8. 雨の夜
カイト達が路地に消えたのを見届けてから、マオはそっとドアを開けて家に入った。
「父さん、ただいま。」
玄関には既にマオの父親であるシュエ=ウイスタリアが立っていて、険しい顔をしている。
「…父さん?」
「マオ、その怪我は何だ。」
「あ…これは…。」
マオが何も言えずにまごついていると、シュエは情け無さそうに溜め息を吐いた。
「また喧嘩か。……今度は伯爵家の子息だそうだな。」
「えっ?」
シュエは何も言わずにマオの頬を打った。甲高い音が響く。
「な、何の事…?」
頬を抑えて困惑するマオに、シュエは呆れた顔を見せる。
「噂になっていたぞ、お前がチャコル伯爵の子息に喧嘩を仕掛けたとな。」
チャコル伯爵とはシーバックを治めている領主のことである。シュエはその伯爵の下で文官として働いているのだ。
「チャコル伯爵……。」
マオが必死で今日あったことを思い返すと、確かにライオの取り巻きの中に以前見た伯爵によく似た獣人が居たのを思い出した。恐らくシュエはマオがカイトと出会う前に食堂で起こした騒ぎの事を言っているのだろう。
「……ごめん、なさい。」
「マオ、こっちに来い。」
シュエはマオの手を引いて外に出ると、マオを物置小屋の前に立たせた。
「しばらくそこで反省していろ。私が良いと言うまで出さないからな。」
「……はい。」
物置小屋にマオを押し込み、シュエは小屋の引き戸を音を立てて閉めた。
「父さんは俺の事嫌いなのかな。」
埃っぽい小屋の中で蹲り、マオは溜め息を吐いた。
「今回は相手が悪かったんだ、うん。きっとそうだ。」
マオは幼少の頃から曲がったことが嫌いで、その為に周りと衝突することが多々あった。弱いもの虐めをするガキ大将や近所の老夫婦の畑の作物を盗む泥棒、そして馴染みの店で難癖をつけて店員や店長を困らせるライオとその取り巻きのような輩に時には怒鳴り散らしたり、時には殴りかかったりと、褒められた手段ではなかったが、マオは彼なりの手段で自分の目の前に起こる曲がったことを正そうとしてきたのだ。しかし思い返すとシュエはマオが揉め事を起こしたことを咎めはしたが、一度もマオが正しいと褒めたことは無かった。彼を褒めるのはいつも彼の母親だった。
「駄目だ、擁護のしようがない。」
マオは頭を抱える。シュエとの良い思い出を何度もひねり出そうと試みるが、仕事に没頭する姿しか浮かんでこない。
「……はぁ。」
溜め息を吐いて、狭苦しい小屋の中を見回す。
「全く、何で母さんはあんな人選んだんだろう。」
マオの母親であるラン=ウイスタリアは無愛想なシュエとは真逆でよく笑う女性である。快活な性格と正確無比な弓の腕から、周囲からの人望も篤い。
「あんな仕事ばっかり気にしてるような人…」
選ばなきゃよかったのに、と言いかけて口をつぐむ。自分自身を否定しているような気分になったのだ。ランはマオのことをよく父親にそっくりだと言っていたからだ。
「俺、いらない子なのかな。」
天井を見上げてぽつりと呟く。そしてそんな考えを忘れようとなんどもな何度も何度も頭を振った」
「寒い……。」
物置小屋の屋根を雨が叩く音がする。
「……雨だ。」
段々と空気が冷たくなっていくのを感じ、マオは身を縮める。薄暗い小屋の中は小さな《発光》の魔道具で照らされていた。
「どう、しようかな。」
ゆっくりと立ち上がり、小屋の扉に手を掛けると、扉は容易に開いた。
「鍵が……掛かってない?」
先程のカイトの言葉が脳裏を過った。
「……よし。」
壁にかかっていた長い外套を身に纏い、フードを深く被るとマオは小屋の外に出た。強い雨にも怯まず、ただ走った。
家の中では、マオの両親が揃って珈琲を飲んでいた。広いリビングに置かれたダイニングテーブルに向かい合って座り、シュエもランも黙りこくっている。
「はぁ。」
静寂を破ったのは、ランの溜め息だった。
「全く、相変わらずなんだから。シュエさんはマオに厳しすぎるのよ。」
「怪我をしたということは、相手に怪我をさせるようなことをしたということだ。なら叱る他無い。」
即答するシュエに、ランはがっくりと肩を落とす。
「その融通の効かない所とか、本当に二人ともそっくり。」
「姿形は君そっくりなんだがな。」
ランの特徴的な青い癖毛を見ながら、シュエはやれやれと溜め息を吐いた。
「性格まで私に似たら、もっと怪我が絶えなかったでしょうね。」
「それは困るな。」
二人はクスクスと笑い合う。
「……明日から身の振り方を考えないとな。」
「え?シュエさん、仕事辞めるの?」
「クビになるだろうな。」
さらっと重大な事を言うシュエに、ランの目が点になった。
「ど、どうして?」
「あの子煩悩で人の話を聞かない伯爵が私の弁解を聞き入れると思うか?」
「……思わないけど。」
ランの答えに、シュエの口角が少し上がる。
「あの伯爵の事だ、マオに頭を下げさせようともするだろうな。そんなことさせるぐらいなら私が仕事を手放す方がいい。」
降りだした雨の音に気づいたシュエは足早に家を出た。
「……流石に、さっきは言いすぎただろうか。」
シュエが物置小屋を見ると、そこには既にの開け放たれた物置小屋しか残されていなかった。
「マオ?居ないのか?」
物置小屋の中を隅から隅まで探すが、何も見つからない。シュエの元々青白い顔が更に青ざめた。
あなぐま亭に着く頃には既にマオはずぶ濡れになっていた。
「ずぶ濡れじゃないか、どうしたの?」
店に入るなり、店主がずぶ濡れのマオを見て慌てて両手にタオルを持ってマオに駆け寄ってきた。
「ここにカイトさんっていう人間の旅人が泊まってますよね。俺、カイトさんに会いに来たんです。」
「確かにいるけど、知り合いなの?」
マオが店主にそう告げると、店主は当然の事ながら怪訝な顔をする。
「知り合い、ではあります。」
「ふぅん。珍しい事もあるもんだ。」
そう呟くと、店主はマオに白いタオルを手渡してロビーで待つように言い、二階の客間へ上がっていった。
丁度布団に入って眠りかけたところを起こされ、カイトは若干不機嫌だった。
「全く、誰だ一体。」
頭を掻きながらロビーに降りてきたカイトは、ロビーに置かれた椅子に座っているマオと目があった。
「……マオ?追い出されでもしたのか?」
カイトが尋ねたが、マオは無言で俯くだけだった。
「そんなずぶ濡れで、風邪引くぞ。」
「……て。」
「ん?」
聞き返すと、マオは絞り出すように言った。
「俺っ…どうすればいいか…わかんなくて…。」
「えー、ちょっと落ち着け。」
ポロポロと涙を溢すマオの背中を擦りながらカイトは何があったかを全て話すように促した。
「……家帰ったら、父さんに叩かれて…。多分、取り巻きの中に父さんの仕えてる伯爵の子供が居たから…。」
「父親が心配してる様子が無かったのが嫌だったのか?」
「わからない、です。」
マオは何度もしゃくり上げながら続けた。
「父さん、俺のこと物置に放り込んで反省しろって…。」
「それで飛び出してきたって訳か。」
マオは頷くと、更に大粒の涙を溢した。
「父さんは俺が邪魔なのかな……。」
「そんなこと無い。お前の親父さんは不器用なだけだと思うぞ。」
「でも…父さんはいつも仕事ばっかで…。」
「なら一緒に来るか?」
弱々しい声で呟くマオの顔を覗き込みながら、カイトはマオに誘いの言葉を掛ける。
「え?」
「上手く行かないときは全部ほっぽったって良いんだよ。俺もそんな感じで旅に出たんだし。」
「良いん、ですか?」
カイトはニッと笑うと、マオの頭を撫でた。
「勿論。その代わり────」
カイトに連れられてマオは再び家の前に立った。家を飛び出した事を謝り、旅に出る事を自分で告げて許可を貰う。それかそれがカイトの提示した条件だった。
「た、ただいま!」
ドアを2回ノックしてマオが声を出すと、少ししてから物凄い勢いでドアが開いた。
「マオ!?マオなの?」
家から出てきたのはランだ。ランはマオを抱き締めると、声を上げて泣き出した。
「心配したのよ。シュエさんが待ってろって言うから、探しにいくこともできなくて…。」
「父さんは?」
キョロキョロと辺りを見回して、マオはシュエがこの場に居ないことに気づいた。
「マオを探してるの。」
「……え?」
「マオが居ないって言って走ってどこかに行っちゃったのよ。心配だわ…。」
再び泣きそうになるランをマオがなだめていると、遠くからとぼとぼと歩いてくる人影があった。
「あれは、父さん?」
「マオ……なのか?」
シュエと思われる人影は、マオが居ることを確認して安心したのか、その場にへたりこんだ。
「良かった…。」
シュエはフラフラと立ち上がり、マオに近づいた。マオは思わず身を固くしたが、シュエはマオを優しく抱き締めた。
「無事で良かった…。マオ…。」
三人を少し離れた場所で見ていたカイトは、小さく溜め息を吐いた。
「やれやれ、邪魔者は退散するとするかね。」
カイトの呟きは雨に掻き消された。
ダイニングテーブルを挟んで両親を前にし、マオは身を小さくしていた。
「……急に居なくなったと思ったら旅に出たいだと?」
「シュエさん、マオにも考えがあるのよ。ちゃんと聞いてあげましょう?」
シュエは腕を組んでしばらく考えた後、深紅の双眸をマオに向けた。
「ちゃんとした理由があるんだろうな。」
「……俺、父さんのこと誤解してたんだ。俺に興味なんて無いんだろうなって。俺のこと、邪魔に思ってるんだろうなって。」
俯きながら、マオは父親に抱いていた不満を少しずつ吐露した。
「誤解は解けたけど、このままずっとここにいても結局父さんとは上手くやっていけないかもしれない。だから…」
「気持ちの整理をつけたい、と言うことか。」
マオの言葉を遮るように、シュエはマオに尋ねる。マオは顔を上げ、シュエの目を真っ直ぐ見つめてからゆっくり頷いた。
「……わかった。」
しばらくシュエはマオを見ていたが、マオのまっすぐな目を見て折れたようだ。
「ラン、それで良いな?」
「ええ。」
ランは笑って頷くと、備え付けのクローゼットからよく手入れされた短弓を取りだし、テーブルの上に置いた。白木で作られた短弓で、弦はピンと張られている。装飾は少なく、矢を射る事に特化した印象である。
「マオ、旅に出るならこれを持っていきなさい。」
「これ、母さんの使ってる弓じゃ…」
現役の狩人であるランを気にかけてか、マオは弓を受け取ろうとしない。
「心配しないで。これは私のお父さんが私にくれた物よ。今使ってる弓とは別物。」
「でも、そんな大切な物貰えないよ!」
慌てて首を振るマオを見て、ランは泣きそうな顔をする。
「マオが産まれたときからこれを渡すのが楽しみだったのに……。」
恨めしそうにマオを見るランに気圧され、マオは恐る恐る弓を手に取った。途端にランの顔が明るくなる。
「持っていってくれるの?」
「……うん。」
マオが頷くと、ランは心底嬉しそうな顔をした。
「準備はしたのか?」
「まだです。」
きっぱりと言いきるマオに、シュエは頭を抱えて大きな溜め息を吐いた。
「そんな行き当たりばったりでどうする…。」
「マオなら大丈夫よ、きっと。ね?」
ランがマオに満面の笑みを浮かべると、マオもそれにつられて笑顔になった。
「ところで、いつ出発するつもりなんだ?」
「えっ、えーっと…。」
出発する日すら決めていなかったのか、おろおろし始めるマオを見てシュエは腕を組んで唸る。
「……一週間以内に荷物を纏めなさい。」
「シュエさん、そんな追い出すようなこと言わなくても…。」
「このぐらい具体的に言わないといつまで経っても出発出来ないだろう。」
「それにしても一週間は早すぎるわ!」
「と、父さんの言う通り一週間で準備するよ。」
言い争いを始めかねない二人を見兼ねて、マオはシュエに言った。シュエは満足げに頷いたが、ランは心配そうな顔をする。
「マオ、本当に大丈夫?」
「うん。心配しないで。」
ランを安心させるように微笑むと、マオは椅子から立ち上がり、自分の部屋に戻っていった。
「あの子、あんなに大きかったかしら。」
マオの後ろ姿を見ながらランはぽつりと呟いた。
「……どうだろうな。」
シュエの返事はどこか寂しげな物だった。