Ⅲ-Ⅳ
父が亡くなってから数日が経った。
父の遺体はハンターに引き取られていた。返ってくる予定はまだ先になるそうだ。
また何でもない日常が帰ってきた。透哉は普段通りに学校へ登校した。最初は心配して声をかける友人もいたがそれも次第になくなった。
家にいると気が滅入りそうだったため、友人達と放課後を過ごすようになったからだろう。
明子はずっと空元気だった。その姿を見て、後ろめたさを感じていた。
ある日の夕暮れ時、静かな屋内にドアホンの音が鳴り響いた。モニターには二人の男の姿が写っていた。くたびれたスーツ姿の男と季節にそぐわないコートを着ている。
「はい、どちら様でしょうか」
明子がモニターに向かってワントーン上げた声で尋ねた。モニターには爽やかな男と無精髭を生やした不潔そうな男が映し出されていた。
「紅月庁警察です」
爽やかな男の声をした警察は、胸ポケットからチラリと手帳を覗かせた。
母はモニターを凝視して、警察手帳を目にすると怪訝そうな顔をした。というのも宗志が亡くなってから、こうして警察が尋ねてくることが頻繁だったからだ。
「富樫宗志様の事件について、数点お伺いしたいことがあります」
明子はモニターを消すと吐息を吐いた。部屋の空気全てを入れ替えてしまうほどの重い息だ。彼女は憂鬱そうな顔をして、玄関先に向かった。
「すみません。お忙しい中」
セールスマンのような爽やかな笑顔をした男が言った。
「よかったら中へ」
「いえ、玄関で結構です」
男は顔の前で手を振る。
「すみませんね。頻繁にお邪魔して」
「いえ……かまいませんけど」明子の声は消えそうな声だった。
「変わったことはありませんか? 息子さんや明子さんご自身――他の方でも何でも構いません」
明子は腕を組んで頬杖を突いた。この手の質問は連日何度もされている。
「特には……」
「そうですか、それではすみませんが透哉君おみえになりますか?」
「トウヤ」
明子は二階に向かって叫んだ。
呼ばれる前から会話は聞こえていた。針を落とした音すら聞こえそうなほど聴覚は敏感になっていた。
透哉は素直に階段を下りた。二人の警官が階段を下る透哉の顔を覗き込んだ。
「君が富樫透哉君だね。僕は刑事の渡辺と言います」
三十歳前後の快活そうな男が、背広の内ポケットから警察手帳をちらりと覗かせた。もう一人は父親を殺害した現場にいた無精髭の男だ。男の目の周りは濃い隈に縁どられ窪んでいる。瞳には精気がなく、疲労困憊しているように見えた。しかしその目が恐ろしかった。刺すようにそれでて舐めるように透哉の一挙一動を細かく観察しているようだった。
だからか、じわじわと背中に汗が噴き出した。心臓が握られている気分だった。
無精髭の男は厚手の黒いコートの中から、プラスチック製のカードを取り出た。
「吸血鬼対策協会のキリサメ・ノボルです」
そう言って、カードをこちらへ向けた。カードには吸血鬼対策協会、対策局巡査部長キリサメ・ノボル、と記されていた。名前の横には顔写真が印刷されいた。深い隈に精気のない目は死霊のようなおぞましさを感じさせた。
「透哉君。早速なんだけど、五日前のことを訊くね? よーく思い出してほしいんだけど――」渡辺は透哉の様子を伺うかのように一瞥した。「五日前、君は友人達と北区バッコ市にあるクラブVPへ行っていたね」
言葉を窮した。頭をフル回転させた。相手がどこまで知っているのか。返答次第では自分の首を絞める。
まず自分が吸血鬼になったことは知らないだろう。しかし吸血鬼だ転生していてもおかしくはない、と考えているに違いない。
次に入店時はカメラに写っているはずだ。しかし、退店時透哉はカメラに映っていない。矛盾が生じる。出すべき答えはとりあえず行ったことは認めることだった。
「はい。行きました」
「未成年が、という話は今は置いておくね。――それで、君といた友人なんだけど、その夜から行方不明になっているんだ。何か知らないかな?」
「知りません。」
そうかそうかと、と言いながら渡辺は二回ほど首を縦に振った。
「じゃあ質問を変えよう」
そう言うと先ほどまで和やだった渡辺の表情が一変した。鋭く尖った目が透哉と見交わした。
「クラブへの入店時は君の姿も友人の姿も確認されている。でもどうしてかな――出てきた姿はない。まあ出る姿がないのは君だけが例外ではなかったけど」渡辺は鼻の頭を掻いて続けた。「でも、君だけなんだよ」
「ーーと言うと」
透哉の表情が、緊張で強張った。
「生存確認がとれる人。あそこで何があったのか教えてくれないかな」
「酒に酔っていていたし、パニックだったから断片的なんですけどーー」ベタつく頬を撫でた。「クラブの端の方で悲鳴が聞こえて、何だろうって思ったら、人が血だらけで倒れていて……怖くなって逃げました。入口の方は人だかりができていたので、反対側に走って裏側の窓から飛び降りて逃げました。それから気がつけば自宅にいました」
「どうして早く警察に言わなかったのかな」
渡辺の表情はひどく無表情だった。
「怖くてーーそれに色々ありすぎて頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいか」
泣き出しそうな表情を作り、頭をぐしゃぐしゃに掻いてみせた。
「そうだよね。辛かったよね」同情したように言ったその口調は、どこか芝居じみていた。
明子の目頭は赤くなり、潤んでいた。
「刑事さん今日はこのへんで」
「そうですね……わかりました。もし何か思い出しましたら、ご連絡ください。僕からは以上です。ムラサメさんからは何か?」
ムラサメはピクリとも動かず、口を半分開けたまま透哉を睨めつけていた。その目つきは、今すぐに殺すと語っていた。透哉の背筋にゾクゾクとした寒気に似た怖気が走る。
「ムラサメさん?」
渡辺はムラサメの顔を覗き込んで、肩を揺すった。
ムラサメは肩をすくめて、辺りを見廻した。
「……失礼。少々疲れていまして」
「……またですか。ほんとに」
渡辺は呆れかえったように吐息を吐いた。
透哉は驚いた。目を開いて寝ていたことにも、寝ているにも関わらず、隙がないことにも恐怖を感じた。
ムラサメは、無造作に伸びた髪を掻いた。
「ええと、五日前友人とバッコにあるVPというクラブへ行ったな—―」
渡辺の深い溜息がムラサメの言葉を遮った。
ムラサメは渡辺を一瞥する。
「ムラサメさん。その話は終わりました。しっかりしてください」
「ああ、そうか……すまん。まあ、その、あれだ、未成年がそんなところに行ってはいけない」
はあ、と透哉は生返事をした。自分が怯えていたのが馬鹿らしくなっていた。
「じゃあ、このクラブイベントのあと何をしていた」
「いやだから。パニックで気がついたら家に」
「いいや。お前はこの後、帝王ホテルへ行き、父親を殺害した。カメラに映らなかったのは、お前がビルの隙間を渡っていったからだ」
「何を言ってるんですか。人間にそんなことできない」
ムラサメは透哉を睨んだ。
「お前が人間ならそうだろうな。それに父親を殺す動機はないとは言えんらしいな」と言ってムラサメはメモを取り始めた。
透哉は声を荒げた。
「そんなことないです。父のことは尊敬していましたし、何の不満もありませんでした。僕には動機はありません」
「嘘だな」ムラサメの口角に微笑みが滲んだ。
「あなた。さっきからその態度は何なんですか。うちの息子が犯人だっていうんですか」
明子の声は金切り声のようにキンキンと響いた。
「いやそういうわけでは――」
と言った渡辺の言葉をムラサメが遮った。
「全ての人間を疑う。それが私たちの仕事ですから」
「それでも限度があるでしょう」
「すみませんね。奥さん。旦那さんが亡くなって大変な時に。今日は帰りますんで、また何かあったらお願いします」
渡辺は明子を宥めるように言ってムラサメを見た。
ムラサメは何かをいいかけたが、渡辺がそれを制した。
「透哉君もごめんね。お父さんも友達もいなくなってしまった時に、またもし何かあったら協力頼めるかな?」
透哉は敢えて間を置いてから、はい。と一言答えた。
二人は、失礼しました。と一礼して出ていった。
———✵———
冨樫家を後にして、ムラサメと渡辺の二人は表に停めた黒いセダン車に乗り込んだ。渡辺が運転席に乗り込み、ムラサメは助手席。
渡辺はエンジンを掛けてムラサメに視線をやる。
「ムラサメさん少しやりすぎですよ」
ムラサメは鼻で笑った。
渡辺は返答を待つように横顔を見守る。
ムラサメは胸ポケットから拉げたタバコのソフトケースと銀のオイルライターをを取り出した。タバコを咥える。オイルライターがキン、と金属音を立てると同時に火が点く。火をつけたタバコを吸う。溜息を吐くように紫煙を吐き出し、ようやく口を開いた。
「被った猫をひん剥いてやろうと思ってな……」
「やはり彼がそうなんですね」
「ああ、間違いない。父親殺しの犯人だろうな。状況証拠的にクラブの件も同一犯……というところだ」
渡辺は煙草の煙を煙たそうに払うと、車を発進させた。
「裏手にあった血の手形――証言と一致しますね」
「そうだな、だが決定的な証拠もない。手形から指紋が採れればよかったんだが、何せ状態が良くない。――あいつを泳がせるか」
「それ、やばくないですか?」渡辺が眉を顰める。
「犠牲は出るだろうが、証拠がない以上どうしようもない。尻尾を出すまでそうするしかない。それに――運が良ければ、あの絶対接触死亡の女王にも辿り着けるかもしれん」
「例のあの……」渡辺の声色は重い。
「まあ今は次の犠牲が出る前に、一刻も早く証拠を挙げることが先決だ」
「刑事課も全力で証拠を上げて見せます」
「ありがとさん……頼むよ」
「いえ、持ちつ持たれつですよ」
渡辺は咳き込んで、ムラサメに微笑みかけた。
ムラサメはタバコを吹かしながら、鼻で笑った。鼻から白い煙が吐き出され、宙に溶けて消えた。
———✵———
数日にわたって警察が家を訪ねてきた。渡辺も数回見たが、訪れる面々はバラバラだった。皆、機械のように言うことは毎度同じで、捜査の進捗だったり、透哉に思い出したことはないか、と訊いた。
どうやら宗志を殺した犯人の捜査は難航しているらしい。クラブの大量失踪事件と何らかの関わりがある人物、ということしかわかっていない。証拠もなければ、目撃情報もない。
徐々に冨樫家に刑事が尋ねてくることが減り、二三か月後には完全になくなった。
――事件から三か月ほど経っていた。その間透哉も派手に動きはしなかった。ただもんもんと衝動を抑える日々だった。
ある夕方のことだ。食卓を透哉と明子、二人で囲んでいた。会話のない静かな食卓は食器の擦れる音と二人の租借音だけが聞こえた。
唐突に明子が口を開いた。
「透哉――」母親は躊躇ったように食卓の一点を見つめた。
「父さんを殺したの、あんたでしょ」
明子の口調は確信めいていた。透哉に向ける顔に表情はなかった。
ドキリとした。箸を持つ手が一瞬緩んだ。すぐに作り笑いを浮かべる。
「何言ってんの。そんなわけないじゃん」
「あんたじゃないなら、いいけど」ため息が混じるような声だった。
「違うに決まってるじゃん」
念を押すように言ったが、明子の息子を見る目は訝しそうだった。
「父さん浮気してたでしょ。だから……」
「そんなことでするわけないって。母さんこそ、浮気されたからとか――」
冗談半分に言った透哉の言葉を、明子は遮った。
「そんなことしない」
一瞬、耳鳴りがするほど静まり返った。
張り詰めた空気が緩んで母は涙を流した。
「だって、それでもよかったのよ」
透哉の瞳が揺れた。
「どうして?」
「父さん。親の都合で結婚したでしょ。だから本当に愛している人ができたのなら、それでよかった。私は普通に生活できればよかった。だから黙認してたのよ。でも透哉、ごめんね」
明子の涙が机上に落ちる。その音がした。それに続くように明子の嗚咽が部屋に響いた。
「何、それ……」
言葉が自然とこぼれた。きーん、と耳鳴りがうるさい。こめかみが脈打ち始める。ドクドクと心拍に合わせて波打っている。徐々にスピードが上がる。目に見えるんじゃないだろうか。
明子に背を向け黙った。鼓動が早い。感情のままに吐き出してしまいそうな言葉が出ないよう口を閉じ、居間を出た。
明子は何も言わず、ぼやけた視界で透哉の背を見ていた。
自分という存在は、何のために在るのか。自分の行いは正しかったのだろうか。
どうあっても、もう後には引けなかった。もう殺してしまった。もう覚えてしまった。あの感覚。
自分の脳の中からひんやりと、それでいて熱い液体が噴き出すような快感。全身を包み込むような高揚感。暖かい血液。想像以上に脆い人の体躯。
世界は自分の物だと思えた。
透哉は、一度覚えてしまった快楽に溺れるように人を殺し続けた。その行いが徐々に街を震撼させた。
学校の集会やホームルームで、その話題が上がるたびに興奮し、内心ほくそ笑んだ。
――皆、何かの奴隷。
人は今、自身が行っていることに恐怖し、その奴隷になっているのだ。
幸せだった。
しかし、順調に見えた透哉の快楽殺人街道も、飛鳥空人を殺した日から狂い始めた。
殺したはずの相手が吸血鬼になってしまった。これは大きな誤算だった。普段から殺した相手を吸血鬼にしないよう、気をつけている。吸血鬼は自らが持つ、毒を人間に流し込むことで人間を変異させることができる。透哉はその毒を流していない。ただ一度も。
———✵———
透哉の焦燥と苛立ちが落ち着き始めた頃、首筋に冷たい何かが押し当てられた。思わず肩が竦む。咄嗟に振り返ろうとしたがそれは不可能だった。振り向こうと首を動かした瞬間、首に当てられた何かが首の皮を切り裂いた。傷から赤い血がぷっくりと滲みだした。
目の切れ端限界まで視線を向ける。何かが輝いている。ダイヤのようで美しい。更に検める。氷だ。恐ろしく鋭利な氷の刃。
それを精製したのは紛れもなくシャーペットだった。
「振り向かないことね」
後ろから、起伏のない女の声がした。
先ほどの女だ、と透哉は直感する。同時にフローゼを連想させた。
「何のつもりだ」
「決まってるでしょう。脅迫よ」
「脅迫?」
「黙って私の言うことを三つ守りなさい」
透哉は困惑した。まてまて、と振り向こうとした。更に刃が食い込む。
「聞けよ」そう言っても彼女は聞く耳持たぬようすで話しを続けた。
「一つ、妙な動きをしない。二つ、質問したこと以外の言葉は慎むこと。三つ、要求は吞むこと。もしこの三つを――」
「待てって。三つ目は――」
透哉はシャーペットの話を遮り、異議を申し入れようとした。しかし言葉を飲み込むことになった。氷の刃が一層深く首に食いこんだ。刃は皮を切り裂き、更に肉を掻き分け、頸動脈に押し当てられていた。
透哉の喉が上下に動いた。いつも顔に張り付けている胡散臭い微笑みはどこかに消え去った。彼の全身から冷たい汗が噴き出していた。
「今回は見逃してあげる。けれど次に私の命令に背くことがあれば、あなたの首が飛ぶことになる。わかった?」
透哉は黙って、緩慢な動作で首を縦に振った。
「わかったか聞いているのよ」
「……わかりました」声はくぐもっていた。
「シンプルな要求よ。人を殺すことはやめなさい。派手にやりすぎたのよ」
「まてまて。吸血鬼なのに人殺さなかったら、どうやって飯を食うんだよ」
透哉は思わず振り返った。刃が抜けた。振り返った瞬間、喉元に薄氷の刃が突きつけられた。その刃は透明で薄っぺらだが、彼女の瞳のように冷徹で鋭いことが感触で理解できた。
「別に殺す必要なんてないわ。それに動物の血でも私たちは生きていける。あなたのせいでここら辺を縄張りとする吸血鬼が迷惑してるのよ」
「だから何なんだよ」
透哉の喉仏の一番突き出た部分に、刃の先端が押し当てられる。刃の切っ先がじんわりと赤く滲んだ。
透哉は壁に張り付いて、つま先立ちをしていた。背中はぐっしょりと濡れていて冷たい。
「次に人を殺した場合。私はあなたを始末することになる。いいわね?」
「要求を呑む以外ないんでしょう」
「そうよ」
「じゃあ聞かないでくださいよ」
「で?」
「わかりました。殺さない。大人しくするよ」
そう言うと、喉に押し当てられた刃をシャーペットは収めた。
ほっ、と一息ついて項垂れた。その瞬間脳天に電撃が走った。
気がつくと天井を見上げていた。何が起こったのか理解しないまま、彼は床に転がっていた。顎先に打ち身のような痛みを感じた。身体が痺れるように重い。ひどく重い腕を持ち上げて顎を擦る。口内で血の味がした。鉄臭くて苦い。口の中が切れているようだった。
しばらく寝たままだった。顔を上げて辺りを見渡す。シャーペットの姿はない。
「あの女……」透哉は歯を噛み締める。
透哉は二つのことを理解した。シャーペットに顎を蹴り上げられたこと。もう一つはあんなに強い吸血鬼が学校にいる。そして、そいつに目をつけられた。ならばもう、今までの生活はできない。
再び苛立ちと抑制の日々が始まった。




