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恋人までの距離  作者: Gemini
【番外編】
5/8

夏休み(1)

――ん、暑い……。

寝苦しさから、半分だけ目覚めた状態で手を伸ばし、ベッドサイドの目覚まし時計を見るとまだ朝六時前だった。

七月も下旬の東京は熱帯夜が続いていて、寝る前にエアコンのタイマーをかけて眠りについても、朝六時にもなるともう暑くなり目覚ましのアラームが鳴る前に起きてしまう。

いつもの夏ならば、寝たままベッドサイドへと手を伸ばし、置いてあるエアコンのリモコンボタンを押して二度寝の体勢に入るところだけど、今年は少々事情が違う。

――来てるかな?

奈津はむっくりと起き上がると、机の上に置きっぱなしにしていたラップトップの蓋をあけてパソコンを起動させた。


東京とパリの時差は、サマータイムの現在だと七時間。

涼介からのメールは奈津が寝ている間に届いていることが多い。

――きてる!

この【ryosuke@】から始まるアドレスを見つけると、もう慣れてきている筈なのに、いつも心臓が軽くどきっとする。

封筒のマークをクリックしてメールを開いた。



夏期講習、頑張っているみたいだね。

奈津さんからのメールを読みながら、自分が受験生だった頃のことを懐かしく思い出しました。

僕も奈津さんと同じように予備校の夏期講習に通っていたから、通学の時に同じ年頃の奴らが遊びに行くのを見て、いいなー、チクショーって思ったよ。

大学入ったら遊ぶぞって。

実際は遊んでる暇なんて碌になかったけど。


僕は明日から(奈津さんがこのメールを読む頃には今日になっているかな?)イタリアへ行きます。

この前の電話でも話したけど、イタリアには予てから見たかった建築物がたくさんあるから、思う存分見てくるよ。

パソコンは置いていくから、暫くパソコンのメールは受け取れません。

メールの時はスマホのメールかLINEを使って。


もうすぐ誕生日だね。

イタリアからプレゼントを贈るから、楽しみに待っていて。


涼介


念願のヨーロッパへの留学という夢を叶えた涼介は、この前Skypeで夏休みは日本には帰らず、この機会にヨーロッパの建築物に沢山触れておきたいと話していた。

特に日本では中々見ることのできない二重螺旋の階段がある建物を見たいからバチカン市国からイタリアへ回るのだと。

 パリへ旅立ったのが五月の末、まだ二か月だからバカンスの時期になっても、きっと日本には帰って来ないと思っていた。

 覚悟はしていたものの、一ミリくらいは期待もしていたから本音を言えば会えなくて寂しい。

 受験も、会いたい時に会えないこの距離も、早く思い出にしてしまいたい。

 会えないことで、少しだけ胸には隙間ができたけど、涼介からのメールを読むといつも彼の穏やかな口調が思い出されて、まるで、隣で話しているかのような気分になり、奈津は自然と口元が綻んでしまう。

 それは十年という月日が二人の間にあるから。

 空いてしまった胸の隙間は記憶で埋めて、上からパテを塗るみたいに「大丈夫」と自分に言い聞かせていた。

 遠距離恋愛が始まってまだたったの二か月なのに、もう音をあげるなんて情けないことはしたくない。


 パジャマを着たままメールを読んでいたので、洋服に着替えてから一階に降り食堂へ向かう。

「おはよう」

 声をかけ、台所に入ると弁当を作っていた母は奈津が来たことに気付き「おはよう」とにっこりと奈津に向かって微笑んだ。

 テーブルの上には焼いた鮭や、納豆といった朝ご飯がもう並んでいて、美味しそうに軽く焦げ目がついた鮭を見たら、お腹がぐーっと鳴った。

「もうお弁当の準備も終わったから、朝ご飯にしましょう」

 母が奈津のお腹の音に気付いて、にこやかな笑みを向けた。

「ママ、夏休みなのに毎日お弁当作らせちゃってごめんね」

 奈津は夏休みに入ってから予備校の夏期講習に通い始め、弁当持参で平日は毎日予備校に行っていた。

 本来なら日曜は家で勉強する日なのに、今日は模試があるのでいつものように母は弁当を作ってくれている。

「ナッちゃんのお弁当用意するくらい大した手間じゃないわよ」

 福永君も帰省したし、何でもないとでも言うように母は首を振った。

 せめてものお手伝いと、ご飯茶わんと味噌汁のお椀を棚から出して母の分と自分の分をよそい、二人で朝食の席についた。

 うちに二人残っていた下宿人である涼介はパリへ行き、一人だけ残った下宿人の福永は夏休みになり帰省した。

 母と二人だけの朝食や、夕食にも最近は慣れてきた。

「星野さんからメールがきてたの、今日からイタリアに行くんだって」

「そう……星野君、ちゃんとご飯食べてるのかしら?」

「この前、Skypeで話した時はあまり痩せてる感じはしなかったけど……どうなんだろう、何かに夢中になるとご飯とか忘れちゃう人だから……」

「星野君、うちに来たばかりの時は痩せてたものね」

 当時を思い出したのか、母がくすっと笑った。

「でも、最近はいいわねえ」

「何が?」

「遠距離でも顔を見ながら話すことだってできるし、パソコンのメールに、ラインまで使っているんでしょう?傍にいるみたいにお互いのことが判るもの。ママが高校生の頃はポケベル使ってたんだから」

「あー、ポケベルって聞いたことある……」

 数字が語呂合わせになっているんだよね、そうそうアイシテルも数字で表すのよ、なんて何故だか朝から母子二人でキャーキャー盛り上がり、気分が少し軽くなる。

 いつものことながら、奈津の気持ちを浮き立たせてくれる母は偉大だと思う。

 ご飯を食べ終え、食器をシンクに運んでいると、母が思い出したように「今日は模試が終ったら広瀬さんと一緒に食事だから、忘れないでね」と念を押してきた。

「大丈夫、予備校からお店への行き方も調べたし」

「土日両方、模試だなんて大変ね」

「センター試験もそうだから」

「そうね、身体を壊さない程度に頑張って。本当に私立だっていいんだし、浪人したって大丈夫だから」

「うん、ありがとう」

 母は父の保険金を奈津の進学費用と結婚費用として預金してあるから大丈夫なのだといつも言ってくれる。

 でも、女手ひとつで頑張ってきて、新しく大切な人もできた母に余計な出費も心配もさせたくない。

 奈津は絶対に現役で国公立に合格する、それ以外は考えていなかった。

 しっかりと朝食をとり、身支度を整え、母に「行ってきます」と声をかけ、玄関の引き戸をガラガラと開けた。

 開けた途端に真夏の強烈な日差しが燦々と降り注ぎ、今日も暑いとうんざりしそうになった。


 夏に生まれたから、名前は「奈津」にしよう。

 そう言い出したのは、今は天国で見守ってくれている父親だったという。

「夏」だと名前占いで画数が良くないから、漢字では「奈津」になった。

 子供の頃、父は私のことを「ナッちゃん」と呼んだことを今でも憶えているし、母も一番の友達も「ナッちゃん」と呼ぶ。

 涼介だけが「奈津さん」と丁寧に呼ぶ、この名前が奈津は自分でもとても好きだ。

 この名前は父からの贈り物、いつまでも大切な思い出として、生きている限り奈津の中で父は今も息づいている。

 母にとっても父はいつまでも大切な人だけど、ずっと同じところに留まっていられない。

 父が亡くなって以来、一人で頑張ってきた母に大切な人ができた。

 奈津の誕生日は来週の木曜日で、平日だから、母の交際相手の広瀬は日曜の夜に一緒に晩御飯を食べようと誘ってくれた。

 母の手作り弁当を食べ、気合を入れて臨んだ志望校の模試の手ごたえは思った程でもなく、全科目を終えた後、一緒に模試を受けた親友の理沙から「どうだった?」と訊かれ「いまいち」とため息まじりに答えると緩く首を振った。

「理沙は?」

「うーん、まあまあかな」

 まだ受験までには間もあるから、一回の模試の出来が悪いくらいなんてことないよ、慰められて「そうだね」と頷いた。

 予備校の前で、「じゃあまた明日」と手を振って理沙と別れ、地下鉄の駅に向かった。

 待ち合わせ時間の少し前に店に着き、入り口にいた店員に「予約した広瀬です」と告げると、テーブル席へと案内され、遠目から奈津に気付いた母が軽く手を振った。

 広瀬が予約していたのは、奈津でも一度は聞いたことがあるような有名な中華料理店で、煌びやかなインテリアやふかふかのカーペットに気圧されそうになる。

「今日は少し早いけど、ナッちゃんの誕生日のお祝いだから何でも好きなものを注文して」

 ずっしりと重いメニューを広瀬から手渡され、メニューに目を通す。

 予想通り、いいお値段――でも、ここで変な遠慮をするのも失礼なのかな……。

 広瀬はこの店の食事の予算も全部承知の上で、ここをセッティングした筈なのだから。

 奈津は料理に迷う振りをして相手を計るような計算をしてしまい、そんな自分に嫌気がさしそうになった。

「じゃあ、海老チリと麻婆豆腐で」

 奈津がおずおずと答えると、「海老チリは私も大好物なんだ」と広瀬がにこやかな笑みを向ける。

 ――いい人なんだよね、まだ慣れないだけで……。

 彼と母で相談して、他にクラゲとピータンの盛り合わせ、和牛とピーマンの細切り炒め、五目おこげと、二人は生ビールもオーダーして、生ビールとウーロン茶で乾杯をした。

 暫くは当たり障りのない会話をしながら、食事を楽しんだ。

 海老チリは今まで食べたどの店のものよりも、海老の身が大きくてプリプリしていて奈津は胸の中で流石と唸った。

「ええと、それでね、ナッちゃん……」

 最後に運ばれてきたおこげを味わっていると、母が言いにくそうに口を開いた。

「なに?」

 母と広瀬は顔を見合わせ合い、照れたような表情になる。

 奈津には入り込めない、親密な空気がそこにはあって、母が何を言いたいのかもう判ったような気がした。

「ナッちゃん、君が来年高校を卒業したら、お母さんと結婚させて欲しいんだ」

 やっぱり……。

「私に遠慮しないで、卒業を待ってくれなくても大丈夫ですよ?」

 いや、それはけじめみたいなものだから、二人でしどろもどろになりながら言い合う姿に、ますます疎外感のようなものがこみ上げて、そんな自分が嫌になる。

「ナッちゃんは、反対はしないの?」

「もちろん、いつまでもママが一人でいる方が心配」

 広瀬のような一流企業に勤めている初婚の男性が、自分のような大きなコブがついている女性と結婚するというのだ。

 反対する理由なんてどこにもない――ただ、寂しいだけ。

「ふつつかな母ですが、よろしくお願いします」

 顔が強張らないように、なんとか笑顔を作って広瀬に向かって頭を軽く下げた。

「とんでもない、頭をあげて。本当にこの歳になって娘と妻が両方持てるなんて思ってもいなかったから、とても幸せなんだ。こちらこそよろしくね」

 でも……と、二人は再び言い淀んだ。

「本来なら先にこの話をしてから、君に結婚の許可を得るべきだったのかもしれない」

 そんな前置きをすると、広瀬は九月に大阪の支社に異動になるのだと言った。

「異動……」

「そうなの、だからママも来年の三月の下旬には引っ越すつもり」

「そう……」

 ――いよいよ、私は一人になるのかな……。

「ねえナッちゃん、関西にだっていい大学はたくさんあるわ。ナッちゃんが行きたい学部だってあるでしょう?今から志望校変えられない?」

「ええっ、私も行くの?!」

「だって、ナッちゃんを一人で東京に置いて行くのなんて心配だもの」

「私は新婚家庭の邪魔するのなんて嫌だよ」

「やーねー、この歳で新婚だなんて」

 母は照れ笑いし、また二人で顔を見合わせる。

 ――だから、それが目の毒だっていうの!

 全くもう判ってないんだから、幸せカップルの傍にいるなんてアホらしい。

「あのね、ママ、地方から東京に出てきて一人暮らしを始める人だっているんだよ。私だって一人暮らしくらいできるよ」

「でも、女の子ひとり、あの古い大きな家に置いて行くだなんて……」

 母は眉を顰め、それに、と言葉を続けた。

「今の家は壊して更地にしてから売ることにしようかと思って」

「え、売るの?!」

 ――うちはそんなにお金がないの?

 真っ先に思ったのは、金銭的なことだった。

「もうだいぶガタがきてるでしょう?この前の地震の時は何事もなかったけど、今度、大きな地震が起こった時も大丈夫とは限らないし」

「それはそうだけど……」

 確かに、地震だけじゃなく、大きな台風がきた時だって風で家が揺れミシミシと不吉な音をたてると不安にもなる。

「星野君がフランスに出発する前に、うちはかなり古いから大丈夫かしらって聞いたことがあったの」

「でも、星野さんの専門は西洋建築史だけど」

「本人も専門外だと言いながらあちこち見てくれて、職人さんが頑丈に作ってくれているみたいだけど、年数がたてば耐久性にも問題は出てくるし、古い建物を直すには、それなりにお金もかかるって教えてくれたわよ」

「そんなあ……」

 涼介はそんなこと一言も教えてくれなかった。

 教えてくれていたら、まだ、心の準備ができていたかもしれないのにと、何の準備もできずいきなり激突して気持ちがズキズキと痛いので、彼を少し恨んでしまった。

「まあ、ナッちゃんも結婚のことだけじゃなく、志望校のことや家のこと、一度に聞いても戸惑うだけだろうから」

 広瀬が母と奈津の話に絶妙なタイミングで割って入って、そんな話があることを心に留めておいて、まだ時間もあるから少し考えてみて欲しいと穏やかに言った。


「ご馳走様でした、とても美味しかったです」

 広瀬に挨拶をして、店の前で別れて母と二人で帰路についた。

 駅からの帰り道、涼介とも何度も歩いた細い路地を今夜は母と並んで歩き、「ナッちゃんはあの家を壊すなんてと怒るかもしれないと思っていた」と母がぽつりと言った。

「怒ってないよ」

「そうね、悲しいのよね」

「それもちょっと違うかな……」

 家を直すことも、維持していくことも、とてもお金がかかるのだということを奈津は理解している。

 そして、まだ子供で、自分があの家に対して何もできない、する力がないことを虚しいと無力感に包まれているだけだ。

「ママだって、壊したいわけじゃない」

「うん、判ってる」

「パパと結婚してからずっとあの家で暮らして、柱の傷、ひとつひとつに思い出もあるし」

「うん……」

 でも、思い出だけでは人は生きて行けないのと小さな声で母は言った。

 何もかも、そのままではいられない。

 時間が止まってしまえばいいと願っても、時間は過ぎて、大好きな人はパリへ行ってしまった。

 空を見上げると、都会の夜空はネオンの灯りで真っ暗ではなく、星も見えない。

 この空は涼介がいる場所にも繋がっている、そう思い心を強く持とうとする。

「すぐには決められないけど、志望校のこと、ちゃんと考えるから」

「ごめんね」

 母の謝罪の声に、謝らないでよと胸がきゅっと詰まった。

 誰が悪いわけじゃないんだから、と。

 涼介に会いたい。

 傍にいて、奈津の話を聞いて欲しい。

 穏やかな笑みを浮かべて、ただ頷いてくれるだけでいい。

 でも、それができないから、空を見上げた。

 彼がいる場所では、青空なのだろうか、それとも曇り空なのだろうかと、今、ここにいない人へと思いを馳せた。


 帰宅して入浴を済ませ、一人で部屋にいるとエアコンの音だけが響き、その静けさにまた寂しくなった。

 以前は音楽も何もない静かな空間でも苦にならなかったのに。

 あ、今、彼の部屋のドアが開いたとか、階段の軋む音で彼の気配が感じられて好きだったのに。

 すっかり習慣になった、時差の計算をして、涼介に電話がしたいという欲求がこみあげた。

 スマホを手に、でも、旅行中にこんなに辛気臭い話を聞かされても困るよね――そう気付いてスマホをベッドサイドに置く。

 小さく息を吐いて、パリに行く前に彼がくれたジャズのCDをプレイヤーにセットした。

 スタンダードナンバーを集めたそのCDで、一番のお気に入り『Dream A Little Dream Of Me』のメロディが流れると耳に心地よく、満天の星空が脳裏にうかぶようで、次第に気持ちが凪いでくる。

 奈津はこの曲は夢を追いかける彼を支える女の子の曲だと歌詞から解釈している、だから余計に身近に感じるのかもしれない。

 ずっといい子で待っているから、せめて眠る時は私の夢を見て。

 そして、私も、夢でもいいから会いたい。

 考えなければいけないことは増えたけど、難しいことはまた明日、夢の中で会えるように願いながらベッドに潜り込んだ。

 たとえ夢でも、会えたら嬉しいから。


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