表の顔と裏の顔
3.
探偵は、その朝久しぶりに早起きすると、朝顔にペットボトルから水をやった。ミネラルウォーターだ。それと愛情も。
ゆっくり淹れたてのコーヒーを飲むと、目が覚めてくる。
これからひと仕事しなければならない。
どうやら探偵の裏の顔に出番が回って来たらしい。
彼の唯一の調度であるソファには、封を切られて広げたままの便箋が無造作に置かれていた。
西谷文佳は、ワンルームに足首に手錠を懸けられ、目を覚ました。昨日は、夜半まで女子会で飲んで、タクシーに乗ったはずだけど、……。
ドアがあったが、ビクリともしない。足首の手錠がガラガラと音をたてる。(なんで!?)ロープはループになっていて外れて逃げられないようになっている。ひとつだけある窓は、外に格子があり、出られそうもなかった。
バック(バーゲンで大変な思いで手に入れた)は、あったが、入ってるはずのスマホは見当たらない。なんども見ても、同じだった。状況がわからず、パニックになりそうになりながらも、懸命に考えるが、考えはまとまらず……。どうして⁉ すると急に声が聞こえた。
「に!……あ、あー」見ると壁の一部に取り付けられたスピーカーからだった。文佳の目がそこに釘付けになる。
「西谷文佳さん、あなたは我々の手で、昨夜拉致されて、今この部屋にいます」と言った。一瞬何のことか分からずポカンとして。
「この部屋は完全防音になっています。どんなに助けを求めても誰も来ません。鍵は最新式のもので解錠は、外部からの指紋認証でしか開かないようになっています。我々の目的は、ひとつです……」
文佳の顔から次第に血の気が引いていった。事態を覚り始めていた。失神こそしなかったが、誘拐という文字が浮かんだ。目がクラクラしてきた。
「1週間以内に、次のものを完成させること!
20代の女性が、着たいと思うファッションのデザイン画を、完成させること!
1週間以内に、50通りのデザインを完成させること!
そのために必要な機材パソコン資料一式は当方で用意する。
当方が、いかなる意図で……とか、そういう詮索は一切しないこと。
もし、1週間後に完成できない場合、死をもって処理すると覚悟するように……。
……以上だ!」
文佳は、その場に泣き崩れ、しくしく泣いた。そして、泣き続けた。いつ果てるとも知れない涙の河の中で、どうして私にこのようなことが、⁉と問い続けて、また泣き叫んだ。理不尽過ぎる。なんで私が。
それから、泣き疲れて、いつの間にか眠っていたらしい。どのくらい時間が経ったのか判らなかった。ゴトンゴトンと音が聴こえ、外が騒々しくなったかと思ってると、いきなりドアが開いた。
目出しの黒いマスクと、カーキ色のつなぎ服姿の3人の男達が、ドカドカと部屋に入ってきて、文佳は一瞬ギョッとする。部屋の隅へと逃げた。(殺さないで!)
だが、男たちはパソコンやブリンターや机を、手際よく設置している。プロのようだ。文佳に危害を加えるつもりはない様子だ。だが、文佳が、必死に助けを求めても知らん顔であった。ものの数分で機材の設置を終えると、無情にもドアが閉じられて、静寂が訪れたのである。
取り合えず、パソコンを起動する。ファイルには、洋服のデザインに必要なアプリケーションソフトが揃っていた。約1年分のファッション誌まであった。
どうしろっいうのよ!たすけてーーっ!!!
文佳の叫びが空しく響いた。
ーー1か月後
西谷文佳は、銀座にいた。今日のオープンセレモニーにしつらえた白金色のスーツを着ていた。金色の縁取りがしてある。襟元に洒落たブローチをしている。もちろん、彼女がデザインしたもの。とても嬉しそうに微笑んでいる。これからマスコミも取材に来ることになっているのである。まだ、夢の中にいるようだ。
外の通りの向かいに、探偵はいた。そっと様子を見に来たのである。
あの笑顔を見て、すべてが上手くいったことを確信する。実は、西谷文佳が描いたデザイン画を見た〇〇(ファッションデザイナー)が、面白いと乗り気になり、たまたまその場にいたF氏(財界の大物)がスポンサーとなって西谷文佳のブランドを売り出すことになったのだった。もちろん入念な下調べと人脈。熱意とタイミングが、依頼人の作戦を成功させたのである。探偵の知り合いの電気屋にも、映画の撮影だからと、手伝ってもらったのだが……。依頼人は誰かって?ウフフ、それは探偵の守秘義務というものだからね。
(終わり)