Ⅰ-Ⅱ
チャイムの音がした。教室中が騒々しくなり、空人は目を覚ました。
机にあずけた体を起こし眼鏡を掛けた。まだ視界に靄がかかっている。
今何時だ。そう思い眠い目を擦って時計を見た。頭の回転が鈍く、時間を正確に読むことができなかった。一拍置いてようやくのみ込む。ぼんやりと翳んだ目は大きく開かれ、空人の顔が青ざめた。
勢いよく立ち上がり、喧しい音を立てながら教室を駆け抜けた。クラスメイト達が空人を怪訝な目で見ていた。
廊下には生徒たちが雑踏としていた。その隙間をぬって、今日一番の全速力で廊下を駆け抜ける。絡まりそうな足に気をつけながら、階段を駆け上がった。
屋上まで上がって足を止める。開いたままの扉の向こうに三人の生徒がいた。三人は制服を着崩し、髪を茶髪に染めている。黒のブレザーの前ボタンは開け放ち、ネクタイは着けていなかった。もちろん彼の友人ではない。校内でも不良で名高い斎藤、伊藤、山田だ。
空人は呼吸を整えて湧き出す生唾を飲んで、媚びへつらうような固い笑みを作った。硬い表情のまま、扉の陰から外へ出た。
斎藤が空人に気がつくと手を上げた。
「おせーよ。罰として今日はお前の奢りな」
空人はもの言いたげな表情で不良生徒を見た。
「なんだよ」
空人は答えない。
斎藤は苛立つように舌打ちをして空人を睨みつけた。
「何にもねえなら、さっさといけよ」
斎藤は空人の左足を押すように蹴った。
空人は不服だったが、それに従った。自分は悪くないことはわかっていた。いくら遅刻癖のある空人でも授業終わりまっすぐ屋上に向かえば遅刻はしない。斎藤たちは授業をさぼって屋上にたむろしている。だから空人は斎藤たちより早く着くことはできない。
理不尽だが逆らうことはできない。だが空人にそんな勇気はない。自分に力がないことも自覚していた。彼は体格に恵まれていないからだ。女性のように華奢な肩。浮き出たあばら。身長も一六七センチで小柄だ。気は弱く、優柔不断。そのため一度だって断ったことはない。だから毎日お使いを頼まれている。もちろん全て空人の奢りだ。
空人は自分の性分と人間に生まれたことを呪っていた。軟弱で人に嫌われるのが怖い。なぜ人間はこれほどまでに面倒なのだろう。なぜこれほどまでに他者を攻撃し、支配したがるのだろうか、常日頃そう考えていた。
そんな空人にも一度は助け船が渡された。パシリに使われているところを海月に見つかった。それに怒った海月が不良たちに説教をしたことがある。その場はそれで収まったが、後日腹癒せで空人はボコボコに殴られた。流石に不良たちも、女子には手を上げないらしい。しかも相手は他校でも噂になるほどの美少女だ。
不良たちのパシリをしているとき、空人はいつもとは打って変わって機敏だった。運動音痴で、鈍足だと馬鹿にされてる彼だが、千人以上の生徒がいるこの学校の一階にある売店まで五分ほどで行って帰ってこれるほどだ。
それでも頼まれたものを買って戻ると、不良たちは決まって言うことがある。
「お疲れお疲れ」
斎藤たちはいつも通りに笑顔で労うように言う。
「えーと」斎藤は携帯の画面で時間を確認するふりをした。「今日は三分遅かったから三発な」
そう言うと、斎藤が拳を鳴らした。伊藤と山田はそれを見てニタニタと笑う。
斎藤がゆっくりと空人に歩み寄る。
空人はじりじりと、後ろに下がった。殴られる理由は無い。分数もでたらめで、殴る回数は斎藤の気分で決まる。拒むことは許されない。拒めばもっとひどい目にあうからだ。
「とまれ」斎藤が言った。
「すみません」
空人自信何に謝っているのかわからなかったが、口が勝手に言葉を吐き出していた。身体が覚えてしまっている。心までももう奴隷だ。こうしていれば、幾分かましに済む。そう思う一方でやはり苦しく辛かった。
斎藤は空人の首の後ろへ腕を回すと、もう片方の手に拳を握った。そして大きく振りかぶる。拳は弧を描いて空人の腹へねじ込まれた。鈍い衝撃が腹の内まで伝わった。空人は小さく呻いた。息を吸おうと口を開いてもうまく息が吸えない。その場に崩れそうになるも、斎藤が襟ぐりを掴んでいて、膝を突くことを許さなかった。
身体がグイっと持ち上がり、一瞬力が緩んだ腹へ容赦なく二発目、三発目がねじ込まれた。そこでようやく斎藤の手が緩んだ。たまらずその場へ、腹を抱えて蹲る。吐き出すように咳をして、粘着質な唾を吐きだした。喉の奥で苦い味がした。大きく息を吸い込むと、喉から壊れた笛のような高い音がした。
「はあ。つまんねぇな。帰って良いぞ」
斎藤は蔑んだ目で空人を見下ろし、捨て台詞を吐いた。空人はまだ動けず蹲っていた。
斎藤たちは興が覚めたように空人から視線を外し、屋上の奥へと向かった。
その時だった。
「おい。お前らぁ」
空を貫きそうなほど大きな怒号が辺りに響いた。
「俺の親友パシリにして、そのうえ殴るとは良い度胸だなァ。覚悟はできてんだろォなぁ」
斎藤含め不良たちは驚いて辺りを見渡した、声の方に人影は無かった。斎藤たちは辺りをきょろきょろと見渡した。人影を捉えると、斎藤の目は鋭く尖った。
呼吸が整ってきた空人も、上体を起こすと、後ろを振り返った。出入り口の庇の上に、赤いフードを被った男子生徒が立っていた。男子生徒は箒の柄を右手に握り、その柄で肩をトントンと叩いている。空人はその姿に。見覚えは無かった。
――また変なやつが出てきた。空人はゾッとした。
普通なら助け舟だ。だが急に親友を語る人物に見覚えもなければ、助けてもらう義理もない。むしろ恐怖を感じた。
「誰だお前」斎藤並び他の者にも見覚えはない様子だった。
男子生徒は高さ二メートル半から三メートルはあるであろう出入り口の庇の上から飛び降りた。軽く着地するとフードを脱いだ。
男子生徒の顔が露になった。褐色肌に金髪。燃え上がる炎のようなオレンジの瞳。
空人はどことなく見覚えがあった。
「見ない顔だな。誰だよ。お前」斎藤が言う。
「人に名前を聞くときは、まず自分からってぇ、幼稚園児でも知ってる常識だろうがァ」
また天を貫きそうなほどの怒号だ。
「こいつ何言ってんだ。頭いってんじゃねぇの? お前一人で何ができんだよ」
「俺一人で、お前ら全員のせる」
「救えない馬鹿が登場」
斎藤が笑いながら言うと、他の二人も馬鹿にしたようにゲラゲラ笑った。
正直、空人から見ても愚かな行為だった。つまり本当に馬鹿にしか見えなかった。
だが男子生徒はさらに呆れるほど意味のわからない御託を並べた。
「草食はお前らの方だろ。俺は百獣の王だ」男子生徒の目は本気だった。
斎藤たちの顔から笑いが消え失せた。呆れたように顔を見合わせた。
「獰猛な肉食獣に、草食獣三匹で勝てると思うか? 俺はおもわねェな」
そう言うと、男子生徒は颯爽と走り出した。
「さっきから何言ってんだこいつ。三対一なら草食獣でも勝てるわ。今日からおま――」
斎藤が言い切る前に吹き飛んだ。口から血しぶきを拭きあげ、目は白目を剥いていた。
一瞬のできごとに、伊藤と山田戸惑いを隠せない。何が起こったのかすらわかっていない様子だった。
空人には見えていた。人間離れした跳躍力、瞬き一つのうちに斎藤の顔面に飛び膝蹴りをしていた。
空人は息を呑んだ。
その後は、あっという間だった。男子生徒はまるで鬼神のようだった。握っていた箒の柄は真っ二つに折れ、不良三人は仲良く地面に転がっていた。最後に空人が見たのはアッパーで山田が真上に飛んだところだ。
「俺は今日転校してきたもんだあ。名前はなァ。獅子道陸人だ。覚えとけヤ。ぼけがァ」
追い討ちを描かけるように陸人は怒鳴りつけた。同時に近くに倒れていた斎藤の腹を蹴り上げた。斎藤は小さく呻いた。
陸人の怒号は空に響いてこだました。
陸人は、ふっ、と吐息を吐いて空人の方を振り返った。先ほどまでとは打って変わって、幼い子供のような屈託のない顔で笑った。
空人は戸惑い、硬い笑顔を浮かべた。先ほどの現場を見ていたからだ。
「久しぶりだな空人。お前は相変わらずいじめられっ子体質だなぁ」
動揺する空人を気する様子もなく彼は陸人は言った。
「俺も今日からこの学校なんだよ。よろしくな」
そう言って空人の肩を平手でたたいた。パチンとゴムを弾いたような高い音がした。
「痛」空人は痛みに顔を歪めた。
「お、悪いな。折れてないか?」
空人はむかっ腹がたって睨んだ。
「それぐらいで折れないさ」
「いやぁ、相変わらず女みたいに華奢だからよ」
空人は、陸人を横目で一瞥した。陸人の身体は大きく筋肉質だった。
「そういう陸人はずいぶん大きくなったね」
「そりゃ、あれからずいぶん経つからな」
「中学二年以来か……」
「空人は身長もあんまり伸びてないな」
陸人は意地悪く笑う。
「陸人が伸びすぎなんだよ」
「まあな」
中学のころは、陸人と空人の身長は同じくらいだった。だが今の陸人は空人より遥かに高い。およそ一八〇センチほどある。あばらが浮き出るほど痩せていた身体も筋骨たくましい。だが悪ガキ感が残っていた。それだけが空人に安心感を与えた。
陸人は海月も空人の幼なじみで、幼少の頃からの関係だ。物心がつく以前から親同士が仲良かったが、中二の梅雨時期、陸人の両親の事故で亡くなった。
その後、葬儀は無く何の挨拶もないまま陸人達兄妹二人は親戚に引き取られる形で転校した。
突然の別れでずっと空人は悔やんでいた。親友が辛い時にそばにいることができなかったからだ。
「ところでクラスはどこになったの?」空人は訊いた。
「それがさ」陸人は項垂れ、ため息をついた。「E組なんだよ。でもまあクラスは違うけどよろしくな。兄弟」そう言って空人の肩を軽く小突こうとした。
空人はサッと身を引いた。陸人の拳は、空人の肩のあった位置を空ぶった。少しその位置を通り過ぎたところで振った手を止めた。その拳を持ち上げ、陸人は拳を不思議そうにまじまじと見つめた。そうしてもう一度空人の肩目掛けて拳を振った。またしても空人はそれを躱す。
陸人はムキになって、それが何度か続いた。
「何回やるんだよ」空人が叫んだ。
「あ、悪い。なんかムキになって」
陸人は笑いながら頭を掻いた。
「ほらお詫びだ。俺の肩にバシッと一発こい」
陸人はそう言って、左肩を空人へ差し出した。
「よーし」と空人が勢いづいて拳を構えたときだった。
こもったチャイムの音が校庭に鳴り響いた。
空人は手を止め携帯を見た。予鈴は既に鳴り終わっていた。再開の喜びのあまり、時間をすっかり忘れていた。
斎藤たち三人もいつの間にか消えていた。
二人は顔を見合わせ、目で会話した。やばい。と互いに察し合い、二人同時に扉に向かって走った。