鎮め雪
雪が舞う。
雪が舞う。
さらさらと雪が舞う。
あの人との約束の
雪が舞う。
お願い。
ほんのひとひらでいいから。
伝えて届けて知らせて。そして。
私の名をあの人が呼んでくれるように。
細い銀の束がしゃらりと鳴る簪を、一部分だけ結い上げた漆黒の髪に挿し、淡い白金の小袖には紫の紗を纏う。
永劫、変わらぬこの異界。
社を通じて人の世と交わる、時の流れぬ場。
紫の君は麗しき高貴の君。
朱唇から洩れる吐息もあえかで悩ましく。
今日も戯れの恋に興じる。立てかけた、銀の満月と野の草花が描かれた屏風の向こう。
相手は紫の君に戯れられるをむしろ喜び、泡沫の恋に身を投じる。切れ長の眼に見つめられれば硬直し、白魚のような指で触れられれば心が蕩ける。
主が恋に興じる間、御使いである一対の白い子狐たちは屏風のこちら側に控え、その尻尾をふさり、ふさりと左右に揺らして時を過ごす。
ところがいつからか紫の君は恋に酔えなくなった。暇潰しの酩酊を、得ることができなくなった。
永劫を楽しむ術を他には知らぬ。
これではあまりに虚しいではないか。
紫の君は訪なう者たちと逢わなくなった。
代わりに、紫の君の心は外界へ。人の世へと向かった。
永く変わらぬこことは違い、人の世には四季というものがあるという。
春が巡り夏が来て秋になり、そうして冬に至る。
紫の君が知らぬものだ。
春にほころぶ桜の爛漫も。
夏に垂れる藤の花房の艶も。
秋に染まる紅葉の鮮烈も。
そして、冬に舞い降りる雪の清さも。
全て全て、紫の君は知らない。
知らぬでよい、と永きを過ごしてきた紫の君が、それこそ物狂おしい恋をしたかのように、嵐のように唐突に、それらを見たい、知りたいと渇望した。
こんなことは今までになかった。
心に焔が灯るような、こんな熱があるものなのか。紫の君は戸惑い、けれど不思議に心地よいと感じた。
紫の君が初めて、社を通じて行った人の世。
時は春。桜咲く、花曇りの日であった。
「生きた花とはかようなものか」
何とまあ美しい。
何とまあいじらしい。思わず手のひらで握り潰したくなるほどに、それほどに可憐だ。
紫の君は境内の桜の一枝に手を伸べて、自らの情動を笑った。
稚いものは哀れを誘い酷薄な心を刺激し、そして愛でる気持ちを生じさせる。
時は夕刻で、陽が沈まんとする黄昏時。
春の突風がびゅうと吹いて、紫の君の髪を乱した。紫の君の目の前を、己の黒髪が流れた。その、漆黒が静まった。
紫の君の眼前の景色に、それまでになかったものがあった。
呆然と立っているその若者は、紫の君が初めて出逢った人の子だった。
その、洋装の若者は、驚いたように紫の君を見ていた。紫の君は何恥じることもない、という、常と変らぬ尊大な態度で言った。
「控えよ、人の子。そなたはわらわの姿を直視するに値する男か」
若者はますます驚いた顔をしたが、紫の君の迫力に押されたのか素直に詫びた。
「あ…、不躾に見てすみません。あまりに…綺麗で珍しい恰好をされているから」
このてらいのない称賛に、紫の君の胸はすいた。仄かに温かくもなった。
媚びへつらわれ、誉めそやされることに慣れてはいるが、こんなに純朴な言葉はついぞ聞かない。紫の君が心より微笑むと、若者は顔を赤くして目を逸らした。
花曇りの、それが二人の初めての邂逅であった。
それからしばしば紫の君は境内まで出るようになり、若者と逢瀬を重ねた。若者は初め、迷うような素振りを見せていたが、やがて屈託ない笑顔を紫の君に見せるようになった。 逢瀬と言っても戯れの恋とは程遠い、児戯のようなものだ。
二人は境内の池の鯉を眺めたり、藤棚の蔓に手を置いて他愛ないことを語り合ったり、飛んでくる蜂に互いに驚き、一瞬のちには顔を見合わせて笑い合ったりした。
暑い夏にも若者は社を訪れた。
時折、若者が青ざめた顔で腹部を押さえるのが紫の君には奇異に映ったが、あまり気にしなかった。
紫の君は人の世を知らない。
若者の年代であれば仕事に出向く刻限に、社に来ることを不思議とも思わない。
紫の君にとって、恋とは、尤も、これを恋と呼ぶのであれば、と紫の君は笑いながら思うが、恋とは相手が己に合わせて敬い逢いに来ることが至極当然のものであったからだ。
紫の君は若者と手も握らない。
何となく、軽々しく触れたくなかったのだ。
触れられたくなかったのではない。触れたくなかったのだ。
それを悔やむ日が来るとは、夢にも思わない。
社の裏手の山が赤く燃えるようになった時。
初めて若者が紫の君に触れようとした。
唇と、唇が触れた。
紫の君の胸が、燃えた。
人の世を熱望した時よりもなお熱く。
狼狽えた紫の君は紫の紗を翻し、異界へと駆け戻った。心の臓が狂ったように鳴り響いているのが解る。
――――――こんな想いは知らなかった。
こんな想いは知らなかった。
これはいつもの戯れの恋とは違う。
泡沫の恋とは違う。
もっと。
もっと激しく、それでいて純なものだ。
生粋の塊だ。
紫の君はしばらく、社には出向かなかった。
己の心の紅葉を、持て余していたのだ。
赤い赤い葉が、紫の君の心に舞う。
それは紫の君さえ焼き尽くしかねないほどで、紫の君はふと思った。
雪の降る人の世であれば。
この熱も鎮まるのではないか。
己は常の毅然とした心を取り戻すのではないか。
雪は清らかに天から舞い降りるという。
冷たい凍てつきで過剰な熱を除いてくれるのではあるまいか。
紫の君は、冬を待った。
冬になればまた、あの若者に会えると思っていた。
そして待ち侘びた冬が来た。ひりりと寒い冬が来た。
紫の君はいそいそと社を通じて人の世に出た。果たして若者はいつものように境内に立っていた。
「…おお」
久しいな、と続けようとした紫の君の声を若者が遮った。
「何でだよ!?」
紫の君は瞬いた。
「いきなりキスしたのは悪かったよ!でも、だからって何でこんなに長い間、来てくれなかったんだよ!!俺には……」
若者はそこまで叫ぶと身体をくの字に曲げて胃の中の物を吐いた。そのまま、吐き続ける。紫の君は狼狽えてその背をさするばかりだ。やがて落ち着いた若者は弱々しく言った。
「俺にはもう、時間がない。俺、スキルス性の癌なんだ。もう、あといくらも生きられない」
紫の君は再び瞬いた。
この若者は、何を言っている?
生きられないと、今、そう言ったのか?
――――――――莫迦な。
何か、何か言わねばならないと思った。そう、雪だ。己は雪を見たいと思っていたのではなかったか。雪が降れば全て良くなる。
「何を。何を言う。そなたは若い。もっと生きられる。生きて、ともに雪を見よう」
「雪…」
「そう。雪だ」
そう、雪だ、と紫の君は胸中で繰り返した。
「雪が降ったら、また逢おう。逢った時には、わらわの真の名を教えるゆえ。それゆえ、それまで達者でいよ」
真の名を教えるとは、相手に己の命を委ねるも同じこと。若者は黙っていたが、やがてこくりと頷いた。なぜ若者が泣きそうな顔で笑っているのか、紫の君には解らない。
けれど少し、ほっとした。
紫の君は、雪が降るのを待った。
雪が降るのを待った。
しかし雪は若者を連れてこない。
連れてこない。
来る年も来る年も、紫の君は雪が降る日を待ち続ける。