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稀なる姫、対する

 早いものでラスシャータに来てから、そろそろふた月半がたとうとしていた。

 これくらいになるとシズクが朝食の後に食後のお茶を淹れていても、料理長や侍女達も焦ることもなくなった。

 交代制で給仕をするのも既に当たり前の習慣になっている。

「陛下、どうぞ」

「ああ、ありがとう帝妃」

 シズクが差し出したお茶を飲む皇帝に、シズクはわずかに眉を寄せる。

「お疲れのようですが、ちゃんとお休みになられていますか?」

「心配するな。きちんと休みはとっている」

 皇帝はそう言うが、それがシズクを心配させないための言葉なことくらい分かる。

 近ごろの皇帝は激務に追われていた。

 朝早くから夜遅くまで執務室にこもりきりで、寝室にやって来るのもシズクがすっかり寝入った深夜か、ひどいときは明け方になることもある。

 こうして一緒に朝食をとるのも久しぶりだった。

 けれどいそがしいのは相変わらずなのか、皇帝は一気にお茶を飲み干すと席をたつ。

「美味い茶だった、ありがとう。行ってくる。今宵も遅くなるから先に寝ていてくれ、帝妃」

「はい」

 それは今日はもう顔を合わせることができないということだ。

 休みはとっていると言っていたが本当に大丈夫なのだろうか?

 シズクの不安そうな視線に気づいたのか、皇帝は心配するなと言う代わりに、手を伸ばして頭を撫でて、ダイニングから去っていく。

 シズクはごまかされた気分になりながら、その背中を見送った。

「私はまだまだラスシャータのことを完全に知りきれていないし、政務に関わることができないのは当たり前だけど、もう少し頼ってくれてもいいのに。また子ども扱いに頭を撫でられてごまかされたわ」

 後宮の帝妃の部屋で肩を怒らせているシズクに、侍女達は朗らかな笑みをうかべている。

 それにシズクは余計に頬を膨らませる。

「なにがおかしいの?」

「いいえ。帝妃様は本当に陛下のことをお好きなのだなと思いまして」

 好き?私が、陛下を?それは好き嫌いかで言ったら、好きだけれども。侍女達の言っていることは少し違う気がする。

「子ども扱いされたくないというのは、帝妃様が陛下に1人の女人として接してほしいということなのでしょう」

 いや、待て、それはない。だってシズクと皇帝は見せかけの夫婦なのだから。

「大丈夫ですわ。今は御年が離れていることもあって少し子どものように接することもありますけれど、陛下のご寵愛は帝妃様にありますもの」

「ええ、帝妃様の女人としての思いは遠からず陛下に伝わりますわ」

 思いもなにも、シズクと皇帝の間に男女の色恋のあれやそれはないのだ。シズクが皇帝のことを思うのは、あくまで彼に笑顔にするのが偽物とはいえ帝妃である自分の仕事だからである。

 シズクはそう訴えたいのだが、そうすることはできずただ固まっていることしかできない。

「あらあら帝妃様ったら」

 訴えたい内容が口に出してはいけないものだし、それになにより。

「お顔がまっ赤ですよ」

 顔に感じる熱さが言葉を紡げなくする。

「わっ、私……外に出てくるわ!」

「帝妃様!?」

 自分でもよく分からない状態に、シズクはその場から逃げ出した。

 子ども扱いが嫌なのは1人の女人として接してほしいから?違う!

 私の思いはいつか陛下に伝わる?そもそもそんな関係じゃない!

 シズクと皇帝は見せかけの夫婦だ。

 皇帝の望む帝妃を演じるのを条件に、シズクは帝妃としての最たる世継ぎを産むという役目を援助され、ラスシャータにありながらわりと自由に過ごすことができている。ただ、それだけの関係だ。

 シズクが皇帝を笑顔にしたいと思ったのも、皇帝かが自分のことを気遣い大切にしようとしてくれるから、それになにか返したいと思ったのがはじまりだ。だから、シズクと皇帝の間に男女の関係なんて生まれない!

「帝妃様?」

「ふえっ!?」

 怒涛のごとき心中をどうにかしようと、自分の考えに浸っていたシズクは、唐突にかけられた声に飛び上がらんばかりに驚いた。

「どうされたのですか?このような場所で」

 そこに立っていたのは、いつぞやのように民と同じ服を着て腰に剣を差している老齢の男。

「マルク殿……」

 マルクの軽く驚いた顔に、シズクはあたりを見まわした。

 そこは城の裏門のすぐ近くの場所。いつの間にか後宮を飛び出して、こんなところまで来てしまっていたらしい。

「戻らないと。アリー達が心配してるわ」

「お待ちを、帝妃様。よろしければ少し裏門の近くまで参りませんか?」

 マルクの提案に、シズクは後宮に戻ろうとした足を止める。

「裏門に?」

「なにがあったのか存じ上げませんが、帝妃様には気分転換が必要に思えます。陛下のように城下町にお連れすることはできませんが、裏門の近くまでなら少し城の外に出ても大丈夫でしょう。このマルクがお供いたしますゆえ」

 確かに気分転換に裏門まで行って、城の外に出るのは悪くない。

「でも……」

 シズクが視線を向けた先には、裏門の門番をしている兵士がいる。

 するとマルクは心得えているとばかりに門番のもとに歩み寄り、なにか話しかけた。すると門番が裏門から離れ修練場のほうへと走っていく。それを見送りながらマルクは後ろ手で裏門のほうを指差した。

 マルクが門番を修練場に向かわせているあいだに行けということだ。

 シズクはすかさず裏門へと走る。

 門をくぐり、城の外へと1歩、足を踏み出す。この長く長く続く石畳の緩やかな下り坂の先が城下町だ。

 そういえば、裏門に1人で来るのははじめてだわ。前は陛下と一緒に、ここから城下町に降りたって……そうじゃなくて!

 シズクはぶんぶんと音が聞こえるくらいに激しく頭を振った。

 気分転換のつもりでここにいるのに、陛下のことを考えてたら意味ないじゃない。別のこと、別のことを考えなきゃ!

 そうして半ば無理矢理、別のことを求めたシズクの目にとまるものがあった。

 馬車だ。裏門のすぐ近く、シズクが20歩ほど歩けば届く位置に馬車が止まっている。

 城に荷物を届けにきた馬車、じゃないわね。

 この裏門には定期的に城に日用品や食材などを届ける商人の馬車がやって来るのだが、それにしてはこの馬車は華美過ぎる。

 装飾のようなもので飾り立てられおり、紋章のようなものまで描かれている。

 不思議に思いながら馬車に近づくシズクは、突然、背後から強い衝撃を受けた。

「……っあ!」

 え、な…に……?

 なにが起こったのか分からない。ただ鈍い痛みに意識が閉じていくのを感じた。

「帝妃がいない?」

 アイズリンドは手にしていた書類から顔を上げた。

 視線の先には泣きそうな顔をしたシズクの侍女達が平伏している。

「外に出てくると仰せになられてから、いつまでたってもお戻りになられず、後宮の至るところをお探ししたのですが、お姿が見えません」

「城内はどうだったんだ?」

「今、探しておりますが見つかったという報告はまだ……」

 アイズリンドは書類を机に叩きつけて、その勢いのまま座っていた椅子から立ち上がる。

「手の空いている侍女達や兵士達にも帝妃を探させろ。帝妃の姿を見たものがいたら、すぐに余のもとまで知らせるのだ!」

 シズクは行動的ではあるが、人を困らせるような真似は好まない。

 ならば、姿が見えないのはシズクが自発的に身を隠しているからではなく、彼女の身になにかがあったからだ。

姫宮、どこにいる?なにがあった?

アイズリンドは執務室から飛び出した。

誰かがシズクの体を揺すっている。

触れる手の感触に、あやふやな意識が少しずつ明確になっていく。

この手の感触は一体誰のものだろう?陛下?

いや、違う!

シズクはそこで目を覚まし、手を横に薙いだ。自分に触れていた手を払い落とすために。

「おっと。乱暴な真似をなさる、いつまでたってもお目覚めにならないので起こしてさしあげたというのに」

 シズクは上体を起こしながら目の前にいる男と距離をとる。

「誰……?」

 見たことのない男だ。それにここはどこだ?

 立ち上がり見まわした部屋はやたら広く、高級そうな家具や調度品ばかりが並べられている。しかしあからさまに莫大な富を有していると主張している部屋に、シズクは趣味が悪いと顔をしかめた。

「我がシェルリブ家の邸宅にようこそ。帝妃様」

「シェルリブ……クロアナ様の!」

 嫁いだ夜に後宮に忍びこみシズクを襲ってきた令嬢の家の名に、シズクは目を瞠る。

「あれが世話になったようで」

 この男はクロアナの父親なのか。それはつまりシェルリブ家の当主ということだ。

 シズクは記憶をさかのぼりながら、自分がなぜこんなことになったのか推測する。

 城の裏門にあった馬車はシェルリブ家のもの、馬車に描かれていた紋章はシェルリブ家の家紋だ。以前、後宮から出て城の至るところを見てまわっていたときに訪れた臣達の執務室で、ラスシャータの貴族達の家紋を表にしたものを見たことがある。なぜ紋章を見たときにすぐに思いださなかったのか。

 シズクは自分の迂闊さに歯噛みする。

 おそらくシズクは馬車に気をとられている隙に背後から襲われて気絶させられた。そしてシェルリブ家の馬車にのせられて、この邸宅にまで運ばれたのだ。 

「私を城から拐かしたのね。理由はクロアナ様の暗殺未遂?」

 あの件でシェルリブは皇帝から降格された。そのことを恨みに思ってこんなことをしたのか。

「あれはもう私とはなんの関係ありませんよ。シェルリブ家を断絶させかけた娘など邪魔なだけですので、シェルリブの籍から抜いて地方の田舎にやりました」

 シェルリブは淡々とした口調だ。とても自分の娘のことを話しているとは思えない。

「あなたの娘でしょう?それを関係ないなんてよく言えたものね!」

「我がシェルリブ家はラスシャータ帝国の大貴族、王族の血に連なる者です。そのシェルリブ家に泥を塗る者など必要ない」

 シズクは怒りで体が震えた。

 ラスシャータ帝国の血統主義者。その思想は実の子すらあっさりと捨てるのか。

 こんな、こんな考えの人間達に陛下はずっと苦しめられて……!

「さて帝妃様を我が邸宅にお招きした理由ですが」

「言わなくていいわ。貴方の話なんて聞きたくもない」

 ふいと顔を背けたシズクの態度が勘に障ったのか、シェルリブは手を振り上げてシズクの頬を打った。

「田舎の小国の下賤の娘が!この私に対してよくもそんな態度を!」

 シズクはじんと痛む頬に構うことなく、シェルリブに冷めた目を向ける。それは刃の冷たさを連想させてシェルリブは一瞬狼狽えたが、すぐさま自分のほうが立場が有利にあると思い直し嘲笑をうかべた。

「今の自分の状況を考えたらどうだ?お前は人質だ。私達ラスシャータの正統な血を守り受け継ぐ者が玉座に座るための、な!」

「馬鹿なことを。ラスシャータ帝国の皇帝は陛下ただ1人よ」

「はっ!あんな下賤の血をひく小僧がラスシャータ帝国の皇帝であることは間違いでしかない。まがりなりにも王族の血をひいているから、こちらが不本意ながらも玉座に据えてやったというのに王族の血を守る我ら貴族を蔑ろにして、ラスシャータ帝国を穢すようなことばかりを繰り返しおって。やはり下賤の血をひく者は下賤でしかないのだ!」

 聞くに耐えないとはこのことだ。

 血などで人の価値がはかれるものか。それに玉座に据えてやったなど、妄言にもほどがある。皇帝はきっと、王になることなど望んではいなかった。それでも彼はラスシャータの民のために玉座につき、三大覇王と称されるまでの王となった。

 望まざるとも民のために力を尽くした皇帝は誰よりも王だというのに、なぜそれがラスシャータの者であるこの男には分からないのか。

 それが血統主義者の思想だというのなら、本当に馬鹿馬鹿しいこと、このうえない。

「あの小僧にはラスシャータの皇帝の座から降りてもらう。そのために小娘、貴様をここに連れてきたのだからな」

 シェルリブは懐から短剣をとり出して、それをシズクの喉許に突きつけた。

「私を人質に陛下に退位を要求するつもり?」

「それだけではない。私を次の皇帝に据えると国に公表してもらう」

 シズクは唇をかむ。

 自由になることを望んでいた皇帝は、退位することに抵抗はないのかもしれない。けれど、こんな男に玉座を、ラスシャータ帝国の民を任せる訳にはいかない。

 それなのに、今のこの状況でシズクの存在が皇帝の足枷になっているのだ。

 なんとかして、ここから逃げなければ。

 せめて剣があれば。こんな男くらい、すぐに倒してやるのに!

 そのときだ。ばんと扉を開く音がしてシズクもシェルリブもそちらに顔を向ける。

「ぐあっ!!」

 シズクがそれに気づいたのは、シェルリブの短い叫び声を聞いたとき、そしてそれがシェルリブの最後の言葉になった。なぜならシェルリブの心臓は剣に貫かれ、彼が絶命していることは明らかだった。

「ご無事ですか?帝妃様!」

「マルク殿!」

 マルクはシェルリブの体から剣を抜き、シズクに駆け寄る。

「お助けに参るのが遅くなり申し訳ありません」

「マルク殿……どうして?」

 彼はシズクが拐かされたとき、裏門から離れた場所にいたはずではなかったか。

「帝妃様が裏門で馬車にのせられそうになっているとき、私も丁度裏門へと来たところでしたので。すぐにお助けしようとしたのですが不覚にも気絶させられてしまい、いままで別室にとらわれていたのです」

 シズクに突きつけられていた短剣をシェルリブの手から抜きとり、マルクは顔を伏せる。

「私が不用意に帝妃様を裏門にお誘いしたばかりにこのようなことになってしまい、誠に申し訳ございません」

「顔を上げてください、マルク殿。いまは城に戻ることが優先です」

「帝妃様……」

「詫びも謝罪も安全なところで聞かせてください」

「そうですね。陛下も心配しておいででしょうし、早く城に戻りましょう」

 マルクが頷くのにシズクは部屋の扉へと足を進めた。

 開かれたままの扉に身を寄せて顔だけを廊下にのぞかせて様子を見たかぎり、人の姿も声も聞こえない。この邸宅に他に人はいないのだろうか。

 別室にとらわれていたマルクにも聞いてみようと振り返ったシズクは、視界に入った銀色がいま正に自分に振りおろされようとしているのを見た。

 とっさに横へと逃げたことで銀色の短剣は空をきる。

 その短剣はシェルリブの短剣で、さっきそれを拾い上げたのは……

「おや、避けられてしまいましたか。使い慣れていない短剣だったので間合いをはかり損ねてしまったようです」

「マルク殿……」

「まあ次は確実に当てればいいだけのことですね」

 マルクはシズクへと短剣を向ける。

「申し訳ありませんが帝妃様、貴方様にはここで死んでいただきます」

 疑いようのない殺意と共に。

「裏門にシェルリブ家の馬車?」

 アイズリンドは自分のもとに上がってきた報告に目を細めた。

「はい。裏門の門番がシェルリブ家の馬車が止めてあるのを見た、と」

 今日、シェルリブは城には来ていない。それなのになぜ馬車が城の、それも裏門に?

「帝妃はまだ見つかっていないのか?」

「は……城中をくまなく探したのですが、まだ見つかっておりません」

「そうか……」

 城のどこを探しても姫宮を見つけることはできなかった。そして裏門にあったシェルリブ家の馬車。となれば、もうほぼ決まりだろう。

「これよりシェルリブ家に向かう!」

 アイズリンドは声高に宣言した。

 シズクはなぜという思いと同時に、やはりとも思う自分にも気づいていた。

「……あまり驚かれておられないのですね」

「シェルリブが私を邸宅に連れ去るためには、私を馬車のある裏門まで誘導する協力者が必要だわ。それも城内にいて、なおかつ私に声をかけても不審に思われない人物が」

「今日はおひとりでしたので手間がはぶけました。いつものように侍女の方々をお連れになっていたら、気絶させなければいけない人間が増えてしまいます。老いたこの身にはそれなりにこたえるのですよ?」

 シズクを背後から襲い気絶させたのはマルクだったのだ。シズクはたまらなくなって叫んだ。

「どうしてこんなことを?貴方は陛下がご幼少のころから側にいて、陛下が心から信頼できる数少ない人だったのに!」

「ええ、その通りです。陛下は私のことを信頼してくださいました。私が信頼していただけるように振る舞いましたから」

 振る舞った?なんだそれは?それではまるで陛下の前でのマルクの姿がまるで全て演技だったようではないか?

「私がご幼少のころの陛下のお側にあったのは、陛下が正統なる王族の血をひかれる先帝陛下や御兄君に弓ひくような真似をなされた場合、陛下を速やかに処理するためでしたので」

 そのためには皇帝に信頼されているほうが都合がよかった。だから、皇帝が嫌悪している血統主義者ではないように見せかけた。

「正統な王族の血って……貴方、血統主義者だったの?」

 シズクの確かめるような問いに、マルクは静かに微笑む。

「我がギルバート家はラスシャータ帝国が建国して間もないころより代々、王族の方々にお仕えすることを誇りとしてまいりました。もちろん正統な血をひく王族の方々を、です」

「……っ分からないわ!なぜそこまで血にこだわるの?血なんか関係なくても陛下は素晴らしい王だわ」

「ええ、流石は半分とはいえ王族の血をひく御方です」

 だから、先代の皇帝とその嫡子である第一王子が戦死したときアイズリンドが皇帝となることを容認したのだ。その身には下賤の血だけでなく正統な王族の血も流れているから。

「あとは陛下がラスシャータの王族の血に連なる貴族のご令嬢を帝妃として迎え王族の血を濃くしてくだされば、私は最後まで陛下の信頼のおける忠臣として振る舞うつもりでした。帝妃様、貴方様がこの国においでになるまでは」

 皇帝が帝妃として迎えた、田舎の小国であるカムイ国の第三皇女。

 最初のころはそれほど気にしてはいなかった。その皇女は皇帝よりも11も年下で黒髪に黒目という気味の悪い容姿をしていたから。皇帝もそんなに構うこともないと思っていた。

 けれどそんなマルクの考えとはうらはらに、皇帝は皇女を寵愛した。そして皇女も皇帝を慕いラスシャータの帝妃としてラスシャータのことを知ろうと努めていた。

「それでもラスシャータの貴族の方を側妃に迎え、その方との間にお世継ぎとなる御子があればいいと思っておりました。そうすれば王族の血は守られると、しかし陛下は側妃を迎える気はないと仰せになられた」

 マルクは焦燥した。このままではラスシャータの正統な王族の血は薄れ、穢れてしまう。

「だから私を殺そうとしたの?」

「ええ。シェルリブが陛下に反意をいだいてはかりごとを巡らせているのは知っていましたので、それを利用させていただきました」

「シェルリブに協力するふりをして、その実はシェルリブが私を連れ去り殺したように見せかけるつもりだった」

「そして、あと一歩で帝妃様をお助けすることが叶わなかった私がシェルリブを殺したという筋書きです」

「その筋書きは変更できないの?」

「どういう意味でしょう?」

 怪訝そうなマルクにシズクは訴える。

「貴方が血統主義者だと知ったら、ううん、貴方が陛下のこと裏切っていたと知ったら陛下はすごく悲しむわ。あの城の中で陛下が心から信頼できて、王でない自分を見せることのできる人間は少ないから、私はその少ない人間をあの人から奪いたくはないの」

「私の陛下に対する振る舞いは全て偽りだと申し上げたはずですが?」

「たとえ偽りでも!それでも私は陛下に貴方が裏切り者だったなんて知ってほしくない」

 陛下が笑顔でいてくれるように。陛下が王でない自分でいられるように。それを叶えるのが見せかけであっても、帝妃である私の仕事。

 そう、見せかけのシズクと偽りのマルク。2人とも同じなのだ。

「だからマルク殿、その偽りをつきとおしてください」

 つきとおせば、それはいつか真実になるはずだから。

「帝妃様は恐ろしい……」

「マルク殿?」

「恐ろしいほどに若い」

 マルクは燃えあがるような目でシズクを睨みつけた。その目にあるのは激しい殺意と嫌悪。

「帝妃様、私は正統なる王族の血を守るために偽りを重ねてきた。そうやって生きてきた。生きて、生きて、生きてきた。その生き方をいまさらっ、いまさら変えられるものか!!」

 哀しいほどの羨望の憧憬が心にあっても、老いたマルクはもうこの生き方を変えられない。もうひき返せないのだ。

「どうしても、どうしても無理なのですか?」

「くどい!」

 シズクは一度目を閉じて、それからゆっくりと目を開いた。

「なら、筋書き通りに私を殺してください」

 両手を軽く広げるシズクを、信じられないような目でマルクは凝視した。

「……貴方は……なにを言っているんだ?」

「聞こえませんでした?私を殺してください、と」

「だからなにを言っている!死にたいのか!?」 

 シズクはこんな状況だというのに、つい笑ってしまった。

 だってシズクを殺そうと画策していた人が死にたいのか?と言うなんて。

「死にたくなんてありません。だから貴方を説得しようとしたんだもの」

「ならなぜ?!」

「貴方の裏切りを陛下に知られるより、私が死んだほうがいいと思うから」

 マルクが息を呑む。シズクの言っていることが理解できないという顔だ。

「陛下はきっと私が死んだら悲しんでくれると思う。けど貴方の裏切りを知ったら悲しいだけじゃすまないわ。きっともう誰のことも信じられなくなってしまう」

 幼いころから信じていた人の全てが偽りだと知ったら、なにもかも偽りに思えてしまうだろう。そうしたら、皇帝は笑いかたを忘れるだろう。

「そんなことになるくらいなら、私が死んだほうがいいわ」

 だから陛下、少しでも多く笑って。

「悪いがそれは無理だな、帝妃」

 声がした。そして、かつりと足音がやけに大きく響いた。それにシズクは泣きたくなった。 

 来てほしくなかった。いまこの場所に、あなたにだけは、来てほしくなかったのに。

「陛下……」

「稀なる姫とはいえ、こんなときまで信じられないような行動をするな」

 それなのにシズクに歩み寄り頭を撫でる手に、どうしてこんなにも安堵するのか。

「シェルリブが反意をいだいているのを知り、ことが起こる前に証拠をつかみどうにかできればとお前に調べさせていたが……マルク、まさかそのシェルリブをお前が利用していたとはな」

 道理でなかなか証拠がつかめないはずだ、と皇帝はため息をつく。

「陛下、なぜここに」

「お前、裏門の門番を口を封じておくべきだったな。門番がシェルリブ家の家紋が入った馬車を見かけていたんだ。そしてお前に修練場の兵士に呼ばれていると言われて修練場に向かい、裏門に戻ったときには馬車もお前もいなくなっていた」

「なるほど。やはり私は老いたようだ、昔ならそんな失敗はしなかったでしょう」

「ああ。俺の剣術指南役であったころのお前は、それこそ鬼のように強かったぞ」

「鬼とはまた、稽古中はともかく、それ以外では普通でしたよ」

「そうだな。貴族達のように俺を蔑むことなく、父や兄のようにいない者として扱うでもなく、普通に接してくれたよ」

 皇帝の口調は遠い過去に思いを馳せ懐かしむときの、せつない優しさに満ちていた。それはマルクも同じで、だからシズクは逃げ出してしまいたいほどに悲しくなった。

 変えられない現実の残酷さと厳しさに。

 皇帝の纏う気配が変わる。王としての覇気と威に満ちた、その他を圧倒する姿に。

「マルク・エルワ・ギルバート。ラスシャータ帝国皇帝アイズリンド・フリードリヒ・ラスシャータの名において、お前を拘束、反逆の罪で刑に処す」

「生憎ですが陛下、この身は正統なる王族の血に従う身。ゆえに貴方様の命には従えませぬ」

 マルクは手にしていた短剣を握り直した。

 シズクはマルクがなにをしようとしているか察して手を伸ばしたが、その手が皇帝につかまれた。

 なぜ?という思いで見上げれば、そこには恐ろしいほどまっすぐにマルクを見つめている皇帝がいた。

 ああ、見届けることを決めたのか。偽りばかりだった忠臣が最後に見せる、

「陛下、これが私が生き方です」

 たったひとつの真実を。

 マルクは自分の喉に、短剣を笑顔で突きたてた。

 シズクは帝妃の部屋で椅子に腰かけて、庭を眺めていた。

 でも、その頭にあるのは皇帝とマルクのことだ。

 マルク・エルワ・ギルバートは、おおやけには皇帝による反意から帝妃を拐かしたシェルリブからシズクを守り命を落としたことになった。

 その葬儀は皇帝自らがとり行い、マルクは皇帝に心から信頼された忠臣として葬られた。

 その葬儀から皇帝とは一度も顔を合わせていない。

 シズクは両手で顔を覆った。

 私のせいだわ。私がラスシャータに来たからマルク殿はあんなことをしてしまった。私がラスシャータに来ることがなければ、マルク殿はいまでも陛下の側にいられた。

 それがたとえ偽りでも、陛下が心から信頼できる人間として。

 それを奪ってしまった。壊してしまった。亡くしてしまった。私が!

「帝妃様……」

 アリーの呼びかけにシズクは顔から手を離して、なに?と目だけで問いかけた。

「陛下からあずかって参りました」

 差し出されたのは手紙だった。

 シズクはそれを受けとった。どんなことが記されていても受けとめようと思った。

 それが罵倒でも。恨みごとでも。それくらいしか、もうできないと思った。

 手紙を開き、書かれている文章を読む。時間なんてかからなかった。その文章はあまりにも短かったからだ。

 そして、その内容が頭できちんと認識できたとき、心から湧きあげたものに流されるままにシズクは立ち上がった。

「アリー、陛下から手紙をあずかったのはどこなの?」

「ええと、後宮の前でございますが、そのあと別の場所に行かれたようで……いまどこかに行かれたかは」

「ありがとう」

 シズクは部屋を飛び出した。皇帝がいる場所はきっと、あの場所だ。

 アイズリンドは城の最上階に近いテラスから城下町を眺めていた。

 1人になりたいなら、ここしかない。ここなら人はめったに来ない。

 だがマルクにはすぐに見つけられたな。そしていつも「やはり、ここにおられましたか」と言ってきた。でも、もうマルクは来ない。

 なにを悲しむことがある。あいつは俺を裏切っていた、ずっとずっと。それこそ俺が生まれてから、マルクが死ぬまで。

 無意識に拳を握りしめたとき、耳に届く音があった。足音だ。

 当然マルクのものではない。軽い足音、これは女の足音だ。

「やっぱりここにいた!」

 雲ひとつない晴れた夜空色の髪を揺らして、纏う衣装の裾を蹴りあげるようにしながら、こちらに大股で近づいてくる少女の瞳は怒りで吊りあがっている。

 ……って怒り?

 アイズリンドは戸惑った。シズクが怒っている。それは分かった。だが、なぜ怒っているのかが分からない。

「姫宮、どうし」

「こっの馬鹿皇帝ー!!」

 た?、と言いきる前に顔に紙が投げつけられた。しかもシズクは思いきり振りかぶる形で顔に投げつけてきたので、地味に痛い。

「なっなにを」

 する、と言いきる前にシズクは言い放った。声にも怒りがあふれでている。

「なんなのよ!その手紙の内容は?」

「手紙って……あ」

 投げつけられた紙を拾いあげると、それはアイズリンドがシズクに宛てた手紙だった。渡してくれるように、アリーにあずけたのだが。

「読んだのか?」

「読んだわよ!というかそれわざわざ手紙に書くような内容なの?すごく短いじゃない!それくらい自分で言いに来なさいよ、自分で!」

「俺はっ……姫宮は俺に会いたくはないだろうと、気を遣って手紙で伝えようと」

「いらないお世話よ!だいたいねっ」

 シズクは思いきり息を吸いこんで、その息全てを吐きつもりで叫んだ。

「3日後にカムイ国に帰す、なんてこと勝手に決めるんじゃないわよ!!」

 シズクは怒っていた。それは怒っていた。怒髪天についていた。

 カムイに帰す。婚姻を結んだその日なら、シズクはこれ幸いとばかりに素直に従っただろう。

 いまも理由があれば、カムイ国に帰されるのも当然と思っていた。それこそマルクのことが理由ならシズクはなにも言えない。

 なのに理由もなしにただ帰れとは。それがシズクの逆鱗に触れた。

「帰ってほしいならせめてその理由くらい書きなさいよ!いや書くんじゃなくて言いに来なさい!それとも理由なんてないわけ?つまりそれは私がラスシャータで貴方と話したことや、やってきたことはなにひとつとしてないってこと?私と貴方は無関係ってこと?」

「そんなことは言ってないだろう?!」

「そうよ!言ってないわよ!だから私は怒ってんのよ!!」

 なにも言ってくれないから。罵倒も恨みごとも、だからシズクは悲しかった。ラスシャータで皇帝と過ごした日々はなにもなかった、と。自分と皇帝はなんの関係もないのだと、言われているような気がして悲しくなって、そしてそれは怒りに変わった。

 こんな紙面の一言で、シズクとの関係を終わらせようとしている皇帝への。

「こんなところで1人でたそがれてるくらいなら言いなさいよ!貴方がしまいこもうとしてる本音全部!!」

「言ってどうなる!?これは俺とマルクのことであって姫宮には関係ない!」

「関係ない?」

 シズクがいままでの勢いを鎮めて、やたら静かにゆっくりと聞き返した。それにアイズリンドはハッとなる。

 しまった。言い過ぎた、関係ないということはないのに。

「拐かされて、殺されかけて、死を覚悟したのに、私が関係ないなんてことあるわけないでしょう!!」

 一度鎮まっただけに、再びの爆発は凄まじかった。

「この国でマルク殿と貴方のあいだになにがあったのか見たのも聞いたのも私だけなんだから!それを関係ないなんて言わせない!それにマルク殿と貴方のあいだになにがあったのか関係してるのは私なんだから、私にくらい思ってること言いなさいよ!」

「姫宮……」

 皇帝は長く長く息を吐いた。そして一言、水滴を落とすように呟いた。

「悲しい」

 一言言ってしまえば、あとは奔流のように止まらなくなる。

「偽りだったことが悲しい。裏切られていたことが悲しい。騙されていたことが悲しい」

「うん。他には」

 まだ、あるだろう。悲しいだけじゃすまないのだろう。たとえ矛盾した思いでも。

「偽りでもよかった、裏切られていてもよかった、できるなら、なにも知らないまま騙されたままでいたかった」

「うん。ごめんなさい」

 それが叶わなくなったのはシズクが原因だ。ずっと謝りたかった。やっと謝らせてもらえた。

「マルクのことを恨んでいる、憎んでいる。でもマルクは最後の最後で俺に真実を見せてくれた。それだけは信じられる」

「うん。よかった」

 幼子のような、つたない言葉だった。だからシズクは皇帝の頭を撫でた、皇帝がシズクにいつもしているように。

「俺は子どもではないぞ、姫宮」

「そんな拗ねた子どもみたいな顔で言われても」

 皇帝はさらに子どものような顔をした。

「そうだ」

 シズクは思いだしたように、カムイに帰るよう記してあった手紙を拾いあげる。

「これ、どうします?」

 いつのまにか皇帝に言いたいことを言わせるのが目的になっていたが、もともとシズクはカムイ国に帰すと理由もなしに一方的に告げられたことに怒ってここまで来たのだ。

 理由をちゃんと聞いて、それから帰りたい。

「俺は姫宮がカムイ国に帰りたがっていると思ったのだ。マルクの件もあり、もうラスシャータにいたくはないだろう、と。まさか怒鳴りこんでくるとは思わなかったぞ」

 そんなところも稀なる姫だ、と皇帝は驚きを通り越して感心している。

「こちらとしては罵倒や恨みごとであっても真摯に受けとめるつもりでいたのに、まるでなにもなかったかのようにカムイに帰すとだけ書かれてあって頭にきたんです」

「姫宮、それはいささか筋違いではないか?」

「私のなかで筋は通ってるんで、問題なしです」

 それにしても、どうしたものか?理由を聞いたら帰ろうと思っていたのは、皇帝がマルクのことでシズクを遠ざけたいのではないかと思っていたからで、シズクを気遣ってのこととは思っていなかった。

 そういえば、さっき本音を吐きださせたときもマルク殿のことばかりだったわ。

 シズクは少し考えて、手紙を真っ二つに破り捨てた。

「姫宮?」

 皇帝が驚くのに、シズクははっきりと言ってやる。

「陛下、カムイ国に行きましょう」

「いや、姫宮?俺達はカムイに帰るという話をしていたのだぞ」

 それがなぜ、カムイに行くという話になるのか?

「だって約束しましたから。カムイに連れて行くって」

「それは、いつかであって……」

「そのいつかが、いまですよ」

 皇帝は呆気にとられたあとで、声をあげて笑いだした。

 シズクの言ったことに納得したのか、それとも笑いのつぼに入ったのか、まあ笑っているならそれでいい。皇帝を笑顔にすることはシズクが決めた帝妃の仕事だ。

 ただ子ども扱いに頭を撫でてくるのには、流石にため息をつきたくなる。撫でられるのは嫌ではないが、ここまで子ども扱いされるといまはより一層複雑だ。

 せっかくこちらは自覚して腹をくくったというのに。

 これでは「見せかけをやめて本当の帝妃になる」と言っても皇帝は戸惑うだけだろう。1人の民として生きていく夢はどうするのだ?とも言ってくるかもしれない。

 まあ、そのときは言ってやればいいわね。

「陛下が皇帝を退位なさったら皇籍を返還して民になります。そうしたら陛下の望むところに、望むまま、自由に行きましょう」

 皇帝はきっと、稀なる姫だ、と笑ってくれるだろう。

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