が一番ついていない。やり残したことも沢山あった。恋人を作ることも、親孝行も、高校の卒業も、これから人生がまだ続くはずだった。それももう叶わない。
今までの後悔と、母親よりも先に旅立ってしまう罪悪感が湧いた。ただそれだけで、もう死にたくないとは思わなかった。来世のことを考える余裕があるほど死を受け入れていた。
――来世は飼い猫にでもなって、のんびりと過ごしたい。人間は醜くて辛い。
死を受け入れているというよりも、生きることを諦めているに等しかった。
――ようやく面倒な人生が終わる。
なぜかほっとした。
灼熱の地獄も、痛みも全くない。
微かに見える茜色は、血液なのか夕暮れの陽光なのか。その灯りがゆっくりとフェードアウトし、夜の帳が降りた。
そうして、眠る時間だと言わんばかりに眠気が訪れた。
――それにしても今日はついていない日だ。
ついていなかった人生がつくこともなく終わるのだ。それはある意味ついているかもしれない。と人生最後に自嘲した。
血で染まった地面と血で染まったような夕陽に照らされ眠った。
耳の奥底で、さざなみの音が聞こえた気がした。
――なんて穏やかなんだろうか。