夏休み(2)
ここのところそうであるように、誕生日の朝も寝苦しさからアラームが鳴る前に目が覚めた。
ベッドからノロノロと起き上がり、ベッドサイドに置いていたスマホを手に取り、ホームボタンを押すと、メール着信のメッセージ。
誕生日おめでとう
今日中に、プレゼントが届く筈だから楽しみに待っていて
涼介からの簡単なメッセージに、胸がほっこりとすると同時に声が聴きたかったなと思う。
サマータイムのイタリアもフランスと同じ、七時間の時差だから今は夜の十一時前。
日本にいる時の彼と同じならまだ起きている時間。
――誕生日だし、いいよね……。
思い切って電話をしてみたけど、電波が届かない場所にいるか電源が入っていないという無機質な声のアナウンスに、膨らんだ気持ちがしょんぼりと萎んだ。
旅行中の涼介からは、バチカン市国にいた時はバチカン美術館の写真が添付されたメールを貰った。
美術館の出口付近にあるミケランジェロが設計したという二重螺旋の階段は側面のレリーフも美しく、上から撮影した写真を見るだけでも目が回りそうだと感じた。
イタリアへ移動した後、オルヴィエートにあるサンパトリツィオの井戸の写真が送られてきた。
井戸なのに階段がついているなんて不思議だ、しかも人がすれ違わないように二重螺旋になっている。
涼介がこの建築物を見たいと思い、そこまで行った理由が写真から伝わってくるような、日本では見たこともない井戸だった。
彼が希望通り、欧州の古い建築物に触れ、勉強できていることは本当に良かったと思う。
誰にも邪魔する権利はないのだし、奈津だって邪魔する気はない。
でも、寂しい……母の再婚話を聞いて以来、殊に寂しい。
奈津は、あの日以来、何度か母の再婚のことについてメールを出そうと思ったが、うまく言葉を綴ることができなくて、まだメールを書けていない。
とても、ラインや携帯メールの短い文章に纏められるものじゃない。
パソコンのメールのように、ある程度長文になってもいい種類のものでも、自分の気持ちをうまく文章にすることができそうもない。
これが、受験の小論文のテーマならば確実にアウトになりそうだ。
結局今朝も彼の声を聴くことは叶わず、メールも出せないまま、母と一緒に朝食を済ませ、弁当を持ち、予備校に向かう。
駅へ行くまでの間、強い陽射しにじりじりと焼け焦げてしまいそうで、焦げそうなのは身体なのか、心なのかと、ぼんやりと思う。
予備校へは、同じ高校のクラスメイトで一番の友達である川嶋理沙と一緒に通っている。
全部同じ講座を選択している訳ではないが、同じ講座の時は席を取りあって並んで座るようにしているし、講座と講座の間の空き時間が一緒になれば自習ルームで並んで勉強している。
もちろん、お昼ご飯は毎日一緒だ。
奈津が通っている予備校はリフレッシュルームと呼ばれる部屋があり、弁当持参の生徒はそこで食べることが推奨されているが、夏期講習中は生徒が多すぎてリフレッシュルームはすぐに満員になってしまう。
そんなわけで、奈津と理沙は夏期講習中ずっと教室で並んで弁当を食べている。
いつものように、母の手作り弁当を食べ終え、食後のウーロン茶を飲んでいると、理沙が「あ、そうだ」と言い、バッグの中をごそごそと探し「はい、誕生日おめでとう」と綺麗にラッピングしてある小さな箱を差し出した。
「ありがとう、開けてもいい?」
「もちろん」
受け取ると軽く、もしかしてと思いながらセロテープを慎重に剥がして包装紙から箱を取り出した。
「口紅?」
「やだ、ナッちゃん、リップスティックって言ってよ」
友人は「大人の恋人ができたナッちゃんにちょうどいいかと思って」とにやにやと笑う。
「ありがとう、嬉しい!」
つけてごらんよと言われ、バッグの中のポーチから小さな鏡を取り出して、はみ出さないように唇に色をのせた。
自分でも少しメイクをしてみようかとファンデーションやアイブローペンシルは購入していたけど、まだ色つきのリップクリームしか持っていない。
子供の頃に、母の口紅をこっそりと塗ってみたこともあったけど、自分だけの口紅は初めてで、しかも色は涼介が好きそうな可愛らしいコーラルピンク。
リップスティックひとつで、少しだけど大人の仲間入りができたみたいで、なんだかむずむずとこそばゆい気分。
「よく似合うよ」
でもキスする時は気をつけて、悪戯っぽく添えられた言葉に、今度いつキスできるのかなあ、彼にも早く見せたいと、涼介の顔が脳裏に浮かび益々頬がだらしなく緩んだ。
「あれ、宮原、化粧してんの?」
声の主の方を見ると、同じ高校の葉山真嗣がコンビニの袋をぶらぶらさせて立っていた。
「理沙から誕生日のプレゼントで貰ったから、ちょっとつけただけだよ」
「ふぅん、今日誕生日だったんだ」
それならこれをやると、がさがさと音をたてレジ袋の中からシュークリームを取り出した。
「え、貰っちゃっていいの?」
「いいよ、誕生日なんだろう?あげるよ。二つあるから川嶋にも」
そう言って、レジ袋からもう一つシュークリームを出して理沙にも渡した。
――お弁当も食べたし、デザートにちょうどいい、なんて気がきくヤツなんだ。
「じゃ、いただきます」
パッケージを破いて口紅が落ちるなんて全然考えずにぱくっと食べた。
「食べたな、確かに食べたな」
何故だかにやりと笑う葉山。
「だって、くれるって言ったじゃん」
「言った。でも、そのお礼として、来月のテニスの試合、応援に来て」
「はあ?」
くれると言ったのにお礼を要求されるなんて釈然としない。
「テニスの試合って、部活はインターハイの予選で負けて引退したよね?」
「部活は引退したけど、テニスクラブには通っているから。来月、草テニスの大会に出るんだ」
大学に入っても庭球部に入りたいから、受験の間に身体がなまったら困るだろうと、爽やかに笑う。
――なんたる余裕、信じられない。
「葉山はA判定ばかりだから余裕だね」
「適度に身体を動かした方が勉強も捗るんだよ、だから宮原もたまには外に出て僕の応援でもして一日騒いだ方がストレスの解消になる」
「やだよ、暑いし、日焼けしそうだし、私は先週の模試もたぶんいまいちだし、この前だってB判定貰ったばっかりだもん、そんな余裕ない。理沙を誘えば?」
「いやいやいや、私もナッちゃんが行かないなら、一人じゃ無理」
「川嶋は、宮原が行けば行くって」
「え……」
ちらりと理沙を横目で見ると、こくこくと頷いている。
「ちょっと考えさせて……」
シュークリームの代償は高くついたなと思いながら、力なく葉山に告げた。
「前向きにね。何も手作り弁当を差し入れろとか、そこまでは言わないから」
「そこまでは絶対にしないから」
踵を返して、去って行く葉山の背中にそう言うのが精一杯。
参ったな……小さく息を吐いた。
「葉山は、ナッちゃんのことが好きなんだね」
「どうして?」
「だって葉山が女の子を誘うなんて、そうとしか考えられない」
成績は学年でいつも上位五本の指に入っている、目鼻立ちは凄く整っているとういう訳ではないが、いかにも爽やかで誠実そうな風貌の葉山を慕う女子生徒は多い。
おまけに生徒会長だなんて、出来過ぎ君にも程がある。
彼が女の子から声をかけられることはあっても、自分から女子を誘うことは確かにあまり見たことはないが、奈津には不思議だった。
「私、葉山から好かれるようなことしてないよ」
「好かれるようなことしなくても、好きになるもんじゃないの?ナッちゃんは彼氏が何かしてくれたから好きなの?」
「たぶん、ちがう」
涼介は昔から優しくていいお兄さんだった。
勉強もよく教えてくれたけど、何かをしてくれたから好きになった訳じゃない。
鴨居に頭をぶつけたり、そんなしょうもないところも含めて、全部が気付いたら好きになっていた。
「これは、大学受験が終ったら告白、くるね」
「ないよ、私には彼がいるし」
「葉山はそんなこと気にしなそう。特にナッちゃんのところは遠距離だし」
奈津は緩く首を振った。
「理沙の考え過ぎ、私は気軽に声をかけやすいから、声かけられただけ」
「違うって、そのシュークリームだって、葉山はナッちゃんの誕生日だって知ってて買ってきたんだよ。葉山甘いものなんて食べないもん」
「そんなことないでしょ、理沙だって貰ったじゃん」
「私はついで、ナッちゃんだけにあげると疑われるから。ただのダシ、刺身でいえばツマみたいなもので、本当はナッちゃんだけにあげたかったの」
親友が言わないので、奈津も追及はしないけど、理沙が葉山を好きなことは何となく察していた。
理沙の視線はよく葉山のことを追いかけているから。
そして、奈津は気にも留めていなかった、葉山が甘い物を食べないということも、ちゃんと知っている。
「仮に、理沙の勘が当たっていたとしても、私と葉山は無理。だって、関西の大学に行くことになるかもしれないし」
奈津は理沙に母の再婚のこと、その再婚相手が大阪に転勤することを話して聞かせた。
「一人暮らしすればいいじゃない?」
「そうしたら、生活費とか余計にかかっちゃうから……」
母と広瀬に迷惑がかかる……そう思うと余計に我儘は言えないと、奈津はため息が零れそうになった。
「星野さん、高校卒業したら私のことお嫁に貰ってくれないかなあ……それで、フランスで一緒に暮らすの」
「なにそれ、現実逃避?」
「そんなことない、だって、結婚したらずっと一緒にいられるし」
「ナッちゃん、重いよ……彼はまだ結婚なんて考えてないんじゃない?」
「重いのかな、私……」
「彼はナッちゃんが想っているよりも軽い気持ちかもしれないよ?もう金髪碧眼の美人とできちゃってたりして」
「そんなことないよ、メールのやり取りも電話もしてるし」
「男の人は手近に綺麗なお姉さんがいて誘惑されたりしたら弱いんだから、ただでさえナッちゃんは彼とはエッチもまだしてないんでしょ?」
「そうだけど、だって約束してくれたもん……」
「遠くに離れた恋人より、近くにいて自分のことを好きだと思ってくれる人を大切にしたら?」
――ねえ、理沙はそれで平気なの?
私と葉山が付き合うように、応援するつもりなの?
そんな疑問は、胸の中に飲み込んだ。
話していたら、休み時間もあっという間に残り少なくなってしまい、奈津は残っているシュークリームをパクパク食べた。
私は、涼介が自分以外の人を好きになった時、彼の幸せを思って応援したり、幸せを願ったりできるかな――そう思いながら食べたシュークリームは甘さを感じられなかった。
遠いとか、近いなんて関係ない。
奈津にとっての涼介は、まるで呼吸するみたいに心の中にいる人で、彼と一緒に観た風景も触れた空気も忘れようとしたって忘れることなんてできない。
夢の中だっていいから会いたいくらい好きなのに。
昼に理沙から言われたことを、つらつらと考えながら、予備校からの帰り、地下鉄の駅から家までの道を辿った。
もうすぐ我が家、そんな時、家の外にまで強烈な匂いが漂っていることに気付いた。
――くさや?
でも、どうして、くさや?
今日の晩御飯はくさやなのだろうかと、首を捻りながら「ただいま」と告げながらガラガラと玄関の引き戸を開けた。
「おかえり」「おかえり」
母と、聞き覚えのある男性の声に、まさかと思い玄関をよく見ると、見覚えのあるスニーカー。
――うそでしょ?
心臓がどきりと跳ねた。
「おかえり、奈津さん」
食堂から玄関に迎えに出てきた涼介を見ても、現実とは思えず、身体が動かない。
「口があいたままだよ」
くすっと笑った顔に、やっと、身体が動いて靴を脱いで玄関からあがった。
「誕生日おめでとう、奈津さん」
「本物?」
思わず手を伸ばし、彼のポロシャツに触れたら、さらりとした感触があった。
「あんまり会いたいと思ったから、幻覚かと思った」
気付いたら、彼の胸の中に飛び込んでいた。
涼介の後ろに母がいたのに気付いたのは、胸の中に飛び込んだ後で、母が「あらあら」と意味不明な言葉を残して食堂に引き返すのを目の端で見た。
あったかい腕に抱き止められて、そっか、くさやは彼の好物だからだと、やっと回らない頭で思い出した。
会いたいけど、会えないと思っていた、大好きな人の胸の中でひたすら幸せだった。
それが、たとえ強烈な匂いが立ち込めている家の玄関で、全然ロマンティックな場所でなくても。
彼がいる、それだけで嬉しくて、嬉しすぎて死んじゃうんじゃないかと思った。