少女の瞳(め)から雨が降る
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王都より離れた小さな町“キトラ”の、小さな酒場“ベスタ”。ベスタは調理場と向かい合わせの十二席のカウンター席、四つの丸いテーブル席からなる酒場で、こじんまりな、良く言えば整然とした酒場だ。木造の建物で、茶色い木の木目がしっとりとした雰囲気を醸している。
このひっそりとした町酒場ベスタでは、えんじ色のバンダナを頭に巻き付けた壮年の店主と、その娘である艶やかな長い赤い髪を高く結んだ若い女の子、銀髪を一つに短く低く結んだ手伝いの若い男の三人が働いている。
昼間のベスタでは今日もまた、常連の兵士服を着た二人の男だけが、カウンター席に隣同士で腰掛けていた。二人の間には、黒と白の盤面が置かれている。後ろ姿だけを見ると、体格の良い白髪の兵士と、小麦色の髪を一つに短く結んだ兵士が、盤面を囲み、戦いの戦略を練っているかのようだ。
「シンプス、お前の負けだ」
白髪の男“ドゥーガル”はカウンターに肘をつけ、小麦色の髪の男“シンプス”の方へ身体ごと向き、ニヤリとご機嫌そうに笑う。
ドゥーガルは歳相応の皺と頬横の傷、白髪のせいでかなり老けても見えるが、若干くすんだ精悍な顔立ちと威勢の良さで若々しくも見える。
「そんなぁ。強すぎますよ〜、ドゥーガルさん!」
シンプスも上機嫌だ。顎骨に親指と人差し指を当て、目を細め、口をニッと笑わせている。
シンプスは若く見えるが壮年の男で、ドゥーガルとは相反して頼りなさそうな、良く言えば優しそうな顔をしている。
二人は黒と白の盤面をカウンターに二人で囲むように置き、真面目な戦略会議をしている――のではなく、その盤面でゲームに興じていた。
不意に酒場の出入口の木の扉がギィ、と静かに開く音がした。長い小麦色の髪の若い女の子が、片手に真鍮のくすんだ金色をした水筒を持ち、扉の前に佇む。彼女の身を包む可愛らしいワンピースドレスのフリルの裾がそよ風で揺れる。
しばらく彼女は、シンプスと黒と白の盤面を目を丸くして見つめていた。そして彼女の褐色の瞳が震える。
「……お父さん、昼間から何やってんの? 仕事は?」
ようやく口を開いた彼女。その声はか細く、心臓の高鳴りに押し潰された喉の奥底から振り絞ったような声だった。
店主、店主の娘、手伝いの男が緊張の面持ちでシンプスを見る。ドゥーガルだけは、目元に静かな笑みを浮かべ、すました顔で酒を飲んでいる。――その場でシンプス以外が次の展開を正しく予測できたようだ。
「おお、ベル! いや~水筒忘れてたか! はは!」
シンプスは椅子に座ったままベルを見やり、ニコニコと笑った。だが、長い小麦色の髪の女の子“ベル”はシンプスに冷ややかな視線を向け――
「いや、いらないよね? これ」
ベルは、そう静かに言い放った。そして身を翻し、酒場の外へ。扉がバンッと閉まった音だけが酒場に響く。
一瞬の静寂。
「……ベル? おい! ベル!」
ポカン、と口を開けたままだったシンプスがついに椅子から立ち上がった。ベルが怒って帰ったことにようやく気づいたらしい。
シンプスは走る。足を縺れさせながらも、テーブル席に腰をぶつけながらも、酒場の扉を勢いよく開け、ベルを追った。扉は開けっ放しだ。
「……ぶ。面白ぇな。ちょっとちょっかいかけてくるわ」
そう言って次に椅子から立ち上がったのはドゥーガルだ。ドゥーガルはカウンターに紙幣を三枚置き、「シンプスが戻ったら何か出してやってくれ」と一言残し、酒場を離れた。
***
町外れの小さな森。緑色の葉をつけた密度の低い木々が生い茂っている。木と空の隙間から、昼の白い木漏れ日が射し込む。町外れには人がたくさん住むため、森と言えども町外れの木こり達によって歩道が作られている。ここは酒場ベスタと、シンプスとベルの家を結ぶ道の中間にあたる。
ベルは酒場の扉を閉めたと同時に、無我夢中で走ったようだ。だがベルを追いに行ったシンプスは、もうベルのすぐ後ろにいた。
初夏の温い風が森の木々を小さくざわめかす――。
「ベル! 待ってくれよ!」
シンプスが呼び止めると、ベルの足が地に止まった。そしてベルは顔を俯かせ、掌を内側に強く握った。長い髪が顔の横に垂れ、ベルの小さな顔を隠した。
シンプスはそのままベルに走り寄り、大きな掌で後ろ姿のベルの片腕を掴む。
「やめて! 離して!」
ベルはシンプスの大きな手を振りほどこうと、腕を地面に投げるように振った。だがシンプスの手は振りほどけない。
「父さんは毎日遊んでるわけじゃない」
シンプスはベルの後ろ姿を見据えながら眉をひそめ、そう言い放った。そして口を真一文字に結び、視線を斜め下に落とす。
一瞬、ベルの華奢な肩が小さく震えた。
「……遊んでるじゃない」
地面に蔓延る雑草を見つめながら、ベルは息を吐きながら静かに言い放つ。ベルの表情は、髪に隠れて見えない。
「これは、雇い主が――」
「言い訳はやめて。もうお父さんなんて」
ベルの声にやや不自然な抑揚が混じる。
「……仕方ないことなんだ」
「…………じゃあ、嘘つかないでほしかったよ。お父さんの仕事は人を守る誇りある仕事なんだ、なんて」
ベルの声は波打ち、震えた。そして震えた声を落ち着かすためか、静かに溜息をはーっと吐く音が聴こえた。
「……ごめん」
シンプスは小さな声で呟いた。
「……家に帰るから、離して。仕事があるんでしょ」
大きな手が力無く、するりとベルの腕から解ける。そしてベルは俯いたまま、森の歩道を行く。
ベルは小さく一瞬だけ振り返る。シンプスと同じ小麦色の、長い髪の隙間からシンプスの顔を横目で見た。
緑色の森の中、離れていく二人。
***
ひとり、森を歩く少女から零れ落ちる雫は、乾いた地面の薄茶色を濃く色付かせている。ぽつり、ぽつりと。少女はその雫を零さまいと、手の甲を顔へ。そして何度も何度も雫を掬い取ろうとした。
しかし雫は少女の手には留まりはするものの、その手を伝って地面へ零れ落ちる。
「よう。シンプスんとこのお嬢ちゃん」
ベルは足を止めた。そしてようやく顔を上げた。口を真一文字に結び、木にもたれかかり腕を組む見知らぬ大きな男ドゥーガルを上目で見上げる。ベルの褐色の瞳は涙で潤み、光を乱反射している。頬には何度も掬い取ろうとした雫が伝っていた。
「……誰ですか?」
ベルは震える声でそう問うと、眉をひそめた。ドゥーガルはもたれていた木から身を離す。姿勢を正したドゥーガルの背丈は、ベルの背丈をゆうに超えていた。
「シンプスの遊び相手だ」
ドゥーガルは片側の口の端を上げ、静かな笑みを零す。目元の皺も心なしか浮かび上がっている。
「……」
その場に突っ立ったまま、無言を突き通すベル。
「泣いてるのか?」
「あ、あなたには関係ない」
煽るようなドゥーガルの言葉に、ベルは噛みつくように言い放つ。まるで獣の子の、足掻くような威嚇だ。
しかしドゥーガルはそれを物ともしない。
「シンプスは確かに真面目な男だ。だが、この町の豪商に雇われちまったら、平和で暇で仕方ねぇよ。遊ぶことが仕事みたいなもんさ」
「……遊ばなければ、いい」
心臓の高鳴りに押し潰されたような、喉の底からの震える声。ベルの反論。
「それは無理さ。俺らは商人の宝石の一部なんだからな。俺らを野放しにして、宝石を自慢したいのさ」
「……」
「それに、シンプスはあんたのために金を稼いでるんだ。それがなんだ、遊んでいるから情けないだの。何も分かっちゃいない甘ちゃんは引っ込んでろ」
ドゥーガルがそう言い放った瞬間、ベルの瞳が大きく揺れた。ベルの瞳から大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちる。
「……憧れてたのに、ずっと。心の中で、憧れが崩れる音がした」
そう言い残すと少女は、兵士の前から静かに走り去った。――森の中では少女の足音だけが響いた。