第4話 彼女の言葉
シャンプーをし、お湯で流す。
お風呂場で一人きりになり、冷静になったせいか、ふと頭の中に恋人のナナのことが思い浮かんだ。
もう何日も連絡していない。 彼女は元気にしているだろうか。
数十分前に別の人を恋してしまったにも関わらず、優希は心配になった。
彼女との楽しかった思い出、可愛い笑顔、気持ちいいセックス。
ついさっきのことのように脳内で鮮明に思い浮かぶ。 何も言わずに、ここまできたことを後悔している。いい女だった。
――今ならまだ戻れるか。
泡立てたボディーソープを全身に馴染ませ、洗い流す。
「今度は二人で旅行に行こうね」最後に会った日の夜、彼女はそう言ってた。 なのに、今ここに一人でいる。
――あの日さえなければ……。
心の底から怒りが込み上がり、歯を食いしばった。
――ダメだ、忘れよう。僕はもう別人だ。
優希は洗面器でお湯を汲んで、頭から被り、気を取り戻そうとする。
何度も、何度も。頭から被る。それでもこびり付いた記憶は、離れなかった。
どうゆうわけか、涙が自然と溢れ出た。
――着替え、ここに置いとくね。
楓の声で現実に引き戻される。
「うん、ありがとう」涙声がバレないように返事する。
――大丈夫?
楓は様子がおかしいと気づいたのか、声を掛けてくれた。
「大丈夫だよ」
――なら、良かった。
楓が立ち去った音がする。優希は深く溜め息をついた。そうだよ、何のためにここまで来たのか。過去を忘れるように、湯船に潜った。
浴室から出てバスタオルで体を拭く。
――ガチャッ。
突然、脱衣室の扉が開く。扉の向こうにいる誰かと目が合う。
――知らない女性だ。薫でも、楓でもなかった。
優希はどこかで会ったことがあるような気がした。おそらく、他人の空似だろう。
――バタン。
女性は何事も無かったかのように、直ぐに扉を閉めた。優希は首を傾げる。
――ガチャッ。
再び、扉を開ける。優希は扉の方を見て、また女性と目が合う。
――バタン。
女性は無言のまま、扉を閉める。おかしな女性である。
――ちょっと、楓! 脱衣室に誰かいるんだけど!
扉の向こう側で叫ぶ声が聞こえる。タッタと誰かの足音が近づいてくる。
――え? 何?
楓の声だ。優希が声に気がついた時には扉が開いていた。
「キャー! ごめんなさーい!」楓は優希の体を見て、叫ぶ。ドンと扉が閉まった。
――あの男は誰?
――優希っていうの。今日からうちに泊まることになったんだ。
――そう。先に言ってくれなきゃ、困るわよ。
――だって、雅が帰ってるなんて気づかなかったし。
扉越しに二人の会話が聞こえてくる。優希は服を身につけ、扉を開けた。
――キャー!
家中に二人の叫び声が響く。優希は肩をビクリとさせた。
「大きな声出さないでよ」
「だって……急に開けるから」
――ダッダッ…… 。
フローリングを走る足音が迫ってくる。
「雅、どうしたんだ?」現れたのは進。二人の叫び声に目を覚まし、駆けつけたようだ。
「脱衣室に知らない人がいたから」
「知らない人?」進は脱衣室に立つ優希の姿を確認する。
「なんだ、優希のことか。まったく、人騒がせな奴だな」進は呆れるように溜め息をついた。
――この人が雅か。
艶やかな茶色い髪がよく似合う、大人びた女性である。
清楚な楓とは違い、華やかだ。姉妹なのに雰囲気が違う。
彼女の瞳を見ると、ブラックホールのように吸い込まれて、どこかに行ってしまいそうだ。
「優希? ほら行くよ」楓の案内により、空き部屋へと導かれる。
その部屋にはベッドの他に木製のデスク、木目調の本棚、背丈ほどある姿見などが置いてあった。
部屋は空き部屋とは思えない程に、まるで誰かが数日前まで使っていたかのように綺麗にされていた。
「誰も使ってない部屋だから、自由に使っていいからね」
「うん、ありがとう。本当に使ってない部屋なの?」
「そうだよ? どうして?」
「使ってない割には綺麗だと思ってね、ベッドもあるし」
「掃除はたまにしてるんだ。ベッドは昔、お父さんが使ってたのだから」
「そうなんだ」
「嫌だった?」
「ううん、そんなことないよ」
「じゃ私、お風呂入ってくるね」楓は部屋を立ち去ろうとする。
「ねえ?」優希は楓を呼び止めた。
「うん? どうかしたの?」
「どうして、ここまでよくしてくれるの?」今日出会ったばかりの見知らぬ人間に、食事を与え、宿を与える。普通の人間にここまでできるだろうか。
「どうしてって……。困ってる人を見たら、助けたくなるの」楓は振り返り、優希の顔を見る。
「そう。分かった」返事すると、楓は扉に手を掛けた。
「悩んでるのは、あなた一人じゃないよ」彼女は言葉を残し、部屋を出て行った。