想いは天使の翼とともに
明日の朝、目が覚めると、それが今日の続きだという保証はどこにあるのだろうか。家族、友人、読みかけの本、やりかけの宿題、それらが皆、思いもよらず断絶されたとしたら、人は一体どうするのか。
僕には一日の終わりに布団の中でそんなことを考えながら目を閉じる理由があった。だけど、実際には翌朝に目が覚める時には、前夜のうちの考えごとは全て忘れていた。そして、さあ今日は何をしようかと、新しい一日にみずみずしい期待を抱きながら布団から出て背伸びをするのだった。
新しい高校生活の始まった四月も終わりが近づいてきた日、僕は日の出よりも早く起き出していた。街がまだ眠りから覚めていない時間が僕は好きだ。これから目覚める人たちみんなにきっと素晴らしい一日が訪れるのだと思うと、わくわくして早く家から飛び出してしまいたくなる。
その日の朝も早起きの両親と一緒に朝食をとっていた。両親も仕事の都合上、いつもその時間に朝食を食べる。昼食までは時間が長いから、テーブルに所狭しと並べられた食器で盛大な朝食だった。だけど、どれだけ食べても同学年の級友の中では背の低い方から抜け出せないのが、僕の些細な悩みの一つだ。
「ワタルは通学にはまだまだ時間に余裕があるのだから、もう少しゆっくり寝ていてもいいんじゃないか?」
食事が済めばすぐに出掛けられる格好の父が、コーヒーを味わいながら話しかけてきた。部屋にたゆたうコーヒーの香りは僕も好きだ。毎朝平穏な気分にしてくれる。もっとも僕は少しでも背を伸ばそうと牛乳しか飲んでいないのだけれど。
「そうなんだけどね。でも通学の満員電車は正直なところ閉口してるから、空いた電車で行きたいんだ」
「そうか。でも無理はするなよ。睡眠をしっかり取るのも健康管理のうちだからな」
そのような言い回しで父は僕を気遣ってくれた。
「うん。今の生活リズムに無理が出てきたらまた考えてみるよ」
そう答えると両親と僕は朝食を終え、食器を流し台に持って行った。流し台には収まりきらない食器類。三人分とは思えない量の食器を、僕が洗い始めると母が言った。
「いつもありがとうね。私達はもう出掛けるけど、ワタルはくれぐれも無理しちゃダメよ」
「うん。行ってらっしゃい」
父も母も心配性だと思うけれど、実はそうなるだけの理由があるのだ。もっとも僕は今は健康に全く問題ない状態なので、気にしすぎだなと思っている。
食器を洗い、歯を磨き終えると僕も家を出た。
高校へは電車で通っていた。普通の生徒の通学からは二時間ほど早い時間帯だ。この時間はまだ幾分肌寒さが残る日もあるけれど、僕は甘ったるさよりもわずかでも張り詰めた空気感が好きだ。
自宅は閑静な住宅街の片隅にある。朝の早い時間には最寄りの駅までの道のりでほとんど人と出会わない。駅でも、電車の中でも、見かけた同年代と思しき高校生と言えば、部活動の朝練に行っている生徒たちくらいだ。それでも僕の目には彼ら彼女らの丁度二倍の人影が映っていた。普通の人の後ろに特別な存在が僕には見えているのだ。
僕はその存在を「天使」と心の中で呼んでいた。静かな雰囲気、絵画の中から飛び出てきたかのような格好、そして何より、背中に生えた一対の翼と頭上の輪っかが、天使であることを物語っていた。
そして、僕とあまり年齢の離れていない人の後ろに佇む天使からは、その人物が誰にどれだけの興味や関心を抱いているのかが見て取れた。もっと有り体に言えば、誰に好意を抱いているのかがわかるのだ。なぜわかるのかと問われれば、それには答えようがない。見れば一目瞭然なのだ。もっとも僕以外の人には天使は全く見えていなかったので、説明をする事態も、その必要も今まで一度たりとも訪れることはなかった。
僕は昨年の五月頃から一年近くを病院で過ごしていて、今年の三月に退院した。そして、志望校の入学試験を受けるために高校へ向かった。高校へは母親に車で送ってもらったのだけど、たどり着いたそこで目にしたのは多くの受験生と、それと同じ数の天使たちだった。
実際には病院でも出会った人の後ろに天使を見かけていた。それでも、そのことは誰にも言わなかった。言ったところで信じてもらえなかっただろうし、何より、僕がおかしくなったのだと思われたくはなかった。
試験会場の教室内にひしめく生徒たちと天使たちの人口密度には息が詰まりそうだった。その中で僕は、ひたすら雑念を払って試験に臨んで、なんとか合格した。そして、その後に待っていたのは入学説明会と通学の際の満員電車だった。普通の人にとってもうんざりするほどの人混みだったけれど、僕にとってはそれに倍する混み具合だった。人がひしめき合う状況では、どういう現象なのかわからないけれど、天使は人をすり抜けてそこに存在し続けていた。それもまた僕が、その存在を天使と思う理由だ。
高校での人と天使の入り混じった人混みには慣れるしかなかった。だけど満員電車での混雑には辟易した。だから僕は、通勤通学の時間からは二時間ほども早い電車で通学することにしたのだった。
高校生の今の僕はあまり物事に深く思い悩むことはない。自分でも能天気な性格だと思う。だから普通の人に見えないものが感知できても特に気にせず、毎日を明るく楽しく過ごすことができればいいと単純に考えている。人影のまばらな高校に着いた時はいつも、今日はどんな楽しい事が待っているのだろうという期待に胸を膨らませていた。
ただ、それでも凹むことはあった。僕は天使を見れば、その人が、誰にどれくらい興味や関心を抱いているのがわかる。だけど、高校で出会う生徒を見ても、誰一人として傍の天使からは僕に対する関心を見出せなかったのだった。さすがに誰にも、路傍の石ほどに何とも思われていないのだという思いは辛いものがある。
そんな高校生活だけれど友人がいないわけではない。
「おっす、ワタル。相変わらず早い通学だな」
「おはよう、ノブ。朝型だからね、僕は」
教室に一番乗りだった僕の次にやってきたのは軽沢ヨシノブだ。背が高く、筋肉質の引き締まった身体をしている。気さくな性格で誰とでも仲良くなって、皆からはノブと呼ばれている。
「ノブこそ、今朝は早いね。いつもは始業時間ぎりぎりに教室に入ってくるのにさ」
「うん? まあ、今朝はちょっと予定通りにいかなくてな」
奇妙な言い方だ。
「予定通りにいかないと、こんなに早くやってくることになるの?」
「そういうこともあるさ」
静かな教室で二人笑った。
そんなノブの傍にいる天使に何気なく目をやると、見て取れるのはやはり僕に対する無関心さだ。つまりノブもまた他の生徒たちと同じように僕には興味がないはずだ。それなのに入学式の日以来、ノブは何かと僕に構ってきた。
誰も僕には関心がないのだとわかってしまうと、友人を作ることはひどく困難に思えた。中学の時の知り合いもほとんどいないこの高校で、かろうじて友人と言えるのはノブくらいだ。もっともノブの方はどう思っているのか、正直計り兼ねている。
そのまましばらくの間、教室の後ろの席で二人雑談していると、一人の女子生徒が入ってきた。
華奢なところはあるけれど長身で背筋が伸びていて、堂々としている姿は見惚れるものだった。少々血色がよくないように見えても、それが色白の顔を際立たせていた。ただ、表情にはどこか無機質なものが見受けられて、せっかくの端正な顔に影を落としているように思えた。
「……何か?」
僕もノブも言葉を止めてその女子生徒を見ていたから、怪訝そうに声をかけられた。
「いやあ、早いなあと思って。おはよう。……ええと、倉井さん」
「……おはよう」
ひと言挨拶を返すと、倉井さんは教室の前の席に着いた。
この間ずっとノブは何も言わずにいた。いや、何も言えなかったのだ。ノブの傍の天使を見ればわかる。むしろ見ない方がわかりやすかった。ノブは、思いがけず朝から倉井さんに出会えて声をかけられなかった。だけど会えただけで心が浮ついていた。ノブの想い人は倉井さんなのだ。
僕はその倉井さんの方に目を向けると、さっきは見落としていたことに気付き、穏やかな教室に春の雷鳴が轟いたかのように驚愕した。倉井さんには、いるはずの天使がいなかったのだ。
どんなことにも深く思い煩わないと決めていた自分でも、その日はずっと倉井さんの天使がいない理由について考え込んでいた。それまで僕が天使を見る事が出来なかったのは、自分自身のだけだ。僕は自分の後ろに天使がいないと思ったことはなかった。天使は鏡に映らないので、後ろにいるかどうかを特別に確かめはしなかったのだ。
自分の天使については、その時はどうでもよかった。
問題なのは倉井さんの天使だ。
授業を受ける教室にいる間も、他の生徒たちと時間をずらした帰宅途中の電車の中でも、帰宅して自室の中でも、ずっと不思議に思っていた。だけどいくら考えても答えは出なかったし、出るはずもなかった。だから僕は考えるのをやめて、その夜、布団に入る時には頭の中をすっかり空っぽにして眠りに就いた。
翌朝もいつものように日が昇る前に起きた。そしていつもの自分でいた。つまり天使について思い悩むのはやめにしたのだった。
その日もまた一番乗りで学校の教室にたどり着いた。張り詰めた空気は和らいで、春の匂いと少し古臭い匂いの入り混じった静かな教室はなぜか安心する。自分の席に鞄を置いた後、何をして過ごそうかと考えていると、今朝もノブが二番目にやってきた。
「おっす、ワタル。今日も一番乗りだな」
「おはよう。ノブこそ、今日もまたこんな時間に登校だなんて、どうかした?」
「うん、まあ。今日もちょっとな」
今朝もノブは歯切れが悪い。それでも昨日のように他愛もない話で二人笑って過ごしていた。ただ、話題が尽きる瞬間というものは確かに存在する。ほんのしばらくの間だけ沈黙が続いた後、ノブは意を決したように話しかけてきた。
「なあ、ワタル。ワタルは倉井カナデさんと同じ中学だったんだよな?」
ノブの口から出てきた倉井さんの名前に僕は驚いた。昨日からの懸案事項だからだ。だけど、ノブにとっては意味が違っていた。それでも重要事項のはずだ。
「うん。そう言われるとそうなのかもしれない」
「そうなのかもしれない、ってなんだよ。そこまで知らない間柄だったのか?」
「そうじゃなくて、僕は中学以前の人間関係の記憶がないんだよ」
ノブが不思議そうに訊いてきた質問に、僕は軽い気持ちで答えた。するとノブは僕とは異なり神妙な面持ちで言う。
「すると、あの噂はやっぱり本当なのか?」
「噂?」
僕の記憶についての問題は、そんなにも噂になっているのだろうか。
「ワタルは中学三年の春に雷に打たれた衝撃で記憶喪失になって、一年間入院していたって話だ」
ノブの話を聞いてみると、やはり噂というものはいい加減なものだと思った。出来事に対してあらぬ尾ひれがついている。
「雷に打たれたってのは違うよ。突然何かの衝撃で倒れたっていうのはまあその通りなんだけど。あと記憶がないのも人間関係のことだけだよ。記憶喪失のこともあって検査とかで一年ほど入院していたのは本当かな」
あっけらかんと答える僕に、ノブは心配げに訊いてくる。
「今は……もう大丈夫なのか?」
「うーん、健康には何の問題もないのだけど、やっぱり人間関係については記憶がないままかな。ちょっと寂しいことではあるけど日常生活に支障をきたすほどでもないから」
「ワタルがそう言うのなら、それでいいんだが……」
「で、何でまた倉井さんのこと?」
その理由を知っていながら僕はノブに尋ねた。
「いや、それは、まあ、別に……」
ノブが、興味のないはずの僕にことあるとごとに構ってきた理由がわかった気がした。それはやっぱり寂しいことだった。だけどノブが倉井さんとお近づきになりたいと願うのなら、協力するのにはやぶさかではない。
「……私がどうかした?」
突然の倉井さんの質問だった。物静かな倉井さんが教室に入って来たのだ。昨日、教室の後ろの席から誰にも気取られない程度に観察してみたところ、倉井さんはいつも静かに過ごしていた。
「いやあ、倉井さんと僕が同じ中学出身だって話。気を悪くしたらごめんなさいなんだけど、僕は以前の人間関係についての記憶が全くないんだよね」
「……ちょっと」
「だから倉井さんのことも実は覚えてないんだけど……」
「ちょっと!」
倉井さんは周りを気にしながら僕の言葉をさえぎった。
「な、何?」
「いいから来なさい」
そう言って倉井さんは僕の手を引っ張って教室を出た。そして中庭まで連れて行かれた。ノブも恐る恐る後ろからついて来ていた。途中ですれ違った生徒の中には奇異の視線を投げかけて来る者もいた。
昼休みには緑豊かな中庭で昼食をとる生徒たちで賑わうこともあるけれど、この時間には誰もいなかった。
「どうしたの、倉井さん? 急にこんなところまで」
「どうしたの、じゃないわよ。あなた、一体どういうつもり?」
その言葉には責める様子はなかった。ただ理由を訊いてきた。少し厳しい口調だけど。
「どう、って?」
「いちいち誰にでも記憶がないってことを言い回るつもりなの? 誰かに悪いように使われたり、騙されでもしたらどうするの」
「誰にでもってわけじゃないよ。倉井さんだからだよ。倉井さんは騙したりするの?」
悪びれず答える僕に倉井さんは呆れたようだった。
「私はそんなことはしないわ。教室のような誰もがいる場所で、そのことを言うのはよしなさいってことよ。いいわね」
「ああ、それで倉井さんは人気のない中庭まで連れてきて話をしてくれたんだ。わかった。そうするよ。ありがとう」
「……それならもういいわ。それより……あそこでこちらを伺っているのは誰よ?」
倉井さんはノブが気になっていたようだ。もっともノブの方も、倉井さんと僕とのやりとりが気になって仕方がない気配だ。
僕はノブを呼び倉井さんに紹介した。と言っても、僕も倉井さんとはほとんど初対面のような気分だった。
三人がそれぞれ軽く自己紹介をした。
「そんなわけで、これからもよろしく。倉井さん」
「カナデ、でいいわ。今更、倉井さん、なんて呼ばれるのは……」
「そう? じゃ、カナデさん、よろしく。ほら、ノブも」
「よ、よろしく。カナデ……さん」
カナデさんが言いかけていた続きが少しだけ気になったけど、それよりも今はノブの念願が叶ったことが僕にも喜ばしかった。
そして丁度予鈴が鳴り始めたので、僕たち三人は教室に戻っていった。
授業はいつも通りつつがなく終わっていった。いつもと違っていたところがあったとすれば、それはノブが上機嫌で受けていたことだと思う。
そうして午前の授業が全て終わり昼休みになると、僕とノブは弁当を食べようとお互いの机を寄せようとしていた。だけどノブは教室の前の方を見て何か思うところがあるようだ。
ノブの視線の先ではカナデさんがひとり、女子らしいサイズの弁当箱を開けていた。その姿はひどく寂しいものに思えた。だから僕は自分の弁当箱の入った鞄を持ってカナデさんの席まで行って話しかけた。
「カナデさん。よかったらだけど、僕らと一緒に食べない?」
「……いいけど」
余計なお世話じゃなかっただろうか。本当にいいと思っているのかは表情からは伺い知れなかった。それでも僕は気にせず続ける。
「よし、決まり。やっぱりご飯はみんなで食べるのがいいよ」
僕とノブは近くの空いていた席を寄せて、三人はそれぞれの弁当箱を開けて食べ始めた。
「相変わらずノブの弁当箱は大きいよね。いつ見ても笑っちゃうよ」
ノブは、食べ盛りの男子生徒二人前はある弁当箱を持ってきていた。そして気持ちのいい食べっぷりで毎日完食していた。
「まあな。身体を鍛えるには食べないと始まらないからな」
「それだけガタイがいいのは、やっぱり鍛えてるから?」
「うん? まあ、そうなんだが……」
僕の軽い質問に、ノブはそのまま軽く答えはしなかった。
「はっきりしないなあ」
「そう言われてもなあ……。こいつは妹のアドバイスなんだが」
「妹さんがいるんだ。いくつ?」
「ひとつ下。で、そのアドバイスなんだが、筋トレが趣味だってことは、特に、女子の前では自慢げに話さない方がいいんだとさ」
よくわからないアドバイスだった。不思議に思いながら僕は訊く。
「ふうん。なんで?」
「暑苦しいから、やめとけって」
「別に暑苦しいとは思わないけどなあ。カナデさんもそんなことないよね?」
それまで会話に入ってこなかったカナデさんに話題を振る。ノブは少し緊張していた。ノブが堅くならずにカナデさんと会話するには、もう少し時間が必要のようだ。
「……私も暑苦しいだなんて思わないけど、中にはそう思う人もいるかもね」
カナデさんのその言葉にノブは安堵した。
「そんなわけでさらに訊いてみるけど、ダンベルとかいろんな道具を使ったり、プロテインを摂取したりしてるの?」
「いや、そこまで本格的じゃない」
ノブは苦笑しながら答えた。
「ダンベルくらいは使うけど、それ以外にいろいろ道具をそろえるほど金はない。タンパク質も普通の食事で摂っていればいい」
「そうなんだ」
少し意外に思った。ノブは物事を突き詰めていくタイプに思えたからだ。
「三食バランスよく食べてればいいんだよ、成長期なんだし。美味しい物も我慢したくはないしな」
「それでこの大きな弁当箱ってわけなんだ」
笑いながらノブの大きすぎる弁当箱を指した。
「それじゃ、筋トレ以外だと、普段は何をして過ごしてるのさ?」
「何、って……占いとか」
さすがに「占い」という単語に僕は驚いた。カナデさんの表情にもやはり現れていた。
「なんだ? 二人して。そんなに驚くことか?」
「いやあ、唐突な単語に驚いただけだよ」
「そうか? 二人は占いを見たり信じたりしない?」
「うん」
「……信じないわ」
僕もカナデさんもにべもなかった。
「なんだよ、そこまではっきり言うことはないだろう。今度タロットカードで占ってやるぞ」
「うーん、別にいいかな」
「……私も」
自信ありげに言ってきたノブに、僕たちは全く興味がないと答えてしまった。凹んだ様子のノブに、カナデさんはフォローするためか声をかけた。
「あなた自身のことを占ってみたらどうなるのよ? 本当に当たるって言うのなら私も見てもらってもいいけど……」
「それが占い師って存在は、自分自身の運命を知ることができないのさ」
しかつめらしい表情でノブは言ってのけた。
「もっともな言い草だけど、そもそも当たるの? ノブが誰かを占ったらさ」
「それが今まで占った相手といえば、非協力的な妹だけなんだよなあ。当たったかどうかも教えてくれやしない」
ぼやくノブにカナデさんも僕もただ肩をすくめた。
そんな風に過ごしているうちに僕たち三人の昼食は終わった。基本的にはノブと僕が話して、カナデさんはそれを隣で聞いていた。今はそんな感じだけど、そのうち三人とも打ち解けることができると、僕は信じて疑わなかった。
その日の授業が全部終わると、カナデさんは脇目も振らず教室を後にした。放課後も三人で何か話でもできたらと考えていた、僕の思惑は空振りに終わった。
「どうしたんだろうね、カナデさん。部活でもしてるのかな?」
単純に不思議に思いながらノブに訊くと、ノブは嬉しそうに言う。
「講堂に行けばわかるさ」
ただそれだけ言って、ノブは僕を講堂に連れて行く。
講堂は、なんとか記念講堂、といい校舎から少し離れたところにあった。少々古臭い感じの建物だったけれど、耐震化基準が強化された年に補強されたり改装されたりしていて、中は快適な空間が広がっていた。
講堂に入ると、壇上の袖から見事なピアノの演奏が聞こえていた。少し明るさの足りない講堂内に、まばゆい光が差し込むかのような曲だった。
ノブや僕の他にも、幾人かの生徒が講堂内の席にまばらに座りながらピアノの演奏に聴き惚れている。生徒たちは本を読んだり、何人かのグループで小さな声で談笑したりしていた。
「すごいね。さっきノブは、講堂に行けばわかるって言ってたけど、ひょっとしてカナデさんの演奏?」
「ああ、そうだ。朝は授業が始まる前に、放課後もこうしてピアノを弾いてる」
ノブはまるで自分のことのように嬉しそうに答える。
「こいつは妹情報なんだが、カナデは元々はピアノ科志望だったらしい。それがどういうわけか、普通科のこの学校に進学してきたんだとさ」
「どうしてそうなったの?」
僕だけでなく他の生徒も認めている様子の見事な演奏なのだから、ピアノの道に進むことは可能なんじゃないかと思う。
「そこまではわからない。だけど、今もこうしてピアノの練習にずっと明け暮れているみたいだ」
ノブと僕が小声で話している間、ずっとピアノの演奏が続いていた。どこかで聞いたことのある気がする曲だ。
「なんだっけ? この曲」
「ん? ショパンのエチュードだな」
意外なことに、ノブはクラシックの曲にも詳しいようだ。
その曲が終わると、ほんの少しだけ間を空けてまた次の曲の演奏が始まった。今度は弾いている方も聴いている方もご機嫌になるような曲に思えた。
「この曲は?」
「ショパンのエチュードだな」
またしてもショパンのエチュードらしい。
「さっきと同じじゃない」
「ショパンのエチュードと言っても何曲もあるんだよ。さっきのは十の一で、今のは十の五だな」
「そうなんだ。なんにせよいい曲だね」
「ああ」
自由に伸びやかに演奏しているようだった。講堂にいる人たちは皆、心地よく耳を傾けているように思う。
そしてまた次の曲の演奏が始まった。やっぱりどこかで聞いたことのある曲に思えた。だけど今度はさっきまでの曲とは雰囲気が違っていた。
「これは何て曲?」
「これは、ベートーベンのピアノソナタだな。何番だったかな……」
曲の詳細がわからなくても名曲だということは疑いようがなかった。そして名演奏だということも僕にだってわかる。
その日、カナデさんは適度に休憩を挟みつつ放課後をずっとピアノの練習に費やしていた。時に心穏やかに、時に鬼気迫る勢いで鍵盤と向かい合っていた。下校時刻になってピアノの鍵盤カバーを下ろしてようやく緊張感から解き放たれた様子だった。
講堂に数人残っていた生徒たちから拍手が起こっていた。ノブも僕も当然拍手を送る。ノブはそのまま講堂を後にしようとしていたけれど、僕はノブを連れてカナデさんのところへ行った。そして声を掛ける。
「お疲れさま、カナデさん。いい演奏だったね」
そう言う僕の言葉に、カナデさんの表情に少し寂しげな様子が見て取れたのは気のせいだろうか。
「……ありがとう」
「これから下校だよね? 一緒に帰らない?」
僕の提案に後ろではノブが喜んでいる気色だ。
「……わかったわ。帰りましょう」
一人で帰るつもりだったカナデさんは観念して、僕たちと帰ることにしたようだ。
カナデさんも電車通学だった。僕と同じ中学出身なのでやはり同じ駅で乗り降りしていた。ノブは自転車通学だったので、駅まで自転車を押しながら僕たちと歩き、駅で別れて帰ることになった。
「それにしても気迫のこもった練習だったね。毎日あんな感じなの?」
さっきのピアノの練習について訊いてみた。
「ええ。毎日八時間は練習しないと身につかないから」
「八時間!?」
ノブも僕も素っ頓狂な声をあげた。
「そんなに驚くことでもないわ。いくら練習しても充分と言うことはないのよ」
どこまでも自分に厳しいカナデさんだ。
「そこまで練習しているからには、やっぱりプロの演奏家を目指してるの?」
「……目指してはいるけれど、なれる保証なんてどこにもないから。だから必死に練習しているのよ」
僕の質問にカナデさんは、その日幾度目かの寂しげな表情を浮かべて答えた。僕はその表情の意味を勘違いしていた。だけどその時はまだそれを知る由はなかった。それでも僕は言い切る。
「なれるよ。あれだけ懸命に練習して、なれないはずがないよ。ノブもそう思うよね?」
「ああ、練習は決して裏切らない。俺もそう信じている」
僕たちの言葉に励まされたのか、少し優しい表情になったカナデさんは言う。
「そうね。そうなるといいのだけど」
そんなことを話しているうちに駅に着いた。
ノブは、また明日な、と別れの挨拶をして自転車に乗る。そして颯爽と帰って行った。
カナデさんと僕は駅に入ると同じ電車に乗り、空いている席に座った。そこそこ遅い時間だったので下校している生徒は少なかった。僕は天使たちの混雑さを避けることができてほっとしていた。
「それはそうと、朝も講堂でピアノの練習をしてるの? 昨日と今日は、朝すぐに教室に来てたみたいだけど」
「講堂でピアノの練習するにも必要な許可をもらわないといけないのよ。昨日と今日の朝はそのための書類を書いたり提出したりしてたのよ」
「何かと面倒なんだね」
やりたいことをするにも面倒なことを済まさなければならず、やりたいことだけをしているわけにはいかないらしい。
「まあ、一応はちゃんとした許可が下りたから、これからは気兼ねなく講堂で練習できるわ、朝も放課後も」
「それじゃあさ、明日の朝もピアノを聴きに行ってもいい?」
「好きになさい」
その言葉に僕は笑顔になった。カナデさんも僕につられたのか笑顔を浮かべていた。
その後はこれといった話題もなく、静かで穏やかな時間が過ぎていた。
そして同じ駅で降りると僕たちは、明日また、とだけ言ってそれぞれの家路についた。
翌朝も教室に向かうとやはり一番乗りだった。普段なら昨夜の宿題のやり残しを済ませたり、何をするでもなく過ごしたりしているのだけど、今朝は早速講堂へ行ってみることにした。
朝の早い時間だったので講堂へ向かう途中ではほとんど生徒に会わなかった。
講堂の入り口ではカナデさんが丁度到着していたようで、鍵を開けていた。
「おはよう、カナデさん。登校してそのまま講堂に来てるんだね」
カナデさんは鞄を持っていたままだ。教室でも見かけなかったので僕はそう言った。
「おはよう。朝の時間は貴重だから」
それだけ言うとカナデさんは講堂に入り、真っ直ぐピアノに向かう。そして指の動きを滑らかにするかのような練習曲をしばらく弾いていた。それが終わると、昨日のように真に迫る演奏が始まった。
「おっす、ワタル。お前も聴きに来たんだな」
講堂の一番前の席、ピアノの音が最もよく聞こえる席にひとり座っていると、ノブが隣に腰掛けて小声で話しかけてきた。
「おはよう、ノブ。ノブも早いけど、ひょっとしていつもこの時間には登校してた?」
カナデさんの練習の邪魔にならないようにと、僕も小声だ。
「まあな。入学してしばらくしてから、朝と放課後にここでピアノの演奏を耳にしてからはいつも聴きに来ていたんだよ」
なるほど。それでカナデさんが練習できなかった昨日と一昨日は、講堂ではなく教室に来ていたようだ。
ピアノは朝の柔らかな日差しを表すかのような曲を奏でている。
「いい演奏だね」
「全くだ。いい一日の始まりに相応しい、いい演奏だな」
ノブも僕も朝からカナデさんの演奏が聴けて清々しい気分だった。
その日から、僕たちは朝は講堂でカナデさんの演奏を聴いて、昼は三人でお弁当を食べて、放課後もやはり講堂でカナデさんの演奏を聴いていた。その後は駅まで三人で帰り、駅からはカナデさんと僕は同じ電車だった。
毎日そんな風にして過ごす時間が、だんだんと当たり前のようになっていった。
だけど、カナデさんはそんな時間をどう思いながら過ごしていたのだろう。天使のいないカナデさんを見ても、その表情からは、それはやはりわからないままだった。
その年のゴールデンウィークはよく晴れた日が続いていた。だけど祝日が土日に重なるようにあったので、大型連休と呼ぶには物足りなかった。もっともノブにとっては、休日なんかよりもカナデさんに会える平日の方がありがたかったに違いない。僕にとっても、ノブやカナデさんと過ごせる時間の方がすでに貴重なものになっていた。
連休明けの放課後、講堂でカナデさんの演奏を小一時間ほど聴いているとノブのスマホが鳴動した。ノブは少しスマホをいじった後で不意に訊いてきた。
「なあ、ワタルはワールドシートはしてない?」
「ワールドシート? 何それ?」
聞き慣れない単語だった
「うーん、ひと言で言えばSNSかな」
「SNS? それもわからない」
まるで呪文のような単語を連発してくる。
「うーん……そこからか……」
ノブもどうしたものかと説明しあぐねている。
「あなたたち、何の話をしてるの?」
いつの間にかピアノの演奏は止んでいて、カナデさんは僕たちのところにやって来ていた。
「あ、話が邪魔だった? ごめんごめん」
「邪魔ってことはないけど……。休憩は必要だから、今は小休止よ」
その言葉にノブも僕も安堵した。練習の邪魔をしたんじゃ元も子もない。
「いや、何、ワタルがワールドシートもSNSもわからないって言うから、どう説明したものかと……。カナデはSNSはしてない?」
「していないわ」
「それじゃ、この際、三人でやらないか?」
僕に対する説明を置き去りにしたまま、ノブは提案する。
「こういうのは説明するより、実際にやってみるのが早いしさ」
「別にいいけど」
カナデさんの回答にノブの表情がぱっと輝いた。
「決まりだ。ワタル、スマホは持ってるよな?」
「入学祝いで買い換えたのを持ってるよ。でも全然使いこなせてないけどね」
ポケットの中から取り出した僕のスマホを見ると、ノブは呆れたように言う。
「何だ、最新のスマホが綺麗なままじゃないか。せっかくのを使わないなんて勿体ない」
「それで、どうするの?」
「アプリをインストールしてちょっと設定するだけなんだが……わからないことの説明はするけど、操作は自分でやれよ? でないと身につかないからな」
ノブはスパルタ気味にそう言う。だけど確かにその通りだ。こういうのは習うより慣れろだ。少し設定した後で僕は訊いた。
「で、この後は?」
「三人でグループチャットできるようにすればいいかな」
「グループチャットって?」
また知らない単語だ。
「そりゃ……グループでチャットするんだよ」
「何の説明にもなってない気がするんだけど?」
そんなノブと僕のやりとりを聞いていたカナデさんがくすくすと笑っていた。
「あなたたち、ホントおもしろいわね」
僕はともかくノブは笑われたことを気にするよりも、それどころか、カナデさんの笑顔が得られて今日一番の仕事をしたかのような表情だった。僕も二人が楽しいのならそれでよかった。
そんなこんなで三人でグループチャットとやらができるようになった。実際に少し試してみたけど、僕にはそれほど必要ないもののように思えた。
「どうせほとんど毎日朝から放課後まで顔を合わせているんだし、なくてもよくない?」
「まあそう言うなって。いつでも駄弁れるし、いざって時にも連絡できる」
「いざって時って?」
「そりゃ……いざって時だよ」
さっきも似たやりとりをしていたし、カナデさんもまた笑っていた。そしてノブの満足げな表情。
カナデさんは自分で決めていた休憩時間が終わると、再びピアノの練習に戻って行った。
いざって時は来ない方がいいに決まっていると僕は思っていた。それでもカナデさんとスマホでもやりとりしていたノブの気持ちもわからないでもなかった。
だけどノブの思惑通りにはなかなか行かないのだった。
「何だ、キミたち、昨夜は。せっかくワールドシートでメッセージを送ったというのに、なしのつぶてじゃないか」
翌日の昼休み、落ち着いて話ができる時間にノブは愚痴をこぼした。
「そんなこと言われてもなあ。僕はいつも家に帰ると、お風呂の後に夕食を食べたら宿題をやって、眠くなったらすぐ寝ちゃうから」
「私も似たようなものよ。ピアノの練習時間は学校でほとんど確保しているから、家では夜はさっさと眠りに就くわ」
カナデさんも僕もノブの昨夜のメッセージには気づいていなかった。僕はスマホを見る習慣すらなかったのでノブの口から言われなかったら、ずっと知らないままだったかもしれない。
「まあ送ったメッセージはどうでもいい内容なんだが。それにしても二人とも夜は早いんだな。俺も早起きに備えて早めに寝てるから同じなんだけど」
何でもない会話をしながら僕たちは昼食の時間を過ごす。その何でもない時間は、カナデさんに想いを抱いているノブだけでなく、僕にとっても、他に替えることのできない貴重なもののように思えた。
今でも、ノブの傍の天使を見ていて感じ取れるのは、カナデさんに対する想いと、他のクラスメイトに対する親しみだけだ。僕に対する興味や関心は以前と同じく、ずっとないままに思えた。
その一方で、カナデさんの傍にも天使がいないことが何よりも気になっていた。カナデさんが、ノブや僕のことをどう思っているのか、全く伺い知れなかった。天使を通じてなら、それらを知ることが出来たはずなのに。いや、違う。それは本来、直接カナデさんの言葉で知るべきなのだ。
結局、今のところ、僕の天使を見ることのできる不思議な力はあまり役に立たないかに思えた。だけど、その力の使い途を間違えると、とんでもないことになるかもしれないとその日気付かされたのだった。
その日もいつものように僕たち三人は放課後を講堂で過ごした。ピアノの練習をするカナデさんと、それを気持ちよく聴いているノブと僕だ。
だけどいつもと違うことがあった。エレキギターのソフトケースを背負った男子生徒が、カナデさんのところに近づいていく。そして演奏しているカナデさんに何かを話しかけていた。気のせいか、ピアノの演奏からは苛立ちがにじみ出ているようだ。そう感じたのも束の間、ピアノの演奏が突然止んだ。
「触るな!」
演奏の途切れた講堂に、カナデさんの声が響く。
ノブも僕も、講堂で演奏を聴いていた他の生徒も、なにごとかと静まり返ってカナデさんの方を見ていた。
「不愉快だ。帰る」
カナデさんは、それだけを口にして、ピアノの鍵盤カバーを下げると、足早に講堂から立ち去ろうとしていた。
「待ってよ、カナデさん」
そう声を掛けたけれど、カナデさんは振り返ろうともしなかった。ただごとじゃない気がして、僕は鞄を持って駆け出そうとしていた。カナデさんに対してか、僕に対してかわからなかったけれど、粗暴な声が飛んできた。
「待てよ!」
声の主はギターを背負った男子生徒だ。僕はその声に構うつもりもなく、ただカナデさんが気になって追いかけていた。
「待て、つってんだろ!」
さっきよりも激しい声が講堂に響く。その大声に振り返ると、僕と男子生徒の間にノブが割り込んでいた。
「おいおい、いきなり殴りかかるのはあんまりだな」
ノブは男子生徒の拳を受け止めて穏やかに言った。自分よりもはるかに体格のいいノブに気圧されたのか、虚勢を張る事で己を大きな人間に見せたかったのか、いずれにせよその男子生徒は激昂して叫んだ。
「うるせえ! お前が、お前たちさえいなければ!」
そして背負っていたエレキギターを手に持つと突然そのまま振り回した。
「危ない!」
ノブは僕を突き飛ばすと、腹にギターの一撃を受けてその場にうずくまった。ギターは嫌な音を立て、ケースの中でネックが曲がった。それさえも気にせず、男子生徒はノブをただひたすら蹴り飛ばしていた。
「やめてくれ」
嵐のような凶行をどうにか止めようと僕は口にしたけれど、男子生徒は聞く耳を持つつもりはなかった。
非力な自分には何も出来ないのだろうか?
ノブが僕なんかの身代わりになって目の前で足蹴にされているというのに?
そう思うと僕の中で闇のように黒い何かが湧いてきた。
「やめろ!」
今度は深い怒りを込めて言った。目の前の男子生徒にではなく、傍の天使に対して。
僕の言葉に男子生徒の天使は恐怖を覚えていた。身の危険を感じて慄いている。すると天使の恐怖が伝搬したのか、執拗にノブを蹴飛ばしていた男子生徒は足を止めた。彼自身にも理由のわからない恐怖に青ざめている。理由のわからないことがまた、その恐怖を後押ししているかのようだった。そして、言葉にならない捨て台詞を吐いたかと思うと一目散に講堂から逃げ出していった。
僕は怒りに我を忘れて男子生徒の天使をどうにかしてしまいそうだった。だけど、彼らが逃げ去るのを見ると我に返った。自分は一体何を……?
それよりもノブだ。僕はノブのところに駆け寄った。
「ノブ! 大丈夫!?」
僕が声を掛けてもノブはただ呻くだけだった。
どうして僕をかばってこんなことに……?
ノブは僕なんかに興味がないはずじゃないのか。
不意に、ノブの何気ない言葉を思い出す。
(占い師って存在は、自分自身の運命を知ることができないのさ)
だから僕は、誰かの天使を見ても、僕自身に対する興味や関心については一切を知ることができなかった?
僕はノブを誤解していた。それなのにノブは僕をかばって、今、目の前で呻いている。その姿を見るのは身が切られる思いだった。そして僕がただ悔恨の念に駆られていると、誰かが呼んだのか、数人の教師達が講堂にやってきた。
一人の教師がノブの様子を診ていたかと思うと、僕や講堂にいた他の生徒は各々いくつもの教室に別々に連れて行かれた。
そこでは僕は教師と一対一で事情聴取を受けていた。講堂で何があったのか、どういう行動を取ったのかを逐一訊かれた。僕は正直に答えたけれど、ひと通り問答が終わった後も、別の教師と入れ替わり、また同じ質問と同じ回答を繰り返した。その間ずっと僕はノブのことが心配で、気が気でなかった。それでもこちらからの質問は一切許されなかった。
そして教室の窓の外がすっかり暗くなった頃にようやく解放された。
解放される際になってようやくノブについて説明を受けた。ノブは重傷というわけではないが、念のため病院で精密検査を受けることになったという。その言葉に僕はひとまずは安堵した。
教室から出ると、講堂で見かけた生徒たちも解放されていた。その中にカナデさんの姿もあった。
「カナデさん! カナデさんも事情を訊かれていたの?」
「ええ。家路につく前に教師に声を掛けられたかと思うと今までよ。解放される時にだいたい何があったのか説明はされたけど……」
カナデさんも僕と同じ扱いを受けていたようだ。
とっくに帰宅時間になっていたので僕たちは駅へ向かい電車に乗った。
カナデさんが言うには、学校としても今回の事件をなあなあで済ませるつもりはないようだ。おそらく過去にも何らかの事件があって、対応マニュアルのようなものが出来上がっているのだと。生徒の口裏合わせを防ぐためにも、即日個別に事情を訊いていたのだろうとのことだ。
「それにしても、ノブが心配ね……。なにごともなければいいのだけど」
「……ホント、そうだね。SNSでメッセージを送ってみるよ」
ノブの言っていた、いざって時がこんな形で来てほしくはなかった。僕はメッセージを送ると、疑問に思っていたことを口にした。
「あの男子生徒、一体何だったのかな」
ノブに対する仕打ちを思い出すと、怒りがまた込み上げて来そうになる。
「……あの男子生徒には以前からバンドを組まないかと声を掛けられていたのよ。もちろん断っていたのだけど。それでも何度も何度もしつこく言い寄って来て……さっき講堂では馴れ馴れしく肩に手を掛けてきたから、私も頭にきて、つい……」
それであのやりとりだったのだ。
カナデさんが心配しているように、僕もノブが心配だった。それは本当だ。だけど僕には、もう一つ大きな疑問が残っていてそれが頭から離れなかった。
どうしてカナデさんの傍には天使がいないのだろう?
今日の事件で天使について何か引っかかることがあった。
何らかの理由で僕にはカナデさんの天使が見えないのか、あるいは本当に天使がいないのか、わからなかった。
ただ、そのことを考えると不安と後悔のようなものがないまぜになった思いに囚われそうになる。息苦しさを感じて、それ以上は考えてはいけない気がしていた。
「ワタル……?」
カナデさんは僕の様子に怪訝な、だけど心配そうな声を掛けてきた。
「僕は何でもないよ。ノブもきっと大丈夫。すぐにSNSで返信してくるか、また学校で会えるよ」
「そうね……きっと大丈夫よね」
僕もカナデさんも自分で言い聞かせるかのようだった。
それぞれ心配な思いを抱いたままその日は別れた。
翌朝、僕はいつものように日が昇る前に目を覚ますと、いつになくまずスマホを確認した。だけどSNSにノブからの返信はないままだった。
カーテンを少し開くとまだ少し暗い空がいつもと違って見えた。
両親との朝食や片付けを済ませ、学校に向かっても気分は晴れないままだった。教室には一番乗りでしばらく待ってみたけれど、やはりノブは現れなかった。そしてカナデさんが登校してきた。カナデさんも早く登校してきたものの今朝は講堂へ向かうつもりはないようだ。
「さすがにピアノを弾く気分じゃないわ」
「……そっか」
朝も、昼食の時間も、ノブのいない教室は静かで、本来そこにあるべきものが欠けていた。たった一人の存在がこんなにも大きなものだなんて思いもよらなかった。
教室ではノブについての噂があちこちで囁かれていた。それでもカナデさんも僕も何も問われなかったので、話したくもないことを言わずに済んだのは幸いだった。
ノブが登校してこないまま放課後になった。
カナデさんも僕も講堂へ向かった。昨日の今日だ。講堂に他の生徒はいなかった。
カナデさんはピアノの前には座らなかった。やはりまだ乗り気じゃないようだ。
仕方がないからというわけではないけれど、僕がピアノの前に座って鍵盤カバーを上げてみる。特に何かを弾こうとしたつもりじゃなかったし、自分が弾ける曲があるわけでもなかった。それでも……。
不思議な感覚だった。
知らない曲なのに手が勝手に動いて弾き始めていた。
何の曲だろうか。伴奏っぽいけれど?
するとカナデさんが僕の伴奏に合わせて透き通った声で歌い始めた。
"好きなひとを見ていたら
誰かと相談していたんだ
「今日は愛しいひとの誕生日
何を贈れば喜んでくれるかな」
ぼくはただ哀しくなりながら
それでもそのまま眺め続けた"
寂しく悲しい歌詞だった。
だけど、いつかどこかで聞きながらこんな風にぼくが伴奏していたことがあった気がした。その時はカナデさんと僕の他に確かに誰かがそばにいたような……。
思い出すことのできない記憶が微かな薄明かりのように頭をよぎりそうになりながら、伴奏を続けていく。
"ぼくが好きなひとも
ぼくを好きでいてくれる
そんな奇跡いつか
信じられなくなったよ"
そこで唐突に歌は途切れ、僕が弾いていた伴奏も止まった。無意識に弾けていたけれど、その先はどうやら本当に知らないようだ。
「何だ? いい歌なのに途中でやめることはないだろう?」
講堂に聞き慣れた声が響いた。昨日まで当たり前に聞くことのできた大切な声だ。
「ノブ!」
カナデさんも僕も声の主を認めて呼んだ。
「大丈夫なの?」
「SNSにも返事がなかったから心配したんだよ?」
「ん? まあ打撲と軽い裂傷だよ。痛みはあるが大したことじゃない。鍛え方が違う、ってやつだな。SNSの方は返信しようと思ったけど、病院での検査も午前で済んだし、さっさと学校に来た方が早いと思ってな」
ノブの痛みがどれほどなのかはわからなかったけれど、やせ我慢をしているわけではなく、実際に平気なようだった。そんなノブにカナデさんは嬉しそうに明るい表情を浮かべていた。僕も本当によかったと心から思った。
「それにしてもさっきの歌は何ていうんだ? いい曲だったな。初めて聴いた曲だけど。何で途中でやめたんだ?」
ノブはしきりに感心して訊いてくる。
「……さっきの曲は以前、私……が作った歌よ。未完成だから途中までなのよ」
「そっか。完成したらぜひまた聞かせてほしいもんだ」
「……多分、無理よ」
ノブの期待をあっさり裏切るようにカナデさんは答えた。
「何でだ? そこまでできてるんだったら、続きも作っていけば完成するもんじゃないのか?」
「私にはラブソングというものを作れそうもないのよ」
寂しげに言うカナデさんに、ノブはどう声をかければいいのか心底困っていた。そして切り出したのは少し別の話題だった。
「そっか。そういえばさ、二人は歌とかはどんなのを聴いたりするんだ? クラシック以外で」
「私は……Lazy Braveくらいよ」
「LBか! いいよなあ。俺も大ファンだよ」
「LBって?」
僕の知らない単語だ。
「Lazy Braveの略称だよ。Lazy Braveは日本のロックバンド。幼馴染だった男四人が組んだバンドで、ヒット曲が出る前から、これがまたいい曲ばかりなんだよ」
熱く語り出したノブを見ていると本当に大した怪我じゃなかったんだなと思えてくる。
「確かにLBはラブソングをほとんど作ってないな。それじゃラブソングを作るのには参考にならないかもな」
「ラブソングじゃないなら、どんな歌を歌ってるのさ?」
軽い気持ちで僕は訊いてみた。
「うーん……どう言えばいいかなあ。……人生、かな」
真面目くさった顔のノブから出てきた言葉は「人生」だった。そんな大げさな、と僕は思ったけれど、カナデさんが意外な反応を見せた。
「くっ、あははは。人生って。確かにそんな感じだけど」
とても珍しいことにカナデさんは文字通りお腹を抱えて笑っていた。ノブはいたって真剣に答えたけれど、カナデさんには大笑いされてしまった。それでもノブは気を悪くはしなかった。むしろまたいい仕事をしたとばかりに上機嫌になった。
「ワタルも聴いてみるといいぞ。はまること請け合いだ」
「そんなにおすすめなら聴いてみるよ」
カナデさんはしばらく笑いを抑えるのに必死だった。そしてようやく笑いが収まり目から涙を拭うとピアノの方へ向かう。
「ノブの元気な姿を見られたし、私はいつものようにピアノの練習に入るわ」
僕は喜んでピアノの席を譲った。カナデさんは指の動きの練習から入り、いろんな練習曲を弾き始める。目を閉じてみれば光を感じ、耳を傾けているだけで心の踊る曲が始まった。
三人のいつもの平穏な日常が戻ってきた。
ただ、カナデさんが作ったという曲の伴奏をどうして僕が弾くことができたのか。その時は、元気なノブの姿を見て安堵して、その疑念はすっかり頭から抜け落ちていた。
それから数日は以前と同じような毎日が続いた。それは砂漠の水のように貴重な日々だと今ならわかる。
ノブに暴行を加えた男子生徒は無期停学処分になったと噂で聞いた。だけどそれはもう僕たちにはどうでもいいことだった。
さすがのノブも怪我が治るまでは筋トレをするわけにはいかなかった。そしてカナデさんも、中間テスト前だということで講堂の使用許可が下りず不満げな様子だった。ただ、勉強のために校内に残ることは許可されていたので、僕たち三人は放課後に教室でテスト勉強をしていた。
「なあ、カナデ。三人の中だと一番勉強ができそうなんだが、中間テストのために勉強のコツってやつを教えてくれないか?」
「あ、それ、僕も教えてほしい」
厚かましい質問に、カナデさんは呆れたように肩をすくめた。
「コツなんてないわ。教科書をよく読んで、演習問題をちゃんと解いて、内容を理解する。ただそれだけよ」
「それじゃあ、テストには間に合わないじゃないか」
学問に王道なし、という諺通りの答えに、ノブは悲壮感を漂わせて言った。僕の頭の中でも管弦楽の悲しい曲が流れていた。もしノブに尋ねてみればそれはチャイコフスキーの悲愴だと教えてくれたかもしれない。
「ノブ? 例えばよ。もし私が一週間の筋トレで体重をどうこうしたい、って言ったらどう思う?」
「ん? カナデも体重を気にしたりするのか。むしろもっと食べた方がいいと思うんだが……」
心配そうに答えるノブだった。
「そうじゃなくて、一週間だけ筋トレしてどうにかなるって思うか、ってことよ」
「そりゃあ、一週間だけじゃあ、効果は見込めないな……。なるほど、そういうことか。一週間ほど勉強に勤しんだところでどうにもならないか」
ノブはカナデさんの言いたいことに納得したようだけど諦めはしなかった。
「それでもさ、ただ漫然と教科書を読むよりも、よく考えて勉強した方が効率的だろう? 筋トレだって、ただ体を動かせばいいってわけじゃないぞ。ちゃんと考えてやらないと努力は身を結ばない。それは勉強だって同じはずだ」
ノブらしい物言いにカナデさんは折れた。
「仕方ないわね……。それなら今から私が選ぶ演習問題を二人とも解いてみなさい、制限時間内に」
そうして決して甘くない勉強会が始まった。カナデさんは一週間ほどで二人の弱点を補ってくれた。講堂の使用許可は下りなくても家でピアノの練習時間を確保しているらしく、自分のための勉強時間をどう捻出しているのかと思うと、ノブも僕も頭が上がらなかった。そういうわけで僕たちは中間テストで無様な点数を取るわけにはいかなかった。
翌週、中間テストが始まり、あっという間に終わった。頭をフル回転させて解いた結果、僕の脳みそはノブの使っているであろうダンベルくらい重くなった。
だけど終わってみればノブも僕もなんとかなったように思う。カナデさんが解くように言ってくれた演習問題は実際に役に立った。絶対に暗記しておくようにと言われた事柄もちゃんとテストに出ていた。二人ともカナデさんに足を向けて寝るわけにはいかないようだ。
「やっとテスト期間も終わったな! どうする? 三人でどこかで遊ぼうぜ」
午前で学校が終わったその日、ノブは早速、羽を伸ばしたがっていた。
「遊ぶって、どこで何して?」
「どこでもいいさ。とにかく勉強のことは一切忘れて遊びたいんだよ。カナデも今日くらいはピアノの練習を休んだっていいだろう?」
カナデさんはそれでも遊ぶことよりもピアノを弾く方を優先したがっていたように見えた。だけど、解放感で心底嬉しそうなノブの顔を見ると軽く笑って頷いた。
「遊んでばかりじゃダメだけど、ピアノを弾いてばかりでもダメなのよね、実際」
「だろう?」
「でもどこかへ行くの? 僕は人混みは避けたい気分なんだけど」
天使のことは相変わらず誰にも話していない。人混みを避けたいとだけ僕が言うと、ノブは答える。
「それじゃ、カラオケなんかはどうだ?」
「うーん、歌える曲がないよ」
「いや、歌うのは俺に任せてくれればいい」
「そう言ってるけど、ホントはノブが歌いたいだけなんでしょ?」
冷静に突っ込むカナデさん。
「LBの歌をさ、ワタルにも聞かせたいんだよ。カナデもLBを歌ってくれてもいいからさ」
「まあワタルがいいなら、私もカラオケでいいけど……」
「よし、決まりだな」
そういうわけで三人の行き先が決まった。駅前のカラオケ店だ。だけど、テスト期間が明けたこともあって、駅前は高校生ばかりだった。
「うーん、この様子だとどこもいっぱいかな。どうするべきか……」
ノブは少し考えて話を続けた。
「そうだ。いつも二人がここから電車に乗って、降りている駅の前にはカラオケ店はないかな? あるならそこにしよう」
「僕はそういうのは全然詳しくないんだけど……」
「普通にあるわよ。そんなに小さな駅じゃないんだし」
「よし。それじゃ少し待っててくれ。駐輪場に自転車を置いてくる」
いつもより混んでいた電車に僕たちは乗り込んだ。僕は人と天使の多さに目眩がしそうだったけれど、そのことは黙っていた。
降りた駅の前ではカナデさんが詳しかった。
ノブも僕もカナデさんに着いていってカラオケ店に入り、そこで何時間も過ごした。歌い終えて店から出るとノブは満足そうに言った。
「いやあ、歌った、歌った。大満足だよ」
言葉通り、ほとんどの時間をノブが歌い続けていた。カナデさんも僕もよく喉が保つなあと感心するばかりだった。
カナデさんは、Lazy Braveのメンバーが楽曲提供しているという女性シンガーの歌を歌って、実質、LB縛りみたいな時間だった。確かにLBの曲はほとんどが人生に対する応援賛歌のような気がした。僕はそんな二人の歌を聞いてばかりだったけれど、それはとても居心地のよい空間だった。
「どうだった、LBは? 絶対いいだろう」
いいに決まっているというノブの口調だ。
「確かにいい歌ばかりだね。今度いろいろ聴いてみるよ」
僕の言葉にノブは満足していた。
「さて、俺は電車でさっきの駅まで戻って家に帰るよ。予定もあるしな」
「忙しいのね。なんの予定があるっていうの?」
「妹の勉強を見る約束なんだよ」
予想外の予定だった。
「妹さんの勉強を? ノブが? 大丈夫なの?」
カナデさんも僕も一抹の不安を抱えて訊いた。
「何だよ、俺だって教える側になれるぞ。まあ志望校はうちの高校なので、受かった俺の学力でも大丈夫なはずだ。というわけでさっさと帰るよ。またな。ワタルはちゃんとカナデを家まで送ってやるんだぞ」
そう言い残してノブはひとり駅へと向かって行った。
ノブに言われて今更ながらに気がついた。僕はいつもカナデさんと一緒に下校しながらお互い駅で別れていた。毎日遅い下校時間だったのに家まで送るという考えが頭になかったのは、うっかりにも程があると思った。
「じゃあ、ノブにも言われたし、家まで送るよ。どっちだっけ?」
「……そうね。とりあえず公園の方へ行きましょう」
さっきまでの盛り上がりとは裏腹に、カナデさんはいつもの表情の乏しい様子に戻ったようだった。傍に天使のいないカナデさんからは、その表情から何を思っているのかを推察しなければならない。だけどその時の僕にはその表情が何を意味するのかわからずにいた。
先を行くカナデさんについていった。駅近くの公園は広かった。ただ、夕暮れ時もあってか人気はなかった。遊具も、並木道もこの時間は寂しさを持て余すばかりの存在だった。僕はカナデさんと二人でとぼとぼと歩いていたけれど、何か楽しい話題でもないかと必死で頭をひねっていた。
「それにしてもさ、ノブは歌が上手いね。喉も痛めてなかったし、喉の使い方も上手いのかな?」
「そうね。LBの曲はどちらかと言うとアップテンポのが多いから何曲もよく歌えたと感心したわ」
「それでさ、最後にノブが歌った曲は誰のなんだっけ? 『人生を悟るにはまだ早い』って曲は笑っちゃったよ」
僕の言葉に、特に「人生」という単語にカナデさんはくすくすと笑って立ち止まった。
「ホント、いくら『LBは人生だ』って言っても、まさかあんなフォークソングを最後に歌うなんてね。私は笑いをこらえるのが大変だったわ」
「ノブらしい選曲といえばノブらしいんだけどね」
僕もつられて笑う。茜色に染まる空と公園に二人の笑い声がこだました。不思議な感覚だった。以前にも似た感覚を抱いたことがあると思った。だけど今は、何かが足りない気がしてならなかった。それが何なのかはどうしても思い出せない。それでも、こんな時間を持てることはやはり幸福なことなんだろうとぼんやり考えていた。
「カナデさん?」
笑い終えたカナデさんは立ち止まったまま黙って僕を見ていた。
「……やっぱり忘れてしまったのね……」
「え、何? 僕は何かを忘れているの?」
「何でもないわ。私の家はもうこのすぐ近くってことよ。あそこから公園を出れば目と鼻の先だから、送ってくれるのはここまででいいわ。ありがとう」
何でもないと言うカナデさんの姿は、決して何でもないようには見えなかった。まるで今にも泣き出しそうな子供だ。それは単なる僕の思い過ごしかもしれなかったけれど、その姿を見ていると僕の心が軋む音が聞こえた。それでも僕には何かを言うことはできなかった。
「……それじゃ、また来週学校で」
「うん、また来週」
そのままカナデさんの後ろ姿が、陽の落ちた公園から見えなくなるまで僕はその場で立ちすくんでいた。
その後はカナデさんの悲しげな姿が脳裏に焼きついたまま離れなかった。家に帰りながら。家に着いてから。食事の時も、風呂に入っている間さえも。
ノブがいるとカナデさんは本当に楽しそうだ。だけど僕にはその楽しさの十分の一さえカナデさんに贈ることができなかった。それどころかいつも寂しい顔をさせてばかりだ。カナデさんにあのような表情をさせてはならないのだとわかっていた。わかってはいたけれど、自分がカナデさんのために何ができるのだろうと、いくら考えても何も思いつかなかった。
いつもと同じ時刻に布団に入ってからも僕は悩み続けていた。寝付けないまま、どうすればいいのか、何をすべきなのか、ひたすら考え続けた。おかげで、少しずつだけど考えが浮かんで来た。
時計を見るといつの間にか午前二時を少し過ぎたところだった。深夜の静かな街と自室。だけど僕の焦燥感だけが空回りしそうだった。少し迷ったけれど、このままいつまでも悩み続けてはいられなかった。意を決して、服を着替え、できるだけ音を立てずに部屋から出ると自宅を後にした。
向かった先は去年まで通っていた中学校だった。月明かりの下、通い慣れていたはずの暗い夜道。時間が時間だけに誰とも出会わない。道中も学校に着いてからも、何の感慨もなかった。自分の中で大切なものが失われているせいなのだろうか。恐ろしい不安がよぎっていた。だけど今は、何か少しでも思い出せることがないか、それだけを探しながら学校の敷地内に忍び込んだ。
どこに行くべきかはあらかじめ考えていた。一年ほど前に気を失い、それまでの人間関係の記憶をなくした場所だ。確か、保健室の外の校庭のあたりだったと聞いてはいたけれど……。
敷地内も暗く静かだった。時折雲間から、膨らんだ月の明かりだけが差し込んでいた。
目的の場所に近づくにつれて、自分の中の誰かが警告を発している。その先に進めば、後戻りはできないと。それでも僕は立ち止まるわけにはいかなかった。なくしたものを取り戻すために。何よりも、カナデさんに二度とあのような顔をさせないために。
誰もいない校庭。寂寞とした時間と空間。
しばらく立ち止まってあたりを見渡してみる。何か手がかりが見つかるかもしれないと、淡い期待を抱いていたけれど、何も見つからない。
どれだけそうしていたのかわからない。月が雲に隠れて夜の闇がいっそう深くなったその時、目の端にかすかに光るものを捉えた。
僕は駆け寄り、その光るものを手にした。それは、暗闇を忘れさせるほど真っ白な羽根だった。そして、その質量を感じさせない羽根は僕に、かつての記憶を頭の中に流れ込ませてきた。
"こんなことをして、あなた、一体どういうつもり?"
"ワタルの?"
悲鳴。怒号。
天使を……?
僕は自らの恋を成就させるためだけに、カナデさんの天使を……?
再び月明かりに照らされた校庭でただひとり、僕は呼吸を荒くさせていた。鏡がなくとも自分が死人のように青ざめた顔をしているのがわかった。
僕は全てを思い出した。
自分が犯した罪を全て。
そして優しい月明かりの照らす校庭からそっと離れ、暗い夜道に向かって歩き出した。
たどり着いたのは公園だった。あたりは暗く人影はない。当然だ。こんな時間にいるとしたら不審者だけだ。
僕も不審者として見つからないようにと、灯りのある場所を避けてひとり考え込んでいた。記憶を取り戻した今、何をなすべきなのか。
それはもう決まっていたことだった。今すぐにでもやるべきことだ。だけどさすがに朝が来るまでその場で待つことにした。
手元のスマホの時計が五時を過ぎた頃、待ちきれずに僕は、カナデさんの家の前でメールを送った。アドレスは機種変更した時からスマホに残っていた。いや、初めてスマホを買ってもらった時にカナデさんに教えてもらったものだ。
山際は白く、新しい一日が始まるのだと確かにそう思わせた。ただそれがいつものように期待に満ちたものだと確信させるものはもう僕の中にはなかった。
しばらく待っていると家の一室のカーテンが少し開いて、カナデさんが顔を覗かせた。僕はできるだけ笑顔で手を振ってみせた。
カナデさんの家のリビングに通された僕は懐かしさを覚えた。テーブルもソファもテレビの配置もかつてのままだった。だけどのんびりとくつろいでいるわけにはいかない。
「おはよう、カナ。朝早くからごめん。先生は?」
「全くよ。久しぶりにメールが届いたかと思えばこんな時間から外で待っているだなんて。お母さんは彼氏のところよ。私には、ピアノ科に行くには全然感情が足りない、もう少し普通科でやるべきことをなさい、とだけ言っておいて、自分は何をしてるのやら……」
カナデさんは僕の様子に少し驚いていたけれど、いくつもの理由で僕が記憶を取り戻したことを悟っていた。一年ぶりにメールを送ったこと。カナというかつての愛称で呼んだこと。カナデさんのお母さんを先生と呼んだこと。
それでも表情の変化が今も乏しかった。今ならわかる。それは僕がカナから天使を奪ったからだ。
「相変わらずだなあ、先生は」
カナのお母さんは、カナと僕のピアノの先生だった。リビングの隣にはピアノの練習室がある。僕も幼い頃から一年前までずっとピアノを習っていた。
「それで……その様子じゃ、何もかも思い出したって感じね」
僕が何かを話す前からカナは僕の記憶について指摘した。
「そうなんだけど……」
僕は、いざカナの前に立つと何から話せばいいか迷っていた。だけど、核心から話すべきだと思った。
「カナは……天使のことをどれだけ覚えてる?」
「天使? あれは私の空想上の存在じゃなかったの?」
僕の口からいきなり出てきた「天使」という言葉にカナは驚きと戸惑いを隠せないでいた。
「空想なんかじゃないよ、決して。隣のピアノの部屋でいつも、カナとカナの天使と僕と僕の天使とで過ごしていたじゃないか」
「だったら……。だったらどうして一年前にみんないなくなってしまったのよ。一年前のあの日、ワタルは記憶をなくしてまるで他人になってしまった。そして私の天使も、ワタルの天使もいなくなって、私がどれだけ寂しい思いをしたか……それだけ悲しんだのかわかってる?」
カナの言葉は震えていた。今にも泣き出しそうなあの表情だ。こんな顔を二度とさせまいと思っていたはずなのに。
「ごめん。それも全部僕のせいなんだ。本当にごめん」
「……ワタルのせい?」
「そうなんだ。そのことは口で説明するよりも、もっと手っ取り早い方法があるから」
僕はそう言いながら、先刻中学校の校庭で拾った光る羽根をどこからともなく右の掌に取り出した。
「……これは?」
カナは怯えた声で聞いてくる。悪い予感が拭えないようだ。
僕の左手がカナの右手をとって、僕は光る羽根を手渡した。
そして二人の脳裏に、かつてここであったこと、僕が記憶をなくした場所であったことが映し出された。
「天使?」
「そう、天使よ。私の天使。ワタルにだってワタルの天使がいる。見えるようにだってなるわ」
二人ともまだ幼いと呼ばれる年齢だった。幼い二人にとっては大きなピアノがある練習室で、カナは僕に語りかけてきた。そしてどこからともなく光る羽根を取り出して僕に手渡した。
"はじめまして、ワタルくん"
"よろしくナ! ワタル!"
その日から僕らと僕らの天使たちとの日々が始まった。それは僕の恋の始まりでもあった。
「うーん、なんで歌詞が全然浮かんでこないのかな……ワタルはちゃんと作曲できてるのに」
「まあ、焦らなくてもいいんじゃない? 少しずつでも作っていけば、いつかそのうち完成するよ」
セーラー服姿のカナを僕は励ましていた。
"そうそう、ワタルくんの言うとおりよ"
"人間には人生経験ってヤツが必要なんだろうナ"
天使たちに励まされてはカナも落ち込んでばかりはいられないようだった。
二人と二人の天使との思い出。
だけどそれは、いずれ収拾のつかない形で終わりを迎えた。
"天使を自分だけのものにする方法を知っているカイ?"
僕の想いを全てお見通しの天使は囁いた。
「僕だけのものに?」
"ワタルにはそれができるンダ。それはネ……"
天使が囁いたその行為がどういう結果を招くのか僕には想像できなかった。ただ天使の囁きに僕は心を奪われていた。
五月の連休明けの中学校でそれは起こった。
よく晴れていたその日、体育の授業中にカナは気を失いそうになった。僕の天使がカナの生気を奪ったのだ。カナは保健室に運ばれて、しばらく横になって眠っていた。
保健室の外の校庭で、カナの天使と、僕と僕の天使とが対峙していた。
"こんなことをして、あなた、一体どういうつもり?"
カナを誰よりも大切に思う天使は憤りながら言った。
"いいんだヨ。これがワタルの望みだからナ"
"ワタルの?"
僕の天使の言っている意味がわからず、戸惑いながらカナの天使は僕の方を見ようとしていた。
"今ダ! ワタル!"
僕の天使がカナの天使の気を引きつけている間に、僕は少しずつカナの天使に近づいていた。
そして……。
言葉にならない悲鳴を上げるのを聞きながら、僕はカナの天使の翼を引きちぎった。翼だけを残してカナの天使は影も形もなくなった。こうすることで、カナの天使に恋い焦がれていた僕の願いが成就されるはずだった。少なくとも僕はそう信じていた。
だけど、次の瞬間、その場に残された僕と僕の天使に空から怒号が響いた。
"お前たち! してはならないことをしてしまいおったな!"
その怒声に僕は全身がバラバラになりそうな衝撃を受けた。なすすべもなく僕はその場に倒れこんだ。消えゆく意識の中、僕の天使がいずこかへと消し去られるのが見えた。
声が聞こえないはずの僕以外の人間にも衝撃だけは伝わったのか、僕の周りに教師や生徒たちが少しずつ集まってきた。
僕はその日、カナからかけがえのないものを奪い、記憶とそれ以上に大切な存在を失ったのだった。
「……今のは?」
カナに手渡していた光る羽根は、その役目を終えたのか、光を失い、その存在もおぼろげになり、消え去っていく。
「僕の罪だよ。カナから天使を奪った僕の」
カナに全てを見せるのはつらかった。だけど僕は精一杯の笑顔を顔に貼り付けてカナに言う。
「カナから奪ったものはカナに返さないとね。天使を返すことはもうできないけれど、天使の翼は返さないと。カナの感情もきっとそれで元に戻る。あの日僕が引きちぎった翼は今も僕の中にあるんだ。そのおかげで僕は取り返しのつかない罪を犯したにもかかわらず、ただ人間関係の記憶をなくしただけで済んだんだ。自分の罪さえも忘れて」
「待って、ワタル。それなら……その翼を私に返してしまったら、ワタルはどうなるのよ!」
カナも僕も、そうすることで僕がどうなるかはわからなかった。ただ、僕が先送りにしていた罰を受けることになるのだと予期していた。
「わからない。だけど僕はそうしなきゃいけないんだ」
「いやよ、ワタル! また私の前からいなくなるなんて、いや! また私をひとりにしないで」
その場に崩れ落ちそうなカナの肩を抱えて僕は言う。
「カナ……ありがとう。……ごめんね」
カナの左肩に添えた僕の右手から天使の翼を取り出し、そのままカナに返した。
自分の中から大切なものが失われて、全身から力が抜けていく。それでもやめるわけにはいかない。もう一つの翼を……。僕は気が遠くなりそうになりながら、左手からも翼を取り出そうとしていた。
だけど……。
"ダメよ"
いつか聞いた優しい声が僕とカナの心に響いた。そしてそのまま僕とカナは気を失った。
僕が再び目を覚ました時、ちょうどカナも気を取り戻していた。リビングには季節の進んだ陽が少し差し込み始めていた。
寝ぼけ眼のまま、カナと僕は顔を合わせた。二人ではっと気がつくとカナは声をあげた。
「ワタル! 大丈夫!? なんともない!?」
「どうやら、なんともないみたい」
大げさなことを言っておいて何もなかったようだ。照れ臭い気分のまま僕は答えた。
「よかった。本当によかった」
カナはかつての豊かな表情を取り戻し、宝石のような涙を浮かべながら眩しい笑顔で言った。
僕たちはお互いの背中を見た。カナと僕の背中には、一対の天使の翼が片翼ずつそれぞれ分け与えられていた。