03. 狂った歯車
後日、顔を合わせたジルベルトは、どこか様子がおかしかった。不器用で優しいはずの婚約者が、険のある目つきで苛立っていた。
不安を覚えて機嫌をとる私へ、憤りをあらわにする。
「僕が好きになったのは、本当に君だったのかな?」
スラスラとつかえることなく、ジルベルトが言った。
「あの園遊会で、白いリボンを着けていたのはオリヴィエラ嬢だったのではないかと、疑わしく思えてね。彼女には想い人がいて、君はコルツァーニ公爵家の権力に目がくらんだ。姉妹の利害が一致して、入れ替わったのさ。違うかい?」
「そんな……」
大好きな婚約者が、あの園遊会での出会いを否定した。あまりのショックに、目の前が暗くなる。
「なに、冗談だよ。真に受けないでくれ。それとも、やましいことがあるから、過敏に反応するのかな?」
寡黙だったジルベルトが、トゲだらけの言葉を並べ立てていた。もっとたくさん話してくれたら嬉しいと、そう思っていた少年は、どこにもいない。辛辣に攻撃をしかけ、反応を観察してくる。
おそらく、マルキオン伯爵家の庭で、ジルベルトは私と姉を見分けられなかったのだろう。素朴な子爵家の若者に、負けたと思ったのかもしれない。
劣等感とは無縁に育ったジルベルトは、悔しさを飲み込むことができなかった。他の令嬢をあしらうように、私と上手く話せない焦りや、けして追い越せない年齢差。そういった小さな鬱憤も、たまっていたのだと思う。
ジルベルトは、積み重なった不満を、私へぶつけた。
ただの八つ当たりだ。普通の婚約者同士であれば、口論に発展して、すぐ和解できたに違いない。
けれど、私たちの関係は、最初から対等ではなかった。王族に連なる彼の暴言を、なだめることはできても、率直に叱りつける勇気を、私は持っていなかった。
強く否定できない曖昧な態度が、彼の疑念に拍車をかける。思い付きで投げかけた言葉が、核心を突いたのではないかと、ジルベルトは疑っていた。
疑心暗鬼になった彼が、探るような目を向ける。
「君は、本当に僕を愛しているのか?」
「当然です! 信じて下さい、ジルベルト様!」
三年に渡る婚約で、育んだ想いは何だったのだろう。共に過ごした優しい時間は、彼にとって無意味だったのか。
悲しくて、虚しくて、胸の痛みに涙があふれる。傷ついた私の瞳をのぞきこみ、ジルベルトは息を飲んだ。
「……ああ、なんだ」
うっそりと、彼が笑う。ジルベルトの双眸に、見たことのない熱が灯っていた。昏い喜びと興奮が、瞳の奥で輝くのを、呆然と見つめ返す。
「僕にもちゃんと見分けがつくじゃないか。確かに君は、白いリボンの少女で間違いないよ。僕を愛しているようだもの」
「ジルベルト様……?」
「こっちのことさ。さすがに言い過ぎたよ、悪かったね」
ようやく和解できると安堵した。これが変化の始まりだとは、考えもせずに。
それ以来、ジルベルトは私を批判し、辛くあたった。傷ついた私が涙をこぼすと、嬉しそうな笑みを浮かべる。嫌味くらいでは反応しなくなると、彼の行動はどんどん悪化していった。
大勢の女性をはべらせる婚約者。子供時代とは違い、いかがわしい男女の火遊びだ。
泣いて、すがって、やめて欲しいと訴える。私が惨めに懇願すると、ジルベルトは興奮に頬を上気させ、束の間だけの優しさを褒美のように差し出した。
「愛してるよ、フランチェスカ。ごめんね、もうしないから」
貞節の約束が果たされることはなかった。知らない香水の匂いをまとい、首筋に小さな鬱血の痕をつけて、彼は私に会いに来る。
たかが浮気と軽く考える公爵家は、息子の素行をいさめない。そして、穏便におさめたいのか、私の家族もおかしくなった。
両親と兄へ、虐げられる苦痛を相談しても、共感どころか話を聞いてもらえない。
家族に限らず、周囲の貴族はジルベルトを擁護した。痴話喧嘩とみなされて、ごちそうさまと言われるたびに、平手で頬を打たれた心境だった。
こんなに苦しいのは、私の感性が狂っているせい?
自分自身を信用できなくなっていた。オリヴィエラがいなければ、もっと混乱しただろう。
「いやだわ、女の臭いで鼻が曲がりそう。汚物でも転がっているのかしら……。まあ、ジルベルト卿ではありませんか! 換気をせねばなりませんね」
オリヴィエラは、軽蔑を隠さない。侮蔑を浴びたジルベルトは、険しく姉を睨みつけていた。
「いくらフランチェスカの姉だからといって、その態度は失礼じゃないかな。少しは立場をわきまえたらどう?」
「あらあら、可笑しいこと。わきまえるのは、あなたではなくて?」
「なんだと」
次期公爵がすごんでも、オリヴィエラは怯まない。彼の前に立ちふさがって、私を守ろうとしてくれた。
「わたしが目障りでしたら、排除なさるといいわ。フランチェスカの愛情が、枯れ果ててもいいのなら。半身を奪われてなお、盲目でいられるほど、わたしの妹は愚かではなくってよ」
「……っ!」
目をそむけたのは、姉ではなくジルベルトだ。オリヴィエラは、容赦なく罪を突きつける。
「まるで、鏡に怯える罪人のようね。吐き気がするわ」
歪んだ喜びを、やめられずにいたジルベルトにとって、私を支える姉の存在は、邪魔であると同時に、必要でもあったのだろう。オリヴィエラが指摘した通り、この頃の彼は、姉を排除しなかった。
私もまた、彼とは異なる歪みを抱えていた。事実から目を背け、虐げられる原因は自分にあると、己の非ばかり探していた。
周囲の反応によって自信を失っていたけれど、それだけが卑屈さの理由ではない。彼を嫌いになりたくない一心で、私は自分の目を塞いでいた。すすんで盲目になっていた私は、救いようがないほど愚かな娘だった。
豹変したジルベルトへ、ジャンネッリ子爵は、冷静に対処した。イヴァノを領地へ引き上げさせたのだ。
ジルベルトの妄執に巻き込まれ、公爵家からイヴァノが目の敵にされる事態を恐れた結果だ。私とジルベルトが結婚するまで、息子を遠くにやるという決断は、きっと間違いではなかったと思う。
イヴァノが事故で亡くならなければ、正しい判断だと言えただろうに。
突如、もたらされたイヴァノの死。領地へ戻ったイヴァノは、いつか姉へ約束したように鉱山開発に打ち込んでいた。現場へ視察に行ったとき、運悪く落盤事故に巻き込まれて命を落としたという。
オリヴィエラの嘆きは深かった。涙を流す気力さえ失って、うつむいてブツブツ呟き続けていた。
「あ……フランチェスカ……イヴァノが……なんで……だって、あんなに元気で……」
「オリヴィエラ……」
イヴァノの死が、オリヴィエラの嘆きが、私に事実をつきつけた。もう目を塞いだままではいられなかった。
ジルベルトは、愛を試すために、私を傷つける。粗雑な扱いを悲しむ姿に、愛されている実感を得て、喜びを感じてしまったから。
彼は私の笑顔より、私の涙を愛していた。
イヴァノが事故にあった遠因は、間違いなく、私とジルベルトの愚かさだ。
「……おかしいのよ、フランチェスカ……わたしたち結婚するのに……ずっとそばにいるって言ったわ……嘘なんかつかないのよ……イヴァノは嘘なんか、一度も……」
「ごめんなさい、イヴァノ! ごめんなさい、オリヴィエラ!」
歯車が狂っていく。あれほど幸せな日々が、あっけなく崩れていく。
「ジルベルト様との婚約を、白紙に戻すことは出来ませんか?」
オリヴィエラに付き添う合間に、両親と兄へ申し出た。家族は青ざめ、ぎこちない笑みを浮かべていた。
「はやまってはいけないよ、フランチェスカ。長い目で見てあげるんだ」
「こ、これほど求められるのは、女性として幸せなことかもしれないわよ?」
「お前にかまって欲しいんだろう。そのうち、変わるって……」
婚約解消の希望は聞き入れられず、家族はジルベルトを擁護した。両親と兄では話にならない。諦めた私は、本人へ申し出た。
もう、嫌われてもかまわなかった。むしろ、私を嫌いになって、棄てて欲しかったのかもしれない。
「私との婚約を解消して欲しいのです。お好きな令嬢を娶ってください」
「はは……ははは……嫉妬したのかい、フランチェスカ。愛しい君を手放すものか。君はね、身も心も僕に堕ちて、ゆだねていればいいんだよ」
みんな、見たいものしか見ようとしない。かつては優しかった婚約者。公爵家との友誼。痛みの奥に見える愛。消えてしまいそうなものほど、必死になってすがりつく。
オリヴィエラは、全ての気力を失っていた。医師の薬が無ければ眠らないし、しつこく勧めなければ食事をとらない。
姉はたぶん、息をするのも億劫なのだと知っていた。オリヴィエラを辛うじて繋ぎ止めていたのは、馬鹿な妹への心配だけだと。
「フランチェスカが、おばあ様から貰った童話の本……、どんなお話だったかしら。優しい女の子が出てくる話よね? 久しぶりに読んでみたいな……」
イヴァノが亡くなってから、何も望まなくなったオリヴィエラが、眠る前にポツリと言った。
本は公爵家へ持ち出されたと分かったけれど、かまわなかった。たとえ砂漠だろうと、氷山だろうと、きっと私は取りに行ったから。




