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生きなおせるか 03

 夕刻まで晴れていた空はいつのまにか崩れ始め、夜半にはついに小雨模様となってしまった。

 ユアンは起き上がり、部屋から抜け出した。


 回廊をしばらく歩いて中庭に面した場所に出てくると、顔をあげて空を見た。小さく息をつく。気温が下がっているのか、吐いた息はわずかに白くなり、空気に溶けていった。

 せっかく訪れた季節に落ち着こうともせず、大陸は足早に冬に移り変わる準備をはじめている。季節が巡れば、ユアンはまた誕生日を迎える。


 少し進むと、見た姿がそこにあった。ルチカだった。声をかけるまでもなく、彼女はこちらに気がついた。


「ユアン。動いて、大丈夫なのか?」

「……ああ」


 ラウラに話したのは、彼女だろうか。そんな考えが一瞬よぎったが、どうでもよかった。


「ドライグたちは、大丈夫なのか」

「大丈夫。もうラグーンまで飛べるくらいには回復した」

「まだ城外にいるのか」

「いや、ここまで連れてきてる。見に行く?」


 頷いて、歩き出したルチカに続いた。


 薄暗く、冷えた空気の漂う城内を進み、いくつか角を折れたところで、城内の庭園へ降りる階段へとたどり着いた。

 広大な庭園には水路が引かれ、湖が造られていた。ドライグたちが三匹、そこで羽を休めている。

 黒い鱗に、細かい雨粒が絶え間なく降り注いでいる。ドライグたちは、光を帯びたように、艶やかに輝く。


「明日にでも、ラグーンに連れていこうと思っていたんだ」


 ドライグたちを見つめながらそう言ったルチカが、不意にこちらを振り返った。まっすぐな瞳と目が合う。


「ユアン。私と、一緒に行くか?」


 その眼差し。どこかで見たような錯覚を覚える。すぐに思い当たる。ラウラと同じだった。

 ユアンはドライグへ視線を向ける。そう言えば初めて見たときに思ったのだ。あの翼で空を翔けるのは、どんな気持ちなのだろうかと。


「……乗れるのか、俺も」

「乗れるよ。一緒なら」


 自由に空を飛ぶ。あのどこまでも青い空を。想像できなかった。心はまだ、麻痺したままだ。


「……お前の戦いは、終わったのか」


 ユアンの突然の問いに、ルチカは一瞬驚いたような表情をする。だがすぐに彼女は、小さく首を振った。


「終わらないよ。生きている限り、ずっと。私の所為(せい)で亡くなった人たちは、戻ってはこない」

「そうして生きていくのは、辛くはないのか」

「辛い」


 ルチカはゆるゆると空を見上げた。墨で塗りつぶしたような黒い空から、細い雫が絶え間なく落ちてくる。まるで、声を出さずに泣いているかのようだった。


「でも、どんなにひどくても、これが私なんだ。誰のものでもない、私の一部。そうやって受け入れたら、少し楽になった。辛いことばかりじゃない。忘れられない過去があるから、私はこうしてここにいる」


 ユアンは僅かに目を細めた。


「いつか、お前はお前を許すときがくるのか」

「……わからない。でも、前にユアンは、私に言ってくれた。ユアンのお父上が私を守ってくれたことを、当然のことだって。あの時、私は本当に救われたんだ。多分そうやって、私は誰かに救われながら、これからも生きていく」


 そのときようやくユアンは理解した。人は変わる。変わらないままではいられない。必要なのは、忘れることでも、乗り越えることでもない。ただ受け入れる力なのだ。

 それができなくて、ユアンはすべてを諦めていた。今になってわかる。怖かったのだ。痛みを、自分自身のものだと受け入れてしまうことが。

 ここは違う、こんな世界ではないはずだと、自分の世界を否定することしかできなかった。まるで震える子供のように。

 現実はそうじゃない。どんなにひどくても、世界は世界でただそこにある。


 麻痺した心臓が、ゆっくりと動きだした。


「……一緒には行かない。ドライグには、乗ってみたかったけどな」


 ルチカはただ、静かにこちらを見つめている。眼差しが交差する。彼女は少し微笑んだ。ユアンの心を、理解したように。


 背を向けて歩きだそうとした瞬間、二の腕を取られて歩みを止められた。少し驚いて振り返れば、ルチカはまっすぐなその眼差しで、ユアンが考えもしなかったことを口にした。


「今、乗ろう」


 一瞬思考が停止する。


「……何に」

「ドライグに。行こう」


 半ば強引に腕を引かれ、ユアンは本気で面食らっていた。


「私用で乗るのは、禁じられているんだろ」

「ここはトゥーレじゃない」

「目立つだろ。ドライグを見たら、街の人間が騒ぎ出す」

「大丈夫。夜だし、雨できっと見えない」

「………」


 いつになくルチカは強引で、ユアンは小雨に打たれながら、そのままドライグの前まで連れて来られてしまった。


 ルチカは側に置かれてあった(くら)を取り、三匹のうちの一匹に、それを乗せる。ドライグはそれを嫌がらず、むしろ自ら首をルチカの方へ回し、手綱の繋がった(くつわ)を受け入れる。

 あっという間に準備を整えると、背を低くしたドライグに、ルチカは軽々と(またが)る。その背に乗って、ルチカは手を差し伸べた。


「行こう」

「…………」


 まだ信じられない思いで、それでもユアンの手はルチカの手を取っていた。


 背中に乗る。黒曜石のような鱗は固く、冷たい。けれどそこはゆっくりと上下していて、確かにドライグの鼓動を感じた。

 ルチカが胸元から竜の笛を取り出し、唇に挟む。それを合図に、ドライグは大きくその羽を広げる。

 思わず鞍の持ち手を強く握った。強い風。雨が頬を打ち、ユアンは片手を上げて目を(すが)めた。

 高度を上げて、雲の中へ。雨に打たれたのは僅かな時間だった。薄暗い雲を抜けたら、突然景色が変わった。澄みわたる空。明るい月と輝く星。地上で雨が降っているのが信じられないくらいだ。

 そこは静かで、怖いくらいに美しかった。目の覚めるような深い群青色の中を、ドライグはゆっくりと飛翔する。


「辛いときは、時々こっそり乗ってた。空は好きなんだ。どこまでも広いから。私の存在なんて、取るに足らないものなんだって教えてくれる」


 世界に比べたら、自分はこんなにも小さい。ユアンはこみ上げる思いに、片手を当てて胸のあたりを押さえる。本当に、広い。どこまでも。世界は広がっていく。望めば、ずっと。

 すべては変わっていくのだ。ユアンは押さえた胸元を固く握りしめる。人は生きていける。変わっていくという事実。それを恐れることがなければ。きっと。

 ユアンは知らず、声を漏らしていた。


「……生きなおす。俺も、これから」


 きっと、これからも迷う。だがもう恐れない。

 ほかでもない、自分自身のために、ユアンは言葉を形にしてゆく。


「俺は俺で歩く、この足で。飛ぶことはできなくても」


 ルチカはゆっくりと振り返り、ふわりと花のように笑った。


「またいつでも、乗せてあげるよ」


 夜風がやさしく頬を撫でる。


「トゥーレで待ってる」

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