焼けゆく魂 06
ルチカ・アーレイ。十八歳。彼女の存在は、ラグーン駐屯に赴いたことのある騎士団員なら、誰もが知っていた。
トゥーレの民はドライグを操る。その中でも彼女は、一際立派なドライグを操り、空を翔ける。ドライグの操術だけでなく、彼女は武芸にも秀で、若き女の身でありながらトゥーレのために戦う、門守と呼ばれる職についているという。
ざっと聞いた話は、こんなところだった。ユアンが自ら尋ねたわけではないが、聞かずとも耳に入る。突然の来訪者、しかもそれが大怪我をしたトゥーレの民ということであれば、話が広がらないわけがなかった。ラグーンで何か異変が起こっているのではないかと、十年前の悲劇を思い起こすものも多かった。
二日後、ルチカが目覚めた。
彼女が休む部屋に、どういうわけかユアンが呼ばれた。ユアンとそれからもう一人、シオン・ロアという男も一緒だ。
シオンはユアンより二歳年上だが、その柔らかで丁寧な物腰は、彼を実際よりも年上にみせる。明度の高い銀色の髪に、淡い翡翠色の瞳。その清潔感のある柔らかな雰囲気に、よほどひねていない限り、人々は好印象を抱くだろう。
その割に彼は、それほど目立つ人間ではない。落ち着いて控えめ。ユアンと違って、トラブルとは無縁の人間である。月例戦にも参加している姿を見たことはない。
彼と共に部屋に入ると、ベッドの上で上体を起こしたルチカが、こちらを見ていた。
意志の強そうな鳶色の瞳。黒く長い髪を後ろでひとつに束ねた彼女に飾り気はないが、凛とした美しさがあった。
彼女の側に立っていたラウラが、まず口を開いた。
「もう知っていると思うが、彼女はルチカ。ルチカ・アーレイだ」
それからラウラは、彼女にユアンを紹介する。
「ユアン・ラングハートだ」
シオンのことは紹介されなかった。つまり、以前からの知り合いということだ。
彼女はじっとこちらを見つめてきた。確かめるような、さぐるような眼差し。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに彼女はユアンから視線をそらし、ラウラを見上げる。
彼女の視線に促されて、ラウラが本題に入る。
「きみたち二人には、私とルチカと共に、レガリスに行ってもらう」
驚いたようにそれに答えたのは、シオンだ。
「レガリスに、ですか? それは、潜入するということですか」
ラウラはゆっくりと頷いた。
「そうだ。任務は、我々だけで行う。各師団長にはアスファリアに残ってもらい、戦いに備える」
思わず息を呑んだ。それはつまり、再び戦争が起こることを、予期しているということだ。
「彼女がきたことと、どう関係が?」
ユアンが聞くと、ラウラに代わってルチカがはじめて口を開いた。
「ここからは私が」
そう断ってから、彼女は続ける。
「十年前のラグーン戦争で、レガリスは敗戦してラグーンから撤退した。けれど、諸公の中には今でも徹底抗戦派がいて、戦後に親和派へと路線変更した大公との間で、分裂状態が続いている。そのことは、あなたたちも知っていることだと思う」
騎士団員ならば当然、知っている情勢である。レガリス大公と最も対立している人物は、フォワ公といった。彼の領土はラグーンに近い。だからこそ、アスファリアは騎士団をラグーンに駐屯させている。
「徹底抗戦派の中心人物であるフォワ公については、アスファリアも注視してくれているけれど、私たちトゥーレの門守も、独自に彼を見張ってきた。私はフォワ公の領地に潜伏し、そこで、一人の女を見つけた」
ユアンは思い出す。ぼろぼろの体で騎士団にたどり着いて、彼女は言った。あの女がいた、と。
「名前は、アデル。本名かどうかはわからない。年は四十程だと思う。レガリスの諜報活動員で、ラグーン戦争に関わった危険人物だ。ラグーン戦争で死亡したと言われていたのに……」
「その人物が、生きていたと?」
シオンの言葉に、ルチカは頷いた。
「間違いない。十年も行方をくらまして、今になって現れた。しかも、フォワ公の周辺で。あの女がいて、良くないことがおきないわけがない。手を結んでいるとすれば、いずれ、フォワ公は仕掛けると思う。実際、何をどれくらい計画しているのかはわからないけれど。それを調べる途中で、失敗してこのざまだ」
自嘲的に小さく笑った彼女に、ユアンは眉をひそめた。
「その女に間違いないと、どうして言い切れる? 十年も経てば、人は変わる」
瞬間、彼女の眼差しが、強く光った。
「そう、十年も経てば、人は変わる。普通の人間なら、気がつかなかったかもしれない。でも、私は違う。あの女のことは、見間違えない。絶対に」
それが何故なのか、彼女の説明が続くことはなかった。ルチカはその拳を握りしめ、唇を強く噛んでいる。何か特別な理由があることは、聞かずともわかった。
「とにかく」
ラウラが話を引き戻す。
「すぐに調べさせたが、現時点では、目立った動きはないようだ。だが危機には変わりはない。先回りし、フォワ公が動く前に、アデルを捕える。あくまで隠密に」
アスファリアの騎士が敵地で派手に動けば、内政干渉という、開戦の公然たる理由をフォワ公に与えてしまうだけだ。だから、秘密裏に動くのは理解できる。
しかし、ユアンにはまだ疑問が残っていた。
「何故トゥーレに戻らず、ここに?」
ルチカはまっすぐにユアンに視線を返した。
「フォワ公の領地からトゥーレは近い。あのまま戻っては、見つかる可能性が高かった。十分に撒く必要があったから、それならはじめからアスファリアに向かった方が良いと思った。次の動きまでが早い」
あの怪我で、命の心配はしなかったのだろうか。確かに、ルチカが眠る二日間にも、彼女のかわりにラウラは、迅速に動いてくれたようだ。
「それに、万が一本当に戦争になれば、トゥーレだけでラグーンは守れない」
それを聞いて、ラグーンのため、アスファリアに助けを求めたという、ルチカの理由は理解できた。
最後にユアンは、ラウラに顔を向ける。
「何故、俺を?」
それこそが、最も理解できないことであった。
つい先日まで、自分をラグーンに行かせるつもりはなかったはずだ。それが、おそらくラグーン駐屯よりももっと重要な任務に、なぜ急に用いる気になったのか。生活を改めたせいだと一度は説明されたが、そんな理由だけのはずはない。
ユアンのその心中を、ラウラは察したのだろう。少し目を細めて、ラウラはユアンを見つめる。その瞳の奥には、はっきりとこちらを心配する思いが見てとれた。
「……十年前、ユリアスを殺したのは、他でもないアデルだ」
思わず目を見張った。思いがけない事実に、ユアンの頭は真っ白になった。
「だから、決着をつけるのならば、きみもいた方が良いと思った」
すぐにはラウラの言葉が理解できなかった。ユアンは自分が動揺していることを知る。
決着をつける? つまり、父を殺した相手を、捕えることができるということだ。この手で。
それを理解したとき、突如ユアンの体に衝撃が駆け巡っていた。
成すべきことなど自分にはないのだと思っていた。ただ漫然と生きる、生きているとはとてもいえない退屈な生。ユアンは抵抗に疲れ、諦めていた。だが今、それが変容をきたそうとしている。
何かがはじけたように思考が空白になる。軽い眩暈を覚えた直後、ユアンは見つけた。自ら望んでやまなかった、希望を。
「……わかりました。行きます」
いつにないユアンの様子に、ラウラが眉を潜める。だがユアンはそれを斟酌することなどできなかった。
ユアンはひとり確信する。見つけた。自分が何をするべきか。
道は決まった。ユアンは自分が、安堵感で満たされていくのを確かに感じていた。