夏休み(3)
何年か前に、伊豆大島出身の学生が家に下宿していた。
その彼がお土産としてくさやを持って来て、それがきっかけでくさやを食べるようになった。
とにかく焼いている時の匂いが強烈で、好き嫌いが別れる食べ物だけど、涼介も母も奈津も噛むごとに味わいが増すくさやは好物になった。
「星野君が食べたいって言っていたから久しぶりに焼いたけど、本当に凄い匂いよね」
母がにこやかな笑みを浮かべる。
「フランスでも日本食は食べられるけど、流石にくさやは売ってないから、妙に食べたくなって」
そう言うと、涼介は美味しそうに割いたくさやを口に運び、焼酎を一口呑んだ。
我が家では焼いたくさやを、母が軍手をして骨を取り除き身を細かく割いてから食べるのがスタンダードな食べ方だ。
テーブルの上には、焼いたくさやの他に、オムライス、焼き茄子と見事な脈絡のなさだけど、全部涼介の好物ばかり。
この食事の揃え方から、以前から計画していて、二人で奈津に黙っていたということが窺える。
「二人とも私に内緒で計画してたなんてずるい」
知っていたら、私だって何か作ってあげたかったのに。
「だって、ナッちゃんに知らせたらサプライズにならないじゃない」
「それに、予備校さぼりかねないし」
確かに知っていたらサボってしまいそうだから、反論できずに唇を尖らせた。
母は涼介が帰ってくることを知っていたから、だから、あのタイミングで再婚のこと、関西へ引っ越すことを奈津に告げたのだと、今、閃いた。
「それで、いつまで日本にいるの?」
「明後日の午前の便でフランスに戻るよ」
「明後日……」
「だからって、明日予備校さぼったらダメだよ」
「そんなことしないもん」
「それなら、よろしい」
涼介は奈津が考えることなんてお見通し。
明日、予備校休もうかなと言い出す前に封じ込められた。
「じゃあ、明日の昼は何をしているの?」
「研究室に顔を出してから、浅草行って向こうの研究室の人達に土産を買う」
ほら外国人向けに着物とか売ってるでしょ、と付け足され、ああ、と気の抜けた返事で頷いた。
「奈津さんにも、舟和の芋ようかん買ってきてあげるよ」
「それは、どうもありがとう」
芋ようかんで丸め込まれ、シュークリームに釣られた私って一体……と、遠い目をしそうになった。
二か月も離れていたんだから、もっとあれこれ言いたいことや、したいことだってある筈なのに、一緒にご飯を食べていること自体がまだ夢みたいで、涼介がフランスでの生活について話すのに耳を傾けていた。
「ごちそうさま」
と両手を合わせ、食事を終えると「奈津さんに誕生日のプレゼント持ってきたから、後で部屋に来て」と言われ、なんだか、目の前の景色がぱーっと明るく輝いた気がしたから我ながら単純だと思う。
夕ご飯の後片付けを手伝っていると、母から「ここはもういいから」とお許しが出て、彼が五月まで使っていた部屋へ向かった。
ドアをノックすると「どうぞ」という声がして、それだけで、胸が一杯になった。
彼が使っていたベッドは、もう処分してしまっていて、部屋には畳まれた状態の布団と枕が置いてあり、その横にはスーツケース。
ああ、本当に、ここには少し寄っただけなのだなと、胸がチクリとした。
おいで、と手招きされて、床に直接胡坐をかいている彼の横に足を崩してちょこんと座った。
「はい、約束の誕生日のプレゼントとフランスのお土産」
免税店の袋を差し出され「ありがとう」と受け取った。
袋の中には綺麗なブルーの細長い箱と白い細長い箱が入っていて、涼介をちらりと窺うと、開けてみてと促す様な目をしていた。
目を引いた、綺麗なブルーの箱を開けると、箱と同じブルーの袋が入っていて、その中にもまた同じブルーの細身のペンがあった。
「綺麗な色……ボールペン?」
「そう、高校生のうちはまだあまり使わないかもしれないけど、この先、使う機会も増えるだろうから」
「ありがとう、すっごく素敵」
細身で、綺麗な色のボールペンは奈津が今使っているキャラクターが天辺についているボールペンと違い、持っているだけでオードリー・ヘップバーンになれたみたいな、そんな気分を味あわせてくれた。
「お土産の方も見て」
涼介から促されて、もうひとつの箱を手に取ると、睡蓮の絵が書いてあり「HERMES」の文字は読めるけど「UN JARDIN……」まで読んで首を捻ると「ナイルの庭」っていう意味だよと教えられ、大学に入ったら絶対に第二外国語はフランス語にしようと思った。
箱を開けてボトルを出してみると、トワレだった。
「つけてみていい?」
どうぞ、と笑われて、半円形のボトルの蓋を取って手首の裏側にシュッっと吹き付ける。
爽やかなグリーンの香りに甘いフルーツみたいな香りが混ざっていて、今、使っているコロンよりも大人っぽい香りがした。
「今使っているプチサンボンも奈津さんらしくて好きだけどね」
――私がプチサンボン使っていること知ってたの?
嬉しくって、このトワレの香りみたいに、胸の中が甘い香りでいっぱいになった。
「気に入った?」
「両方とも、すっごく」
どれどれと、彼は奈津の手首を柔らかく掴むから、心臓が口から飛び出しちゃうんじゃないかと思うほど驚いた。
涼介は、奈津の手首をそのまま自分の顔に近付けて匂いをかぐと、「うん、我ながらいい選択」と、笑みを浮かべる。
心臓がバウンドして痛いくらいで、死んじゃうかと思った。
「お礼は?」
「えっ?」
貰いものにはやはりお返しが必要なの?
さっきとは違う意味で、心臓がどくりとした。
「何にも用意してない……明日、何か星野さんの好きなもの作ろうか?」
「何の用意もいらないんだよ」
ここ、と頬を指さした涼介から笑みが零れた。
「お礼ってチューでいいの?」
「好きな子からのお礼ならチューで十分」
――好き?今好きって言ってくれた?
でも、私の方が絶対いっぱい好きだから。
そう思ったら、好きがたくさん溢れてきて、とまらなくなって、無意識に身体が動いていた。
そっと涼介の肩に手をかけて、彼の頬に唇を寄せる。
どちらが、仕掛けたかなんて判らない。
気付いたら、顔を傾けて、唇と唇を重ねていた。
途中、涼介の眼鏡が顔にぶつかって「外すの忘れてた」と彼が苦笑いを浮かべながら眼鏡を外し、それからまた繰り返しキスをした。
冷房がきいている筈なのに、身体が熱くなってきて、熱の逃がし方が判らなくて彼の半袖のシャツの胸のあたりをぎゅっと握ると、手をゆっくりとほどかれて、彼の背中へと手を導かれた。
ぎゅっと抱きしめられ、キスしたまま涼介の手が背骨に沿って動くと、背中に変な震えが走って息が乱れた。
「ああ、だめだ、ストップ」
名残惜しそうに、唇が離れると、次に身体が離れ、二人の間にすーっと風が通った。
「これ以上すると止まらなくなるから」
「どうして止めないといけないの?私、十八歳になったから、もう条例違反じゃないよ」
「奈津さんのことが大事だから、今はできない」
判るよね?
添えられた言葉に頷いた。
身体を重ねなくても、心はちゃんと繋がっていると感じることができたから、離れていても信じられると思えた。
十八歳の誕生日は、今まで生きてきた中で、最高に幸せな誕生日になった。
翌日、予備校に行くのはかなり後ろ髪を引かれた。
久しぶりに鴨居に頭をぶつける涼介を見て笑って、朝ご飯を三人で食べてから、身支度を整え、昨日貰ったばかりのトワレを早速しゅっと手首に吹きかける。
もちろん、ボールペンもバッグの中に大切に仕舞いこみ、これで頑張れる気がした。
玄関先まで見送りに来てくれた涼介に「絶対、そのまま黙って帰ったりしないでね」と念を押すと「大丈夫、安心して勉強してきて」と背中を押された。
「そうだ、帰りに花火買ってくるから、ご飯食べた後、一緒に花火しようよ」
「花火かー、久しぶりだな。それなら浅草に行ったついでに買ってくるから、奈津さんはまっすぐ帰っておいで」
「絶対ね、約束ね」
「うん、絶対、約束する」
いってらっしゃいと声をかけられ、引き戸をガラガラと開けて表に出た。
今日も朝から太陽はこれでもかと頑張っていて、既に脳味噌が溶けそうなほど暑い。
帰ったら花火……念仏のように呟いて、奈津は歩き出した。
予備校の教室に着くと、先に教室に着いていて席を取ってくれていた理沙が「ここ!」と手を振った。
「ありがとう、今日は早いんだね」
「ナッちゃんがいつもより遅いんじゃない?それに何やらいつもと違ういい匂い」
へへへ……照れ笑いを浮かべると、「なに、なに?なにかいいことあったの?」と顔を輝かせて訊いてきた。
女子の恋バナに対するレーダーは、もの凄く鋭いんだなと奈津は感心しながら、涼介が帰ってきてくれたこと、プレゼントを貰ったことを話していると、「おはよー」と間延びした声を出しながら葉山が奈津たちの後ろの席に着いた。
「おはよう。昨日話していたテニスの試合って何日?」
「十五日、ちょうどお盆休みの頃だよ」
「ふぅん、じゃあ、理沙も一緒に来てくれるなら、応援に行くよ」
「えっ?!」
私ひとりじゃ嫌だよと重ねて言うと、それじゃあと二人で応援に行くことになった。
はっきりと言われた訳じゃないから、葉山の真意なんてどこにあるのか判らない。
判らないうちから、友人が恋を諦めているかのような素振りなのが、奈津にはどうしても気にかかる。
余計なお世話なのは、百も承知なのだけど、世話を焼かずにはいられない。
だって、好きな人に想いが通じるって凄く幸せで、嬉しいことだと思うから。
――さて、当日は風邪をひくか、貧血になるか……。
講座が始まる前に、策をめぐらす奈津だった。
講座を終えると、理沙と雑談をすることもなく速攻で予備校を後にした。
弾むような足取りというのだろうか、まるで飛ぶようにと表現するのが正しいのか、とにかく足取りも軽く、駅から家までの道を歩いた。
玄関の引き戸を開けて「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と母と涼介の声が聞こえて、約束はしていたけど、ちゃんと守ってくれたことにほっと胸を撫で下ろした。
すぐに夕ご飯にするから、手を洗っていらっしゃいと母に言われ、手を洗い、うがいをしてテーブルについた。
夏至を過ぎた今は、夜の七時にもなるとだいぶ暗くなってくる。
夕ご飯を食べ終え、後片付けを手伝い、ほっと一息つくと、辺りはもう真っ暗になっていた。
「ママも一緒にどう?」
一応誘ってみたけど、遠慮しておくわと母は笑った。
まあ、それはそうだ。奈津だって、広瀬と母が一緒に花火をあげようと誘われても、それはご遠慮させて頂きたい。
水を張ったバケツと蚊取り線香を持って縁側に行き、ふたりで猫の額ほどの庭の方を向いて座った。
ヨーロッパは今の時期は白夜でこの時間帯でも明るいのだと、そんな話を聞いてまだ行ったことのない場所のことを想像した。
最初は派手な花火にしようと、手持ち花火に火をつけて、しゅーしゅーと勢いよく飛び出すオレンジ色の火に歓声をあげた。
ねずみ花火にきゃーきゃー騒いで、なかなか火花が出ない筒形の花火にやきもきして、最後に残った線香花火を手に取った。
暗闇の中、パチパチと弾けるように火花が散って、やがて赤い涙みたいな形の雫がぽとりと落ちる。
――線香花火をあげると、なんで、ちょっと切ない気持ちになるんだろう?
そう、思いながらまた新しい線香花火に火をつけた。
「母から再婚のこと聞いた?」
「うん、来年再婚するんだってね。寂しい?」
「ちょっと寂しいけど、新しいお父さんになる人はいい人みたいだし、良かったと思ってる……でも、この家を壊すことになるかも知れないのは、悲しい」
自分はこの家を守る力なんてないことが判り切っていることが、特に悲しい……。
パチパチと寂しげに火花を散らす様子を見ていたら、素直な気持ちを彼に訊いてもらうことができて、肩に乗っかっていたものが、少し軽くなった気がした。
「同潤会アパート、取り壊される前に一緒に観に行ったこと憶えてる?」
「もちろん」
同潤会アパートは、関東大震災があった時、住むところのなくなった人達のために供給されたアパートで東京と神奈川に何か所か建てられていた。
老朽化が進んで、歴史的な価値が高いことから保存を求める声がありながらも、保存されることはなく惜しまれながら次々と解体されていって、最後に上野の同潤会アパートが残っていたのだが、こちらも取り壊され、新しくマンションが建てられることが決まっている。
その、上野の同潤会アパートが取り壊される前、二人で外観を見に行ったことがあった。
稲荷町の駅から歩いてすぐという都会にありながら、まるでそこだけ時計の針が止まっているかのような印象を持ったことを憶えている。
「長い年月を経て今も残っている建物は、それだけでとても貴重で価値のあるものだと僕は思っている。だからこそ、建築史なんてうちの両親から見たら役にも立たないような研究をしているんだけど」
赤く膨らんだ火の玉がぽとりと落ちると、新しい花火に火をつけることもなく、彼は言葉を続けた。
「でも、古い建物を維持していくには相当のお金と努力も必要で、誰にでもできるわけじゃない。この辺も代替わりで古い民家が少なくなって、新しいハウスメーカーのピカピカの家が増えたよね」
「うん」
「でも、古い建物だって、きっと住んでいた人の心の中に残っている。奈津さんも、今は悲しいかもしれないけど、もし、ここが無くなったとしても、僕の中からも奈津さんの中からも記憶は消えないよ」
「……そうだね」
こうやって縁側に座って話したこと。
食堂で勉強を教えて貰ったこと。
子供の頃、母が自分の背丈を柱に刻んだこと。
きっと、ぜんぶ憶えている。
「星野さんも、おんなじだよ」
「え?」
「遠く離れていても、いつも私の心の中にいるから」
「……奈津さん、それ反則」
ちょっと困った顔の彼を見て、ずいぶん年上の人だけど、可愛いと思ってしまう。
言ったら嫌な顔しそうだから、本人には言わないけど。
「ね、高校卒業したら、フランスに行ったらダメ?星野さんのお嫁さんにしてって言ったら困る?」
――あ、やばい、眼鏡の奥の目が真ん丸になっている。
自分の発言を後悔したその時、彼がふっと笑った。
「いいよ、お嫁においで」
「あ、冗談だと思ってるでしょう?」
だから、そんなにあっさり『いいよ』なんて言えるんだ。
「冗談だなんて思ってないよ、奈津さんが来てくれたら僕も嬉しい。目玉焼きを焦がすことだってなくなるだろうし、包丁で指を切っても絆創膏を巻いてくれるしって……そんなこと言ったら家事をして欲しいだけみたいに聞こえるね」
「そんなことない」
自分のこと必要としてくれるだけでも嬉しくて、奈津はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「奈津さんが僕のところに来てくれるなら本当に嬉しい、でも、おばさんはどう思うかな?」
「ママは……自分だって再婚するんだから、反対はしないと思うけど」
「そう、自分が再婚するから、奈津さんに強くは言えないよね。奈津さんが幸せになるんならと、表面上は喜んでくれるだろうね」
「本心は違うって言いたいの?」
「そりゃあ、ここまで頑張って育てたのは、高校卒業したらさっさと結婚させるためじゃないと思わない?」
「……」
奈津が子供の頃、母は『パパがいなくても、ママがナッちゃんを立派な大人にする』というのが口癖だった。
大学にも行って、なりたい職業について、いろんな世界を見て欲しいと。
「それに、奈津さんも後悔するんじゃないかな?」
「星野さんのこと好きだもん、後悔なんてしない」
「僕も奈津さんが好きで大切にして、後悔なんてさせないようにしたいけど、ふとした瞬間に、せっかく夏期講習に通わせて貰ったのに、お母さんに無駄なお金を出させたな、とか、やっぱり勉強もしたかったなとか思う日だってくるんじゃないかな?」
「……そう言われると、そうかも」
「でしょ?」
涼介から穏やかな笑みが零れた。
「そんなに急いで僕のところに来なくても、僕はちゃんと待ってるから、だから奈津さんは大学にも行って、いろんな経験をして、それから僕のところにおいで」
「本当に、待っててくれる?」
「奈津さんのことは、誰にもやるつもりはない。僕だけのものだ、だから急ぐ必要なんて全然ない」
僕だけのもの――その言葉に、心臓がきゅっと何かに掴まれた気がした。
恋人は触れたい時に、触れられる距離にはいないけど、いつもお互いの心の中にいる。
今、一緒にいられないけど、いつか、きっと、時間が流れて、奈津がもっともっと大人になれば、一緒に過ごせるようになる。
奈津はそう強く思うことができて、隣にいる涼介の顔をそっと窺うと、視線に気付いた彼が柔らかな笑みを口元に浮かべる。
その笑顔が、何もかもが、好きだなあと、心が温かくなる。
この好きの気持ちがあれば、大丈夫。
奈津は涼介に笑みを返した。
fin
番外編にお付き合い頂きありがとうございました。
作中にあります同潤会アパートについて。
一番有名なのは青山にあったアパートでしょうか(現在は「表参道ヒルズ」として生まれ変わっています)。
上野の同潤会アパートの跡地に建設のマンションは2015年完成予定で、奈津と涼介が花火をあげているのは2014年の出来事になります。




