その先にあるもの 01
団服から行商人の衣装へ着替え、アスファリアからトゥーレを経由して、レガリスに向かう卸売商人の一団に身を潜める。
トゥーレまで五日、レガリスまではそこから二日の行程である。軍人ではなく行商人としての移動では、これが精一杯だった。
はじめ、まだ体が完全に回復していないルチカは、香辛料や帆布を積んだ荷馬車で体を休ませつつの移動であったが、三日目になるとすっかり回復したようで、馬に乗れるようになっていた。
出立して四日目の夜、アスファリアからトゥーレまでの行程で、最後の隊商宿に一行はたどり着く。
二階建ての広大な建物の、二階西翼部分にある食堂で、遅い夕食にありつこうとしたその時だった。
闇夜に悲鳴が響き、人々は騒然となる。
何事かとユアンたち四人が席から立ちあがった時、窓際にいた人間が叫んだ。
「盗賊だ!」
窓辺に駆け寄り、目を凝らす。煌々(こうこう)と灯されていた松明が落とされている。黒いローブの人間が、闇の中を動く。敏捷な獣のような動き。数は、十程だろうか。
ラウラは身を翻して走り出す。シオンもその後に続く。
去り際にラウラは、ユアンの方を振り向いて指示した。
「ユアン、ルチカとここを」
頷きながら、面倒なことになったとユアンは内心で舌打ちをする。
ユアンが腰の剣に手をかけたとき、部屋の南側の大窓が大きな音を立てて割れた。
振り向けば、黒いローブの男が、窓からやすやすと侵入してくるところだった。
咄嗟にルチカが周囲に向って叫んでいた。
「逃げて! 早く、こちらへ!」
食堂にいた人々は、我に返って食堂の外へと逃げ出す。
「お前も行け。無事に外に避難させろ」
ユアンの言葉に頷いて、彼女はそのまま人々を誘導するべく、走り出した。
ユアンは再び目の前の男を見据えた。
男は右手に巨大な斧を持っていた。左右とその頭に合計で三枚の刃を持つ斧だ。あれほど大きな斧を使いこなすには、相当な腕力がいるはずである。
なのに男は、まるで赤子を抱き上げるかのように軽々とそれを持ち上げ、食事の乗ったテーブルを、次々と薙ぎ払ってゆく。
ユアンの前までくると、男は不敵にもローブを脱ぎ捨て、その姿をユアンの前に晒した。
一目で大きな男とわかったが、近くにくるとまた迫力が増した。
背の高い部類に入るユアンより更に頭ひとつ分大きく、筋肉も隆々として体格は良すぎるほどだ。短く刈り込まれた髪、日焼けした肌、口元に生やした無精髭。清潔感漂うとはお世辞にもいえなかったが、土臭く、いかにも男らしい風貌である。その場に存在するだけで他人を威圧する力を持っていた。
ユアンが抜刀すると、男はにやりと白い歯を見せた。
「おっと。これはもしかして、お前が相手になってくれるということかな?」
「もしかしなくても、だ。悪いが早めに終わらせたい。お前たちのせいで、食事もまだなんでね」
一歩、二歩と間合いを取りながらユアンが答えると、男は、これは愉快といった様子で、大きな笑い声を上げる。
「おもしれえ」
そう言って数歩ずつ後ずさりしながら、男は巨大な斧を持ち上げた。ぴたりとそれはユアンの視線の高さで止められる。
「では小僧、楽しませてくれよ!」
その刹那だった。男は床を蹴り、あっという間にユアンの目の前まで迫る。斧が振り下ろされるとき、空気を切り裂く高い音が確かに聞こえた。
ユアンは目を見開いて寸でのところで刃をかわし、後方へ飛び下がった。何がそれほど嬉しいのか、にやにやとしている男を睨む目に力をこめる。
この男、巨体のわりにずいぶんと素早い。しかも武器の差が歴然としていた。まともに受けては剣ごと頭を割られてしまうだろう。
ユアンは舌打ちをしながら剣を構え直した。考えろ、どうすれば勝てるのか。
「簡単にやられてくれるなよ」
次々と襲い掛かる男の斧を、ユアンはなんとかかわすので精一杯であった。余裕のある男の言動が、いちいち勘に触る。
「どうした。逃げるだけで、勝てると思うなよ!」
ユアンの側をかすめていく斧は、猛々しく大きな音を上げながら石のフロアに突き刺さり、周りを振動させていた。ついさきほどまでゆったりとした雰囲気であった食堂が、あっという間に無残な姿に変貌していく。
「頭を使っていると言ってほしいね」
「はん、口だけは立派だな。だがもう後ろがないぜ」
男の言葉通りだった。ユアンは既に壁際ぎりぎりまで追い込まれてしまっている。
「終わりだ!」
高らかに声を上げ、男は斧を大きく振り上げる。重量のある斧だ。振り下ろすまでに僅かに時間がかかる。ユアンはその瞬間を好機とばかりに、逆に男の懐へと飛び込む。床を蹴ると同時に、剣を下から上に薙いだ。
しかし、一瞬遅れて男は後方に体を逸らす。逃がさない。ユアンはもう一度上から剣を振りおろす。
響いたのは高い金属音。斬撃は受け止められた。剣と斧が混じり合う。
ユアンは、徐々に自分が押されていることに気がついた。戦いが始まって上昇していた心拍数は更に上がり、体中から嫌な汗がにじみ出る。その状態で感じたのは、倒れることへの恐怖ではなく、むしろ余計に駆り立てられる闘争心の方だった。そう感じる間はまだ五分のはず。負けていない。負けるつもりもない。押されながらもユアンは、挑発するように不適に笑ってみせた。
「笑う余裕があるか。ますますおもしれえ」
負けじと不適な笑みを浮かべ、男は更に力を加える。
「だがまだ甘い!」
声を荒げて気合を入れた男の力に、ユアンの剣はついにはじき返される。さっきよりもずっと甲高く、乾いた音がその場に響いた。男の斧から与えられる衝撃に耐えられず、ユアンの剣は真っ二つに折れてしまっていた。
剣の上半分が光を反射しながら宙を舞う。しまったと、ユアンが一瞬そちらに気をとられたときだった。
「余所見をする暇があるのか!」
男の声がして、はっとして視線を戻した瞬間、体に鈍い衝撃が走った。一瞬何が起こったのかわからなかったが、すぐに理解する。男の左拳が、自分の腹部に深く沈んでいた。
「……っ」
見る間に口から濁った血液があふれ、ユアンの衣服を血色に染めていく。
「終わりだな。まあまあ楽しかったぜ、小僧」
口元を抑えて思わず膝をつくユアンを見て、男は少し残念そうな声色だった。力を抜いて斧をだらりとぶら下げ、ユアンに背中を向ける。
「さてと、仕事に戻―」
「ユアン!」
ルチカの声だった。避難を終えて戻ってきたのだろう。男がわざとらしく肩をすくめたのがわかった。
「おやおや、まだいたのか。やれやれ今日は忙しい」
「何者だ」
二人の声を聞きながら、ユアンは膝を起こした。口元の血を荒々しくぬぐいながら、体勢を立て直す。
「勝手に終わらせるな」
男は驚いたように振り返り、ユアンを見て目を丸める。次の瞬間、再びにやりと笑みを浮かべた。
「なかなかしぶといじゃないか。まあな、ここで女に助けられちゃあ、情けねえよな」
「うるさい。早く終わらせると言っただろ。くだらないことを言って時間をとらせるな」
時間がないのは何よりユアンの体の方であった。額には冷や汗でぬれた髪が張り付き、体の奥底から感じる悪寒と吐き気に必死で耐えていた。先ほどの一撃はよほど強烈だったらしい。次で決めなければ、確実に負ける。
ユアンは半分になった剣を強く握り締め、今一度床を蹴って走り出した。
「まだくるか。折れた剣で立ち向かう勇気だけは、認めてやるぜ!」
男は正面からこちらに突進してきた。さっきから、この男には戦い方にぶれがない。正面突破だけで、敵を一掃してきたのだろう。今の今までは。
ユアンは男が目前に迫った瞬間、高く跳んだ。体を捻り、着地する。
「な……」
男ははっとして身を翻そうとするが、遅い。ユアンは背後に回ったあとである。左腕で男の首を絞め、その背中に剣を突き当てる。
「折れた剣でも、突き刺すことくらいはできるぜ。後ろからならもっと簡単だ。腎臓を一突きで、お前は死ぬ」
「小僧……」
「斧を置け」
男は体を硬直させた後、斧を手放した。ごとりと大きな音がして、斧は床の上に倒れる。
かくして、事態は収束した。