地球の重力と彗星の引力――11.地球への帰還
人類は大きな希望を抱き、宇宙へと進出した。一九六一年四月十二日、ユーリイ・ガガーリンは人類史上初の宇宙への旅立ちを成し遂げ、ヒーローとなった。宇宙飛行士たちは夢を抱き、人々に夢を与えてきた。けれどガガーリンだって、宇宙で地球を見たとき、あの有名な台詞を言ったとき、「地球に帰りたい」と思ったはずだ。
確証はないけれど、そう確信している。
旅に出るには、帰る場所が必要だから。逆に言えば、帰る場所があれば人は宇宙にだって行ける。
「帰るまでが遠足とか、そういう話か?」僕が話した壮大な語りは、仮町の耳を通るとスケールが小さくなった。彼の耳には特殊なフィルターがあって、そこを通った言葉は誰でも分かる簡単で優しいものになるようだった。この世で一番素敵な耳だと思った。
「まあ、そんな感じ」僕の言葉は堅物で、自分が理解することしか考えていない、身勝手なものだ。だから簡単に彼の言葉を受け入れた。
「僕は帰れたんだよ。だから生きていた。無重力になって、地球の引力から見放されても僕は別の引力で地球に戻ったんだ」
僕の意味不明の言葉は、仮町のフィルターを通っていった。
「は?いや、そんな、おかしいだろ。そんなのあり得ない」
顔を引くつかせながら、唖然とした顔で僕を見ていた。
「そうじゃないだろ」僕は低い声で落胆を示しながら「僕の言葉を理解できたなら。君の言葉で表現しなおしてくれ。謎解きの解説は君にお願いしたいんだ」そう懇願した。
ワトソンの情けない願いを、ホームズは天を仰ぎながら答えた。
「お前は、飛んだ時母親に体を抱きかかえられたんだ。フロントガラスに向かって飛んでいくお前を、母親はキャッチした」
僕は事故の映像を思い浮かべた。自動車会社が行うダミー人形の事故映像を。後部座席に乗る子供の人形がフロントガラスにぶつかる。でも僕は助手席に乗る母に捕まえられたからぶつからなかった。そして僕を体全体で包み込み、守った。
「でも、あり得ないだろ。事故の衝撃の中で、後ろから飛んできたお前を捕まえるなんて。それに事故なんて一瞬の出来事だ。そんな推理馬鹿げてる」
仮町は次第に声を張り上げながら、訴えてきた。
「でも事実だよ。可能性を一つずつ消していけば、残されたものがどんなことであれそれが真実だ」
昔読んだシャーロックホームズの中に、こんな台詞があったことを思い出しながら言った。
「証拠として、僕は生きている」
それが全てだった。シャーロックホームズの言葉なんか借りなくたって、それだけで説明がつく。
「じゃあ、その推理に確信があるんだったら、お前の言う一パーセントの疑念ってのはなんなんだよ」
「君と同じだよ。こんな推理はあり得ない。そう思っているんだ。だから困ってる。思い出した記憶はあり得ないことばっかりだ。認められないものばっかりだ。僕の頭が狂ってるんじゃないかと思ってしまう」
僕の推理に、僕が納得できていない。それが問題だった。
「君なら理解できるんじゃないかと思ったんだ」
「どうして?」
「これは家族の話だから。家族のことをあんな風に素敵に語る君にならと、思ったんだ」
それは建前だった。ただ僕が相談できる相手が仮町だけだっただけだ。潟元夫妻に話を出来ない情けない僕は、彼に頼るしかなかった。
「理解できねえよ。あり得ないと思ってる。でも、そうだったらいいと思う」
仮町は笑顔で言った。嬉しそうに、楽しそうに。
「思い出話に事実かどうかなんて関係ないさ。お前は母親の愛によって助けられた。その答えにケチをつけて、粗を探すなんて矜持に欠ける」
僕は「そうだな」と呟いて、砂場できらきらと輝く砂を見ていた。いや、本当はそんなに輝いていたわけではない。でも、そう表現してもいいと思った。
「もし君が僕だったら、こんなことすぐに思い出してしまったんだろうな。いや、忘れることさえなかっただろう」
「どうしてそう思う?」
「君は家族を大切に思っている。僕にはあんな風に家族を語ることができない」
それがホームズとワトソン、酸素とアルゴン、僕と仮町の違いだった。大きな、越えられそうにない、違いだった。
「いつか僕も君みたいになれるだろうか」僕もいつか、友人と呼べる人間に、潟元夫妻のことを嬉しそうに語ることが出来るだろうか。それは難しいと分かっていた。自分の欠点を、人間性を、誰よりも理解しているのは他ならぬ僕自身だからだ。
「そいつは嬉しい言葉だがな。お前は別に俺みたいになる必要はないと思うぜ」
「なぜだ?」
「お前は俺の言葉を聞く前から、その思い出に確信があったんだろ?お前が俺に話を聞いて欲しかったのは、疑念がどうとかは関係なくて、母親の自慢をしたかったからさ」
僕はそう言われて、恥ずかしくなった。心の奥底の方に、そんな気持があったことに気づいたからだ。言ってしまえば図星だった。
「回りくどくて、素直じゃない、お前らしくていいと思う」
僕は仮町の白い歯を見ながら、彼の言葉に感謝した。
「でもよ、そういう話は俺なんかじゃなくて、今の家族に話してやれよ」
家族と言われて頭に浮かんだのは、両親ではなくて、潟元夫妻だった。そのことに大して驚いていないことに、驚いた。
「だめだよ。僕は夫妻とどういう顔で話をしたらいいのかも分からないんだから」
僕は一生彼らの前で戸惑ったまま、彼らに恩返しも出来ないまま生きていくのかもしれない。そんな予感がする。
「どんな顔だって構わねえだろ。お前の顔はお前の親がくれたもんじゃねえか」
それは月並みで、言うのも憚れるような恥ずかしい言葉だった。聞いているこっちの耳がこそばかゆくなるようなものだった。でも、なんだか嬉しくて、僕が見ようとしなかった言葉を、彼がそっと掬い取って丁寧に見せてくれたようだった。
「夫妻は喜ぶかな。僕がそんな話をしても」不安だった。どうしようもなく怖かった。突然何の話をするのかと驚き、僕を不気味に思うのではないかと。
「そんなことは気にしなくていい」
そう諭されたけれど、ここで気にしない人間は僕ではなかった。
でも、僕は答えを知っていた。母の日の出来事を聞いてくれた价子さんの表情を見て、僕はもう分かっていた。
そんな当たり前の答えに気づくのでさえ、僕は誰かの手を借りなければいけなかったことに酷い敗北感を覚えた。
「君の妹に今度会わせてくれ」僕の脈絡もないお願いに仮町は少し驚いた様子だったが、すぐにいつもの笑顔を見せた。
「いいけどよ、突然どうしたんだ?」
「なんでもないよ。ただ僕も君に何かしたいと思っただけ」
僕に答えを示してくれた彼に、対抗意識を燃やし、何かを彼に与えたかった。僕は自分の願望を確認し、立ち上がった。
「もう帰るのか?」
「ああ、早く夫妻に会って、話がしたくなった」
ベンチに座ったままの仮町を置いて、僕は歩き出した。背後から「妹の見舞いは来週の日曜にしよう」と声をかけられた。僕は振り返ることなく右手を振って応えた。
僕は今日、家に帰ったら、ただいまと言おう。話したいことを話すことが出来なかったとしても、それだけはして見せよう。
心に固い誓いを立てると、しっかりと地面を踏みしめて、僕は歩いた。