09. 男爵家へ
先触れを受けたデッシ男爵夫妻は、不安そうな面持ちで、私たちの到着を待っていた。屋敷に到着したセレーネが、両親にすがりつく。家族の姿に安堵したのだろう、堰が切れたように激しく泣きじゃくった。
「ごめんなさい……お父様、お母様……うあぁぁ!」
夜分に着の身着のまま主家から戻り、謝罪を繰り返すセレーネに、男爵夫妻は青ざめている。明らかに平静ではない娘を、彼らは追求しなかった。
「セレーネ、もう大丈夫だよ。私たちが、そばにいるからな」
「そうですとも。何があろうと、お父様とお母様は、あなたの味方よ」
「うあ、ああぁ!」
「……セレーネを寝室に連れていってくれるかい。私は、お客様と話があるからね」
「はい、あなた」
取り乱す娘を夫人に任せた男爵は、私たちを応接室へ通してくれた。
手短に挨拶を交わし、デッシ男爵へ経緯を説明する。
「近頃のジルベルト卿は、セレーネさんと寄り添って、愛を囁いておりました。憶測ですが、私を嫉妬させるために、恋人のふりをして欲しいと彼女に頼んでいたのだと思います」
「うちのセレーネが、そんな軽率な頼みをきいたとおっしゃるのですか?」
「ええ。メルチェーデ様も兄君へ協力されているご様子でした。二人がかりで説得されては、断りきれなかったのでしょう。恋人のふりをするうちに、ジルベルト卿へ惹かれたセレーネさんを、私には責めることができません」
好きになってはいけない人に、惹かれる気持ちを知っている。いけないと分かっていても、心は揺れ動くものだから。
しかし、一線を越えるかどうかは、当人の選択にかかっている。
「今宵、私たちは夜会に出席しておりました。そこで、メルチェーデ様から、ジルベルト卿が誰かと庭園へ向かったと揶揄されて……、それから……」
庭の暗がりで見た光景が、頭の中から消えそうにない。
ジルベルトが女性を侍らせて、口説く姿なら飽きるほど見てきた。移り香のような、火遊びの痕跡も。
けれど、生々しい情事を目の当たりにしたのは初めてだ。
口元をおさえて、嫌悪をこらえる。胸が悪くなり、とても説明どころではなくなった。
「この先は、フランチェスカ嬢に代わって、私がお話しします」
アウレリオ卿が後を引き継いでくれた。
彼は事実を誇張せず、隠すこともしなかった。ジルベルトとセレーネが関係を持ったことや、ジルベルトはセレーネを愛人にするつもりだったことを、淡々と伝えていく。
「セレーネさんは、ジルベルト卿から結婚を望まれていると誤解されたのです。公爵家のご兄妹から、ずっと側に置いてあげるとそそのかされて、体を許してしまったと言っていました」
経緯を話し終えると、応接室は重苦しい静けさに包まれた。
うつむいているデッシ男爵は、紙のような顔色で、膝の上に置いた拳を固く握りしめている。
どれだけ、そうしていただろう。遠慮がちなノックが、沈黙を破った。
「あの、旦那様……」
応接室に現れたのは、デッシ家の執事だった。異様な空気にたじろぎながら、用件を口にする。
「こんな時間だというのに、また先触れが参りました」
「どこからだ」
「コルツァーニ公爵家のジルベルト卿です。当家へ使者を遣わしたので、応対するようにと」
「……っ!」
額に青筋をたてた男爵が、怒声を上げた。
「ふざけるなっ!! 傲った若造の使者になど、誰が会うものかっ! 我が家を訪ねてきたら追い払え、居座るようなら銃を使ってかまわん!」
「か、かしこまりました」
震えあがった執事が退室する。ふうふうと肩で息をつく男爵は、憤怒の形相だ。
デッシ男爵は紡績業で財を築き、国内外の有力な商人たちと友誼を結んでいる。交渉する機会が多い彼は、明るい人柄で知られていた。
そんな彼が、怒り狂っている。恐ろしいというより、痛ましかった。
「……お見苦しい姿をさらしてしまいましたね。どうやら私には、気付け薬が必要なようだ。皆様も、いかがですかな?」
ブランデーを持ってこさせると、男爵はグラスを煽った。私と姉は辞退し、アウレリオ卿だけが、お酒を受け取る。
「娘は……、セレーネはね、ようやく生まれた一人娘なのです。つい甘やかしてしまって、家を継がせるには頼りなく、悩んでおりました。そんな時、コルツァーニ家から行儀見習いに出さないかと、声がかかったのです」
婿入りを狙う男たちが愛らしいセレーネに群がるのは、成人前から予想されていた。おかしな男性に騙されて、娘が食い物にされはしないかと不安を覚えていたという。これといった縁談相手が見つからずにいたときに、行儀見習いの件がまいこんだのだ。
良縁に恵まれるよう、立派な淑女として教育を施してくれるという話だったそうだ。責任をもって預かると言われたらしい。
信じて娘を託したデッシ男爵に、落ち度はない。行儀見習いとして預かった貴族には、令嬢が間違いを起こさないよう、目を光らせる義務がある。
保護を請け負った側の人間が、未熟な少女を毒牙にかけた。本来、いさめるべき主人が、セレーネをたぶらかしたのだ。
あれほど、セレーネだけは巻き込むなと釘を刺してきたのに、私の忠告はジルベルトたち兄妹へ届かなかった。
「ご存知ですか。コルツァーニ公爵夫妻は、メルチェーデ様をムシュカ王国の王室へ嫁がせようと、折衝に駆け回っておいでなのです」
「え? ですが、それは……」
私とジルベルトの婚約は、力を持ちすぎた公爵家の調整という意味もある。メルチェーデを他国の王室へ嫁がせるのは、まるで逆の行いではないか。
「愛娘にねだられて、折れたのですよ。くくっ……外遊されていた第三王子殿下に、一目惚れしたんだとか。大変、張り切っておいでです。セレーネをそそのかした小娘の、純愛を叶えるためにね」
強いお酒とやるせなさで、男爵の目が赤く充血している。
「フランチェスカ嬢には、娘が申し訳ないことをいたしました。見捨てられて当然の状況で、当家へお連れいただいた温情には、感謝しかありません」
「いえ、私だけでは、きっと阻まれてしまいました。アウレリオ卿と姉のおかげです」
辛辣ではあっても、オリヴィエラが事実を伝えた。姉がジルベルトの真意を暴いたからこそ、セレーネは私についてきたのだ。
そして何より、アウレリオ卿の助力なしに、ここまで辿り着くことはできなかった。
「アウレリオ卿とオリヴィエラ嬢にも、謝罪と感謝を」
今はただ、セレーネに寄り添って欲しい。軽率さの報いにしては、大きすぎる痛手を負った少女に。
私たちは、やりきれない気持ちを抱えて、デッシ男爵家を後にした。