07. 姉の婚約者
父とアウレリオ卿が、握手を交わす。オリヴィエラとの婚姻条件に関する調整が終わり、契約書に署名したところだった。
「これで、両家の婚約が成立しました。カゼッリ伯爵閣下のご厚意に感謝しているとお伝えいただきたい」
「はい、必ず」
「どうか、娘を支えてやってください」
この契約には、双方が負担する金額と支払い時期が定められている。結婚にあたって、男性側は女性の生家へ支度金を渡す。女性側は持参金として、両親から譲渡された財産を嫁ぎ先へ預けるのだ。
分与された財産という性質上、支度金に比べて、持参金は高額になってしまう。嫁ぎ先の階級や家格が上がれば、持参金は莫大な額に跳ね上がる。
貴賤結婚が蔑まれる理由は、単なる身分差だけではない。財力の差による問題が大きかった。
支度金を受け取るばかりで無一文の花嫁、あるいは、資産家の妻を迎える準備さえ整えられない夫。そうした不均衡が、家名と財産を継承していく貴族にとって、軽蔑の対象になるのは無理からぬことだろう。
マルキオン家とカゼッリ家の場合、財政の規模が桁違いだ。ただし、上辺だけなら同じ伯爵位。先方の厚意で、一般的な伯爵家同士で交わされる金額が採用された。それだけカゼッリ家は、姉との結婚を望んでいる。
「さあ、オリヴィエラ。アウレリオ卿へ改めてご挨拶しないか」
父が声をかけたのは、姉ではなく私だった。今日もまた、オリヴィエラの指示で、青いリボンをつけている。
我が家に好条件の婚約が結ばれたおかげか、父は安堵した様子だ。ジルベルトを擁護するときの、焦りを隠した表情とは違い、久しぶりに見る父親らしい顔をしている。
こうしてみると、数年前に比べて、皺や白髪がずいぶん増えたと気が付いた。ジルベルトへ盲目的に追従しているようで、父なりに苦悩や葛藤があったのだろうか。
「ふつつか者でございますが、よろしくお願いいたします、アウレリオ卿」
「こちらこそ」
差し出した右手に、キスを受ける。微かに触れた唇の感触。間近にある澄んだ瞳に、胸が軋んだ。
姉を応援すると決めたくせに、なんて浅ましいのだろう。このキスはオリヴィエラに贈られたもの。私に向けられたものじゃない。
ずっと姉のふりをして、アウレリオ卿をだましてきた。真実を明かして謝罪することもしなかった。ジルベルトという婚約者がいて、破綻した関係を断ち切ることさえできずにいる。
こんな最低な私には、オリヴィエラを羨む資格なんて、どこにもないのに。
これで、偽らずに済むと喜ぶべきだ。オリヴィエラの代役は、もう終わり。ずっと役をおりたいと望んでいたじゃない。
口角を上げて、笑みを浮かべる。ちゃんと笑えているだろうか。
「来月の結婚式が楽しみです。早く南部の地を拝見したいわ」
二人の結婚はひと月後と決まっていた。花嫁衣装も、豪華な結婚式も要らない、とにかく早く嫁ぎたいというのが、オリヴィエラの希望だった。アウレリオ卿も長く王都へ滞在するのは都合が悪いそうで、両家の意向が一致した結果だ。
「ええ。私も待ち遠しいです。領地に馴染めるよう、色々な場所へご案内しますよ」
私は曖昧に微笑んで、目を伏せた。アウレリオ卿の大きな手が離れていく。
どうしようもなく疲れ果て、身動きができない時に出会ったから、よりかかりたくなっただけ。きっと、こんな寂しさは、すぐに消えてしまうはず。
次に顔を合わせる時は、本物の私として彼に会う。私は婚約者の妹、フランチェスカ。二人を応援すると決めたのだから。
□
王都で夜会が開かれた。主催者は、穏健派筆頭ベッカロッシ公爵の遠い親戚だ。この家も穏健派だが、子息がジルベルトの学友で、王統派と親交があった。
ベッカロッシ公爵のつてで、夜会へ招待されていたアウレリオ卿は、南部地方へ帰る前に出席するという。無事、婚約が成立したため、マルキオン家との縁談を隠す必要がなくなった。今度は両家の縁組みを知らしめる段階に入っていた。
この夜会には、ジルベルトも招待されている。私とオリヴィエラはそれぞれの婚約者と同伴し、夜会へ向かうことになった。
「よくお似合いです、オリヴィエラ嬢」
「ありがとうございます、アウレリオ卿」
私と色違いのドレスをまとったオリヴィエラへ、アウレリオ卿が賛辞を送った。大切な姉と、束の間の安らぎをくれた未来の義兄。もうじき、遠くへ行ってしまう二人が馬車に乗り込んでいく。
屋敷の中から、窓越しに二人をまぶしく見ていると、左手首に痛みが走った。
「僕を無視するな。どういうつもりだ?」
「痛い……、放して下さい」
ジルベルトが私を睨み付けてくる。長手袋で隠れた手首を掴まれて、骨が砕けそうな力で締め上げられた。血の流れが滞り、指先が冷たくなっていく。
イヴァノの死で、ジルベルトとの不毛な関係を直視し、婚約解消を訴え続けてきた。会いに行かなくなった期間に、アウレリオ卿と接することで、外出の楽しさや、人並みに礼儀を払われる感覚を少しずつ思い出していた。
ジルベルトへの未練が消えかけていることに、きっと彼は気付いてしまったのだ。私の変化を目ざとく察して、憤っている。
度重なる浮気と暴言に心を傷つけられてきた。大切な本を踏みつけられもしたけれど、直接、手荒くされたのは初めてだった。
「遠方に嫁ぐ姉が、そんなに羨ましいかい、フランチェスカ?」
「……」
「君には、絶対に僕の妻になってもらうからね。一介の伯爵令嬢ごときが、コルツァーニ公爵家の力に抗えるとは思わないことだ」
「そんな……」
「不敬な姉の悪影響で、君は増長してしまった。もっと早く、あの女を排除するべきだったと反省したよ。僕の意向に逆らって、婚約を白紙に戻そうとした罪は重い。身の程をわきまえられるよう、必ず罰を受けてもらうからね」
かつて愛した、不器用で優しい少年の面影は残っていない。私もまた、初恋に殉じる無垢な少女ではなくなった。私たちの関係は破綻して、思い出の美しさに、わずかな情を残すばかりだ。
唇を噛んで、痛みをこらえる。どんどん酷くなっていった態度と同じで、この乱暴な振る舞いも悪化していくのだろうか?
そんなことにはならないと、楽観視など出来なかった。痛みと恐怖に涙がにじみ、呼吸が乱れる。
「ふふっ、罰が怖い? それとも、僕を恐れているのかな」
手首に食い込んでいた指が、ようやく緩んだ。怯える私の目を覗き込み、ジルベルトが口の端を吊り上げる。
「苦痛に顔を歪める君は、実に美しいよ」
抵抗できない無力な私を、ジルベルトは愛していた。自分の意志を持たず、痛みを受け入れ、従順に耐えるばかりの私だけを、彼は心から求めている。
このまま、彼と結婚するしかないのだろうか。オリヴィエラという心の拠り所がいなくなり、ジルベルトの側から離れられなくなる。
コルツァーニ家へ嫁いだら、私はいつまで正気を保っていられるだろうか。