06. 特別な貴族
アウレリオ卿と共に、ペラガッロ劇場へ向かった。王都にある三大劇場のひとつで、客席数は一千二百。他の劇場より小さいけれど、最も歴史が長い。
白い石煉瓦の建物は重厚だが、内部は金色の装飾がほどこされた、豪華な造りになっている。波形や楕円などを取り入れた、躍動感のある建築様式だ。着飾った客たちの頭上には、大きなシャンデリアが輝いている。
贅を凝らした劇場に、アウレリオ卿は感嘆していた。
「素晴らしい。天井一面に絵画まで描かれているとは。さすが王都は違いますね」
アウレリオ卿は、王族や中央貴族と確執がある南部の御曹司。そんな彼が、素直に王都を褒める姿には、いい意味で驚かされた。
二階の桟敷席へ案内される。幕が上がると、アウレリオ卿は演目の歌劇を楽しんでいた。役者の演技に合わせて、口元をほころばせたり、息をつめたりしている。
自然体の彼につられて、緊張していた体から、余計な力が抜けていく。まるで、王都観光の案内人になった感覚だ。いつの間にか私まで、夢中で舞台を見下ろしていた。
麗しい歌姫が、恋の苦しみを切々と歌いあげる。見事なアリアに心揺さぶられ、まぶたが熱くなった。指先で涙を拭おうとすると、かたわらから、そっとハンカチが差し出された。
「どうぞ、お使いください」
間近から見る、青い瞳。心の奥まで見透かされてしまいそうな、澄んだ眼差しにドキリとする。
「あ、ありがとう、ございます」
ぎこちなくお礼を言って、ハンカチを受け取ると、慌てて舞台に視線を戻した。
観劇を終えたアウレリオ卿は、寄り道せず屋敷まで送ってくれた。馬車の中で観劇の感想を交わしているうちに、あっという間に自宅へ到着してしまった。
両親や兄と歓談した彼は、次に外出する約束を取り付けて、礼儀正しく帰って行った。
姉と一緒に二階へ上がり、部屋の扉に鍵をかける。青いリボンを外して、オリヴィエラへ突き返した。
「約束は果たしたわ。代役なんて、これっきりにしてちょうだい」
「どうして? 嫌味でも言われた?」
「まさか! アウレリオ卿は感じよくエスコートしてくださったわ」
私の返事に、オリヴィエラが満足そうにうなづいた。
「そう。だったら、問題ないわね。次もあなたが行くのよ、フランチェスカ」
「駄目よ。今回だけだと言ったじゃない」
「わたしは同意してないわ。これからも代役は続けてもらうから」
「オリヴィエラ!」
姉は頑として聞き入れようとしない。そして私も、拒むことが出来なかった。アウレリオ卿が迎えに来る日になると、オリヴィエラの青いリボンを身に着けた。
演奏会や中央公園、王立美術館、植物園。観光を兼ねた、お行儀のいいデートコースを二人でめぐる。いけないことだと知りながら、私は何度もオリヴィエラのふりをした。
王都の見処を一通り回ってしまうと、アウレリオ卿は、意外な場所を提案してきた。
「次回は、サーカスなんてどうですか?」
「えっ」
「王都の興行は面白いと、知り合いから聞いたのです。ですが、気が進まないなら、やめておきましょう」
「いえ、あの……、行ってみたいです」
実は、ずっと興味があった。ずいぶん俗な場所に行きたがる女だと呆れられそうで、姉以外に話したことはなかったけれど。
数日後、二人でサーカスを見に行った。曲芸に歓声を上げ、綱渡りにハラハラし、衣装を着けた愛らしい犬たちの演技を応援する。
拍手しながら隣に目をやると、視線に気付いたアウレリオ卿が、微笑んでくれた。優しい笑顔を見るたびに、苦しくてたまらなくなる。
私は、丁重に扱われるべき人間ではない。この人を、ずっと騙しているのだから。
□
休日になると、王都の広場から大通りにかけて、大規模な市が開かれる。今日はアウレリオ卿と露店が並ぶ大通りに来ていた。
「付き合わせてしまって、申し訳ありません。無理をしては、いらっしゃいませんか?」
「いいえ。私も、ずっと気になっていたんです。王都に住んでいるくせに、一度も来たことがなかったので」
王都の土産として、家族の希望を聞いたら、アウレリオ卿の母君は指貫が欲しいと言ったそうだ。安物でかまわないけれど、王都らしいデザインや工夫を凝らした品がいいと。
王都の庶民たちの生活を見学したいと考えていたアウレリオ卿は、休日の市で購入しようと決めたそうだ。おそらくカゼッリ伯爵夫人は、息子の意図を汲んだのだろう。
それに、指貫はお裁縫道具。縁談相手へ相談すると見越していたなら、かなり気がきく頭のいい女性だと思う。
社交辞令ではなく、市をぶらつくのは楽しかった。これほど上品な人なのに、アウレリオ卿自身は、あまり体面にこだわらない。
てらいなく市井の暮らしを見学しに行く彼の気質が、私には新鮮で、嫌ではなかった。
「ありがとう、助かります。手芸の知識がありませんから、困っていたんですよ」
「気にしないで下さい。お役に立てるなら嬉しいです」
「南部では見かけない品があるといいな。気づいたら、教えてください」
お裁縫は大好きだ。家族仲がギクシャクする前は、母やオリヴィエラと一緒にタペストリーを作ったものだった。思い出がよみがえり、寂しさがチクリと胸を刺す。
私とアウレリオ卿は、ちょうど雑貨の露店を物色していた。私たちの会話を聞いていた店の老婆が、眉をひそめてチッと舌打ちしてくる。
「あんたら、南部の出かい。たちの悪い雑草どもに、売るもんは無いよ」
まさか、貴族が市をぶらついているとは考えていないのだろう。地方地主の若者だと誤解されたらしい。老店主の横柄な態度に、アウレリオ卿の護衛たちが殺気だった。
「貴様、その態度はなんだ!」
「いいんだ。行こう」
アウレリオ卿は部下をいさめて、店から離れた。今日に限らず、彼が南部出身だと気付かれると、敵意を向けられることは少なくない。初対面で、私の兄がそうだったように。
王都の民は、南部の人間に対して、良い印象を持っていないのだ。
「酷いわ。何もしていないのに」
「巻き込んでしまって、すいません」
「謝らないでください。アウレリオ卿に、落ち度など無いのですから」
「……一時期、異国になっていたわけですから、南部出身者を敬遠する気持ちも理解できるんですよ」
アウレリオ卿の言葉に、ミラノス王国が抱える問題が頭をよぎる。彼の父が治める領地、南部地方は複雑な背景を持っていた。
昔、王国の南端地方を守護する辺境伯が、南部地方の下位貴族が治める土地を、武力で削りとる暴挙におよんだ。
南部貴族は国に助けを求めたが、不介入を宣言された。辺境伯を相手に、当事者同士で解決しろと嘲笑い、突き放したのだ。
それまでも、南部地方は軽視され、何かと冷遇を受けてきた土壌があった。弱小な田舎貴族の泣き寝入りで終わると予想して、当事者である辺境伯は勿論のこと、国王や中央貴族たちは事態を軽んじていた。
その結果、被害にあった貴族は、二大伯爵家へ窮状を訴えた。彼らは南部一帯をまとめあげ、辺境伯戦争が勃発した。
国家不介入の宣言を逆手にとった反撃。悪いことに、内戦を好機ととらえた隣国が、手薄になった国境線へ侵攻し、泥沼の戦いへ発展した。
辺境伯は戦死。南端・南部は地獄と化した。穏健派筆頭ベッカロッシ公爵のとりなしで、急遽、南部貴族との協定が結ばれ、内乱は収束。なんとか隣国を追い払った。
この件で南部地方は、二大伯爵が統治する連合伯国として、百年間の独立が承認された。統治権が返還されて久しいけれど、未だ南部地方との確執は残っている。
「今や、貴族階級が衰退の兆しを見せる時代です。いつまでも、外部の人間を敵視していては、南部のためになりません」
「それで、中央貴族の我が家へ、縁談を申し込まれたのですか?」
「はい。諍いは過去のものだと、同胞へ知らしめるには、中央貴族のご令嬢、それも王統派との縁組みが望ましい。花嫁の身分が低すぎては、南部貴族と渡りあえない。コルツァーニ公爵家と近すぎるのも、少々、危険だ。あなたは、探していた条件に当てはまる女性です」
マルキオン家は、ほどほどの家柄。名門ではない一方で、卑しい家柄でもない。けれど、ひとつだけ疑問を覚えた。
「ですが、私……の妹が、コルツァーニ家へ嫁ぐ予定ですよ?」
「存じております。オリヴィエラ嬢が抱えておられる、かの公爵家への遺恨もね」
いつもと変わらない穏やかな表情で、彼はあっさり言ってのける。イヴァノの死がもたらした爪痕を、アウレリオ卿は知っていた。
「マルキオン家へ接触するための伝手が、あまりに簡単に見つかりました。不審に思い、探らせてみたのですが、驚きましたよ。ジルベルト卿が私たちの縁談を、影ながら応援しているのですから」
「あ……」
オリヴィエラの予想が的中した。ジルベルトは、私の側から姉を遠ざけ、引き離そうとしたのだ。遠くへ嫁ぎたいという姉の希望に寄り添うためではない。私を守るオリヴィエラが邪魔だから。
「陰謀でもおありかと躊躇しましたが、特に深いお考えは無いようだ。コルツァーニ公爵の横槍が入らぬように、関係各所へ口止めまでして下さっている。ジルベルト卿のご親切には、頭が上がりませんよ。ありがたく、釣書を送らせていただいた次第です」
ジルベルトの子供じみた行動に羞恥を覚える。そんな彼をいさめられない、私自身に対しても。
ふいに、大通りを歩いていた私たちへ、誰かが声をかけてきた。
「もしや、若君様でございますか?」
露店商の男だった。護衛が警戒し、油断なく身がまえる。アウレリオ卿が片手を上げて護衛を制した。彼が優しく微笑みかけると、男は慌てて帽子を外す。こうべを垂れ、恭順の姿勢をとる露店商へ、アウレリオ卿が穏やかに語りかけた。
「こんにちは。ご商売は順調ですか?」
「はい。南部から王都郊外の下町に移住して、十五年になります。最初はずいぶん苦労しましたが、暮らしが成り立つようになりました」
「それは良かった」
「閣下はご健勝でありましょうか? ふ、故郷は、同胞は、変わりありませんか?」
「父は相変わらず闊達ですよ。南部の地も、皆も、元気です。今年は蜂蜜酒が良い出来でね、収穫祭の品評会で金賞を取るのは我々だと、どの小領地をめぐっても張り切って報告してくれます」
「おお……おお……」
帽子を握りしめた手を震わせて、男が涙ぐんでいる。その様子に気付いた同郷人が、次々と挨拶にやってきた。彼らはアウレリオ卿の個人的な知り合いではない。貴族階級に属さない庶民が、素朴な喜びに目を輝かせ、自主的に近付いてくる。
私はすっかり圧倒された。父マルキオン伯爵は、領地を治める貴族。婚約者のジルベルトも、個人資産として所有する領地を運営している。父やジルベルトは、領民と立ち話などしないし、領民から話しかけてくることはない。
けれど、どういうわけだろう。故郷を遠く離れても敬愛を示す人々へ、背筋を伸ばして丁寧に応じるアウレリオ卿の方が、より強靭な統治者に見えるのは。
「若君様、末の若様はお元気ですか?」
「ええ。弟も健やかですよ」
「若君様……」
「カゼッリ様……」
アウレリオ卿は、特別な貴族だ。中央貴族に敬遠される一方で、南部地方の出身者から、深い尊敬を受けている。
彼の背後に、訪れたことさえない広大な南部という土地が続くのを、ありありと感じていた。
「お待たせしました。行きましょうか」
同郷の人々に向けていた、子を見守る父親のような眼差しとは違う。もっと、個人的な、若い男性としての笑顔を浮かべて、アウレリオ卿が私を見つめている。
お行儀のいいデートを終えて、サーカスに行った頃から、私たちの距離は近づいていた。お互いに色めいた言葉など口にせず、エスコートの域を越えた接触などしなかった。けれど、眼差しにこもった熱意を、アウレリオ卿は率直に向けてくる。
自分の罪深さにたじろいだ私は、ぎこちなく目を伏せた。
「は、はい」
心臓が早鐘を打っている。これは、だめだ。こんな感情は、間違っている。
私とジルベルトの婚約は結ばれたままだ。それに、彼はオリヴィエラの縁談相手なのだから。