Ⅱ-Ⅳ
目覚めると陽は落ちていた。部屋は真っ暗でゲーム機やコンセント周辺の光だけが灯っていた。
――苦しい夢だった。と空人は希望的観測をした。
それを確かめるべく布団から抜け出す。答えは解っている。それでも現実を受け止められず、確かめずにはいられなかった。部屋にある黒縁の姿見を覗き込む。鏡に映る自分の姿に落胆し、溜息をついた。左目はやはり黄金色に微光していた。
風が吹き込みカーテンが揺れた。学校で学んだことが思い出された。吸血鬼の弱点は太陽の光だ。夜のうちに部屋を閉め切ったほうがいい。空人はk-点を開いた。外は辺りは薄暗く、街灯が点々としている。空の向こう側は、紅く雲が染まり、こちらに向かって深い紺色のグラデーションになっていた。昨日のことを思い出し吐き気がした。
――もう夕焼けは見たくない。
そう思い、ピシャンと雨戸を閉めた。
空人は昨日のことを思い出し、一つ疑念が沸いた。あの少年は陽のもとにいた。それにもかかわらず、平気そうな顔で人を殺していた。克服することが可能なのだろうか。もしそうであれば、自分も陽の下を普通に歩くことができるのかもしれない。
――でも、命というリスクは背負いたくない。誰か助けてくれ。
不安を抱きしめたまま、空人はベッドに蹲った。闇夜は空人に何も言わず優しく寄り添うが、それゆえに無慈悲だ。闇夜は空人の不安を一層増長させていった。
――明日にでも誰かに見つかって殺されるかもしれない。
――あの少女も自分を追っているかもしれないし、ハンターに自分を売るかもしれない。
そんな不安が次々と頭を過る。涙で枕を濡らし、冷たい汗が全身を濡らした。部屋は光を通さず真っ暗だ。長い夜に震え、次第に外から小鳥のさえずりが聞こえた。その鳴き声が夜が明けたことを告げる。
携帯のバイブレーションが部屋に響いた。海月であることは容易に想像できた。けれど携帯に手を伸ばすことすら億劫で無視をした。その後一分以上続いてプツリと鳴り止んだ。
体感で数時間たった。
――お腹すいたな。
胃袋に細い針を刺すような痛みを感じた。強い空腹感だ。昨日から水もなにも飲んでいないから無理もないと空人は思った。
衝動に突き動かされるように空人は部屋から出た。昨朝の出来事は少しも危惧しなかった。幸い陽は落ちていた。
――さっきまで朝だったはず。空人は頭の片隅で思った。
階段を降り台所へ向かう。冷蔵庫を開くと、中にはウインナー数本、卵、水。そして調味料類が入っていた。冷蔵庫の中は湿気と黴の臭いがした。
この空腹から逃れたい。その一心で空人はウインナーの袋を鷲掴みにした。それを強引に引き裂き、そのまま口いっぱいに頬ばった。うまい、まずい、そんな感情は浮かばなかった。それほどに空腹が強烈だった。ウインナーの塩気で喉が渇いた。容量二リットルのペットボトルを手に取ると、それを握り潰した。行き場を失ったペットボトル内の水と空気が逃げ出すように、蓋を吹き飛ばし、噴水のように水が噴き出した。空人は気にする素振りもなく、ペットボトル半分ほど残った水を一息で飲み干した。
空腹が静まる様子はない。むしろなお一層空腹も渇きも増し、胃の中を鋭い爪で掻き毟られるような痛みがした。
空腹は空人の判断力までも蝕み始めた。
空人は部屋に戻って服を着替えた。黒い無地のTシャツに袖を通し、黒い綿のパンツを履いた。そうして玄関へ急いだ。玄関に置かれた木製のハンガーポールには、母の黒いキャップが掛けられている。それを目深に被って眼差しを隠した。それでも不安で下駄箱の上にむき出しのまま置かれた丸いサングラスをかけた。
――これで大丈夫だ。
空人の目は血走っていた。あれだけ恐れていた外へ飛び出した。妙に高揚感を感じていた。恐怖の感情は微塵もない。ただただ強烈な空腹、飢餓という欲求だけが空人を突き動かした。
家から徒歩五分ほどにあるコンビニへ向かう道中、あちらこちらで、豊かで味わい深い香りがした。その香りは胃を直接嬲られるような、内から腕が飛び出すような、そんな痛みを与えた。
それが空人の形相を獣のように歪めていた。すれ違う人々は空人を見るなり怪訝そうな表情を浮かべた。すれ違う人々はとても美味しそうな肉のように映っていた。
コンビニへ到着する頃、空人は口周りは涎で照りがついていた。終始漂ってくる匂いのせいだ。唾液腺が刺激され、無限に唾液が湧きだした。何度拭っても唾液は沸いて出た。終いには袖まで唾液でぐっしょり濡れていた。
コンビニの中は薬品のようなにおいがした。さらに踏み込むと薬品の匂いに交じって高級肉を焼き上げたような香ばしい香がした。それは空人の意識を朦朧とさせた。
――これが欲しい。
匂いのする方向に視線を向ける。その先に栗色の髪の女性店員がいた。年頃は空人と同じくらいか上かだった。女性定員はカウンターの中で、たばこを整理していた。入り口で佇む空人をチラリと見て、いらっしゃいませとタバコに向かって言った。
その言葉でハッとした。朦朧としていた意識が戻ると同時に絶望した。自分が吸血鬼であることを痛感した。胃袋を刺激する香りはすべて人間から発せられていたことを理解したからだ。
女性店員は入り口の前で佇む空人を振り返った。その場から動かない空人に不信感抱いたのか、訝しむようにまじまじと見ていた。そのただならぬ視線を感じた空人は出入り口へ振り返った。振り返った瞬間、そこに海月が立っていた。空人の心拍が跳ね上がった。
海月も空人も黙ったまま見合っていた。自動ドアが空人の背後で締まる音がした。学校帰りなのかバイト帰りなのか、学校の制服を着ていた。空人の顔を訝しむように見ていた。
空人はとっさに帽子を深く被り、サングラスを持ち上げた。
「何してるんだよ。こんなところで」上ずった声で空人は言った。
「あんたこそ何してんの? そんな恰好で」海月の口調は詰問するようだった。
空人は狼狽して、サングラスに手を掛けた。それを見取って海月は続けた。
「昨日も今日も家の前まで行ったのに、今日なんて連絡もないし。何かあったのかもって家に行ってみたら、あんたが出ていくところが見えたから、着いてきたの」
「ごめん。心配かけて、でもちょっと行くところがあるから——」
「こんな時間に?」海月は空人の言葉を遮った。「夜にサングラスなんかしてお洒落?」
空人の表情が引きつった。
空人はポケットを探った。目当てのものは入っていない。冷静さを欠いていた空人は携帯を忘れていた。時間を確認しようにも時間を確認できるものがなかった。
海月は呆れたように大きなため息をついて、、空人に携帯の画面を見せた。デジタル表示で20:32と表示されていた。
適当についた言い訳を弁解する言葉は見つからなかった。
「ほら、帰るよ」海月は黙る空人を見て、優しい口調で言った。
只ならぬ食への渇望と戦いながら空人は断る言葉を探した。意識がまとまらず、目が泳ぐ。
結局断る言葉は見つからず、コクリとうなずいた。
「ほら早く」海月は空人を振り仰いだ。
空人は叱られた子供のように海月の後に続いた。
空人は飢餓と戦っていた。噛めば甘い肉汁がじゅわりと溢れ出しそうな、上質な香り。それらが誘い出す狂おしいほどの食への欲求が空人を襲った。
空人の隣を歩きながら、海月は何かを楽しそうに話している。
空人は生返事をするばかりで、会話の内容は全く頭に入っこなかった。
香の元凶は間違いなく海月だ。そう空人は薄々理解していた。その香りが胃痛を起こし限界をとうに迎えた性的欲情に似たなにかを掻き立たせていた。それら全てを抑えようと、辛うじて空人の理性が奮闘していた。全身の毛穴という毛穴から冷汗が止まらない。
視界の周辺が紅くぼんやりとしている。血の流れが加速し続け、耳の奥から潮騒に似た音がした。
空人の自宅付近にあるT字路に差し掛かった時、急激に胸が苦しくなった。空人はその場で膝を突いた。
「大丈夫?」海月は心配そうに空人の背中を擦った。
「大丈夫。もう少しで家だから」空人は引き攣らせた笑顔で言った。
「あまり無理しないで」
もう少しで家だ、と自分に言い聞かせ立ち上がった。――もう少しで家。それが気が緩みだった。蠟燭の火のように小さな理性の灯が消えた。二人以外の人影は辺りにない。この時間帯は人が通ることが少ない。
空人は海月の肩を後ろから鷲掴みした。
「どうしたの」
海月は驚いたように振り返った。
空人の顔を見て異変に気がついた時にはもう遅かった。
「痛い。離して」
海月の顔が痛みで歪む。空人の指が海月の肩に食い込んだ。
海月の言葉は空人には届かなかった。ただ獣のように唸るだけだ。飛鳥空人という人格はそこにない。ただ欲求だけに従う獣と化した。空人が掛けていたサングラスはいつの間にかどこかへ消えていた。カッと開いた眼光は黄金色に輝き海月を捉えていた。その目に映る海月はただの餌だ。
海月の両肩を掴むと、強引に振り向かせた。海月は空人の腕を振り払おうと抵抗した。だが空人の腕は岩のように硬く、ビクともしない。そのまま地面にねじ伏せられ、空人が海月の上へ馬乗りになった。
空人の口が引き裂かれたように大きく開いた。涎が流れ出し糸を引く。その表情は哄笑しているようにも見えた。
空人は咆哮して、海月の制服のシャツを強引に引き裂いた。海月の白く光沢のある柔肌が露出し、下着がはだけた。空人は、丸く盛り上がった海月の下着に手を伸ばし、鷲掴みにした。
「やめて、空人。嫌だ」海月叫んだ。
海月の悲痛の叫びは空人には届かない。虚しくも暗い空に飲み込まれた。空人は躊躇なく下着をはぎ取った。海月は涙を流し観念したように項垂れた。
街灯がスポットライトのように二人を照らす。悲劇の舞台の幕開けだった。
空人は海月の髪を鷲掴みし、海月の頸部が晒した。白く綺麗なデコルテに細く華奢な首が繋がっている。凹凸のない喉の両脇には動脈が通り脈打つ。海月が唾を飲み込んだことが動きでわかる。空人は蛇のように、大きく口を開き狙いを定めた。
その時、空人の脳裏に醜悪に歪んだ自分自身の映像が流れ込んだ。目は血走り左目は黄金に輝いていた。口は大きく引き裂け、肉食獣のように鋭く発達した尖頭歯は糸を引いて、口から顎にかけて汚らしく涎で汚れている。
――僕は何を?
――どうなってるんだ。
――襲おうとしてた?
空人は飛び退いた。
「ごめん」すでに手遅れだと思った。
海月はその場で蹲り、赤子のように声を上げて泣いた。
空人は口元を袖で拭った。袖はべったりと涎で濡れた。空人の表情が強張った。脳裏に映った映像は、紛れもなく自分だと確信した。
――自分の意思じゃない。
――僕じゃない。
――僕を襲った吸血鬼が悪いんだ。そうだよ。僕じゃない。
現実から逃れるために、落としどころを探した。
空人の頬に涙が伝う。日常が崩れる音がした。海月を傷つけた罪悪感が胸に満ちた。
「僕は、どうして……」
空人は自分の両掌を見た。
――あの時、死んでおけばよかったんだ。
そう思った瞬間、激しい頭痛に襲われた。意識がまた急速に闇の奥に落ちていく感覚がした。抵抗し、辛うじて意識を繋ぎ止めるも視界はフラッシュのように白く飛んで何も見えないまま身体が勝手に動き始める。
手の平に暖かく柔らかい感覚が握りこまれた。
――誰か助けてくれ。
叫んだ言葉は獣の唸り声のような音だった。
「やっと見つけたわ。なんて醜態なの」
聞き覚えのある女の声がした。
頭痛が和らぎ、微かに物の影を捉えた。声のする方を仰いだ。あの日意識を失っていた空人の前に現れた少女が民家の屋根の上に立っていた。
少女は袖のないボディスーツに身を包んでいる。黒光りするそのスーツは少女のしなやかなボディラインを強調していた。腰には剣らしきものを二振り佩刀している。月明りで輝く金色の髪が夜風に吹かれなびいた。その佇まいは美しく、死神を彷彿させた。今の空人には救いの神に見えた。
「随分吸血鬼らしくなったわね。吸血鬼ということが自覚できた? それとも、まだ人間ごっこして、その子を傷つける?」
「助けてください……」空人は縋るように懇願した。
「あなたの助けになるか、それはわからないけれど。助けてあげる。どうせあなたも連れていかなければならないし」面倒そうに吐息を吐いた。
少女は軽く屋根を蹴り上げ、高く飛び上がると、足音も立てずに空人と海月の間に降り立った。足音はほんの僅かだった。
間髪入れず空人の鳩尾を蹴りを入れる。
空人はT字路の奥へ吹き飛んだ。五十メートルほど飛んで、ちょうど街灯に照らされて倒れた。それを横目で確認すると、少女は海月の方を振り返った。
海月は破けたシャツの切れ端を拾い、肌を覆った。後ずさりして少女を怪訝そうに見つる。その目に恐怖の色が見える。
少女は鷹揚な足取りで迫り、海月はじりじりと退った。
少女の足取りは早い。海月の背中に冷たく堅牢なものが当たった。いつの間にか、逃げ場のない壁際に追い込まれていた。
「ごめんなさいね」
少女は落ち着きがあり、それでいて無機質な声色で言った。
海月の視界から少女が消える。肌を隠していた腕が頭上に跳ね上がる。直後腹部にズドンと鈍い衝撃が走った。痛みを感じなかった。薄れゆく意識の中少女を見て思い出した。
「白氷さん……」呻くように言った。
少女は顔色を変えない。崩れる落ちる海月を片手で支え、優しく海月を冷たいアスファルトの上に寝かせた。
後ろから理性のない獣が迫る。獣は唸り声を上げ、少女を威嚇した。少女は振り返り、鷹揚とした足取りで獣と化した空人へ歩みを進める。
「安心しなさい。私に人殺しの趣味はないわ。少し眠ってもらったっだけよ」
少女は、ふっ、と息を吐いた。
「さてと――」始めますか。と言わんばかりの口調で言った。
刹那、空人は少女へ飛びかかった。
少女は身体を翻す。
長い金髪が宙で弧を描く。
空人は、背を向けた少女へ手を伸ばす。あと数ミリ、髪が掌をすり抜ける。
少女は回転した勢いのまま、コンバットブーツの踵を内臓を抉るように、空人の腹へ叩き込んだ。
辺りに鈍い音が響いた。少女の脚にも急所を捉えたという手応えがあった。
しかし、顔を歪めたのは空人ではなく少女だった。
空人は蹴りを受け止めていた。少女の脚を握る手の爪は鋭く尖り、少女が身に着けているボディスーツを貫通した。爪は白い肌にまで食い込んだ。
「噓でしょ」少女の表情が微かに歪む。
空人は少女の脚を握ったまま腕を振り上げた。小さく華奢な少女の身体を濡れ雑巾を振るように持ち上げ、そのまま地面に叩きつける。
少女は小さく喘ぐ。三メートルほど水切りの石のように転がる。
横臥する少女は呻き声を漏らした。
空人は一気に距離を詰め、少女の上に覆いか被さった。少女の首を鷲掴みし地面に押し着けた。髪を鷲を鷲掴みし、頭を持ち上げる。少女の頸部が晒される。細く首は青白く肌には光沢があった。そこへ空人が牙を剥く。
「同じ吸血鬼でも餌に見えるってわけ」
空人の力は強かった。少女は必死に抵抗する。空人の首へ右腕をねじ込み、押しのけようと腕に目一杯力を込め振るった。空人は上体を仰け反らせ力を受け流し、瞬時に視認せずに少女の右腕を掴む。顔を擡げると醜悪な笑みを浮かべ少女の腕を頬張った。
空人の牙は、少女のしなやかな皮膚を突き刺した。じんわりと白い肌に血が滲む。少女の表情が痛みに歪んだ。
空人は狂ったように恍惚の表情を浮かべ血を啜った。少女から一滴残らず絞り出すかのように、腕を放そうとしない。
少女は少しの憤りを顔に滲ませた。
「しっかりと味わうことね」
少女は地面に面した腰に腕を回す。佩刀した剣の柄を掴み取ると一気に引き抜いた。
姿を現した短刀の刀身は月の光で青白く、そして鋭く光った。
「あなたは吸血鬼。だから急所を外せば死にはしない」
そう言い放つと、白刃が真一文字に白い光を放った。
光が消え、ほんの僅かに冷たい金属音が遅れて聞こえた。
空人の顎の筋肉が切り離されていた。下顎はぶらりと上あごにぶら下がっていた。
少女はすかさず空人を蹴り飛ばす。
少女はすぐに態勢を整えた。地面に左腕を着く、辺りに冷気が立ち込める。瞬時に地面が凍りついていく。氷は木の根の仰臥する空人へ伸びていく。
空人は好転し、自らを捉えようとする氷を躱す。
氷はどこまでも空人を追跡する。それを機敏に空人は躱す。少女はそのたびに舌打ちをした。
氷は標的の左右に壁を作り、壁際に追い詰める。逃げ場を失った空人は民家より高く飛びあがる。氷は一瞬動きを止めた。空人はそれを確認すると嬉しそうに奇声上げた。
「甘いわね」
そう呟いた瞬間。氷は塔のように高く伸びた。フラッシュのように一瞬だった。空人は身を捩じって躱す。
氷は蛇のように捻じれ、変幻自在にいつまでも空人を追い続ける。
「ちょこまかと」少女は舌打ちの聞こえそうな声で言った。
氷は動きを変え、木の枝のように、幾多にも分岐した。空人が着地するとすかさず、彼の行く手を塞ぐように氷の牢獄を築いた。
追い詰められた空人は後ろに迫る迫る氷塊を左腕で受け止めた。
「かかったわね。氷の手錠」
少女が言った途端、空人の左腕が一瞬にして氷に飲み込まれた。
「捕らえたわ」
空人は獣のように呻いた。左手を引き抜こうと右腕で氷に触れる。触れた瞬間指先から氷の根が張り一瞬にして右腕を飲み込んだ。気がつけば地面に蔓延った氷の根が、両足を飲み込んでいた。
空人を捕えた氷は空人を押しつぶすようにして、地面に彼をうつ伏せにして張り付けた。そうして氷塊は空人の手足だけを凍らせて、花のように散って消えた。
空人は尚身をよじった。
「知っているかしら。あなたのその目、龍の目って言われているの。私も見るのは初めて」
少女は勝利を確信したように余裕のある足取りで歩みを進める。空人に噛みつかれた右腕を腰に回しもう一振りの短剣を引き抜いた。白刃が冷たい音を立ててその刀身を現す。少女の腕に血の跡は残るものの空人に噛みつかれた牙の跡は無かった。
空人は狼狽した様子で少女を見た。追い詰められた彼は強引に氷を引き剥がそうと悶える。
「無駄よ。やめなさい」
少女の言葉は空人に届かず、彼は腕に力を込めた。腕は糸を張るようにピンと伸び、次に骨が外れる音がした。木の皮を剥がすような音がして皮膚が破け始めた。その隙間から筋肉の繊維が断裂していく様子が見えた。
なにを、と少女は声を漏らす。大きな目は一層大きく剥かれた。
腕の筋繊維がブチブチと千切れ、白い骨が露になった。最後の筋繊維が切れた瞬間、空人の上腕と前腕が切り離された。伸びた皮膚が断面にぶら下がり、血が滝のように流れた。
空人の不敵な笑みを見て、少女は愕然とした。
一拍置いて少女は我に返る。却ってやりやすくなった、と思った。
少女は短剣を握り直し、空人に向かって駆けた。
空人は迫る少女へ千切れた腕の断面を向けた。腕の裂け目からは夥しい血飛沫が噴き出した。
少女は咄嗟に顔を覆う。その瞬間、少女の両腕の隙間に何者かの腕が差し込まれた。その腕は少女の首を掴み強い力で首を締めた。
少女の目は血で汚れている。敵の姿が見えないままに少女のつま先が地面から放れた。
空人はすかさず少女を壁に叩きつけた。少女は小さく苦痛の声を漏らし地面に落ちる。少女はぐったりと、まるで投げ捨てられたぼろ雑巾のように地面に横臥した。
一拍置いて咳払いを一つ、そうして少女は起き上がった。
「自分の血液を目つぶしにするとはね」
少女は舌打ちの聞こえそうな声で言った。
少女は立ち上がるが、よろめいてその身体を壁に預ける。顔に付着した血液を拭って目を開く。視界は乱れ地面は波打ち、目が対象の姿を捉えていても、それが何なのか認識できない。
少しの時間が経ち、焦点が合い始める。目に映った空人を見て少女の表情が凍った。
「腕が――」
空人は咆哮した。その姿は五体満足。失われたはずの腕が再生していた。少女は氷塊に目をやる。氷塊の中に切り離された腕がまだあることを横目で確認した。
――ということ。空人の腕は、新たに形成されたということだ。
「ありえない。普通の吸血鬼ならこんな短時間で再生しない。腕の接合ならまだしも再生だなんて、こんな赤ん坊にはできない。普通なら再生に一日。いいえ三日はかかるかもしれないわ」
空人は少女を尻目に右腕を振り上げた。少女は息を呑んでそれを見守った。空人の振り上げた腕は自身の両脚に目掛けて振り下ろされた。鈍い衝撃音と液体が飛び散る音がした。両脚が切り離され上体を支えるものが無くなった上半身は重力のまま、前のめりに落下し始めたが、次の瞬間には脚が再生して、身体を持ち上げていた。
「噓でしょ……」少女は言葉を失った。
空人は少女の戦々恐々とした表情を見て、嘲るように甲高い声で哄笑した。その表情は狂気に満ちていた。
空人は奇怪な唸り声を上げて、少女に飛びかる。少女は二本の短剣で空人の拳を受け止めた。
空人は短剣の刃を握りこみ少女から奪おうと力を込める。彼の掌には刃が食い込み、血が滴り始めた。
「なんて力」
少女は刃を引き抜き空人の指を切り飛ばした。即座に脇に飛び込み、脇腹に一太刀。脇から通り抜けると、たたらを踏む彼の背中へもう一太刀浴びせた。
空人から距離をとる。空人は声一つ上げなかった。
少女を振り返る空人の表情は全身に怖気が走るほど、禍々しく歪んでいた。
空人の開いた傷はみるみるうちにうちに癒えていく。
少女は眉を歪め舌打ちした。
「クソッ」
空人は少女の悔しそうな表情を見て嘲るようにケラケラと笑った。ひどく不快な声だ。
空人は大胆不敵な様子で、少女へ悠々と足を進めた。
少女は憤った様子で空人を見据えた。
「あまり深手を負わせたくはなかったんだけど、大人しくしてくれないものはしかたないわ」
少女が終えた時には、空人は地面を舐めていた。空人自身何が起こったのか理解できない様子で藻掻く。彼の両脚が欠損している。両脚は氷漬けの状態で彼のすぐ後ろに直立していた。
欠損した部分が再生しない。なぜなら両足の切断面が氷に覆われているからだ。
「さっきも言ったけれど。急所を外せば死にはしない、だから半殺しにさせてもらうわ」
少女は両腕に持つ短剣を収めた。腕をゆっくりと天に掲げる。握られた拳を開き空を支えるように掌を開いた。少女の周辺に冷気が渦巻きはじめ、辺り気温が急激に落ち込んだ。冬の朝のように霧が立ち込め、掲げた掌に吸い寄せられるように螺旋を描いた。嵐に風が吹き荒れ、雪が混ざり始めた。
少女の姿は完全に雪風巻の中に消えた。雪風巻の螺旋が最大に達した時、一瞬にして嵐が消えた。ようやく姿を現した少女の頭上には、槍のようなの氷が無数に浮遊していた。
「赤い花を咲かせなさい」掲げた腕を振り下ろした。
氷の槍はまるで意思があるかのように一斉に空人に向かって飛び交う。氷の槍は互いに接触し、金属が擦れるような高い音を反響させた。
空人は腕だけで体躯を支えて飛び上がった。
「無駄よ」
少女が人差し指を突き立てた。人差し指を糸を引くように、くいっ、と持ち上げると氷は瞬時に軌道を変え、上空で自由落下する空人へ標準を定めた。
空人は自身に向かって、飛んでくる氷の槍を弾いた。
それも最初の数本だけで、雨のように降りかかる氷の槍が空人を貫いた。
空人は鈍い音を立ててアスファルトへ落下した。
氷の槍は、止むことなく雨のように空人の身体に降り注ぐ。空人の身体は針の筵へと化していく。青光りした氷は返り血を浴びて紅く染った。まるで幾重にも花弁をつけた花のようだ。
「針千本:千重咲」
空人は苦痛の声を上げる間もなく動かなくなった。
辺りには空人の血液が散乱していた。その中心に空人が凄惨な姿で突っ伏していた。原型は殆ど留めていなかった。
空人を貫いた氷は少女が指を鳴らすと、砂のようにさらさらと散り桜吹雪のように風に流され、消えた。
「やりすぎたかしらね」少女は吐息を吐いてようやく無機質な表情に戻った。
少女は鷹揚とした足取りで空人に近づくと傍らにしゃがんだ。空人の顔に手を伸ばし瞼を持ち上る。空人の瞳の色は深い茶色だった。顔に手を翳し瞳孔を確認する。瞳孔は光に反応して伸縮した。
生きていることを確認すると、少女はふっと吐息を吐いた。そうして空人を氷で覆い小さな肩に乗せた。
少し離れたところで倒れている海月を空いた肩に担ぐと、高く飛び上がった。
少女は夜の闇に消えていった。




