トチ医師
トチ医師は口の中でののしりを飲み込んで、歯を食いしばっていた。
二本の指の先の血管は傷ができて血が噴き出ている。どこで怪我をしたのか分からないが、手当てをせずにここまで運べるはずがない。だいたい、今この瞬間でさえも、命が助かるかどうか分からない。
「暗い」
手元が陰になって見えにくい。半ば八つ当たりの様に言った瞬間、ぱっと手元が明るく照らされた。ランプのようなオレンジ色の明かりじゃない。太陽光よりもまだ明るい白い光だ。はっとしたものの、管の切れ目がはっきりと見えたおかげで、気がそれて、光源の無い光だったと言う事に気づかなかった。
指を突っ込み縫い始める。こんな細かい縫合なんか誰がするか。普通は、この瞬間に血が流れ過ぎて命が尽きる。そう思いながら、指を小さく、しかし、静かにしっかり動かしていく。一針、一針。趣味で裁縫でもできそうなくらい細く小さな縫い目を入れて、血がぷちぷちと管から噴き出すのを見ながら、指を抜いた。と、その時には二本の指も消えていた。
トチ医師はそれでも顔を上げる余裕は無く、中を強引に水で洗い流すと、他にちぎれた管が無いか指で探って中を見て、無いと分かると縫い始める。腕の肘下から腕を上がって肩甲骨まで綺麗に跳ね上げるように切れている。浅いせいもあるが、あまりに綺麗な切れ目で、縫うとそのまま吸い付くようだ。そこから、肩甲骨でいったん止まって骨を越えると、まるで剣先で抉ったような傷になる。血管が切れたのはここだった。
トチ医師は口の端をぐっと噛んで、口の中に血の味を感じた、それでも縫い続けて、手首の腕から肩まで縫い上げた後、血が流れ続けるのを見ながら、
「厳しいな」
と低く言う。
それでも、トチ医師は布を傷に押して血を拭ってから、血止めの薬を油紙に縫ってぐっと抑えるように傷口に当てていく。その上に布を当てて細く白い布を手首から片口までぐるぐると撒いていく。しかし、巻きながら再び、
「ここまで生きていたのが奇跡と言える」
と言うと、側で、
「生命力があふれる程あったのだ」
と言う声は、生きていて当然だ、と言うように聞こえた。トチ医師はそこで初めて顔を上げた。ちょうど、脇で、白い包帯を見てそこから染み出る血を見ながら、
「生命力の補強くらいならできよう」
と言って、顔を上げた男と目があった。
真っ黒い目に何か底の知れない何かがあった。手を濡れた布で拭こうとしていたトチ医師はそこで手を止め、その目を見つめて動きを止める。にこりともしない目は、人間の目には見えなかった。しかし、その下にある赤い口が、
「礼を言う。手早い手当のお蔭で、次の手が打てるようになった」
と言うと、ぐっと端があったのが見えた。
びくっとして身を引くと、その目が細まったのが分かった。笑っている、と気が付いて、そこで初めて、
「怪我をした、その場で医師を呼ぶべきだった」
とトチ医師はサテンに言った。
サテンは口の端を上げたまま、
「良い生命力は、良い運を呼ぶ。ここまで来れたのは、幸運だった」
と言った後、
「お前と言う、腕のいい医師に会えたおかげで生きながらえた。礼を言う」
と医師へ言った。
医師は、
「助かってから礼を言ってくれ」
と言って視線を若者へ落とした。
口を半分明けた顔で息をしている。細い音がして、喉から空気が出入りしているだけだ。無意識で半分開かれた目は何も映さず、時々呼吸の音が変わって、息がつっかえたように胸が上下すると、筋肉が引っ張られ口が上下にわずかに開く。血が流れ過ぎた、とトチ医師は感じた。血管を強引に縫い止めたぐらいで、人間が元気になれるわけがない。このまま、ショックを受けてひきつけを起こして心臓が止まる、とトチ医師はじっと見つめて考える。
すぐに連れて来られた患者だ。と、トチ医師には分かった。どこで怪我をしたのか分からない。ハーレーン商会の店のドアから、手術台まで、血は流れ落ちてはいなかった。一滴たりとも落ちてはいない。つまりは、今の今、手術台の上で切られたのと同じような傷だった。台の上で切られたのだ、とでも言えそうな程、どこからか連れて来られたような跡はない。
怪我した直後の青年なのに、後いくつかの呼吸で終わる。トチ医師は青年の胸や腕の血を絞った布で拭い始めた。濡れて張り付いた血は、濡れたままで、全くと言っていいほど乾いていなかった。トチ医師はじっと見つめる。自分の目の前に、傷をつけたその瞬間の姿で来たと言うのに、自分はこの若者を救えない。
トチ医師は細い呼吸が弱くか細くなるのを待った。はだけた上着は上等で、白く日焼けの無い姿は、商家で働く若者だったか。
あれほど山で、動かすな、その場で医師を呼ぶべきだ、と叫んでいたのに、動かさず、その場に医師を連れて来たようなこの青年も助からない。トチ医師は目に落ちてくる汗を瞬きし避けながら考えはじめる。結局、あのペルシール山脈の麓で、「医師を呼ぶべきであって、重病患者を運んでくるな」と言っていた自分は、とんだ高慢な人間でしかなかったわけだ。次から次へと、亡くなる患者を、その患者を診とる親や子供を、なじって一体何になったか。自分は彼らに何を言ったか。
「意識が戻らなければ、それほど痛みを感じる事も無い。わずかな時だが、大事にしてやるといい」
そうつぶやいて、胸の血を拭い終わったトチ医師は、横たわる青年の服の前を合わせてやって、包帯を撒いた腕をそっと術台の上へ置いて、一歩下がった。自分にできた事と言ったら、綺麗に拭って、包帯を巻いてやったくらいの事だ。
まだ、山なら言い訳が立った。自分の腕の無さや、力の無さに、患者や連れて来た者達になじる事で逃げが打てた。実際はこんなものだ。そう思いながらトチ医師は、
「気の毒だった」
とつぶやいた。細い息は徐々に聞き取れないほどになり、上下する胸の動きはだんだんか細くなって行く。
王都長が3日前に声を掛けて来た時には、自分にはまだまだ確固とした自信があった。人を助け、大きな事をなせるような、そんな裏付けのない、しかし胸を張っていられるような誇りがあった。
「竜神信仰の民は、素手で岩を砕き、蹴りで木を切り倒そうとする。発破をかけた後に逃げる事もせず、剣で襲う盗賊に竜神への祈りで防ごうとする。岩は腕を砕き、木は足を折り、発破で砕けた岩や大地は人々の上に落ちていき、盗賊は好き放題に人を襲う」
王都長が話した内容は、ばかばかしい程の無垢な信仰心と、それによる大きな怪我や帰らぬ人となる大きな被害の話だった。
「ペルシール地方は、ララルーアと言う名の愛妾の土地だ。だからと言って放置して良いと言うわけでもなく、山から下りた、奇妙な信者が王都を取り巻いても問題にならないと言うわけでもない」
そう言って、トチ医師に、
「まずは彼らの命を救ってほしい。彼らの怪我を直し、信仰ではなく、人間が人を救っていると示してほしい」
そう言って、ゼーン楼で遊び倒せる程の金を積まれた。実際は金額を聞かされただけだったが、自分の腕にそこまでの価値があると言われたようで嬉しかった。そして、無垢な人間をだまして、痛みつける者達に目に物を見せてやりたかった。人間の力は、似非神よりも大きい、と示したかった。
トチ医師は、考え続ける。実際にやったことと言えば、山の麓の木こりが木を積み上げておく、屋根があるだけの広場で、親に引きずられ歩かされてきた足の取れそうな子供の足を切り離す事だったり、手遅れで息が無くなっている青年の目を閉じてやる事だったり、泣き続ける少女の脇で、その子の母親の内臓を突っ込みなおして腹を閉じる事だったり。
なんで、まるで山が崩れたか、地震で町が崩壊したかしなければ出ないような患者ばかりがやってきたのか分からなかったのだが、次から次へと怪我人が出て、自分はその半分も救えなかった。トチ医師はぼんやりと、青年の胸に手を乗せる男の姿を見つめていた。心臓が胸を上下させる。その動きが徐々に徐々に弱くなる。
内臓を元に戻した母親がいた。少女は母親の胸に耳を押し当てていたのだが、徐々に胸の動きが弱くなって、少女がぼんやりと「かーちゃん」とつぶやいた時には、動かなくなっていた。
町で医者をしてればよかった。せいぜい、竈で焼けどした男が飛び込んできて大騒ぎするくらいで、足を折ったり、切り傷を作ったりしているのを、繕ったり拭ってやったりしていればよかったんだ。その程度で、自分は人々を救っているような気になっていて、それで自分は十分だったんだ。井の中の蛙は、井の中に居続けるべきだったんだ。
男は青年の胸に置き、手を開く。軽く目を閉じて、呼吸の音を聞いているようだった。トチ医師は祈るような気持なのだろうか、と思った。自分も初めはそんな気持ちだったように思う。途中から、見ただけで無理だ、と思うようになり、蒼白になって助けてやってくれとすがる男女に、手当をして見せるだけの事だ、と思いながら傷を縫うようになって、最後は何も感じなくなっていた、と思う。
「悪かったな」
トチ医師は誰に言うともなく言った。また一つ救えなかった。ゼーン楼で飲み潰れていればよかった、と思う一方。どこに居ても結果は同じだったんだ、と知れてよかったと投げやりな気分になって、
「信仰があった方がましかもしれない」
とつぶやいたのだった。
あの信者達は嘆き悲しんだ後、静かに竜神に祈っていた。魂の救いを求めて。彼ら自身の振る舞いが、彼らの大事な人々を追い詰めたって言うのに、それでも、祈る事ですくわれていた。
「竜神でも、神でも。魂の救いがある方が良い」
そう言ってから、こうやって後悔だけが残って、誰も救えないよりも良い。そう思うと、ただただ身体がだるくなって、手にしていた濡れたタオルを脇の丸テーブルに置いて、
「悪かったな」
と再び言って、さらに下がった。
医師の鞄はソファーの上にあった。色々置かれたハーレーン商会の商品の上に開きっぱなしにされていた。ここに、盥の中に転がしてあるナイフや杭を入れてそのまま帰るか。洗う事さえ億劫で、わし掴みにするようにして盥の中の道具を掴むと、鞄を引き寄せ中に入れた。そこに、
「うわ。何があったんです。大丈夫ですか」
と言う声が掛かった。
術台の上にいた青年が目を開けていた。その目が、トチ医師を見て丸くなる。活気と生命力のある若者の声を上げていた。
血らだけの道具に、緑の上着は血しぶきで赤黒く変色している。顔にも血が跳ね、腕にも襟にもこびりついていた。タオルで拭ったつもりだったが、拭った後が見える程、血の跡が残っていた。それほどの出血だった。なのに、青年は台の上で目をしばたたいて、トチ医師を見るとゆっくりと身体を起こして顔をしかめた。と、そこに、
「縫い止めたばかりだ。寝ていなさい」
と落ち着いた、あの男の声が掛かった。青年の胸の上に手を置いていた、まるで、祈るようにかざしていた、この男だ。ただ手をかざしているようにしか見えなかったが、トチ医師にはなぜか分かった。その手の動きが、この青年を救った。助けていた。いや、治していた。奇跡を、この男の手が生み出していた。
「竜王か?」
とトチ医師がつぶやきながら、飲み屋で騒いでいた青年の声を思い出していた。
欄干に腕を掛けてぶらりともたれ掛かって大通りを通る人々を眺めていた。ここに自分を連れて来た青年は、「竜王に仕える幸せを味わわぬか」と言うような事を言っていた。「陛下」とこの男へ、このハーレーン商会の中に突然姿を現した男に対して、大声を上げていた。陛下、つまりは竜王陛下、であって、竜だ。唐突に、無い場所から現れ、即死であるような怪我の青年を連れて来て、術をさせて、助からないと思った直後に、なおしてしまった。竜だ。
と思った途端に、トチ医師は大声で怒鳴っていた。
「なぜ、自分の信者を助けないんだ! 大勢、竜神に祈りながら命を落とす人々を、この青年のように助けないんだ!」
トチ医師の目からぼろぼろっと涙がこぼれた。悲しいのではない。何か、感情が競り上がって来て、もう、耐えきれなくなっていたのだ。
「あなたの名を呼んで、医師に助けを求める。竜神様がいるから自分たちは大丈夫なんだって、全然大丈夫じゃない怪我人たちが、歩けるはずがない人間を引きずってやってくるんだ。まだ、村で安静にしれいれば、医師を呼びつけさえすれば、助かる可能性だってあったはずの人間たちが、竜神様が都のおられる、だから自分たちは大丈夫なのです、と言いながら。連れて来たのに、死にゆく家族を見送るんだぞ! あんたがいるから平気なんだと言いながら!」
トチ医師は血の付いた袖でぐっと目元を拭った。まるで血の涙のような顔になった。でもそんな事には気づかなくて、さらに叫んだ。
「あんたがいるから、竜神がいるからいいんだって、間に合わなかった家族を抱きしめ、助からなかった冷たい身体にしがみついて、みんな泣きながら、それでもあんたに祈っているんだ。なんで来ない、なんで助けない、なんで奴らに姿を見せてやらないんだ! 信じているんだぞ。あんたがいるから、幸せなんだって、信じているんだ。死してもなお、信じているんだ!」
そう言ってから、ぐぐっと声を押さえて、嗚咽が漏れて、サテンを睨んで号泣していた。
助からなかったのだ。半分は亡くなって行き、助かった者もほとんどが無事じゃない。あの先どうやって生きてくのか。生きるのがつらいんじゃないかと思うような人々ばかりになっていって、自分はその程度しか助けられなくて、でも、彼らは自分を許していたのだ。
「竜神様のご意向です。助けてくださって、ありがとうございます」
そう言ったのは、母親の胸の鼓動を聞き続けていた小さな少女だ。冷たい躯を大事に抱えて、泣いているのに、にこりと笑って、
「ありがとうございます。かーちゃんは、とっても大事にされました」
そう言って、俺を許したくれんだ。
潰れたような声で泣きながら、トチ医師は怒鳴った、
「あんたが竜だと言うならば、彼らを助けろ。あんたに礼しか言わない、あんたの信者を助けろよ!」
そう言って、自分に礼しか言わない彼らを助けてくれよ、と言ってぼろぼろと涙を流し続けながら、サテンを睨み続けた。




