暗闇の魔詠術師
どこかの世界、いつかの場所。
書を嗜む人間が一度は必ず憧れる”魔の力を手繰る術”が、この世界には存在している。
しかしそれは、誰にでも容易に操れるような力ではなかった。
——術を操る呪文ひとつひとつにも物語があり、その物語には登場人物が生きている。
——登場人物が存在すればそこには感情が生まれ、また感情を育んだ揺るがぬ土壌も存在する。
それらひとつひとつを”書物”という形で触れ、読み、自らの血肉にして初めて”魔の力を手繰る術”——すなわち”魔詠術”を手にすることが出来るのだ。
不思議なことに、呪文を唱えただけ、物語を流し読んだだけでは術は発動しない。”魔詠術”を手にするためには書を愛し、書に溺れなくてはならない。一言一句をその身に刻まねば書を愛する神には届かない。
その前提から分かる通り、彼らは術を扱う者である前にひとりの”読書家”である。そのため、彼らにとって”書の原版”は金銀財宝にも等しいものなのだ。
書を愛する者。書を通じ、魔の力を極めようとする者。ただひたすらに物語を追い続ける者。自ら生み出す者。彼らが集まるその学び舎はいつしか”古書の塔”と呼ばれるようになっていた。
「今日の授業はここまでだ。……さて、学外実習が来月に迫っている。準備することは当然だが、当日に疲れを持ち越して力を出し切れないなどということがないように」
そう言い残した老教師が教室を後にする。途端に騒がしくなった教室でステラが立ち上がると、彼女の友人であるリンが慌てたように寄ってきた。
「ちょっと待って! 寮に帰るんでしょ? ちょっと用事があるから、付き合って欲しいんだけど」
「ん……別にいいけど。何?」
「内緒!」
意識の高い学生たちは放課後も毎日自主的に研究会を開いている。真面目で、何より書を愛するリンだ。そんな彼女が原版の貸与もある研究会よりも用事を取ったことに驚きつつ、ステラは荷物を急いで回収するリンを待った。
「あ」
「お疲れ」
自分の近くを通る級友の男子学生・ハロンに片手を上げると、なんとも複雑そうな表情で軽く頷いて通り過ぎて行く。ステラは苦笑を零した。ステラにはステラの事情があるのだが、それを知ったところでハロンの胸のつかえが消滅するわけではない。
だが、彼は変わろうとしている。研究会を欠席した挙句に医務室の雑用など、以前ならば考えもしなかっただろう。だが今のハロンはそれを自分から選んでいるのだ。
「すごいことだよね」
「どうしたの?」
ポツリとつぶやいた声をいつの間にか隣にいたリンに拾われて、ステラは緩く首を振った。
「いや、何でもないよ。じゃあ帰ろうか」
「そうね」
とりとめもない会話を共にすれば、ただでさえ短い道がさらに短く感じられる。自分の部屋へ戻るためリンに挨拶をしようとしたステラは、リンに手招きをされて彼女の部屋の前で立ち止まった。
「ごめんごめん」
「別にいいけど……どうしたの?」
リンの不可解な行動を未だに説明されていないステラが首を傾げると、小さく笑ったリンはようやく何かを差し出した。
「これ。ステラに渡そうと思って」
「これって……写本?」
受け取ったのは少し古びた小さなノートだった。何度か目にしたことのあるそれは、リンが大切にしている写本だったはずだ。
「どうしたの」
「それ、新しくまた写したから」
何よりも深く書を理解するため”古書の塔”ではよく写本の課題が出される。それは理解しているが、だからと言ってリンがこの写本を渡してくることの方は理解ができなかった。
彼女の記憶が正しければこれはリンが”術師”として初めて書き写したものなのだ。書としてだけでなく、他にもたくさんの思い入れがあることをステラは知っている。
「最近、よく本を読んでいるでしょう?」
大切にしている。それをわかっているからこそ戸惑いを隠せないステラにやはり小さく笑って、リンは友人の手にある小ぶりなノートをそっと撫でた。
「これならステラも簡単に読めるかな、って。迷惑だった?」
「そんなこと!」
とっさに大きな声を出した自分にステラは驚く。そうして再び「そんなこと」と小さく繰り返し、古びたノートをしっかりと抱きしめた。
「ないよ。ありがとう。大切に、する」
「うん。じゃ、私は研究会に戻るから」
「行ってらっしゃい」
自室に鍵をかけて去って行くリンを見送り、ステラもまたゆっくりと自分の部屋へと帰った。荷物を机に放り出すとベッドへ腰掛け、膝の上のノートをじっと見つめる。
書の魅力とは内容だけを指すものではない。文章の書き方や体裁、インクの色、紙の質感に本としての作り、挿絵、厚みや重さ。物体としての本だけではない。何を思って書かれたのか。何をモデルにして描かれたのか。どのような人物が創った話なのか。どのような人が書き写したのか。その文字の印象は。人々から語られるそれぞれの視点からの”本”の話。その書に関わる全ての情報により魅力が決定するとステラは考えている。
ステラにとってリンの写本はもっとも読みたいと思う書のひとつだった。内容もさることながら、リンが話してくれる内容や声に気持ちが表れていた。たくさんの愛情を注がれているとよくわかるその写本は、適当に書かれた原版よりもよほど欲を刺激される。それが勘違いからでも手元にあるのだ。
「どうしよう」
今度ばかりは自分を自分で抑えられる気がしない。そこはかとない不安感をリンの写本への欲求で紛れさせ、ステラはそっとノートへ指を滑らせた。
「おはよう」
「おはようステラ……ねぇ、最近ちょっとお疲れじゃない?」
ステラが写本を受け取ってから約半月ほど経った朝。教室へ現れた彼女の顔を見てリンは眉を寄せた。
「ん? そんなことはないけど」
「でも……」
話す声や表情におかしいところは無い。いつもどおり薄く穏やかな笑顔を浮かべ、仕草もいつものステラのままだ。しかし一点だけ、どうしても見過ごせないことがあった。
「目の下。隈、毎日ひどくなってる気がする」
「そうかなぁ」
色が白いステラだから余計に目の下の黒が目立つのだ。心から不思議そうな様子で小首を傾げるステラには自覚など無いようで、それが余計にリンの不安を掻き立てる。
よくよく考えてみればこの仕草にも違和感があった。入学以来どこか気を張っていたようなステラは、普段からこのように子供じみた仕草をしただろうか。一月前の彼女は、薄くとも誰が見てもわかりやすい”穏やかな笑顔”を浮かべていただろうか。ぼんやりしていることも増えた気がする。
「それよりもさ。来月の学外研修どうする? あと半月しかないけど」
「え? あ、えぇと」
考え込んでいたところにステラから声をかけられて、リンは上げていた目線をステラへ戻した。それだけの行動で考えていた内容が散り、そのまま雑談へと移ってしまう。
「確かハロンと一緒だったよね。すごく意外なんだけど」
「それを言ったらステラもでしょ。選ぶならもっと人数が多くて楽できそうなところだと思ったわ」
「あ、ひどいなぁ。わたしだってちゃんとやる時はやるんだよ?」
「やる時はやる、って言って選んだのがのんびりした場所じゃない」
「う……」
忘れてしまった事項を後から悔いたところで結局は後悔でしかないのだが、リンはそのまましばらくの間、抱いた疑問を思い出しはしなかった。
「お前たちと同じ班か」
「また言ってる」
”古書の塔”は在籍三年から五年までの間、年に一回ほどの頻度で学外研修がある。塔から提示された選択肢から一つを選び、今まで学んできた魔詠術を活かした活動をする。その活動内容は全て報告書にまとめて提出をしなければならず、術を使わなかった場合であっても面倒なそれから逃げることはかなわない。
塔に併設された大図書館での司書業務、警備隊への臨時出張、街中での各種業務など存外たくさんの選択肢があるのは、世の中から術師が望まれているという好ましい状況によるものだろう。
近場に本があれば確実に暴走する。そんなステラと、ステラの事情は知らないものの普段とは違う場所へ興味があるというリンは、遺跡の簡単な調査と周辺の見回りへ立候補していた。見回りと言っても本当に簡単で特に持ち場もなく、術師の卵たちにとっては退屈でしかない。それゆえ人数もそう多くなく、さらにはのんびりした性格の人間ばかりが集まったために非常にまったりとした空気が流れていた。
「いい加減に諦めてよハロン」
「諦められると思うのか、スティール」
「うーん。でも諦めてもらうしか無いんだけどなぁ」
見回りも遺跡の調査も二人ではリスクが高く、四人では安全すぎるために気がゆるむ。組むことになった残りの一人は見知った顔——ハロンであった。
数日前の班わけでの雑談によれば、より戦闘の可能性が高い現場を希望したが、人数制限や競争率に負けてこの場に来たとのことだった。彼はよほどステラと同じ班であることが気重らしく、口を開けば先ほどのように本人を目の前にした愚痴をこぼしている。
はぁ、と大きくため息を吐き出すと、ハロンはさっと背を向けた。
「三日か。よろしく頼む」
以前なら確実になかった挨拶へ顔を見合わせ、にこりと微笑んだステラたちはハロンの後を追う。周囲には見渡す限り森しか無いが、普段から授業だ研究だと室内にばかりこもっている三人にとってはいい気晴らしになっていた。それは他の参加者たちも同じようで、移動時よりも和らいだ表情でそれぞれの目的地へと散っていく。
「それにしても、こんなに木がある場所は久々にきたなぁ」
樹々の間から落ちる日光にリンが目を細めた。そのまま気持ち良さそうに伸びをすると、ハロンもまた頷いている。彼もまた難しい表情が心なしか緩み、普段ならば切って捨てる雑談へ応じていた。
「あぁ。二人とも都会生まれだっけ」
「都会、って言えるほどの場所じゃないけど……」
「僕は古書塔の近くにある街だ」
王が住まう都ほどの煌びやかは無いが、リンもハロンも国内ではそれなりに賑わう街で生まれ育っている。だからこそ充分に学習をすることができて”古書の塔”へ所属することができたのだが、ステラはステラで、そんな二人へ首を傾けた。
「森育ちだと二人みたいには思わないからなぁ……」
そんなに有り難いかな? と不思議そうにしているステラは南部、大森林がある地域出身である。故郷に近い環境ゆえかここ数日は特にひどくへばりついていた疲れが影を潜め、ふらつき気味だった足元もしっかりとしている。リンは二人には分からないようにそっと息を吐き出した。
「ステラの家は」
「うん。森も森、って言うか樹海だよ。周り一面森しかないところにうちの親族が集まっててさ。まぁでも一番近い集落で歩いて半日くらいしか無いから、そんなに不便でもないけど」
「う、わぁ」
「それは、大変、だな?」
「そうかなぁ」
半日の半分も歩けば小旅行だと思える街育ち二人にとっては、ステラのそれは規模の違う距離感である。それこそ王都にいても不思議ではない容姿のステラが放つ地方育ちの空気に何とも言えなくなり、リンはそっと軌道修正をすることに決めた。
「そんなところに住んでたら、騒がしくなくていいね」
「まぁそうだね」
大いなる森の子供はこくりと頷く。
「ご先祖が静かに読書するためだけに移り住んだらしいし」
「う……わぁ……」
「そ、そう……」
南の賢者たるウォリス家は、その膨大な書の知識から魔詠術師を多く輩出している。歴史を学べばかならず一度は目にする家系の、あまりと言えばあまりな住居条件に今度こそ言葉を失い。
「見回り、しようか」
「そうだな」
街育ちたちはそっと目をそらす。
「あ」
そのまましばらく無言で歩き続けていると、先頭を歩くハロンが小さく声を上げた。人の手が入ってはいても森の端に若干程度である。長剣を持つハロンが一番前を歩き、好き放題に生えて視界を塞ぐ草や蔓を払っている。その過程で彼は何かを見つけたようだった。
「おい、これ」
「えっ?」
「地図には無いね。でも間違いないよ」
「もう何歩か進んだら危なかったな」
ハロンの後ろから覗き込んだリンは驚きの声を上げ、冷静に地図を取り出したステラが断言する。それはもう一つの課題である探索の目的地、遺跡——地下遺跡へ続く穴だった。ハロンが立っている位置より四、五歩ほど前にあいているその穴は、覗き込めば大人の男が手を伸ばしても天井に届かない程度の深さがある。
何も考えずに歩いていればハロンの言うとおり落下し、確実に怪我をしただろう。周りには鋭角な石や朽ちかけのレンガもある。打ち所が悪ければ命を失う可能性もあった。
「でも……今まで塞がってた場所なのかな。地図と現在地が微妙にズレてるような気がする」
光の届く通路だけでなく少し奥にも朽ちたレンガが散乱しており、そこが間違いなく遺跡であること、そして突発的に生まれた入り口だということが分かった。もともとこの地下遺跡は探索し尽くされた初心者向けと言われているが、近年、もっと奥まで空間が伸びているのではと囁かれている。
「……行く?」
「まぁ……そう、だな……」
リンの窺うような視線にハロンはゆっくりと頷く。ステラもまた無言で頷いたため、三人はそれぞれに気持ちを入れ替えた。ほとんど草食動物しかいない森を散歩するのと遺跡探索では、いくら安全だと言われている遺跡であっても、同じ気持ちではいけない。
「探索は少しで切り上げるぞ。対処できない状況になっては困る」
「そうだね。それで賛成」
「はーい。もしも危なくなったら迷わず帰還、それか先生たちに連絡だね」
ごく最近の魔詠術実習のおかげでハロンは自分の力に対する慎重さを学んだ。ステラやリンにしても無理をするつもりは全くないため、しっかりと頷きあう。
「よし。行こう」
魔詠術師の卵たちはそれぞれに光を生むと、慎重に地下へと潜っていく。
——え?
最後に地下へ下りたリンは友人の顔に黒々とした隈を見て目を瞬かせた。しかし地下や生み出した光に慣れてから再び見えたのは今まで通りのステラの顔で。
「何?」
「う……ううん、何も」
不思議そうな友人へ笑いながら首を振ると、リンもまたゆっくりと歩き出した。
気負っていた三人をあざ笑うかのように、遺跡の中は見事に抜け殻だった。
「うーわー、見事に何にも無いねぇ」
「まぁ……探索し尽くされたんだろう」
探索中に出会った広間の中、ごくごく小さなくぼみを撫でて呆れたようなリンへ、ハロンもまたつまらなさげに肩を竦めた。三人がいるのはやはり目的の遺跡だった。誰も見ていない空間へ都合良く入り口ができるはずもなく、結局は彼らが持っている地図が微妙に狂っているだけという結論が出た。
何せ見事に何も無い。リンが撫でていたくぼみは恐らく小指の爪ほども無い輝石をはめ込んでいたはずで、ハロンが眺めている台も揃いの燭台が乗っていたはずだ。宝石どころか少しばかりの小道具も無い現実は、別段物欲や冒険欲の無い三人すらも”がっかり”へ突き落とした。
「んー……有名な遺跡だからねぇ。そうとう切羽詰まった人の死体とかくらいしか無いでしょ」
部屋の隅に転がる何らかの骨をチラリとだけ見やり、ステラは視線を二人へ戻す。そうして小さく欠伸をこぼした。先ほどから生欠伸が止まらない。
(ご愁傷様、かな? んんっ……さすがに実習中は早く寝よう)
彼女は人の死を正面から見たことがない。しかしそれでも骨になってしまえば騒ぐ気すら起きなかった。絶対の安全が無いこの世界では、人骨程度であればその辺りで遊んでいる子供ですら一度は見たことがあるのだから。人間だけに優しい世界などあり得ないことは子供の時に理解している。
「そうだな。めぼしいものがあったとしても、ほとんどが外から持ち込まれた物だろう。新しい発見ではなさそうだ」
ハロンの面倒そうな声を聞きながら、ステラは視界に引っかかりを覚えた。
「……あ」
この部屋に転がっているのはおよそ三人分の骨。その一人に近付いたステラは、抱え込むようにして骨の下に埋められた物を見つけた。
「魔詠術師、だったのかな」
乱暴に触れたならばすぐさま崩れてしまうだろう。年月が経過してボロボロになったそれは、見間違えようもなく一冊の本であった。きちんと揃えられた紙と立派な表紙は、それがただの写本などではないことを示している。
このような場所へ大切な本を、しかも原版を持ってくる者はそういない。ならばこれはこの遺跡にあったもので、恐らくこの骨の主が見つけたのだと思われる。骨になってしまえば利用方法など無いだろうが。
「少しだけ、なら」
もしかするとここ数年無かった新発見かもしれない。そうすれば塔へ収容され、丁重に丁重に扱われるはずだ。
(今だけだから)
リンもハロンも、何も無いと言いつつ再び広間の中を見て回っていた。その間くらいならば問題は無いと言い訳のように自分に言い聞かせ、ステラはボロボロの本へ右手をそっと伸ばす。そのわずかに俯いた白い横顔には、黒い黒い隈が浮かんでいた。
いくら見回ってもめぼしいものが無い。分かっていたはずだが無収穫というのも寂しいもので、リンは残念そうにため息を吐いた。
「そちらも収穫は無しか」
「その感じだとハロンもかな」
「あぁ。全くと言っていいほどだな。見つけたと思ったら骨になった人間が持っていた日記帳くらいだ。しかも字が汚くて読めない」
「あはは! まぁ、日記帳なら自分さえ読めればいいからね!」
憮然とするハロンがなぜか面白く思え、リンは軽やかな笑い声を上げる。この遺跡に入ってから随分と時間が経っていた。日光が無いことと空が見えない閉塞感で下降気味だった気持ちが、少しの笑い声でいくぶん上を向く。それを知っているからこそ、リンはどのような状況でもできる限り明るくいようと思うのだ。
ひとしきり笑った彼女は、やはり不機嫌そうなままの級友から視線を外して友人を探した。
「そう言えばぜんぜん喋ってないけど、ステラは」
「おい」
リンはすぐにステラを見つける。この薄暗い空間ではステラの銀髪は光を反射してよく目立つ。ホッとして近づこうとしたリンのすぐ近くで、ハロンは逆にどこか焦ったような声を出した。
「あいつ、何か読んでないか?」
「ホントだ。自分からなんて珍しいね。んー、あの感じだと……あれ……まさか原書?」
「まずいぞ」
頬が引きつるハロンにリンは首を傾げる。彼女には級友がなぜ焦っているのかが分からなかった。何事かを考えているハロンを尻目に、そろそろ遺跡を出なくてはと考えたリンはステラへと足を踏み出す。
「ステラ。何読んでるの?」
普段ならば顔を上げてすぐに答えてくれるだろう。しかし今のステラはひたすら本の上の字を追っており、リンの声が耳に入っている様子は無い。
小首を傾げてもう一度、今度は少し強めに声をかけた。
「ステラ? ねぇ、そろそろ」
「離れろスティール!!」
「っ!?」
鋭い声とともに掴まれた腕を引かれ、強制的に後退させられる。その乱暴な動作へ文句を言う間もなくリンは言葉を失った。
「ス……ステラ……?」
「あいつは今、外の音が聞こえていないのだろうな」
混乱をしてステラの名を呼ぶだけしかできないリンとは違い、鋭い視線でハロンはステラを窺っている。それは事前の情報が有るか無いかの違いだろうが、そのようなことは今は問われていない。
こちらを見もせずに氷柱を放ったステラ・ウォリス。十本ほどの氷は全て正確に、リンのいた場所へと打ち込まれていた。戻された左手がそっと優しくページをめくり、そうして再び空いた左手が何かを探すようにゆらゆらと宙を舞う。
「え、どういう、これ、何」
「今のあいつにとって、僕もお前も等しく”邪魔者”でしかない。読書を邪魔されるならば排除してしまえばいい。無意識のうちにそう動いているんだ」
「それって……でも、ステラは」
「スティール、あいつは”読書嫌い”なんかじゃない」
ゆらゆらと揺れる左手の人差し指がこちらをピタリと示した。その間も膝の上の本からは視線を外さない。読書姿が凛と美しい銀髪の魔詠術師は、視線を膝の上に固定したまま軽く息を吸った。
——来る。
「避けろ!」
「そ、んなこと言っても……!」
「”その刃は見えざるもの”」
——全てを捨てた女がいた。
——家族も故郷も恋人も全てを捨てて、奪われ、闇へ堕ちた女がいた。
——利用されるばかりだった。
——人としての誇りすら奪われ、人ですらなくなったときに全てが厭になった。
——女は狂った。
——だから、全てを消してしまおう。
——この、見えざる刃で。
「いっ……!」
「ぐっ!」
空気による見えない刃が二人を襲う。リンの前に立つハロンが術を纏った剣でどうにか防いでいたが、それも完璧ではなく、怪我を負いぎこちなく動いた彼を不可視の刃がすり抜ける。そうしてしまえば決して戦闘向きではないリンが、しかもこのような突発的な状況で避けられるはずもない。結果として彼女の体には小さな傷がいくつも刻まれていた。
街育ちのリンは生まれ育つ中で危険な目に遭ったことはなく、大事に育てられたからこそ突然の暴力行為に弱い。ましてやステラから攻撃を受けると思ってもいなかったリンは目に見えて動揺している。慌てて構築した魔詠術にも動揺は影響し、普段ならばこれ以上ないほどに堅牢な彼女の防御壁は数発の刃でひび割れた。
(まずは、身を守らなくては)
情報が多い分だけリンよりも冷静さを保つハロンは、紙よりもマシな自分の防御術を捨ててすぐさまリンの補助へ回る。壁へ増え続ける亀裂を修復しながら彼は眉根を寄せた。
(ステラ・ウォリスの言っていたことは誇張でも何でもなかったか)
本。そして外界の音が聞こえていない様子のステラ。その組み合わせを確認した瞬間に小柄な級友を引き寄せた自分へ、ハロンは手放しの賞賛を送る。本の世界へ没頭してしまうこと、読書中には全ての区別がつかなくなってしまうこと、区別がつかない場合読書を邪魔する存在は全て敵と認識すること。それらを前もって聞いていたからこその判断だった。
片側の皿にリン・スティールを乗せていてすら天秤は本へと傾く。普段の彼女たちを知っているハロンはそんなステラの独白を誇張だと思っていたが、残念ながらそれが何の不純物も含まれない事実だということを現状が示していた。
(どうする? 先生たちに連絡するか……っ、くそっ!)
ハロンの得意分野は攻撃系魔詠術である。このような閉鎖空間で得意の術をぶっ放すことは精神攻撃を受けない限りあり得ない。かと言ってエネルギー重視のハロンが、細やかな制御を得意としているステラの術を相殺することはほとんど不可能と言えるだろう。今の彼にできることはリンの補助に専念することだけだ。
(くそ、こっちには制限があるのに好き勝手しやがって!)
ひび割れの修復が間に合わずまたひとつの刃がすり抜けたことで、ハロンは彼にしては珍しい悪態を心の中でぶちまけた。真っ青な顔をしたリンが悲鳴じみた声を上げる。
「ハロン! せん、先生に、連絡しなきゃ!」
「しかた、ないな」
そうして自分を落ち着けるように息を吸い、右手で懐を探る。すぐに取り出されたその手には青い石が印象的な銀の腕輪が握られていた。それは事前に聞いていた緊急連絡用の魔具ではない。ハロンには似合わず、かと言って見覚えの無い装飾品による白く淡い光がリンの視界を刺す。
「先生に連絡をした! 先生が来るまでどれ程かかるかは分からない。やるぞ」
「やるって」
「ステラ・ウォリスはリン・スティールに隠し事をしている」
「急に何?」
訝しげなリンを無視してハロンは先を続けた。
「それは悪意からではないが、しかしいつまでも隠しておけるものではないと僕は思っている」
「つまり?」
隠し事。それは誰にでもあることだろう。未だ混乱は続いているが、ハロンの口ぶりから彼の言う秘密が自分にも関わりがあるということだけをリンは理解する。
「腹を括れ。今のウォリスは周りの状況を判断できていないんだ。秘密は気になるか?」
「もちろん」
「ならばまずはあいつを殴って気絶させて、それから秘密を聞き出せばいい」
「……うん!」
いくぶんどころではなく乱暴な意見だが、リンは大きく頷いた。
(ハロンが原因を知ってるってことは、大丈夫……だよね。だってあれはステラなんだから!)
数分前が嘘のように強固になった防御壁から補助を引き上げて、ハロンもまたしっかりと前を見据える。背後に庇う小柄な級友の心配は既にしていない。何しろハロンの知っているリン・スティールという少女は突然の事件には弱いものの、一度切り替えることができたならば実は驚くほど図太くなるのだ。魔詠術の腕とその切り替えを彼は素直に認めている。
「まずはどうやってここから動くかだが」
挟み撃ちをするにもハロンとリンは同じ場所におり、移動のために防御壁を解除した途端に風が襲うだろう。いくら魔詠術をそれなりに使えるとしても彼らは学生でしかなく、傭兵や兵士と同じ動きを求められたところで不可能でしかない。複雑な駆け引きなどが現実的ではないことは考えるまでもない。
どうしたものかと眉を寄せるハロンにリンは、ねぇ、と呟いた。
「少しだけまた補助お願いできる?」
「それはいいが……」
「うん。幻影を出す」
「できるのか?」
「うん。時機さえ間違えなければ気はそらせるはず。だからその後は頼んでいいかな?」
いくらステラが上位の成績を取っているとしても、彼女もまた学生である。一つの術を精密制御することができたとしても、突発的に、しかも多方向から攻められればどうしようもない。術の切り替えにも少々の時間がかかることは誰でもないリンが一番知っている。リンはハロンに、その隙を狙えと言っていた。
「いいだろう」
すぐに負担の減った壁へニコリと微笑みを浮かべ、リンはひとつの物語を思い浮かべる。
——あなたは、わたし。
——わたしは、あなた。
——わたしたちは、あなたたち。
——あなたたちは、わたしたち。
——わたしとあなたとわたしたちとあなたたちは、くるりくるりとまざりあう。
——そうして、そうして
——やがて彼らや彼女たちは、全てが曖昧になってしまった。
——今はただ、いくつもの影がゆらゆらふわふわと悲しげに舞い踊るだけ。
魔詠術を発動せずに溜める。いますぐ解決したい気持ちをぐっと堪えて、息すら殺してただひたすらに待つ。彼女が望んでいるのは一瞬の揺らぎだった。
「っ!!」
ほんの少し身じろいだハロンに反応し、ステラがすっと息を取り込む。それが再び外へ巡る瞬間を狙い、もはや意思を曲げられない機会を狙いすましてリンは叫んだ。
「”だれでもないもの”」
ぶわりとリンの影が浮かぶ。それは平面から厚みを持ち、ゆらりと三つに分かれ、壁の外へと立ち上がった。
普段よりも迅速に実体化した影へ持った疑問はその瞬間に投げ捨て、リンは臨時の”相棒”を呼ぶ。
「ハロン!」
「任せろ!」
ハロンへ攻撃するつもりのところに敵が増え、優先度の判断にごくわずかな混乱が生まれる。その一瞬を間違えずに捉えたハロンが思い切り走り寄り、剣を握った。
「悪く思うなよ、ステラ・ウォリス!!」
「か、はっ……」
座り込んでいたステラの胸ぐらを思い切り掴んで立ち上がらせると、そのみぞおちへ剣の柄を叩き込む。あと一歩分遅ければハロンは全身を切り裂かれていたことだろう。
渦巻く魔力が散ったことを肌で感じ、ステラを支えたままハロンもまたずるずると床へ座り込んでしまった。
「よくやった」
「せ、先生!」
どこからか声が聞こえたかと思うと、何もない空間からするりと色が滲む。瞬く間に実体化した老教師は安心したように息を吐き出した。
「どうなるかと思っておったが……」
「せんせい、もしかして助けてくださいましたか?」
集中力と魔力を使い切ったリンへ老教師はひとつ頷く。
「よくわかったな。足りない魔力を継ぎ足して実体化を早めたのは私だ。君やハロン・エズリの集中力を切らさぬために姿は現さなかったがな。二つでは少ないが四つでは多いだろう。見事な判断だった、リン・スティール」
「ありがとうございます」
疲れた顔に嬉しそうな笑みを浮かべたリンから、老教師はハロンへと視線を移した。
「ハロン・エズリ。君もまたいい判断をした。その剣は故郷で?」
「はい。父と兄、弟が街の兵士で、昔は僕も一緒に訓練していました」
「そうか。君の鍛錬が無くてはこうも鮮やかに気絶させることはできなかっただろう。見事だった」
そう言った老教師は意識の無いステラの手から本を取り上げる。なんとも複雑な表情をしたと思うとそれを魔詠術でどこかへ送り、ハロンとリンへ手を差し伸べた。
「ハロン・エズリ。悪いがステラ・ウォリスををのまま支えておいて欲しい。君たちの実習はここで終わりだ。すぐにでも医務室へ行く必要がることは確かだが……まぁ、これだけの経験をしたならば充分だろう?」
しわくちゃなくせに思いのほか大きいその手を取り、二人の学生はようやく大きな息を吐き出す。老教師の手はとても温かかった。
「ご、ごめん、リン……」
「うーん……なんて言うか、私にも原因あったんだねぇ」
気まずそうな様子で視線を落としているステラに、リンは苦笑いを向ける。塔へ戻ってから三日後、充分に休息を取ったステラの面会許可は先ほど出たばかりだ。
「あー……えっと……その、でも、リンからもらったのは、本当に嬉しかったよ」
「うん、それは分かってる。じゃなかったらそんなに隈がひどくなるまで寝不足にならないでしょ」
呆れたようなリンが見る先、実習前に比べていくぶん薄くなってはいるが未だ黒々とした隈がステラの顔には残っている。元が色白だからこそそれは余計に目立っていた。
思えば半月も前からその兆候はあったのだ。おそらく気づいてすぐに忘れてしまった自分に、リンは内心でため息を吐き出した。
「これに懲りたら本気で自重することだな」
「うっ」
冷ややかなハロンにステラはいっそう身を縮めている。
ひと月前にリンから手渡された写本は、ステラの心をがっちりと掴んだ。掴みすぎたゆえにステラは夜中を過ぎても読書から抜け出せなくなり、読み終わってからも読み返し、このひと月はろくに睡眠を取っていなかったという。そのおかげで判断能力が落ち、そこへ原版の本が落ちていたことで先の事件が起こったのだった。
それもこれもステラが自分の読書癖を本気で直そうと努力し、夜はきちんと寝ていれば起こらなかったことである。現状をどこか甘く考えていたステラはせいぜい小さくなるしかない。
「……その、ハロンもごめん」
「別にいい。借りはこれで返したからな」
肩を竦めたかと思うとすっと背を向け、ハロンは医務室を出て行った。
言葉の無い医務室にペンを走らせる音がさらさらと響く。老教師と同世代の女性養護教諭は、一通り説教をした後はこちらの事情に踏み込まない主義なのだろう。それもまた故郷の祖母を思い出させ、ステラはなんとも情けない気持ちでいっぱいになった。
「ねぇ、ステラ」
「なに?」
思わずビクリと跳ねた肩を無理やりなかったことにする友人へもう一度苦笑いを浮かべ、リンはそっとステラの額を押す。軽い音で枕へ倒れこんだことを確認すると自分も枕元に座り、友人の目元を手で覆った。
「リン?」
「あのね、いいと思うよ」
「え」
「うん。本が好きで、いいと思う」
ステラは、リンが何を言っているのかが分からなかった。
「なに言って」
「あのね、うん。私よりも本を取るのも、仕方ないっていうか……うん。やっぱり、いいと思うよ」
「でも、わたしはそんなことしたくない!」
まるで子供のように大声を上げたステラに少しだけ驚き、それでもリンは手をどけはしない。
「だって、好きなんだから。私だって分からないもの。だから、いいよ。無理に言葉にしなくてもいいんだよ」
「でも」
「もしもそういう状況になってもステラが迷わず本を選べるように、頑張るから」
「え」
「あのね、すごく悔しかったの。心の準備ができてれば大体のことは何とかできるけど、急に起きたことに私はすごく弱くて。今回も同じで、ハロンに守ってもらわなかったらもっとステラを傷つけてた。それが悔しかったの」
いつも通りの穏やかで優しい声。しかしその中には、毎日一緒にいるステラが驚くほどに硬い意志を含んでいた。
「リン……?」
「だからね、頑張る。ステラもさ、私を選ばなくてもいいなら別にそれでもいいと思わない?」
もちろん、とリンは笑う。
「ステラが頑張るなら、それもそれでいいと思うけれど」
「っ……!」
「だってここは”古書の塔”だよ。ここに来るまでにどれだけ本を読んで……もっともっと読みたかったと思ってるの? 私だって、ハロンだってクラスのみんなだって、言わないだけでステラと一緒だよ」
だから、大丈夫だと。リンは笑う。
「本が好きで好きで、それを言えなくて、私たちよりも本を選ぶことが嫌で”本を嫌い”なんて言って、それでもやっぱり読書をやめられなくて。それが辛くて自分を責めて、それでまた読書に浸って。
そんなに”ステラ”を否定しなくてもいいんだよ、ステラ」
「なん、で」
目を塞ぐ手をどけようとしても、意外と強い力に未だ寝不足の体は敵わない。
「わかるよ。わかりやすいよ。だってステラ、後ろめたそうに俯いてたもの。だからけっこう隈、目立ってたんだよ」
「そんなことで……」
「そんなことで。ね、ステラ。もう少し寝よう。それからまた、ゆっくりと考えよう。今度は私も付き合うよ。多分ハロンも、付き合ってくれるよ」
「でもハロンはわたしを嫌いだよ」
「あははっ! ステラってば子供みたい!」
いつものリンらしい明るい声で笑うと、小さな子供へ言うように優しく言い含める。
「どこの誰が、嫌いな人間のためになる魔具を持って行くの? 使うかどうかも分からないし、荷物にしかならないのに」
遺跡でハロンが持っていたのは、担任である老教師へ直接サインを送ることができる魔具である。それは本が転がっているかもしれない遺跡へ、しかもステラと一緒に行くハロンへ老教師が特別に差し出したものだったが、受け取ると決めたのはハロンだった。老教師とハロンの両方から聞いたのだから間違いない。
「ね。きっともう少しいろんな話をしてみれば、角度が変わると思うよ。だからもう少しだけ寝よう?」
「うん……もうすこし、ねようかな。ちょっと、ねむい」
ふにゃふにゃと呟いたかと思うとすぐに寝息が聞こえる。ようやく手を離したリンはステラのシーツを掛け直した。
「起きたら、読んだ本のことを聞かせてね」
それは遺跡で見つけたものや、今までステラが読んできたものも。
「その前に補習だけどね」
ニコリと、しかし少しだけ意地悪く笑うと、リンは今度こそ医務室を後にした。