プロローグ
辺りは永遠に続く闇。灯りは無く、空は暗雲に覆われている。
風が吹き荒れ横殴りの雨が降る。闇の中で化け物蠢く。そう感じるほど、草木が激しく踊る。雨は木々を殴打し、地面に当たっては弾ける音が響いた。
人の手が入っていない樹海。当然木々に手入れされた痕跡もなければ人の通る道もない。あるのは獣道。
生い茂る下草が揺れた。雨風のせいではない。下草をかき分ける人影がそこに一つあった。真っ白な肌をした少年だ。少年の白い肌は、所々赤く血が滲み赤く染まっている。服は使い古された雑巾のように汚れ、引き裂けている。
服の裂け目から除く少年の腕は大きく、そして深く引き裂け、更に片方の足はひしゃげて曲がっている。その足は使い物にはならず、少年は厄介な荷物を抱えるように引きずる。度々、雷に打たれるような痛みが全身に走る。それでも少年は足を止める様子はない。
――早く早く。
少年の心は焦る。足を前へ、また前へ踏み出す。踏みしめるたびに軋む脚。気を抜けば簡単に、ぬかるみに足を取られて転げてしまう。そうなった時、まるで小枝が折れるようにポッキリと心が折れてしまうだろう。
少年は道なき道を進み続けた。
「どうして、僕が」少年は痛み、苦しみを含んだ言葉を溢した。
暗闇は不安を植え付け、希望すら抱かせない。風は少年の肌を削り、天は容赦がなかった。針のように細い雨が傷だらけの身体に降り注ぐ。雨粒が肌に刺さるたび、雨粒が赤く染まり流れる。雨は視界を妨げ、少年の心の深くをしくしくと突き刺した。少年は心身ともに満身創痍だ。
それでも、足を止めることは許されない理由が少年にはある。
「死にたくない……」自分に言い聞かせるように、喘いだ。
少年は数時間、闇の中を歩き続ける。下草を分け、道なき道を切り開いていく。
やがて雨は緩やかになり、少年の血を優しく洗い流した。そうしてようやく雨が止んだ。替わりに濃い霧が立ち込め、辺り覆った。霧は少年の視界を奪ったが、安心感を与えた。身を隠すには好都合だと少年は思った。
辺りは静まり返っていた。水滴が滴る音と足を引きずる音が聞こえた。
辺りに少年以外の人の気配は一つもない。
――ここまで来れば。と少年は胸を撫で下ろした。
目の前には、霧で全長が見えないほどの巨木が屹立していた。樹齢数百年は優にあろう立派な木だ。この巨木の陰なら自らの姿も隠せるだろうと考え、少年は太い幹に体を預けた。
大勢の鳥の羽音が音がした。
「緊縛魔術展開」
霧の向こうから男の声が響いた。
全身に稲妻のような戦慄が走った。
少年は痛みを忘れ、反射的に立ち上がった。全身の五感をフル稼働させ、辺りの様子を伺った。人の気配は感じられない。声の主は完全に気配を断っていた。少年は急いでその場を離れようと、ひしゃげた足で地面を蹴ろうとした。直後激痛が走った。ひしゃげた足では、自らを支えることができず、少年は地を舐めた。すぐに立ち上がろうと泥水の上で藻掻いた。
その時、地面が赤く閃光した。眩い光に少年は、強く瞼を閉じた。瞼の裏にまで赤い光が差し込む。再び瞼の裏が闇に戻ると、少年はゆっくりと瞼を開いた。薄っすらと穏やかな赤い光が見えた。それは少年を中心に円を描いていた。差し渡し二メートルほどの正円が地面に刻まれていた。
少年は息を呑み、赤い円に視線を落とした。
赤い円状の線は強く輝きを発した。同時に音もなく立体的に直上し、半透明の赤い円柱へと形態を変えた。少年は半透明の円柱に触れた。触れた瞬間人差し指から煙が立ち上る。人差し指の第一関節が鋭利な刃物で切り取られたように、すっぽりと消し飛んでいた。傷口は焼けて塞がっていた。少年は痛みを忘れ消し飛んだ指を見ていた。
少年は遅れてやってきた痛みに叫び声を上げ、地面に膝を突いた。その叫び声が合図だったかのように木々の間からぬるりと、白いローブに身を包んだ人影が次々と姿を現した。
円の周りを取り囲むように。七つの白い影が並んだ。遅れて一つの影が現れ円を囲んだ。
その人物は白いローブにシルバーの装飾が施されてる。
「結界に触れたか」
シルバーの装飾を施された白いローブを纏った人物が言った。男の声だ。その男一人だけがローブに装飾されていることからリーダーだと伺えた。その男が手をあげると、白いローブに身を包む者の全員が、跪き両手を組んだ。両手の小指を立て、手印を結ぶ。白いローブの者たちは、ボソボソと何かを詠唱し始めた。詠唱と共に結界の中では、再び赤い光が線を描き始める。線は地面を焼くように徐々に伸び、線同士を紡いでいく。
やがて赤い線は、八芒星を描き出した。
「緊縛魔術完成式:罪と罰」
リーダーの男が声を高々と上げた。突如少年の体が反り返り、折れ曲がりそうなほどアーチを描いいた。少年の身体はそこで硬直した。少年は痛みで呻き声を上げた。その痛みから逃れようと抵抗をしたが、小指一本すら動かすことはできなかった。抵抗むなしく、苦しんでいる間に少年の身体が宙に浮いた。気がつけば十字架に貼り付けられているかのように、手足は固定された。
八芒星の八つの頂点から、金属音と共に何かが飛び出した。それは重く冷たそうな鎖だ。鎖は擦れ合い甲高い音を立て、蛇のように俊敏に地面を這った。泥を跳ね上げながら地面を這い、噛みつくように飛び上がった。そうして、少年の首や四肢に巻きついた。
次の瞬間には、少年は首以外全てが鎖に覆われていた。
少年の手足に巻き付いた鎖は、胴に向かって巻きつくと、肉をねじ切るほど強く、手足を締め付けた。
何とか抜け出そうと抵抗する。だが抵抗するほど巻きついた鎖は更に締め付ける強さを増した。
四肢が砕け始めた頃、痛みで少年の意識は朦朧とした。
「どうして僕たちが殺されないといけないんだ。ただ生きたいだけなのに」
今にも消えそうな意識の中、少年は辛うじて意識を繋いでいた。今にも途絶えそうなか細い声で言った。
「俺やお前たちの存在が罪なのだ。俺は俺の命を全て燃やしてお前を封じる」男は声高々に言った。
少年の耳にそれは届かなかった。
男は少年を見上げていた。ローブから覗かせた目は鉄のように冷たく、それでいて無機質だ。ただ黄金色の光を微弱に発し、少年を軽蔑するように傍観していた。
地面は何でも飲み込みそうな沼のように液状化していた。鎖は少年の身体を地面に叩きつけると、ゆっくり液状化した冷たい地面へと引きずりこんでいく。
少年は朦朧とした意識の中危機を感じた。逃げなくてはいけない。と思う気持ちと、どうでもいいという諦めの気持ちが鬩ぎ合い均衡した。手足が潰れ、神経が働かなくなったせいか、少年はすでに痛みを感じていない。むしろ感覚がない。文字通り虫の息。絶命寸前といったところだ。
少年の身体が腹部まで埋まった頃、ついに少年の心が折れ、意識は闇に溶け込んで消えた。
それから数分のうちに少年の体は肩まで地面に飲み込まれた。
白いローブに身を包んだ者全員が、ようやく終わりだと気を抜いていた。その刹那、稲妻が落ちた。この場にいる全員が、そんな感覚を彷彿とさせた。戦慄が樹海の隅まで疾走した。木々の上で眠っていたであろう無数の鳥達が地面に降り注いだ。一歩でも動けば死を予期させる緊張感が辺りを支配した。
先ほどまでぐったりと、首を落としていた少年の目は大きく剥かていた。その目は黄金色に輝いてた。少年の龍の如き剣幕は、その場にいる全員を圧倒した。
その形相は先ほどの気弱そうな少年のものではなかった。実際、姿形そのものが少年とは異なっていた。眼力は妖刀のように鋭く、雨で垂れた髪は重力に逆らって、逆立っていた。年齢も十は老けていた。
「裏切者め」
少年だったものは、低い声で一言そう言った。そうして、土の中へその姿を消した。最後まで少年であったものは憤怒の炎を目に宿し、眼光を尖らせていた。
少年が消えると、地面は何事も無かったかのように下草が生い茂った地面に戻った。
結界は地面に溶け込むように消え、八芒星は大きく広がるようにして消えた。
再び辺りは闇に返った。静寂が宙を漂い、辺りに飛び交っていた殺気は消えた。
静寂を裂くように鳥の羽の音がして、緊張の糸がほどけた。その場にいた全員が安堵の声を漏らした。
「歴史の始まりだ」
リーダーの男は、その場の全員に向かって声を上げた。それに応えるように、その場にいた全員が大声を上げて戦いの終わりを告げた。
そうして、まだ開けない闇の中へ、白い影はは溶けて消えた。
その後、吸血鬼は駆逐され、破滅の一途を辿っていった。
史実ではそう語られた。