第9話 雲がかかった月
「今日遭ったことは、誰にも話さないで」楓はそう告げると、真っ先に部屋に戻った。
よほどショックだったのか一晩中部屋から出てこなかった。
優希はどうすればよいか分からず、声も掛けずそっとしておいた。心配ではあったが、夜はぐっすりと眠れた。
翌朝、いつも通りに起きる。七月三十一日。今日は休日で、北山家の皆は少しゆっくりとした朝を過ごす。
優希が一階に降りた頃には、薫だけしか起きていなかった。
「おはようございます」
「優希、おはよう」爽やかな挨拶をする。自ら朝食の用意をして、テーブル席に座る。
「楓、大丈夫ですかね?」
「どうかしら。心配ね」
「こうゆうことってよくあるんですか?」
「頻繁にはないけど、一度だけあるわ」その一度は、優希がここに来る少し前のことだそうだ。普段の楓は食欲旺盛で、それまで食事をしないことは疎か、残したことすらない。
一体彼女に何があったのか。
「知らない男が、楓のことを追いかけてきたみたい」優希がそれを聞いた時、今回のシチュエーションと全く同じだと思った。これが初めてではなかったようだ。
「少しの間だけ、外に出るのが怖いと言ってね。アルバイトも辞めたのよ」
「そんなことがあったんですか」
「昨日も、そうゆうことあった?」
「いえ、なかったですよ」優希は楓の希望通り、昨日のことは話さなかった。家族に心配かけたくないのだろう。だけど、これ以上続くのなら、警察にでも相談した方がいいと思った。
「優希、まさかあなた変なことしたんじゃないわよね?」
「いえいえ、してませんよ」
「ならいいけど」薫は軽蔑するような目で優希を見た。
「疑ってるんですか?」
「冗談よ。疑ってないわよ」優希はフッと溜め息をつく。
――バタン。
誰かが起きてくる音がする。楓だろうか? 誰が下りてくるか注目した。
「おはよう」
「なんだ、雅か」
「なにそれ、私が起きてきたらダメみたい」雅は眠そうな目を擦る。
「いやいや、そうじゃないんだけどね」
「人がせっかくいいニュース持ってきたのに」
「いいニュース?」
「そう」
「何?」
「フフッ、教えなーい」彼女は悪戯っぽく笑う。じれったい。だが、彼女が何だか可愛くて許せてしまう。
「ねえ、教えてよ」
「あなた、昨日言ったことも忘れたの?」
「昨日? もしかして、仕事の話?」
「正解。川口さんに話したら、明日から働いてもいいって」
「明日から本当に?」
「ええ、本当よ」
「分かった、ありがとう。感謝するよ」優希は心の中でガッツポーズした。それが見えていたのか、雅は笑った。
朝食を食べ終わり、ソファーで楓を待った。
――トントン。
しばらくすると、誰かが階段を下りる音が聞こえてきた。期待したってどうせ晃だと微動だにせず待った。
「おはよー!」挨拶をする大声は楓の声だった。
昨日まで落ち込んでいたことが嘘のように元気そうな声だった。優希は安心でほくそ笑んだ。
「優希、おはよう」楓は彼の顔を覗き込んで、ご丁寧に挨拶をする。
「おはよう」彼女の笑顔はいつも通りではなかった。雲がかかった月のような笑顔だった。
空元気を出し、心配させないようにしているのかもしれない。
とはいえ、彼女にしてあげることは思いつかず、時間さえ経てば、解決するだろうと思った。
「楓、明日から優希のこと借りるわね」と雅が話しかける。
「借りる? 何のこと?」
「昨日話したでしょ?」
「あーそっか。仕事決まったんだね」
「うん」
「楓もだから、次のアルバイトでも見つけなさいよ」
「わかってるって」楓は鬱陶しそうに返事した。
――まだ、十七歳だもんな……。
長期的な休みと現実離れした生活のせいで全く意識していなかった。
優希の同級生たちは、今頃大学生で、夏休みを楽しんでいることだろう。ナナもきっと。元気にしてるかな。ダメだ、ダメだ。過去なんて振り返らずに前を向かなくちゃ。
「はあ……」優希は無意識のうちにまた溜め息をついた。
「どうしたの? 不安?」溜め息をつく優希を見兼ねて話しかける。
「――まあ」
「大丈夫よ、職場の皆は優しいから」
「ごめん、ありがとう。大丈夫だから」優希は言葉を残して自室に戻った。
ナナのことを思い出すと、どうしても暗い気分になってしまう。頬を両手で叩いて、気持ちを切り替えようとした。
優希は一日中ベッドでゴロゴロとして過ごした。出かけても良かったが、またあの不審者に遭遇するのも怖かったのでやめにした。
夕食を摂って、ゆっくりと休み翌日に備えた。