5話 定義する者 命名する者
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つまり2話分。こりゃあお得だっ! ……いえ、なんでもないです。
エリシムールに〝命名〟をばっさり切り捨てられてしまった虎太郎。そしてそれを見ていたサリナルヴァは何を思う?
彼が――虎太郎が私の元に来てから、2回目の朝が来た。
今日からは、いよいよ虎太郎に〝万象命名士〟の仕事を手伝ってもらうことになる。
ことになる、と言っても、決めたのは他でも無い私なのだけれど。
正直、虎太郎はどこにでもいるであろう凡庸なタイプの人間だ。
特出したセンスもなければ、取り立てて落ち込んでいる能力もない。強いて言うなら、この仕事には向いていない優しい人間であるのだろうということは、初めて会った時の彼の反応で感じ取っていた。
だが、それも特筆すべきことではない。彼のような人間は、それこそ何十人も見てきた。
彼のように希望を持ってこの仕事に携わり、天界人との軋轢と良心の呵責とで疲弊し、新たな仕事を得て『下界環境補整塔』を去っていく姿を――私、サリナルヴァは何十人も見送ってきた。
季節が変わっても、年が過ぎても、私は独りで彼らを見送ってきた。
勘違いされたくないから、一応弁明しておく。
私は別に、独りになるのが苦痛というわけではない。誰かと仕事の苦楽を共にしたいとか、そういうことを願っているわけではない。
ただ――不安だったのだ。
幾度も、幾度も繰り返されてきた転生待機者の離職。
天界人さえ志願せず、私の管理塔は万年人手不足。……いや、不足どころか、私しかいない時が圧倒的に多かった。
もしかしたら、私の教育が悪いのではないだろうか。
トップにいる私が下手を打っているせいで、皆が離れて行っているのではないだろうか。
私が段取りよく〝万象命名士〟について教えれば、皆残ってくれるのではないのだろうか。
そんな希望を持って、新人が来るたびに手を変え品を変え、教育を施した。
最終的に疲れたような目で離職されても、何度でも教え続けた。
諏桜虎太郎は、そんなときに私の前に現れた。
黙っているつもりはなかった。
彼の前任の〝万象命名士〟を教育するとき、いきなり沢山教えすぎてパンクしてしまったから、少しずつ教えていく予定だったのだ。
まずは基本を教えて。
仕事の様子を見せて。
実際にさせてみるときも、厄介そうな人は避けて、温厚な人を虎太郎に任せた。
そうして、少しずつ慣らしていくつもりだった。
ある程度接客に慣れたら、〝命名〟の持つ役割について教えたり、偏屈な訪問者とも顔を合わさせたりして、無理のないように育てていくつもりだったのだ。
その、予定だったのに……
***
エリシムールとの応酬のあと、俺は上司から「今日は疲れただろうから先に上がっていて」と言われ、仕事場を追い出されてしまった。
まだ日も高いし、仕事を続けようかとも思ったのだが、顔色どころか唇まで紫に染めて言葉をかけてくるサリナルヴァに進言することなどできるわけもなく、俺はおとなしく彼女の言葉に従うことにした。
それに、1人で考えたいこともあったしな。
サリナルヴァに退出する旨を伝えて部屋を出たあと、俺は自室へ戻ろうかと一歩踏み出し――そのまま回れ右をして『下界環境補整塔』を出た。
余談だが、〝万象命名士〟として仕事をすることに決まった後、サリナルヴァは館の中に俺が寝泊まりするための部屋を用意してくれた。
他に住んでいるのは、同じく『下界環境補整塔』に勤めているサリナルヴァただ1人だけ。
一つ屋根の下に異性と2人、といった状況に違いはないが、まるで城のように大きな建物の中に住人が2人っきりというのは、落ち着かなさを通り越していっそもの寂しくさえ思えてくるのだから不思議なものである。
そんなわけで考え事をするには自室は都合のいい場所ではあったが、閉塞した空間だと却って悪い考えしか浮かんでこないだろうと思い、塔の外に出ることを選んだのだった。
「『万象』か……」
歩きながらひとりごちる。
万象――昔、それを冠したシール付きチョコが流行ったことがあった。
そのお菓子で初めてその言葉を知り、辞書で意味を調べたことがある。
よく耳にする使われ方で言うならば、森羅万象。
この世に存在するありとあらゆる事象、という意味を持つ言葉だ。
〝万象命名士〟とは、即ちこの世のありとあらゆる現象を齎すことができる力を持つ仕事。俺はそう思っているし、実際その通りなのだろうとは思う。
けれど。
『下界の人間に差し障りのねえ現象だけ〝命名〟する。そんなのは〝万象〟を命名する者じゃねえ、ただの〝現象命名士〟だよ』
エリシムールの言葉が棘のように刺さっている。
サリナルヴァは、〝万象命名士〟が〝命名〟しない限り地上に現象が放たれることはない、と言った。その規模を確定するのは〝万象命名士〟だとも。
だがエリシムールは、〝万象命名士〟は依頼人の〝定義〟に手を出してはいけない、ただ承認するのが仕事だと言った。
相反する2人の言い分。どちらを信用するかと問われれば、それはやはり上司であり〝万象命名士〟の先輩でもあるサリナルヴァの弁だ。
俺も彼女を信頼したいし、彼女の言葉が正しいと思っている。
それだけに、『サリナルヴァなら文句ひとつなく承諾した』という言葉が信じられなかった。
サリナルヴァはあの大災害をそのまま〝命名〟するというのだろうか。
理解が追いつかない。〝命名士〟は災害の規模を交渉することができるのではなかったのか。
それを交渉もせず、そのまま下界に送り出すと。サリナルヴァだったらそうするというのだろうか。
結局、災害を減らせるかもという俺の意気込みも自信も、見当違いな思い込みだったのだろうか。
(うーん……ダメだな。結局ネガティブな考えになってるし)
目の前に延々と続く憎らしいほど輝く白街を目に、俺は考えを追い出すように頭を振る。思考がぼんやりするほど振って、次は何を考えようかと考え出した時、不意にぽんと肩を叩かれた。
「やっ。さっきぶりだね、新米〝命名士〟くん。難しい顔して、何か考え事かな?」
少女と聞き間違えそうな高めのボーイソプラノ。のろのろと頭を上げてみると、麗かな陽光のように笑みを浮かべる少年と目が合った。
「……君は確か、さっきサリナルヴァの館にいた?」
「憶えていてくれてうれしいよ、虎太郎」
それは、先刻俺が〝命名〟を担当した茶髪黒瞳の少年――ウェルマだった。
「エリシムールの相手をしたのかあ。それは大変だったね」
ウェルマが苦笑いを湛えた表情をする。
「それで虎太郎は、あんなむつかしい顔をしてこの区画を彷徨っていたんだね。普通〝命名士〟はこんな所にまで来ないから驚いたよ」
「……どちらかというと、考え事をしながら歩いていたら道に迷ったんですけどね」
頬を掻きながらウェルマに返すと、彼は一層困ったような笑みを浮かべた。
「敬語なんて使わなくていいよ。それにしても、思考に迷い道にも迷い、か。踏んだり蹴ったりだね」
そう言って、ウェルマは道端にすとんと腰を下ろす。俺もそれに倣って彼の隣にしゃがみ込んだ。
ウェルマが言うには、ここはウェルマたちが働いている区画らしい。しかも今いる場所は居住区に近い場所であり、普通は他の職場に配属されている人間が訪れることはまずない場所であるため、俺がふらついていることに驚いたのだそうだ。
いや、まあ俺も意図してこの区画に入り込んだわけではないのだが。地図を持ってはいるけれど、既に現在地がどこか分からないし。
「〝命名士〟の所にはいろんな人が訪れるからさ。虎太郎はまだ初日なんでしょ? ショックを受けるのも仕方がないと思うよ」
そう言って笑いかけてくれるウェルマ。
心から気遣ってくれているということがオブシディアンの瞳からも伝わってくる。それは俺が彼に初めて顔を合わせた時に感じた温かさそのものであり――だからだろうか、俺はそんなウェルマに引っかかるものを覚えてしまう。
「ウェルマ……その、1つ聞いてもいいかな」
「僕に答えられることなら」
そう言って柔らかく微笑むウェルマに、俺は先程から引っかかっていた疑問をぶつけることにした。
「ウェルマは、どうして土砂崩れの〝命名〟を依頼してきたの? 俺の勝手な偏見かもしれないけど……ウェルマは、その、人の不幸を喜ぶ人じゃないよね」
見た人10人中10人がほっこりするような笑顔をもつ少年。それは表面的なものではなく、今もこうして一度顔を合わせただけの俺を慰めるために時間を割いてくれている。
こんなに心優しき少年が人の命を奪う規模の土砂崩れを進んで依頼するわけがない、と思うのは、俺の単なる希望かもしれない。
もしもこの善良な少年が「下界の人間を潰して回るのは僕のストレス発散なんだよ☆」とか言ったら、俺はどうすればいいのだろうか。
少なくとも、今日はちょっと立ち直れなくなる気がする。
そんな感じで緊張していた俺の耳に、「えっと」と少しくぐもるような声が届いた。
「そう思ってもらえるのは嬉しい、かな。……うん、確かに、僕は下界の人を不幸にしたくて〝命名〟をお願いしているわけじゃないから」
「じゃあ、どうして土砂崩れなんて〝定義〟をしたの?」
そう問いかける俺に、ウェルマは笑みを引っ込めて真剣な表情を作った。
「それが僕の仕事だから」
「ウェルマの仕事……?」
「そう。……下界には、運転士っていう仕事があるらしいね、虎太郎」
「え? う、うん」
唐突な話題変換に、俺は虚を突かれて生返事をする。
「バスを運転する運転士、船舶を運転する操舵士、飛行機を運転する操縦士。これらは皆、お客さんを遠くに運ぶ仕事だね。それに伴って、多量の温暖化物質――CO2とかだね――や窒素酸化物、硫黄酸化物といった悪性の物質を生み出している」
言葉を止めて、ウェルマは俺の顔をじっと見つめる。
「彼らの仕事の目的は、悪性の物質で環境を破壊することなのかな」
「……いや、それは違うと思う」
俺は少し考えて首を振った。しかし考えるまでもなかったのかもしれない。
ほぼすべての運転士にとって、仕事の目的は『客を遠くへ運ぶこと』であるはずだ。勿論他の理由を持つ人間もゼロではないだろうが、環境破壊のためにその仕事を選んだ、なんて人間は常識的に考えてありえない。
「僕も同じ……かな。綺麗事を言うつもりはないけど、人を殺めるのは一番の目的じゃあない。僕の仕事は、あくまで現象の〝定義〟。そういう意味では、僕は虎太郎のことを裏切らないで済んだのかな」
そう言って、にこにこと笑うウェルマ。
俺はこの少年にどのくらい気を遣わせてしまっているのだろうと考えると申し訳なくなってくるが、おかげで少しだけ気持ちが晴れてきた。
話を聞いてもらったからなのか、彼の温かな人柄に触れたからなのか、その理由を決めることはできないけれど。
これ以上時間を割いてもらうのは流石に悪いなと思った俺は、最後に1つだけ質問をすることにした。
「ねえウェルマ。俺は君の〝定義〟に口出ししちゃったけど……そのせいで君は何か面倒事を被らなかったかい?」
口に出してから、随分と気弱な質問だなと自嘲する。エリシムールの『〝定義〟は俺たちの仕事』という言葉を、存外引き摺っているのかもしれない。
そんな、少し後ろめたい気持ちで尋ねた俺に、ウェルマは「大丈夫だよ!」と朗らかに笑った。
「全然こっちでカバーできるレベルだから、虎太郎が気にする必要はないよ!」
「……やっぱり、不都合はあったんだね」
消沈する俺に、ウェルマは「んー」と顎をさすって、
「裏を返せば、それが虎太郎に対するサリナルヴァの指導方針なのかもね」
と呟いた。
「指導方針?」
「うん。あー、ここから先はサリナルヴァに訊いてもらった方がいいかも。僕の思った通りの方針なら、虎太郎がエリシムールに応対したのは多分サリナルヴァにとっても予想外の出来事だったと思うし」
「予想外……」
「うん、多分だけどね。それに君の上司は他ならぬサリナルヴァだ。仮令僕が百の推測を並べたところで、彼女に一度真意を聞くに勝ることはないだろうさ」
さてと、と言ってウェルマが立ち上がる。
「そろそろ『下界環境補整塔』も休息の時間に入る頃だ。早く戻らないと、サリナルヴァが心配するよ」
そう言われて、俺は空を見上げる。しばらくぶりに見た空は、いつの間にか日が地平線の真上まで落ちており、綺麗なグラデーションを描いていた。
サリナルヴァの館を出た時はまだ日が高かったことを考えると、随分と長い時間歩き回っていたようだ。
サリナルヴァもまさかこんな時間まで外をほっつき歩いているとも思わないだろう。もともと『疲れただろうから』と気を遣ってもらっての早上がりなのだ。早く戻らないと大目玉を食らうに違いない。
しかし、ここで1つだけ大きな問題が発生していた。
「戻りたいんだけど、自分がどこにいるのか全く分からないんだよね……」
地図を取り出しながら困り果てて呟くと、ウェルマは「それも大丈夫だよ!」と明るい声をかけてきた。
懐から筆記具を取り出し、地図に薄く丸を付ける。
「今いるのはここ。で、『下界環境補整塔』はあっちの方角なんだけど……帰り道については、きっと彼女が教えてくれるよ」
そう言って持ち上げられた掌の先を見ると、いつの間にかそこには金色の髪をもった見覚えのある女性が佇んでいた。
「アルミナ……いつからそこに?」
「いつからそこにと問われれば、虎太郎とウェルマが話し始めた時からと答えるほかないわね。そもそも右も左も判らない貴方を1人で出歩かせられるわけないでしょ」
そう言ってやれやれと肩をすくめるアルミナ。ということは、館を出た時からずっと後ろについて来ていたということか。全く気が付かなかった。
「帰る手段も確保できたみたいだし、僕はもう行くね。あ、そうだ虎太郎」
くるりと背を向けたウェルマが顔だけ振り返り、にこりと微笑む。
「君はまだ新人だ。勝手が分からなくて戸惑うこともあるだろうけれど、そんなもの無視して思った通りに突っ走るのも新人の特権だよ。少しずつ仕事を覚えながら、虎太郎の思った通りに〝命名〟すればいい。フォローなんて僕たち先輩がいくらでもしてあげるさ」
流石に〝定義〟を修正されまくるのは勘弁だけどね、と冗談めかしてぺろりと舌を出す。そんな茶目っ気のある表情のウェルマに、俺は内から込み上げてくるものを感じた。
それが目元に届く前に何とか呑み込んで口を開く。
「……ありがとう、ウェルマ」
絞り出すような声になってしまったが、ウェルマはにこりと温かく微笑み、街の中へ姿を消していった。
後には俺とアルミナと、僅かな風の音が残る。
「帰ろうか。……案内してくれる? アルミナ」
「当然。そのためについてきたんだから」
そっけなく言って、踵を返すアルミナ。すたすたと歩き始める彼女を追いつつ、俺はふと思ったことを尋ねてみる。
「そういえば、アルミナもサリナルヴァが意図的に訪問者を選り分けていたことに気付いていたのかな?」
エリシムールの命名を受けた時、彼女が苦々しげな表情をしていたことを思い出す。
ひょっとしたら、彼女もエリシムールの〝命名〟を俺にさせるつもりはなかったのかもしれない。
「そうね。とは言っても虎太郎の上司はサリナルヴァだから、その方針に口出しする気も貴方に告げ口する気もないわ。知りたかったら彼女本人から聞きなさい」
ウェルマのようなことを言いながら、アルミナは歩を止めずにそう返してきた。
(教えてくれてもいいのに……)
若干不満ではあるが、考えてみればアルミナはさばさばとした気性の持ち主であろうし、そもそも彼女は〝万象命名士〟になるまでの案内役であって、厳密には『下界環境補整塔』の人間ではない。
そう考えると、こうして世話を焼いてくれているだけでもありがたい……のか?
「ペース落とすとまた迷子になるわよ」
「わ、わかってるってば」
返事をしつつ、俺は脚の長い同伴者に置いていかれないよう早足に切り替えて追いかけるのだった。
日没後の館に戻った俺を襲ったのは、弾丸のように飛び込んできたサリナルヴァだった。
「……ええと、サリナルヴァ?」
「…………心配した。出て行ったかと思った」
「ええと……ごめんなさい」
「…………私も。ごめんなさい」
「…………」
「…………」
「サリナルヴァ。虎太郎が困っているわよ。放してあげなさい」
「……うん」
返事をしつつも、がっちりと俺をホールドしているサリナルヴァ。
放す気はないらしい。
「ごめん、虎太郎。……私は貴方に黙っていたことがあった」
「黙っていたこと、ですか?」
俺に引っ付いたまま、サリナルヴァは訥々と語り始める。
やはりサリナルヴァは、訪問者の中から温厚な人物――それもサリナルヴァと馴染みがあって融通の利きそうな人物だけを選んで俺に回していたらしい。
〝命名〟による下界への影響とか、〝定義〟を変更したことで起こるしわ寄せとかいった複雑なことは考えず、まずは訪問者と顔馴染みになったり、〝命名〟に慣れたりしてほしかったのだそうだ。
だからこそ自分が不在の時にエリシムールが来たことは想定外で、さらに俺が彼の〝命名〟を担当してしまった場面を見た時は足下の地面が崩れ落ちるような錯覚を覚えたのだという。
「まだ教えるつもりは、なかった。……でも、それで虎太郎が不快な思いをした。だから、私は全部話したい。この仕事のこと」
顔は見えないが余裕のない声音。いつもは草のこすれるような穏やかな声も、まるで雨の降る前のような、強い風にあおられる草木のように不自然に震えていた。
そんな様子を見ながら、俺は小さく首を振った。
「いえ、結構です」
「え……っ」
ぱっと顔が上がり、捨てられた子犬のような瞳が濡れ始めてくる。その様子で俺はやってしまったことに気付き、慌てて補足する。
「いや、辞めるから結構と言ったわけではなくてですね。サリナルヴァには俺に教える手順というものがあったんでしょう? だったら、その手順のまま教えていただければいいです」
「……まだここで働いてくれるの?」
「3日目で仕事を投げ出したら、いい笑い物ですよ」
どうせ次の仕事が見つかるまでは辞められないしな、とは言わないでおいた。今のサリナルヴァの瞳を見ていると、ものすごく深読み、というか曲解されそうだし。
「それに、俺も〝万象命名士〟を投げ出すつもりはありません」
初日からエリシムールみたいに気難しげな人物を相手することになったが、そんなの、接客仕事1日目からクレーマーに当たるのと大差はない。それこそ生前でもありふれた出来事なのだ。
そんなことでいちいち気を病んで辞めていたら、どんな仕事だってできない。
そして、エリシムールにあったことで、俺はウェルマに抱いていた誤った印象を改め、いい先輩を得ることができたのだ。そう考えれば、今日の一件は何も悪いことばかりでないように思えた。
だから俺は、〝万象命名士〟を辞めるつもりはない。
まだようやく入り口に立ったばかりなのに、仕事に対する知識の暗さを指摘されただけで癇癪を起こすなんて子供みたいな真似できるか。
むしろ、この上司の真剣な姿を見て奮い立ったわ。
そんな俺の気持ちを、まあストレートに言うのは恥ずかしいので冗談を入れながら話すと、腕の中にいる少女はこくこくと白髪を揺らして頷いてくれた。
俺の胸元から一歩距離をとると、ラピスラズリの瞳に真剣な光を湛えて俺を見上げてくる。
「私も、頑張る。虎太郎を一人前の〝万象命名士〟にする。だから、虎太郎もついて来て」
「了解です、サリナルヴァ」
和解できたところで、俺はずっと胸に引っかかっていた疑問を1つ尋ねることにした。
「ところで、1つ聞かせてください。エリシムールは、サリナルヴァなら文句ひとつなく〝定義〟を承諾しただろうと言っていたのですが、本当ですか?」
「本当」
殆ど反射のような速さで返答が来た。むしろ質問をした俺の方がどもってしまうような勢いだ。
「……俺には信じられなかったんですが、理由を聞いてもいいですか?」
「エリシムールの〝定義〟は適切だから」
サリナルヴァの言った意味を理解できず首を捻っていると、彼女は草のこすれるような声で補足してきた。
「現象の規模を小さくし過ぎると、その現象の危険性や教訓を伝えきることができない。かといって無駄に犠牲を増やすのも悪手。できるだけ少ない犠牲で、できるだけ多くの生物に強い印象を与える。それが彼の〝定義〟付け」
彼女にしてはものすごく長い台詞で付け加えてくれた内容から考えると、つまりエリシムールは、下界に災害の教訓を与えるために現象を〝定義〟しているということだろうか。……あの大規模災害が『できるだけ少ない犠牲』であるかという点については同意しかねるが。
「虎太郎が不満に思う気持ちも解る。けれど、彼は適切。そして彼のようなベテランや、現象の〝定義〟そのものに誇りをもっている人は、〝定義〟を変えない」
「なるほど、だからエリシムールは俺の提案を一蹴したんですね」
まあ、ただ単に俺の提案がへっぽこだったからかもしれないが。新米だし。
「エリシムールは明日も来るはず。……だから、虎太郎は明日休みでいい」
「……それなんですけど。可能なら、エリシムールの応対は俺にさせてもらえませんか?」
過保護なサリナルヴァの提案を棄却しつつ、俺はそう尋ねた。
案の定、無表情ながらおろおろとしだす上司に笑みを返す。
「〝命名〟を請け負ったのは俺ですし、それにこれは俺にとって必要なケジメだと思うので。我儘かもしれませんが、お願いします」
「……それでいいなら」
尚も心配そうな瞳で見つめながら、サリナルヴァはしぶしぶと頷く。
そんな上司に感謝しつつ、俺は今度こそ自分の部屋に向けて足を踏み出した。
目に痛いほど白い廊下が、俺を励ますかのように輝いていた。
翌日、俺はエリシムールの〝定義〟のまま、彼の現象を〝命名〟した。
何千何万と命を奪うことになるであろう現象を〝命名〟するのは正直かなり徹えたが、サリナルヴァが信頼を置くこの男の〝定義〟に反発するのは却って悪行なのではという思いと、一人前になるために〝命名〟の役割について学ばなければならないという思いから、俺は〝命名〟の呪文を唱えた。
もっとも、そんな俺の様子をエリシムールは相変わらず傲然と見下ろすだけだったが。
〝命名〟で無茶した上に大男からの反応が全く無くて俺は少々ささくれだってしまったが、その苛立ちはおろおろと不器用に慰めようとする小柄な上司と、ひょっこり様子を見に来てくれた小さな先輩が和らげてくれたことをここに付け加えておく。
持つべきものは心優しき先輩がたである。
イリーナベル「…………」
ウェルマ「……い、イリーナベル?」
イリーナベル「……ウェルマ、あなた何ちゃっかり本編に出ているのよ」
ウェルマ「だ、だって虎太郎がこっちに来たから」
イリーナベル「しかも優しい先輩枠に収まっちゃって、準レギュラー確定じゃない。……貴方は私と一緒にビジョビジョになって消えていく単発キャラだと思っていたのに……」
ウェルマ「言いぐさが酷い! ほ、ほら今度、虎太郎も交えて3人で飲もうよ! そうすればイリーナベルも準レギュラーだよ!」
イリーナベル「……その様子が書かれればの話だけれどね」
ウェルマ「…………」
イリーナベル「ぐすん」
お読みいただきありがとうございました!