ヒーローと探偵――19.ここはお前に任せるから先に行く
目の前にはカードがあった。妹の生き死にを決めるカード。さしずめ戦時中の赤紙のような、死の淵へと送るための書類だ。
妹は昔保険の授業で貰ったと言っていたが、年は三つしか離れていないのに、俺の時にはそんなものは配られなかった。
脳死後の移植の意志を示す「臓器提供意志表示カード」、妹はそれに脳死判定後に全ての臓器を他人に譲ることを示した。そして、家族の署名の欄には俺の名前が書いてあった。
忘れていたが、妹に頼まれて俺はカードに名前を書いたんだ。多分その時は妹を素晴らしいと思った。照れくさくてそんなことは口に出来なかったが、凛とした目で、ただの気まぐれではなく本気でそれを望んでいる妹を、俺は尊敬さえしたんだ。
でもきっと、心の中ではそんな事態になるなんて思いもしなかった。覚悟もなく俺はサインをした。
「これで私もお兄ちゃんみたいになれるかな」笑顔で言ってくれたその言葉も、俺は最近まで忘れてしまっていた。
だから、医者にカードのことを話すとき、心の中では妹の意志を否定していた。
ずっと生きていて欲しかった。一秒でも長く生きていて欲しかった。
両親が死んで、お前までいなくなってほしくなかった。
でも、お前が目覚めないって言われて、俺はもうお前に意志を聞けなくなってしまった。だからあのカードだけが俺が叶えてやれる、最後の望みだった。
「あの時から俺は、自分が何をしたいのか分からなくなった。気がつくと、全てを捨てたくなっていた。自暴自棄ってやつかな」
仮町はあの日の前日譚のようなものを語り、自虐的なことを言った。
「どんなに綺麗ごとで埋め尽くしても、結局は妹を殺したのは俺なんだ。最後の選択は俺がした。なのに実際に手を汚すことはできなかった」
情けなさを悔やんでいるかのように、小さく掠れた声で仮町は言った。
「なあ、俺みたいのが生きてていいのか?」仮町は不安げに聞いた。彼らしくない、弱々しい声だった。
「分からん」
「辛辣だな……。普通はもっと優しい言葉をかけてくれんじゃねえのか?」
「分かるわけないよ、そんなこと。それでも、そんな風に不安になりながらも、生きていくしかないよ。不幸にも僕たちの周りには、僕たちがいなくなることを望んでくれている人は、一人もいないんだから」
明日どうなるか分からない僕に、生きてくれと言ってくれた人がいた。僕が死のうとしたときそんな人がいた。それだけで死なない理由には事足りてしまう。
「死んでいいかどうかなんて、生きていいかどうかなんて、僕たちが決めることじゃない」
僕は多分これが言いたかったんだろう。それが言いたいがために、回りくどい推理まで披露したんだ。
「君の妹さんが死を決めたのだって、正義感やましてカードなんかじゃない。君みたいになりたいっていう憧れだったはずだ」
僕は立ち上がり、そっと振り向いて「またね」と言った。そしてそのまま歩きだした。
言いたいことは言い終えてしまった。ここにいる理由はもうない。気がつけば夕暮れ時だ。そろそろ家に帰りたくなった。
僕を待っていてくれる人がいる、あの家に帰る。足取りは軽く、晴れやかな気持ちだった。