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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

メロー・リトル・チューン

作者: Michio Tanimura

その頃僕は、アイウェアを扱う輸入代理店の広報室にいた。

よく覚えているのは、凛南というモデルのことである。彼女は透き通るような白い肌と、目鼻立ちの整いと、長身痩躯とを併せ持った、いかにもモデル然とした女であった。加えて僕は、彼女と過ごした一季節を胸の詰まりそうな感慨とともに思い出さずにはいられない。


五月の半ばのことであった。広告代理店から宣伝用映像のモデルリストが手元に届いた。プロモーションビデオやホームページに用いる映像製作を担当していた僕は、あらかじめ諸々の条件を提示していた。封を切り、ぺらぺらとリストをめくっていると、芹澤凛南という名前の前でふと立ち止まった。その理由は、写真から与えられる印象というより、H大学法学部卒という経歴にあった。何故、国立大学屈指の法学部で法律を専攻した美貌の才媛が、それも現に売れているモデルが、オーディションを受けてまでメジャーとは言いがたい仕事に応募したのか?そのような疑念が突然頭をよぎり、僕の心の中の曖昧なベクトルがそのとき、ある大きさと方向を持つようになった。広報室の定例ミーティングで候補は三人に絞られたが、凛南は当然の様にその中に残った。

夕焼けが、青山の街並みを窓外に美しく映し出し、五月も終わりに近づいた、暑い程の、夕方であった。僕は少しの緊張と捕らえがたい期待とともに時間を待った。突然、机上の電話が内線と判る、呼び出し音を鳴らした。広報室長と担当の部下と僕の三人が応接室に並んで座わると、モデル事務所のマネージャーが最初に凛南を部屋に入れた。凛南は百七十センチを上回る身長に、華奢で長い手足と小さな顔を持っていた。不機嫌な、不満げな表情にどこか陰があった。目元からシャープに立ち上がる切れ長な二重まぶたは知性を感じさせ、鼻梁は細面の顔に少し高すぎるほどに整い、口は比較的小さく、上品さを感じさせた。あまり運動はしていないことがふくらはぎの筋肉から見て取れた。こんな美形はモデルの世界でも珍しい。僕は何か訝しく思った。面接が始まると、広報室長がはしゃいだ子供のように奇抜な質問を浴びせ、僕はかなり辟易したことを記憶している。


僕が凛南と初めて会話らしい会話を交わしたのは、雑誌広告の写真撮影のときだった。最終審査で凛南の採用が決定して間もなく、会社から程近い、表参道を少し入ったスタジオでその撮影は行われた。サングラスや様々な眼鏡をかけた凛南は、身体を構成するひとつひとつの要素が調和し、物的なまでに完全であった。そしてアップの表情は殊のほか理智的でもあった。

その日の夕方、撮影取りが終わると僕は、凛南を外苑前の寿司屋に誘った。


「今日は付き合ってもらってなんだか悪いね」

「私、お寿司が大好きなんです。今日はオーディションもないし、すごく嬉しいんです」

「モデルさんって、契約のとき、必ずオーディション受けるの?」

「半々ぐらいです。書類審査だけで採用してくださるクライアントさんと、どうしてもオーディションを受けなきゃなんないクライアントさんがあるんです」

「うちの会社は、“どうしても”のほうか・・・で、なんでまたうちの会社なんか受ける気になったの?」

「私、目が悪くてコンタクトしてるんです。でも本当はおしゃれな眼鏡がかけたいんです。受かったら、カッコいいの頂けるかなって思って・・・」

「そうか、じゃ今度、気に入ったやつ、プレゼントするよ」

寿司が来た。僕たちはもう一度ビールで乾杯して、寿司を頬張った。

「私、貝が苦手なんです」

「へぇー、珍しいね。ホタテや赤貝なんかうまいじゃない」

「なんかフニャフニャしてて・・・それから、実家が長野だから、小さいころからお寿司ってそんな食べてないんです。だからお寿司に関しては全然グルメじゃないですよ」


僕がそのときの会話から記憶しているのは、彼女が三軒茶屋の賃貸マンションに住み、湘南海岸と多摩川縁が好きだということだった。その頃僕は茅ヶ崎に小さな家を建てたばかりで、家内と二人の子供がいた。帰り際に彼女は携帯の番号とメールアドレスを教えてくれた。




月が変わり、最初の金曜のことだった。僕はその日車で出勤していたので、何気なく凛南を夕食に誘った。その日凛南は友人の誕生パーティに呼ばれていて、一次会が退ける九時以降なら会えると言っていた。僕は軽い夕食を会社で済ませ、銀座一丁目で凛南を待った。

ちょうど正確に時計の針が九時を指したとき、携帯の呼び出し音が静かに鳴った。

「はい、篠原です」

「芹澤です。今地下鉄の銀座一丁目のほうに歩いています。どの辺にいますか?」

「こちらからは確認できたよ。目の前だ。今迎えに行く」車のドアを開けると、向こう側で、凛南が手を振って歩いてきた。ほとんどしらふで、むしろ疲れているような印象を与えた。

「いっぱい食べた?」

「もうおなかいっぱい。でも今日はそんなに飲んでないんですよ。」

「そう、じゃ少し話でもしようか」

凛南は車に乗り込んでも何もいわず、銀座の街並みを眺めていた。

首都高速を三宅坂で降り、ニューオータニの最上階のバーに僕たちは入った。窓の外には臨海副都心までつながる東京の夜景があった。

「今日は車だからペリエ、凛南ちゃんはなんにする?」

「私、フローズンマルガリータにします、篠原さん飲まないんですか?」その問いかけに僕は、曖昧な許容のようなものを感じた。

「そうだね、ビール飲むよ」

ウェイターに注文を告げると、凛南は焦点の合わない目で、夜景を見詰めた。

「渋谷はどこですか?」凛南は目を細めて、突然言った。

「あの大きなビル、青山通りのまっすぐ先の、あの辺だよ」僕は答えた。

「じゃあ三軒茶屋は案外近いんですね」

「帰ろうと思ったら、タクシーで二十分ぐらいかな、近いんだからゆっくり飲もうよ」

凛南は、何もいわずに三軒茶屋の方向をじっと見ていた。飲み物が来た。手にグラスを持つと、凛南の左手でもったグラスがカチンと当たった。目に、眠気とも疲労とも取れる、微動があった。

「今日のパーティはどうだった?」

「前から誘われてた会だから、つきあっただけ。みんな、にこにこして出てるけど、半分はお付き合いですよ」

「社会っていうのは、そういうもんじゃないの、特にモデルの世界は・・・」

「私、モデルって仕事が嫌いなんです」凛南は穀然といった。

「根っから仕事が好きな奴なんて、僕の知る限りは一人だっていないよ」

凛南は相変わらず、眼下を見詰めていた。

僕は彼女の気持ちを忖度する気もなく、さりとて持論を展開する力もなく、唯ぼんやりと凛南の見ている夜の街を見た。幾らかの静かな時が流れた。


「私、もう一杯頂いていいですか?」

「俺も頼むよ」

時間という奇妙な量は、決して多くの会話を待たずに前へと進んだ。凛南は少し酔っていた。

「帰ろうか?送ってくよ」

「いいんですよ。一人で帰りますから」凛南は、そう蓮葉に言って席を立った。

エレベーターに乗り、駐車場のあるB2を押すと凛南と僕はゆっくりと降下した。僕は途中で十七階を押した。程なく扉が開いた。

「お茶でも飲んでいかない?」僕は努めて他意のない気持ちを含めて凛南を誘った。

「じゃあ、少しだけお邪魔しよっかな・・・」


部屋に入ると僕はジャケットを脱いだ。それを後ろから入ってきた凛南が自然に受け取り、ラックのハンガーにかけた。窓際の応接セットに座り、僕はビールを、凛南はミネラルウォーターを飲んだ。夜は更けていた。夜景の勢いの衰えがそれを端的に示していた。

僕は凛南の後ろに回り、彼女の肩を両手で抱いた。しばらくの間、凛南は凍りついたように、動かなかった。頬から、唇にかけてキスすると、細長い手が僕の首の後ろに回り、柔らかく、混濁した感覚が覆った。まだ、少し硬い果実のような匂いがした。

凛南はあけっぴろげだった。それほど酔っているとは思えなかったが、その力を借りて僕に挑むかのように躍動した。脚から背中にかけた筋肉、腕から肩に至る筋肉、そして腹筋・・・その全てが連動した、一定のリズムを刻み、僕は彼女の力の中で青白い光を見た。


翌朝、目を覚ますと、凛奈の姿は既になかった。ただ、彼女の微かな体温だけが横たわっていた。




すがすがしい太陽の日々は続き、花々は咲き誇った。初夏の到来を僕は思った。しかし、六月も半ばにかかると、朝夕に二度三度、驟雨が渡った。


土曜の朝は波さえあれば海へ行った。茅ヶ崎の朝の海岸はサーファーたちでいっぱいになる。シーガルを着るのが面倒になるくらい太陽は地平線を強く登った。波際からジャンプスルーし、パドリングで沖へ出ると江ノ島がいつもより近くに見えた。空気は澄んでいた。波はそれほど高くはなかったが、何度か形のいい波を待って、スラロームを繰り替えした。少し息をつき、波を待って沖を見詰めると、段々と大きな波が盛り上がった。すかさず、力いっぱいのパドリングからスロープに追いつき、テイクオフすると同時に左から大きくスラロームを始めた。波間では誰もが無心になる・・・岸が近づきカットバックしようとした瞬間、突然後方にバランスを失い、ワイプアウトした。そのとき僕は、年齢というものに脚をすくわれたような気がした。少し冷たいシャローから、再び沖へと向かう気持ちは萎え、浜辺に腰を下ろして遠くを眺めた。伊豆大島が霞んで見えた。


凛南はどうしているのだろうか・・・あの週末から二週間が経っていた。その間僕たちはメールで世間話をすることはあっても、決して会うことはなかった。何故だろうか?どちらからも、「会いたい」という言葉はなかった。僕はなんだか嫌な気持ちになり、海を後にした。

家に帰り、シャワーを浴びると僕はベッドに横になった。心地よいけだるさが緩慢に体の感覚を遠ざけ、薄っすらと僕は眠った・・・

目を覚ますと、まだ午前の太陽が窓際から差していた。携帯をみると十一時五分という時間表示とともに、メール受信があった。凛南からだった。

『お久しぶりです。お元気ですか?急にメールがしたくなって、休日とは知りながら送っちゃいました。どーしてますか???RINA』

僕は冷たい感激というようなものに浸った。海の軽い疲労はすっかり取れ、等しい浸透圧をもって、凛南がすっと体の中に入ってきたような気がした。僕は躊躇せずに返事をした。

『一時半頃に渋谷で会えないかな?ちょうどいい湘南新宿ラインがあるから・・・なんか久しぶりに話したいな、SINOHARA』


二階のダイニングに上がっていくと、子供たちは家内とともに近くの公園に出かけたらしかった。皿に盛ってあるクロワッサンと冷めたスクランブルエッグを、コーヒーとともに口にした。窓外は初夏の陽気がすがすがしく、隣家の前庭の植物群が様々な原色に萌えていた。僕はコーヒーをすすりながら、ベランダに出て沢山の太陽を浴びた。ここには海と緑に囲まれた、一見幸福な家庭がある。しかし、何故、これほどまでに凛南に惹かれるのか?

そんなことが頭をよぎった刹那、携帯にメールの着信があった。

『凛南です。十五分ぐらい遅れそうだけど、渋谷に着いたら電話します・・・では、では。』


携帯を閉じると、ベランダから降り、食べかけの朝食の載ったテーブルを素通りし、階下に降りて服を着替えた。



湘南新宿ラインの途中で、ふと思いつき、僕はセルリアンのツインを予約した。電車の中は若い男女が多く、横須賀線の線路を走っているせいか、いつもとは大分景色が違って見えた。いつの間にか見たことのない新しいビルや建設中の高層マンションが次々と現れた。こうして東京郊外の人口はリング状の増加を続け、朝晩に都心へと流れる濁流は衰えるところを知らないのだ。そんな考えが体中に纏わりついた。凛南・・・彼女はこのどろどろとした生活という粘性から僕を解き放ってくれる存在なのだ。そして今まさに、僕は彼女へと向かっているではないか・・・


渋谷の街は土曜の午後の喧騒に満ちていた。交差点をわたり、セルリアンタワーへと南平台方面にゆっくりと歩いた。ロビーフロアのラウンジでコーヒーをオーダーすると、凛南へと意識は傾斜し始めた。時計を見るとちょうど一時半だった。

やがて電話が鳴った。

「篠原です。」

「凛南です。いま渋谷の改札です。どこですか?」

「セルリアンのラウンジの一階でコーヒーを飲んでいる。こいよ。」

「セルリアンって、ホテルですか?」

「そう、セルリアンタワーが東急プラザの後ろ側に見えるだろう。そこの一階、一時間でも待ってるよ」

「じゃあ、一時間待っててください」

凛南の電話はプツリと切れた。五分で来る・・・コーヒーが安堵を与え、心の中に形のある期待が芽生えた。


凛南が来たのは二時を回っていた。電話が切れてしばらくしても何故か凛南は現れなかった。次第に僕の心は揺れていた。時間は恐ろしくゆっくりと進み、それと対称をなすように焦燥は募った。僕は考えた。何故こんなにも動揺するのだろうか、と。凛南は来るに決まっている。少なくとも一時間後には来る。この絶対的な事実が時間の経過とともにある重量に変わっていった。そして、その重量が疲労に変わったころ、凛南はひょうひょうと現れた。

「ごめんなさい、おそくなって。この前ご馳走になったからプレゼント持ってきたんです」

「あれは会社の金だよ。領収書もらってたの見なかった・・・?交際費だよ」

「そうですか・・・でもご馳走になったことには変わりはないから、これどうぞ」

そういって、凛南は紙包みを渡した。

「あけていい?」凛南は頷いた。

包みを開けると、マドレーヌが五個入っていた。

「これどうしたの?」

「篠原さんの声、聞いたら、やっぱ差し上げようって思って、三軒茶屋まで戻ったんです」

「そうだったのか。凛南ちゃんが焼いたの?」

凛南は何も言わずに首を縦に振った。

僕は、少しのため息をゆっくりと漏らしながら、そこはかとないやさしさを思った。そして自らの疲労をくだらなく思った。

「コーヒーでいい?」

「はい」凛南は明瞭に答えた。


コーヒーをすすりながら、僕はサーフィンの話しをした。きょう唯一度乗ることのできた、あの大きな波のスロープでテイクオフした瞬間の、透き通った希望のようなものを言葉にならない言葉で凛南に語った。

渋谷と茅ヶ崎という距離感、そして午前の海と午後の都会との距離感が不思議に僕たちを引き寄せる感覚となって、言葉の上を走っていった。

「凛南、いっしょにいよう。部屋を取ってある」僕は突然切り出した。大きな波をパドリングで捕らえようとするように。

「きょうは・・・」それっきり凛南はだまった。何故黙ったのか?しかし、それは明確な拒否ではなかった・・・しばらくの気まずい空気のあと、凛南は言った。

「ねえ、篠原さん、好きなお花ありますか?」

「そうだね、サルスベリかな」凛南はきょとんとした。

僕はポケットからペンを取り出し、“百日紅”とコースターの裏に書いた。

「そんな字を充てるんですか、なんか素敵ですね」

「夏の間、ずっと咲いてるんだ。赤いっていうか、濃いピンク色の花が。夏に咲く花はいいよ。僕は桜なんかより、真夏の空の下で、青い芝生の縁にある、花をつけたサルスベリをずっと好むよ。」

「ご自宅にあるんですか?」

「あるよ。いい花だ。咲き始めたら、見にきなよ。凛南ちゃん、花が好きなの?」

「好きですよ。それより篠原さんがお花のこと好きなのか知りたかったんです」

「僕は、花のことはあまり知らないな。唯美しいという意味で好きなんだと思うよ」

「篠原さんは美学でも専攻されたんですか?」

「専攻って?大学のこと?」

「そうです。わたしのことはバレてますから差し支えなければ教えてください」

「哲学だよ。“人間の条件”を書いた、ハンナ・アーレントを勉強した。でも今は、いきたいところに就職できずに、こんなことをしているよ」僕は自嘲した。

「そうですか、名前は聞いたことあります。でも私、哲学は苦手なんです。法哲学ってさっぱり分かんなかったな。」

「ハンナ・アーレントは政治哲学だよ。あれはナチスなんかから始まった人だ。哲学は法律と違って、もう少し浮世離れした学問だな」」

凛南は口に手を当てて笑った。

「僕だって哲学が得意だったら大学に残ってたよ」

「私は・・・いえ、なんでもないです」

「凛南ちゃんは法律だろ。サークルの同期にいたけど、図書館で猛勉強してたな」

「私はようやく卒業できた口ですよ・・・」

「法律なら就職はいっぱいあったんじゃない?」

「そうですね、私、商社とかに入って男の人に使われるのがやだったんです。モデルはバイトでやってた続きです」

「凛南ちゃんみたいに綺麗でスタイルのいい子なら、モデルでいいと思うし僕も助かる。だけど法律でも良かったっていうところがすごいよ」凛南は何故かいつもの不機嫌そうな影を濃くした。

少しの後、「私、今日は失礼します」といって凛南は突然席を立った。


「凛南ちゃん、さっき言ったことはなかったことにしてくれない。そんな気で誘ったんじゃないんだよ。ゆっくりと話をしたかっただけだから・・・」

「本当にゆっくり話すだけだったら、いきます」凛南は考えた後、屹然と言った。


セルリアンのエレベーターをあがりながら、僕は努めて冷静であろうと心に誓った。凛南は三軒茶屋の方をうつむき加減に眺めていた。やがて、四十一階に止まった。僕は凛南を促しフロアに降りた。1407号室は南に面していた。カードを差すとカチッという電子音がし、キーがあいた。凛南はその音に少し怯えたような表情をした。

僕は冷蔵庫からミネラルウォーターを二つ取り出し、東京の南の果てを見た。お台場から羽田空港にかけ、霞んだ空の中を航空機が次々と着陸する様子が見えた。凛南は黙って僕の隣で、じっと空の一点を見つめていた。その一点が何であるのか、僕には皆目見当がつかなかった。唯、その眩しそうな眼をした横顔がこの上なく美しかった。凛南のあごにそっと手を当て、抱きしめた。

「どこを見ていたの?」

「篠原さんの心の中です」

「何が見えた?」

「わかんない・・・」

「それじゃ僕からゆっくり話すよ」僕は凛南をベットに横たえた。その途端、彼女は僕からするりとすり抜け、隣のベッドに飛び乗った。そして、こちらを向いて正座しながら、怒った眼でじっと睨んだ。

「きょうはゆっくり話すだけって、約束したじゃないですか」

僕は黙った。何の言い訳があるだろうか?

「何もいわないのは卑怯です。私は、篠原さんが好きな、赤い花じゃいけないんですか?」

「すまなかった。確かに約束を破ったのは僕だ。言い訳がましいが、やはり凛南が本当に好きなんだ」

「本当ってどういう意味ですか?何もかも捨てられるんですか?」

「捨ててもいいと思ってるから、今ここにいる・・・今日は悪かった・・・今日は帰ろう」そう言って、衣服を直し、凛南を促した。

廊下に出ると、凛南は下を向いたままついてきた。エレベーターの前でフロント階のインジケーターに触れようとしたとき、凛南は僕の左腕を両手で引っ張り、ついには床にうずくまった。

「凛南、どうした?」

凛南は涙をいっぱいにため、部屋へと僕をいざなった。

「これから戻ってどうするんだ・・・気持ちは分かったから今日は帰ろう」

凛南はそれでも手を離さなかった。僕は凛南を引き寄せて人目をはばからず、抱きしめた。

「きょうは帰ろう、その方が僕たちのためにいい。きっと連絡する。きっとだ」

凛南の涙をハンカチで拭いてやると、凛南は悲しげに僕を見詰めた。




茅ヶ崎から江ノ島まで、道は海沿いに真直ぐに続く。幼時から日毎に見てきたこの光景は、僕にはほとんど変わらないもののように思えたが、そのことはおそらく僕の原景回帰願望に似た心情に由来しているように思える。一年中サーファーが波に乗り、夏には灼熱の太陽が夥しいほどに光を降り注ぎ、冬は穏やかな晴天の毎日が続く。この辺りは風景を漠然と見る限り、よく知られるように、そんな地であった。

僕は、射すような日差しの中を車を駆って、江ノ島へと向かった。相模湾に沿って幾分右側にラウンドする風景は江ノ島に近づくに連れ、次第に車窓から認められるようになるが、僕の心は唯真直ぐにアクセルを踏み続けた。

土曜の午後の片瀬江ノ島駅は、以外にもそれ程に混雑はしていなかった。そのまばらな人波の中に僕は瞬時に凛南を見つけた。白地のワンピースを着て、薄手のカーディガンと大きなバッグを片手に持ち、少しにこりとして車に近づいてきた。

「随分暑いんですね、今日は焼けちゃうな」声をかけようとしたとき、凛南は遮るようにそういった。

「乗りなよ、こんな田舎まで、悪いね」僕は素直な気持ちでそう言うと、凛南はその言葉を素通りし、江ノ島に眼をやり、

「結構大きいんだ」と言った。そして、バッグを抱えて助手席に座った。

「その大きなの、トランク入れるよ」

「いいんです。抱えていたいの」凛南はつっけんどんに言った。それを気にも留めずに、僕は、「さあ、いこうか」と呟きながら、ドアを閉め、ハンドルを切った。


鎌倉山まで、道はモノレール沿いにひたすらに登りあがる。僕が会員のそのテニスクラブは鎌倉山のバスロータリーを少し進んだところにあった。駐車場に車を止め、「鎌倉山ローンテニス倶楽部」と書かれた自動ドアを抜け、僕たちはロビーに入った。

ミネラルウォーターを買い、受付でサインを済ますと、凛南に更衣室の場所を教えた。


ローンコートは手入れが行き届き、梅雨の合間のすっきりとした空気とともに僕を安らかにした。コートからは遠く三浦半島が一望された。そして、その先をずっと辿っていくと、房総が青く見えた。コートはほんの少し湿っていたが今日の晴天で、ほぼコンディションを取り戻していた。僕は、刈り込んだ芝をラケットの先で少し押した。草のにおいがした。振り返ると、凛南がラケットを持って眩しそうに歩いて来た。ウォームアップスーツを着てサンバイザーを深くかぶった、ポニーテールの凛南は美しかった。


ベースラインからボールを出すと、凛南は左のフォアでスコンと軽く打ち返した。相当にテニスをやったことがあるように咄嗟に思った。無意識にバックハンドでスピンをかけ強く打ち返した。凛南は左のバックハンドからスライスでクロスに返した。そのボールは速いローンコートをスッと滑り、僕は黄色いボールを見送った。

「やってないなんて、嘘つくなよ」僕は苦笑いしながら凛南に言った。

「そんなまじめにはやってませんよ。大学のとき、ちょっと教えてもらっただけです」

「四年間やったの?」

「三年からサークルはやめました」

「そうか、まあ打ち合おう」

僕たちは夢中になった。テニスはインタラクティブなスポーツだ。ボールの回転や球筋で相手の気持ちが分かる。ベースライン上の打ち合いは、彼女の閉ざされた心の中を少しだけ垣間見せた。少なくとも“性格”の断片ほどのものは幾許か分かったような気がした。彼女は勝気だった。前に出てボレーで返すと左のフォアハンドからクロスに容赦ないパッシングショットが走った。凛南は、おもいっきりの笑顔を僕にくれた。細身だが、長身で体にバネがある。一見非力に見えるその手足は、強い背筋や腹筋で補われる、そのバネによって想像以上の力を与えた。加えて眼と身体の協応能力に優れていた。僕が最初に凛南を見たときのふくらはぎの筋肉のなさは、ショートパンツから覗かれる一連の脚として捉えた場合、むしろアスリートのものといっていいほどに引き締まっていた。人間は状況に支配されやすい。そしてその状況の作り出す先入主にバイアスされた眼でしか対象を見ることが出来ない、そんなことをラリーをしながら考えた。

「篠原さんはいいな、湘南にお家があって・・・私もこんなとこ、住みたいよ」凛南はベンチで水を飲みながら、そう言った。

「都会でモデルやってんだから無理だよ。三軒茶屋でいいじゃない。何の不足があるのかな」

凛南は答えずに、タオルで顔を拭いた。日はやや陰り、暑さは次第に遠のいた。

「折角だから、時間までやろう」、凛南は黙って頷いた。


凛南のスライスサーブがバックハンドにきつく入った。僕はようやく返したが、凛南は容赦なくバックに打ち込んでくる。僕は彼女の中の硬い塊を少しずつ引き受けているような気がしてきた。衰えを知らない彼女のストロークに僕の体は無意識に反応した。

 右利きは左利きを苦手にする。互いにフォアでストレートに打ち合っている分には違和感を覚えないが、クロスラインのスピンには技量が追いつかない。凛南はいいトップスピンを両方から打った。

「凛南、高校で部活何かやってた?」

「水泳・・・」

「種目は?」

「バタフライ・・・」

「どこまでいった?」

「インターハイは県予選落ちだよ」

「今度サーフィンしないか?」

「日焼けできないの・・・」僕の甘いボールを、凛南は前に出てボレーで決めた。

僕はネットに転がったボールを拾った。凛南もネット越しに拾いながら「篠原さんは?」と、僕を見た。

「大学までバスケットやってた」

「センター?」

「シューティングガード」

「カットインしたり、スリーポイント決めるんだ?」

「そんなの決めたことなんてないよ・・・」

「哲学のし過ぎじゃない?」

「下手なだけだ・・・」

凛南は相当にスポーツをしていた筈だ。身のこなしからそれは明らかだった。

僕たちは段々と遠慮のようなものを忘れ、真剣に打ち合った。


やがて、二時間が過ぎシャワーを浴びた。心地よい疲労感が全身を充実させた。

「凛南、東京まで車で送ってくよ」

「いいですよ。江ノ島か大船まで送ってくれればそれでいい」

「鎌倉を廻って、高速で帰ろう」僕はかまわずに走り出した。


「大仏にでも寄っていこうか?」

「ここから近いんですか?」

「山道を海側に降りると高徳院だよ」

「大仏は美男子だって、誰か言ったよね?」

「与謝野晶子だよ。有名だから教えてやろう。“かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな”」

「夏木立か、この辺はうちの実家みたい。」

「信州だっけ?」

「そう、茅野だよ・・・」

「あの辺は杉木立か・・・根入りの杉だっけ?」

「そう、それと、結びの杉・・・諏訪大社ぐらいだよ有名なのは」

「学生時代に行ったな、どちらも大きな杉の木だった。また行きたいなあの辺に・・・」

「遊びに来てよ、やっぱり夏がいいな。案内ぐらいするよ」

やがて、道は平坦になり長谷の街に入った。僕たちは、高徳院で大仏を見ながら茶屋で休んだ。

「確かに美男だよ、この仏は」

「そうね、篠原さんよりいい男」

「当たり前だよ・・・」凛南は茶菓子を口に含みながら、いたずらっぽい微笑を浮かべた。

「たまに抹茶というのは落ち着いていいな」

「ホントそう。運動したから甘いものが欲しかった」

「凛南のサーブはすごいな・・・レフティだから試合したら負けてたよ」

「体力勝ちってとこかな?でも篠原さんすごい旨い」

「小さいボールは苦手だな。たまにはバスケットでもしたいけど、機会がない」

「そうかもね、奥様はテニスしないの?」

「しないね・・・」

話題はプツリと途切れた。

いつの間にか、朝から鳴き続けていた蝉の声がゆっくりと音色を変えていた。


「おなかすかないか?」

「私は大丈夫」

「じゃあ送ってくよ・・・」


朝比奈インターから横浜横須賀道路に乗ると、車の流れは時速百キロメートルをゆうに超えていた。アクセルを軽く踏んでその流れに合流し、しばらくすると、凛南は助手席で眠りに落ちた。僕は第三京浜には入らずに首都高速を湾岸方向に走った。やがてみなとみらいで高速を降りると、インターコンチネンタルの駐車場に車を入れた。凛南はぐっすりと眠っていたが、気配に気づいて、優しい眼を開けた。

「ここどこ?」

「横浜のインターコンチネンタル、眠そうだから」

「すいません。一人で寝ちゃって」凛南は寝ぼけた声で言った。


ホテルの窓から横浜港が一望される。ベイブリッジが殊更に大きく見えた。

「凛南ちゃん、疲れた?」

「私は全然疲れてないよ。篠原さんでしょ疲れてるのは・・・」

「少し疲れたよ。年で負けたよ」

「私シャワー浴びていいですか?」

「うん、汗かいたから、さっぱりしなよ」

凛南がバスルームに入ると、いきなりシャワーの音がした。その音は随分長い間、聞こえていた。 

凛南は何も言わずに僕の儘になった。どうしてかは分からない。僕は凛南がかわいくてたまらなかった。それはおそらくは愛情とは違った。むしろ“愛着”のようなものに近かった。そして、僕は凛南という存在に愛着し、夢中になった・・・

「この前はごめんなさい。でもあの時篠原さんのこと、大人なんだって思った」

「僕ぐらい子供じみた人間も珍しいよ」

「ちょっと子供っぽいところが好きなの。でもあの時はやっぱり大人だと思った」

「そうか、少しは大人でも・・・年相応か?」

凛南は寝返って僕の胸に顔を寄せた。そしてじっと抱きしめてくれた。その様子には、どこか哀愁を帯びた何かがあった。

「凛南、どうかした?」

凛南は悲しげな顔で僕を見詰めた。

「わたし子宮筋腫なの。硬膜下ブロックっていうすごい痛い注射打ってもらってるんだよ。篠原さんなら悲鳴上げるよ。たまにのぼせが来て、モデルのお仕事もいつまで続けられるかわかんない。」

「そうか、そんなこと、あったのか・・・」

「赤ちゃんができたら、そのとき一緒にとるんだ。だから子供は一人しか産めないよ。でも子宮とっちゃうよりまし。最初診察受けたとき、そういわれたんだ。それで二三日体が動かなくて・・・お仕事キャンセルして、街を彷徨ってたら、突然、“医科歯科大学病院”っていう文字が眼に入ったの。それからのことは何も覚えてないんだけど、そこで“とらなくてもなんとかなる”って言われて・・・じゃなかったらもうこの世にいなかったよ」

「そうか、医科歯科大か?高校の同級生がいるよ。あそこは超優秀だから、間違いない」

「その方、どこの科の先生なの?」

「精神科だよ。家が近いからたまにあってたんだけど、最近は随分会ってないな。」

「よかった。産婦人科じゃなくて。私ね、結婚して子供産んだら医科歯科大学で手術するんだ。先生はなるべく早いほうがいいっていうんだけど・・・」

ぼくは黙った。結婚という事態から、凛南を引き離しているのは、他でもない自分自身ではないか。そんな気持ちを持つのは嫌なことだが、当の凛南はどれほどつらいことか・・・

「篠原さんが一番かっこいい。でも恋愛と結婚は違うの」

「みんなそうなんじゃない」

「好きな人はいても、それと結婚は違うの」

「そういう考えを僕は否定しないよ」

僕は凛南を抱きしめた。この美しい僕だけの凛南の中に、何物かの異物がある。そして、様々な苛烈な苦悩の過程を経て、未だ彼女の人生の只中に存在している。助けてやりたい。楽にしてやりたい。それは取りも直さず、僕自身が凛南から消え去ることではないか・・・


僕はその後しばらく仕事以外に強いて凛南と会うことを躊躇した。考えれば考える程、彼女の病気のことが気になった。




会社に家庭用の医学解説書があった。僕はそんなものを開いたことはなかったが、昼休みにこっそりとコピーをとり、電車の中で凛南の病気について熟読した。それを読み僕は安心と不安を覚えた。安心とは、凛南の命に先ず別状のないことであり、不安とは、彼女の身体的な、あるいは精神的な変化についてであった。話す相手は九鬼以外にいなかった。


僕が大学病院に九鬼を訪ねたのは、土用のことだった。蒸し暑さの中を、御茶ノ水駅から大学まで歩いた。凛南の病気を聞いてからしばらくの間、迷いに迷った末、僕は、九鬼に電話をした。それはいつしか僕の中にわだかまっていた、“可能性というものに対する漠然とした失望”と“部分日食にも似た不可視的な欠落”のためだった。僕は無意識のまま、凛南にある具体の姿を要求していた。端的に言えば、それは凛南との緊密性に対する果てのない渇望であった。

九鬼と僕のスケジュールは平日は全く合わなかった。そこで、彼が土曜の当直の午後に大学病院を訪ねることにした。僕は、うな重を二つぶら下げ、入院患者面会用の入り口から建物に入った。守衛がメモを見ながら電話をかけ、しばらくすると事務員と思われる女性が僕をエレベーターで上の階へと案内した。最上階の応接室に通されると既に九鬼がいた。

「久しぶりだな」九鬼は以前と変わらない笑顔で僕を迎えた。

「忙しいところわるいな、うなぎを買ってきた。」僕はテーブルの上にそれを置いた。

「いや、悪い。夜でも付き合えればよかったんだが、まあ折角持ってきてくれたんだから、食いながらにしよう」九鬼は事務員を呼んで、茶を頼んだ。


「篠原も若いんだな。若い女にそれ程執着するということは少なくとも体は健康だな。精神はうつ状態に近い。」

「最近多いのか?新聞でよく見るが」

「うつ病といっても様々あるんだが、神経症も入れれば誰しもが何らかの精神疾患を抱えているような時代になったよ。で、彼女が子宮筋腫だって?」

「そうらしい。しかし電話で言ったように診断は下っているんだよ。ここの大学病院で。そして子供を一人生んだら、一緒に摘出するそうだ。それは運命なのか宿命なのか知らないが、それよりも、“恋愛と結婚は別”という、いまでは一般化した概念を病気というものに追い詰められて結論していることは、一体どういう精神状態なのかを聞きたいんだ」

「そうまくしたてるなよ。食いながら話そう」九鬼はそういってうなぎを開けた。

それからしばらく僕たちは黙って食べた。高校時代から付き合いのあった友人に対し、いきなり本論から入った余裕のなさが恥ずかしさとなって湧き上がった。

「相変わらず忙しいか?」

「医者っていうのは、外来で患者を診る何倍もの仕事を背後に抱えているんだ。それもかなり重い内容だ」

「そうか。まあお前のような理科系の天才には向いていると思うが・・・」

「篠原、お前は心理学を信じているか?」

「信じている」

「そうか、俺は随分前からそんなものには信用が置けなくなってきたよ」

「何故だ?」

「お前のように陥穽に落ちるからだ」

「そんな落とし穴には落ちていないよ」

「人間というのは、自己防衛本能を持っている。もし精神状態が健康であればだが。そして、女というのは子供を生むということに、俺たち男が考えるよりずっと、そうだ想像を超えたといっていい、そう言う執着を持っている。もしその子が病気で追い詰められたのなら、それは賢明な選択だよ。おまえのいうように恋愛観と結婚観は時代ともに変遷し、お前の言葉を借りるなら、“一般化”して別々の事柄として捉えられる傾向にある。それが大衆の集団的心理だ。しかしその子は違う。体で苦しみ、心で苦しみ、女として生きていくために出した当然の結論にたっているんだ。そんなことより、もしお前が俺の患者ならリスパダールを処方するかもな・・・」

「なんだその薬は?」

「SDAといって、陽性症状と陰性症状の両方に効果がある。簡単に言えば、気分が落ち着く薬だ。お前は今、カッとなっている状態だ。普段は過剰なほど冷静なやつだが。非定型うつ状態だよ。少し冷静に考えろよ。まあ、よく眠ることだ。そして先のことを考えるな。」

「要するに、俺の精神状態が尋常じゃないってことか?俺のほうが病院へ行くべきだということか?」

「自分では気づかないだろうが正常じゃない。今はいいが、眠れなくなったり、家庭に影響を及ぼすようなら、受診しろ。診療レベルで相談に乗ってやる」

「そうか、そのうち来るかもしれないな。そのときは、よろしく頼むよ」

九鬼は笑った。そして言った。

「たまには奥さんや子供たちに優しくしろ、食わしてもらっていう科白じゃないが、うなぎでも買っていけ」

「そうだな、凛南のこともどうにかしたいと心から思っている・・・」

「それはお前が決めることだ。医者が決めることじゃない。友人としていうが、兎に角自分と家族の健康だけを考えろ。それだけだ。」

僕は、茶をすすりながら眼で九鬼に了解の意思を伝え、うなぎを頬張った。

「篠原、心理学でものを考えるな。お前に生理学云々とは言わないが、人間は頭じゃなく体で考えているんだ。ドーパミンとかセントロニンとかよく聞くだろう。例えばセントロニンという伝達物質は脳内でその伝達過程に不具合が生じた場合、人間はうつ病になる。体というのは脳みそも含めてそんなもんだ。彼女にしたって、今は結婚して子供を生むことが体で考えた、第一義の結論なんだ。それを理解しろとはいわないが、そういう現象から生じる結果だということは知っておけ」

確かに九鬼の言うことは、科学に基づいた理屈のようなものがあった。“心理学を信じるな”とは、一体どういうことなのか・・・僕はそのアフォリズムの意味を図りかねた。

それから九鬼は饒舌に家族の近況を語り始め、僕もそれに応じた。そして九鬼の休憩時間の終わる、午後二時に僕は暇した。




次の週、広告戦略ミーティングがあった。凛南がモデルをした、雑誌用広告も議題に登った。

会議のメンバーは広報室の他、商品企画課、市場調査課をメインに構成されていた。僕はいつもチームリーダーとして司会をしていたので、自らの具体的な意見を述べることはほとんどなかった。凛南の広告用写真は概ね公表を持って迎えられたが、唯一人、商品企画課の朝永泉が否定的な意見を挟んだ。彼女は昨年まで僕の下にいた。

「皆さんご好評のようですので、参考としてお聞き願えればと思います。サングラスについては高級路線を全面に出した今回の企画は、商品と非常にマッチしています。しかしながら、新作の眼鏡については志向する高級感が素直な感覚として表現されていません。女性の眼から見て、少し歪んだ笑顔、といった印象を受けます。目元の微妙なニュアンスがきつくて、これでは、競合と差別化できません。そもそもこの商品の企画はユーザーフレンドリーな高級感から出発している筈です」

彼女の発言は本質を捉えていた。僕は広報室長に意見を求めた。

「確しかにそういう印象を受けなくもないね。今回の商品は特定の高級志向層に訴求するものでなく、言わば、高級スーツは普段着にもOKですよ、と言うようなPR効果を目的に製作したものだから、少しシャープすぎる嫌いがないでもない。但し雑誌はこれで行きたいと思っている。」

「市場調査課はどう思う?」室長は判断を避けるように言った。

「市場調査課としては、むしろ好ましいと思っている位です。このカテゴリーでのシェアは、一位のA社が二十九パーセント、二位の当社が二十三パーセントと接近しています。全体としてまとまりがあり、さらに高級感を前に出すことで、高級ブランドとしてのイメージを損ねないだけでなく、フレンドリーな高級感といえなくもない。ブランドイメージを読者に固着させるためには結構な企画と思います」

僕は市場調査課長の意見に安心した。会議はその後、ウェブ用の動画の企画に入ることが了承され、終了した。

廊下に出ると、朝永泉と一緒になった。

「あれは室長のご意向ですか?」

「そうなんだよ。お気に入りでね・・・僕も撮影に立ち合ったから、共同共謀正犯だな」

「篠原さんの好みですよね・・・・」

「泉ちゃん、そんなに違和感あるかな?」

「参考意見ですよ」

「どう、たまには飲みにでも行こうよ。合いかわらず忙しいだろうけど・・・」

「今日なら大丈夫ですよ。ノー残業デーですから」泉は即答した。

「じゃあ七時に、ソメイユでどうかな?」

「了解です」泉はロングヘアーを両手で後ろにまとめながら僕に言った。

ソメイユは骨董通りにあるフランス家庭料理の店で、広報室に彼女がいたころ二三度行った事があった。


夕焼けを見ながら、凛南に、ウェブ用の動画の企画が決まり、これから広告代理店と

打ち合わせる事をメールした。

その日僕がようやく仕事を切り上げ、ソメイユに着いたのは七時を二十分も過ぎていた。席には泉のほかに一人の若い子が座っていた。

「ごめん、遅くなって。」

「管理職は、ノー残業デー対象外ですから許してあげます。ご紹介します、彼女は私の下でアルバイトをしている向坂萌さんです。今日は強引に連れてきたんです。」

「向坂です。今日はお邪魔しちゃいました」

「はじめまして、篠原です。バイトって学生?」

「はい、S大の四年なんです。就職も決まったんで、朝永さんのところでお世話になっています」

「そう、S大か。まあ、今日はゆっくりしよう」

 僕達は、久しぶりに、フランスの田舎料理と様々なワインを楽しみながら、世間話をした。

 そのうち、彼女はS大で法律を専攻し、大手商社から内定をもらっていることを話した。

「泉ちゃんも、萌ちゃんも法学部か。うちの会社には少ないね」

「S大は商社や銀行とかに就職する人がわりと多いんです。私は国際関係法ゼミなんですけど、篠原さんはどんなご専攻だったんですか?」萌は学生らしく、直球で聞いた。

「“哲学”、私は二流の法学部だけど、二人とも学歴だけは大したもんね」泉は僕の顔をじろりと見た。

「一般論として聞くけど、“法学部ロジック”っていうのあるでしょう。論理、論理、で畳み掛ける感じかな。そういうのって始めからあるの?それとも身についていくものなの?」

「私は本当は外国語学部に行きたかったんですけど、語学は頑張れば自分で勉強できるかなって思っちゃって、法律にいったんです。論理性というものは、例えば刑事訴訟法なんかに典型的にみられるんですが、私は勉強しながら少しずつ身に付いた気がします」

「そうね、難しい話ね。篠原さんだって最初からロジカルだったとも言えるし、ハンナ・アーレントで身に付いたともいえるし・・・」

「哲学は萌ちゃんの言うとおり、自分で勉強したな・・・“法学部ロジック”というのは凄いと思ってる。今日の会議でも、泉ちゃんの指摘は正鵠を射ていたよ。僕の学生時代は、労働と仕事の違いを考えたり、かなり思弁的だったと思う」

「労働と仕事の違いって何ですか?」萌はきょとんとした顔をして聞いた。

「単純に言えば、労働とは人間が生まれ、死ぬまでの間に、自然と関連する生物学的な活動力なんだ。それに対して、仕事とは人間が非自然的に作り出す人工的な世界に関連する活動力といっていい」

「いつもこうなのよ、何いってるのかさっぱりわかんないでしょ」

「なんとなく・・・分るような気もします。哲学って、私はいつも沈没です」萌は八重歯を白く見せながら笑った。

「うちの仕事って楽しい?」僕は話頭を転じた。

「私はアルバイトなんで、偉そうなことはいえないんですけど、とっても楽しいですよ。篠原さんが作られた広告のイメージ見せて頂いたんですけど、クールで美しいですよ」

「さっきの話だけど、泉ちゃんは“ひずんだ笑顔”っていってたよ。改めてよく見ると、やはり人工的な感がある」

泉は微笑しながら、

「篠原さんのセンスじゃないな・・・あの表情は、美醜を抜きにして考えれば、アーレントの“仕事”の表情だよ。人間が出てないっていうか・・・モデルさんが綺麗な人だから、その美しさに隠れている、そういう感じが普通はわかんない。ちょっと変だな」

「何が・・・?」

「私が篠原さんの下にいたころは、篠原さん、もっとこだわりがあったな」泉の言葉は、暗に僕の心の黒点を捉えていた。

その日、僕が帰宅したのは一時を過ぎていた。凛南からの返信はなかった。


*   *   *


人間は世界という多数性の中で活動している。文学がしばしば個人の問題を扱いがちなのに対し、哲学とは人間の活動力と世界を多数性の上に立って、深いパースペクティブをもって眺める学問だといっても大きな問題はないだろう。しかし、凛南との関係に立って言えば、それは人間が一般的に持つ諸条件を乗り越えた単独性に由来していた。僕が凛南に抱いている、“愛着”とは、“どうしようもないかわいらしさ”であり、半ば責任を放棄した愛情であった。それは何も介する事のない一固体に対する局在的活動であり、生物としての原理に近かった。

九鬼は「心理学が信じられなくなった」と言ったが、凛南との交渉に限って言えば、僕には心理学も哲学も存在しなかった。僕は臨床的には何らかの高揚した状態にあるらしい。横浜のとき、僕は明らかに獣性をともなっていた。その根本は、内部から湧き出た、錯乱した状態であり、その中心から凛南という全世界に放射した凝縮体であった。




眠れない日々が続いた。凛南を思えば思うほどに眠りは遠のいた。朝方にふと目が覚めたり、ベッドから起き上がるのが億劫になった。

凛南に会いたい・・・僕は彼女に会えればそれでよかった。急に、凛南に電話しようという気持ちが高まってきた。電話は、いつしか僕達の間で禁忌されていた。それを僕は凛南の節度とも捉えたし、生活に対する理解とも感じた。

ぼんやりと昼食を摂っていたある日、携帯形態にメールの着信があった。

『凛南です。このごろ体調がすぐれないんだ。病院に行ったら、しばらく硬膜下ブロックを続けなければならなくなっちゃった。先生と相談して、お仕事はキャンセルして自宅静養するこのになった・・・折角お仕事の話頂いたのにゴメンナサイ。また連絡するよ。』

僕は心配になった。静養とは一体どの程度のことなのだろうか・・・忍耐は極限に達し、僕はその夜彼女に電話した。

コール音が随分長く響いた。留守電に切り替わる音が聞こえ、人口音声が流れた。その時、

「はい、凛南です」声が聞こえた。

「ごめん、遅くに電話して。電話はいけないと思ったけど、心配になった」

「私は全然かまわないけど、私からは篠原さんに電話は出来ないから・・・心配してくれてありがとう」

「うん。大丈夫?」

「メールには書かなかったけど、両親が心配してて・・・」

「それはそうだろう。一人で何か不自由してない?」

「それは大丈夫。ホルモンのせいで、ときどき、のぼせが来て少し苦しいだけ」

「父がね、一度帰って茅野か松本の病院に通院しながら実家で静養しろ、なんて言って困るの」

「そのほうが、凛南ちゃんのためにはいいかもな。親孝行にもなるよ。でも会えなくなるのは寂しいな・・・」

「私もよ。少し考える」

「もし決まったら連絡して。それから実家に帰る事になってもメールは今までどおりしてもいい?」

「して頂戴。それよりお仕事ごめんなさい。事務所から連絡させます」

「そんなのはいい。体を大事にして。またメールする」

「私もするよ。電話ありがとう。それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみ・・・」

凛南の声は元気に聞こえた。それは彼女の勝気な性格のためかもしれなかった。兎も角。しばらく凛南に会えなくなるかもしれない。僕は気持ちを心の底に沈めた。



凛南と電話で話してから一週間が過ぎたころ、彼女はやはり茅野の実家に帰った。新宿に見送るといったが、頑として拒絶した。病気のことは心配ないように言っていたが、僕は三日に一度はメールを入れた。凛南と何らかの糸がつながっている、そのことが僕に安心を与えた。

凛南が帰省してから、僕の心は彼女でいっぱいになり、溢れた欲求は益々具体的なものへと収斂していった。


九鬼に言わせれば、何はともあれ、人間は健康でさえいれば生きていくそうだ。しかし、凛南のことはそれとは別だった。生きることが問題ではなく、凛南そのものが問題だった。それは横浜で彼女から病気のことを告げられてこの方、僕の中に胞子植物のよう繁茂してた、凛南が将来、結婚するだろう男に対する、激烈な拒否であった。凛南をその男にはくれたくない。僕は既にそんなところまで凛南に愛着していた。もし、許されるものなら凛南と結婚したい、そして一人だけの子を生み、その子と三人で暮らしたい・・・僕は後に背負っているものを全て忘れた振りをして、そう考えた。

もし、それも無理なら、会いたいときに会えればいい・・・

  



八月に入って直ぐに凛南から会社宛に手紙が来た。僕は気ぜわしく封を切ると、便箋に縦書きの達筆だが妙に癖のある字で綴られた、文があった。


一筆申し上げます。

暑くなりましたね。いつもメールで話しているから、そんなに離れてると思われないのが不思議です。お元気そうなので安心しています。

私は体調も良くなって、最近は東京が恋しいほどです。相変わらず、お仕事は忙しいですか?上京したいんですが、両親が出してくれないんです。来月に病院があるのでそのときにでもお会いできればと思っています。田舎にいるとすることがなくって困ります。篠原さん、逢いにきてくれますか?そう言いたいところですが、私は家庭を壊すのが嫌なんです。だからこのままでいいんです。

最近、周りがいろいろうるさくて困ります。モデルってフリーターと同じじゃないですか。法学部を出てもったいないとか、早く嫁に行けとか・・・そんなことばかり言われます。親から言われるのは辛いです。

篠原さんだけが分かってくださると信じています。 

また、ご連絡しますね。

呉々もお体を大切にしてくださいませ。

かしこ

芹澤凛南

篠原智徳様


それは、日付のない手紙だった。メールでのやり取りがあるから書かなかったのだろう。日付の欠落を僕は手紙の必然性と考えた。凛南に会おうと思った。



蓼科に会社のコテージがあった。ホテルと異なり自給自足が欠点だったが、その方が凛南と過ごすには、むしろ好適と思われた。僕は茅野に凛南を訪ねることにした。


中央道を諏訪で降り、僕は茅野駅で凛南を拾って、コテージに向かった。


蓼科のコテージに着くと、僕たちは部屋に入りコーヒーを飲んだ。静謐とした感動というような、言い知れない幸福感がそこにあった。凛南は実家で作ってきたビーフシチューを鍋に温めた。

生活というものから極端に離れた付き合いしかないこともあってか、少し照れくさいような感情があった。キッチンの凛南を見ると、彼女は淡々と味を見ていた。よく考えてみるまでもないことだが、僕は凛南の心の中を知らなかった。たった一度だけ、病気のことを明かしてくれたときを除いては・・・


蓼科もまだ夏の最中であった。しかし夜はもう寒いくらいに涼しい。月齢は未だ満ちず、東南を見ると連峰をなす八ヶ岳が大きく鎮座している。

 僕はデッキに出て星を見ながら考えた。いずれ、人間はどこかに向かって一定の速度で進んでいるらしい。この明白な事実が、何故、これ程まで僕の焦燥を煽るのか、と。

 凛南がデッキに出て来た。

「ちゃんと着なきゃ冷えるよ」僕は心配して言った。

「このくらいのほうがすがすがしいよ。夏が暑かったから・・・気持ちがいい」

このとき僕には、再会という感覚がなかった。東京の初夏に彼女と出会ってから、この季節まで同じような間隔で僕たちは逢瀬をしているような気がした。


「あっ、星が流れた・・・」凛南は驚いたように僕の背中に言った。彼女の指はほぼ天頂をさしていた。

「はくちょう座かな?」白い天の川の上に、はくちょう座が十字状に見えた。

「わたし高校のとき友達と、流星を見に八ヶ岳の麓に行ったんだよ。いっぱい見えたな・・・」

「きっと、しし座流星群だよ。あれは十一月頃だったかな?今はあいにく見えないな」

「そう、すごい寒かった。いっぱい着込んでみんなで見たよ」

「また見えないかな?」凛南の語調には寂しさがあった。

「眼に見えるのは三十分か一時間に、一個ぐらいだよ。」

「ねえ、どうしてそんなに少ないの?」

「流星というのは、太陽系を廻っている彗星が出す塵なんだ。それが大気圏に突入すると、燃えて光るのが見えるんだよ。彗星はめったに地球に近づかないから、流星群ってやつは、数年に一回だな」

「そうか、でも一個見たからいいよ」

僕たちはじっと天頂の少し北側のはくちょう座をまた見上げた。

「流れないね・・・」

「本気で見たいなら、地球の近くを通る彗星はいろいろあるし、今度調べておくよ」

凛南は、北から南にかけて、まるで飛んでいるようにもみえる、おおきなはくちょう座を凝視していた。

「十字架に見えるな・・・僕は本当はあの十字架に貼り付けられてもおかしくない」そう言いながら、凛南の背中を抱いた。

「あっ、また流れた・・・大きなのが一個流れた・・・」

たった今、消え去ったその光跡を僕は記憶に辿った。確かに、一つの流星が線となって瞬時に流れた。

「素敵だね・・・本当に」

「凛南といっしょで良かったよ」

「わたしもだよ、この流星・・・きっと忘れないよ」


部屋の中はふわっとした暖かさがあった。

僕たちは、シチューを食べながらテニスやサーフィンの話をした。温もったときが流れた。さっき見た流星が目に焼きついていた。いつか凛南と流星群を見に、また蓼科に来ようと思った。


時間というものに、僕は嘗て連続性を感じたことがなかった。やはり、今まさに、時間は止まっているようだった。


凛南はやさしかった。僕は凛南の全身を愛した。この世でたった一つのぼく“愛着”は今、腕の中にある。全てを知りたい・・・その一心で僕は凛南を激しいほどに抱いた・・・


僕は無意識に、凛南の肩越しに枕元に右手を伸ばした。その刹那、彼女は左手で僕の手首をきつく掴んだ。それは女の力とは思えない程だった。

「いいよ・・・きょうは・・・」凛南ははっきりと言った。

「きょうは大丈夫ってこと?」

凛南は頷いた。そして、海を思った。躊躇なく、台風の次の日に来る、あの形のいい大きな波に挑むように、力を込めてパドルした・・・韻律が加速する脈動と同期し、僕は生まれてはじめて、死を甘受した。


「凛南、ずっと一緒にいよう」凛南の首筋にそう囁くと、凛南は黙った。少しの後、寝返って「もう会えないの」と言った。否少なくとも僕の耳にはそう聞こえた。

「一体どういうこと?」僕は冗談と思ってそう問い返した。

「わたし結婚するの、松本のお医者さんと・・・」

「松本の医者?もしかして見合いしたのか?」

「しました・・・」凛南は僕のほうに向き直った。

「篠原さんが一番好きだよ、もう離れられないくらい好きだよ、でも私、決めちゃった」

僕は奈落の底に一気に落ちたようだった。これは一体どういう事態なのだろう・・・凛南が見合いをして結婚する、それは想像をはるかに超えた絶望であった。


「理由は聞かないよ・・・でも、もう逢えないなんて寂しいよ」僕は精一杯に言った。

「それは私だって同じだよ。いつか横浜で言ったけど、私、一人でいいから子供を生みたい。彼は全部知っている・・・」

僕は凛南を抱き寄せた。そして強く凛南の手を握った。

沈黙が、深い夜を覆い、その只中で僕たちは再び強く抱き合った・・・


あくる日の早朝、凛南の消息は途絶えた。

 

凛南の住所も本籍地も、モデル事務所にごり押ししてようやく分かった。しかし、凛南が結婚を自ら決断し、僕とのことを終わりにしようといった今、僕は何をすることも適わなかった。そして、いつしか僕は、何もするべきでない役割を負った自分をどこかに観ていた。別言すれば、彼女の単独性と自らのそれとが分岐していくことに諦念を覚えていた。



それから、季節は幾度巡ったであろうか・・・


庭の芝生で下の子が、サッカーボールで遊んでいた。左足でボールをけると、コロコロとボールは転がり、ネットで止まった。その後ろに、サルスベリが濃いピンクの花を咲かせていた。そのとき一通のメールが着信した。

見たことのないメールアドレスだった。無心でメールを開いた。

「凛南です。お話したいことがあります。いま東京です。返信をお待ちしています」

僕は驚いた、というよりむしろ疑念を持ったといったほうがいい。誰かの悪戯ではないか?そんな考えが頭を支配した。

海辺を散歩し、僕は様々なことを反芻した。しかし、凛南が今になって会いたいといってくる理由が見当たらなかった。彼女は松本にいるはずだ。嘗て彼女が語ったように・・・

夕方になり、陽は箱根に沈み、サーファー達が海から上がってきた。僕は「東京」という言葉が気になった。そして得体の知れない人間に向ってメールを送った。

「篠原です。久しぶりだね。どうしてる?あした渋谷のセルリアンで会おう。午後二時に一回のロビーで。では明日」僕は待った・・・返信は意外にもすぐに来た。

「セルリアンホテルですね、いつかいきました。ありがとうございます。芹澤凛南」

このとき僕は、ようやくメールが凛南本人のものだと合点した。


明くる日、僕はいつかと同じ湘南新宿ラインに乗った。雑踏は同じであった。あの時は確か建設中だったマンションがいくつも完成し、数々の窓から生活が伺えた。三年の月日とは、こんなにも風景を一変させてしまうものなのか・・・僕は彼女と会うことに、何故か期待も不安も感じなかった。       


ラウンジで、僕は水をおかわりした。無感覚の緊張があった。コーヒーを手にもって、ロビーの方へと眼をやった。

やがて凛南が歩いてきた。小さな男の子を連れていた。凛南は少しきつい眼をしていたが、一目でそうとわかるほど変わってはいなかった。

「ご無沙汰しております。芹澤です」彼女は確かにそう言った。

「久しぶりだね。どうぞ・・・その子は?」

「一徳です。あなたの子よ、あなたの名前の智徳から一つ字をいただいたの」

僕は一瞬息が止まった。僕の子供だとしても確かに計算は合う。しかしこの唐突さは何なのだろう?

「蓼科で出来た子供です。司法試験に受かって、この春から弁護士をしています」凛南は真面目な顔で言った。

「そうか・・・」

「大学からずっと勉強して、あなたとお付き合いしていたころも、仕事をしながら予備校に通ってたんです。あの秋に試験に受かって、三月の初めに産んだんです。それから司法修習をしながら一人で育てたんです」

「僕は今君に何と言ってやったらいいか分からない・・・」

「もし証拠が必要なら、DNA鑑定をしてください」

僕はそのとき咄嗟に、その子の顔を見た。そして自分の小さい頃の写真とよく似ているとさえ思った。さらに僕は改めて凛南とは何者かという問いを自らに発し、その解答をもちあわせていないことを今更ながら迂闊に思った。

「何故僕の子を生んだの?」

「あなたが好きだったから。それ以外に理由はないわ。認知もしてもらわなくていいんです。この子はあなたの子です」

「分かった」僕は唯そう答えた。

「ノリくん、ご挨拶しなさい」その子は静かにジュースの氷をかき回していた。

「預けっぱなしだったんで、人見知りをするの」

「そう、まあいいじゃない。飲み物を頼もう・・・」

彼女が麻のジャケットにつけていた、金色の向日葵を模したバッジが僕には眩しく見えた。僕は仮にも凛南を愛し、彼女が子供を持っても“会えればいい”と願っていた。そのことが、三年余りもの時を経て奇妙な形態ではあるが現実となった。しかし、凛南は今、誰とどこに住んでいるのだろうか?ここで過去の思いを告げたところで何になろう。僕は事態の了解に混乱していた。

「凛南、今どこにいる?」僕は飲み物が来るや唐突に聞いた。

「二子多摩川に賃貸マンションを借りています」

「一人か?」

「独身ですよ・・・」凛南の顔がはじめて崩れた。

「事務所はどこなの?」

「赤坂です」

「近いじゃない。僕は未だあの会社にはいるよ」

「私いつも眼鏡かけてるのよ。あなたの会社の。でもきっとわかってくれないと思って今日ははずしてきたの」

「ちっとも変わってないよ。眼鏡はいつかプレゼントするって言ったままだな」凛南は黙ってコーヒーを飲んだ。

「僕にも責任がある。今度ゆっくり飯でも食わないか?」

「折角だけど遠慮するわ。私はこの子と生きていくの。好きな人が出来たら結婚もするかもしれないし。子供はもう産めないけれども私は女です」彼女は優しく言葉をつないだ。

「じゃあ、どうして僕と会おうと思ったの?」

「この子を篠原さんに隠しておくのは卑怯だと思ったから。少なくとも私の意志で篠原さんの子供を産んだのは事実だけれど、あなたにどうしてもこの子の存在を知って欲しかった。それだけです」

「存在を知る?本当にそれだけなのか?」

「それだけです。それ以外に一切事情はありません」

僕の思考はほとんど止まっていた。不可解さにのしかかられた感情から言葉だけが一人で歩いた。

「分かった。僕は願いさげってことか?」

「そんな風に言わないで。私の気持ちをわかってとは思わないけど、この子がいるってことだけは知って頂戴。私が責任を持って育てますから」

凛南は自らの内面を決して語らなかった。それは三年前となんら変わらないことだった。



ロビーで僕はその子を抱き上げた。未だ二歳とは思えないほど背が高くすらりとしていた。

「何かあったらいつでも連絡をくれないか?携帯は番号もアドレスもずっと変えない」少冷静を取り戻して、僕は言った。

「篠原さんの気持ちだけ頂くわ。私これからがんばらなきゃなんないの」凛南はその子を受け取ると、背を向けた。僕はその背に言った。

「また、会わせてくれてないか?」

彼女は振り向いて、

「それは、一徳がもう少し大きくなってからにしましょう。私は今でも子の父親があなたであることを誇りに思っています・・・」

凛南は軽く礼をした。振り向いて、小さな子の手を引いて、渋谷の街へと消えていった。


空虚さが胸の底からこみ上げ、僕はいつか九鬼の言った警句めいた言葉を思い出した。


                                      了



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