01. 愛を試される
もう何度目になるだろう?
目の前の茶番に、ため息が出そうになる。将来の義妹から、私の本を庭園に忘れてきたと言われた時、こうなる予感はしていた。
無視して帰ってしまおうか?
いいえ、貸した本を取り戻さなくては。子供の頃、祖母がくれた宝物だから。それに、大切な私の半身が、あの本を読みたがっている。
「ジルベルト様」
仕方なく声をかけた。愛らしい娘の手を握り、甘い言葉を囁いていた私の婚約者――――コルツァーニ公爵家の嫡男ジルベルトは、不機嫌そうに眉をひそめた。
彼と一緒にいるのは、デッシ男爵の一人娘セレーネ。成人したばかりの令嬢で、行儀見習いのために公爵家へ奉公している。
セレーネは、ジルベルトの妹メルチェーデ付きの侍女だ。主の頼みなら、大抵の命令には従うだろう。
メルチェーデに言われてガゼボに来た私が、偶然ジルベルトの逢い引きを目撃する……。今日は、そういう筋書きらしい。
飽きるほど出くわした、婚約者と誰かの道ならぬ逢瀬。ジルベルトは、幾人ものメイドや未亡人と浮気を重ねた。
セレーネとは、適切な関係を保って欲しいと、必死に頼んできた。聞く耳を持つどころか、近頃の婚約者は彼女ばかり口説いている。もはや涙どころか、乾いた笑いさえ出てこない。
「あっ、フランチェスカ様!」
真っ赤になったセレーネが、ジルベルトからパッと距離を取った。
「ご、ご、ご、誤解です! これには事情がありまして!」
「照れなくていいんだよ、セレーネ。せっかく愛を語らっていたのに、とんだ邪魔が入ったようだ。さて、婚約者殿。僕に何か御用でも?」
社交界で脚光を浴びる麗しい貴公子が、傲慢な笑みを浮かべている。宰相を務める父親と、王妹の母親との間に生まれ、常に称賛されてきた容姿端麗な青年だ。豪華なブロンドの持ち主で、男女問わず人気があり、高評価されている。
「メルチェーデ様にお貸しした本を取りに参りました。お庭のガゼボでお読みになって、置き忘れたとおっしゃっていましたから」
「はっ、わざとらしい言い訳はよすんだね。君の真意は分かっているんだ。僕の姿が見当たらず、女性と一緒だと嫉妬にかられて、必死に探し回っ……」
「申し訳ありません、急ぎますので」
二人を迂回し、ガゼボのテーブルへ放り出されていた本を取り戻す。そのまま立ち去ろうとすると、目を吊り上げたジルベルトから、力ずくで奪われた。
「こんなものが、僕より大事か!」
足元へ叩きつけた本を、ジルベルトは土足で踏みにじった。祖母からもらった宝物だと、かつて彼へ話していたのに。
呆然と立ちつくしていると、ジルベルトがセレーネを荒々しく抱き寄せた。
「きゃっ! あぁん……」
二人の唇が重なり合う。目の前で交わされる、深い口づけ。麻痺したはずの心へ、鈍い痛みがぶり返す。
何故、傷つくの?
ここまでされて、まだ好きだというの?
違うと否定できない自分が、とても惨めだ。浅ましい未練に、失望ばかりがつのっていく。私は自分自身を軽蔑し、誰よりも憎んでいた。
「ふはっ、あはは! 無関心を装うわりには、さもしい目をするじゃないか、フランチェスカ!」
愛を試すために、彼は私を傷つける。泣いて取り乱す私を見て、愛されている実感を得るために。
あまりにも子供じみた、くだらない意図に気付いてからは、彼への愛はすり減った。それでも、優しかった頃のジルベルトが忘れられずに、鬱屈を抱えてグズグズしている。
不毛な関係を断ち切りたくて、婚約解消を申し出ているが、彼や私の家族には取り合って貰えない。
極力、反応しないよう表情を消すと、地べたへ落ちた本を拾い上げた。
「……セレーネさんを巻き込むのは、おやめください。ご自分の義務を、お忘れ無きように。失礼します」
「お、おい、待て!」
ジルベルトがわめいているが、振り返らずに歩き出す。途中、視線を感じて目をやると、庭園の樹木に隠れていたメルチェーデを見つけた。
「あ、あの、フランチェスカお姉様、ごめんなさい。お兄様は素直になれないだけで、本当はお姉様を好いておいでなの。どうか、受け入れて差し上げて?」
「……急ぎますので、失礼いたします」
「お怒りなのですか、お姉様。メルチェを嫌いになってしまった?」
美しい令嬢が目に涙をためて、慰めを待っている。拒まれるなど、考えもせずに。
幸福な彼女は知らないのだろう。相手に期待しなくなると、怒りさえ覚えなくなることを。
「ごきげんよう、メルチェーデ様」
挨拶して、立ち去った。メルチェーデの頼みで、両親と兄が私の部屋から勝手に持ち出し、公爵夫妻が困った子供たちだと鷹揚に笑った、大切な本を持ち帰らなければならない。
ジルベルトに泥をつけられても、私と半身にとっては、変わらず宝物だから。
マルキオン伯爵家に戻ると、両親と兄に囲まれた。真っ直ぐ馬車で帰宅したのに、既に事情を知られている。
ジルベルトか公爵夫妻が、早馬でも飛ばしたのだろう。公爵家から送られる使いは、いつも私を追い越して、私の家族の元へ行く。
「いいかい、フランチェスカ。ジルベルト卿は、ちょっと拗らせているだけさ。深刻に考えてはいけないよ」
困り顔の父が、私をなだめてくる。
「あの貴公子様は、フランチェスカにだけ、特別ああなってしまうのね。お若いせいかしら」
頬をゆるめた母は、含み笑いを隠さない。
「婚約者なんだから、純情な男心をくみ取ってやれって。お前だって完璧じゃないんだし、お互い様だろ。な?」
諭す口調の兄が、ワガママな妹をたしなめる。
気持ちを拗らせたら、他人に何をしてもいいのだろうか。自分だけ虐げられる状態に、喜びを感じないのは異常なのか。完璧じゃない人間は、一方的に痛めつけられても、お互い様になるとは知らなかった。
喉元まで込み上げた本音を、私は苦く飲み下す。
苦痛を理解して欲しくて、説明した時期もある。いくら家族に訴えても無駄だった。どんなに言葉を重ねても、不思議なほど伝わらない。今も、私が抱えている汚された本を、誰一人、見ようとしないように。
「急いでいますから、後にしてください」
「フランチェスカ……」
唇を噛んで、早足で階段を上る。自室の前を素通りすると、隣の部屋へ飛び込んだ。夜着姿で寝台に座り、ぼんやりうつむいていた彼女は、私を見るなり悲しそうに眉尻を下げた。
「お帰りなさい、フランチェスカ。ずいぶん酷い目に合ったみたいね」
「オリヴィエラ」
「さあ、こっちへ来て、座ってちょうだい。疲れた顔をしているわ。美人が台無しよ」
姉のオリヴィエラの言葉に、体の力が抜けていく。ふいに可笑しさが込み上げて肩を揺らした。
「ふふっ、ふふふっ、美人って」
「あら、その通りでしょ」
「私たち双子なのに、ふふっ」
「だからこそ、心から褒めているんじゃない。あなた、プラチナブロンドにスミレ色の瞳をした、絶世の美女と瓜二つだわ、フランチェスカ・マルキオン。もっと胸を張るべきね」
安心した途端、鼻の奥がツンとして、涙がこぼれてくる。
「……本、汚れちゃった」
「まあ、なんてこと。辛かったわね。人の物を汚して返す神経が、まったく理解できないわ。どうせ、ジルベルト卿の嫌がらせなんでしょう?」
「ごめんね。心配ばかりかけて」
「わたしこそ、久しぶりにあの本を読みたいなんて言って、ごめんなさい。さっき、メイドから事情を聞いて驚いたわ」
オリヴィエラは医師から、眠くなる薬を処方されている。服薬した後、あの童話が読みたいと言って、眠ってしまった。起きたら読んであげようと、部屋へ取りに行ったら、本が消えていた。
家族を問い詰めると、勝手にメルチェーデへ貸したという。このところ、姉につきっきりだったから、その隙を突かれてしまったのだ。
「オリヴィエラが目を覚ます前に、取り返したくて、急いだんだけど、こんな……。ふ、踏まれて……泥が……ごめんね……」
「大丈夫よ、大丈夫。あなたは悪くないわ」
「私の頭がおかしいのかな? も、もう、気が変になりそうで……、何が正しいのか、わからなくなるの……」
「あなたはちっとも変じゃない。わたしを信じて、フランチェスカ」
オリヴィエラだけが、耳を傾けてくれる。ジルベルトの心情を察しろと求められるばかりの私を、姉だけが心配してくれた。
私にとってオリヴィエラは、大切な半身であり、かけがえのない心の拠り所だ。けれど、失意の底にある姉は、あらゆる気力を失っていた。