エピローグ
やっと想いが届いて、相手も同じように想っていてくれたことが判っても別れの時間というものは、容赦なくやってくる。
それでも、お互いの気持ちが繋がっていることさえ判るのなら、二年の時間も、パリまでの距離も乗り越えていけると奈津は信じている。
大好きだった父は、二度と会えない場所へ行ってしまったけど、涼介は少なくとも電話もメールもできる場所にいる。
海外にいたって、今はLINEもあるし、Skypeだって使える、テクノロジーが発達した時代なのだ。
奈津さんは、これから受験だってあるし、大学に入っても僕と同じ道を目指すなら、とても勉強しないといけないと、大好きな人は言った。
だから、二年なんてあっという間だと。
お互い忙しくしていれば、すぐに過ぎていく時間だ、この十年がそうだったように。
明日、彼がフランスに出発する。
その時に機内で食べて貰うために、朝食の後にクッキーを焼くことにした。
キャラウェイシードをすり鉢で細かくして、全粒粉、薄力粉、ベーキングパウダーを分量分ふるいにかけておく。
柔らかくしたバターに砂糖と卵、レモン汁を混ぜていると、化粧をして着替え終えた母が台所にやってきた。
「あら、クッキーでも作っているの?」
「うん」
「星野君に持たせようと思ってるの?」
ずばりと指摘され、「ま、まあ、そんなとこ」と曖昧に答えた。
「ナッちゃんの初恋の人だもんねー、これから寂しくなるね」
「知ってたの?」
そんなこと、母には打ち明けたこと、なかったのに。
「もちろん、ナッちゃんの態度見てれば判るわよ」
うわ、母にはバレバレだったのかと、顔が火照りそうだ。
「でも、良かったね」
「えっ?」
「初恋が実って」
どうして知っているの?
まだ言ってないのに。
驚いて、母の顔を見るとにやにやとした笑みを浮かべている。
「昨日、彼がね、奈津さんとお付き合いさせて下さいって言いにきたわよ」
予想外の一言に口がぽかんと開いた。
「『二年間離れるけど、僕なりに大切にします』って、彼ならママも安心」
嬉しさで、胸がいっぱいになるってこういうことなんだ。
「じゃあ、ママは出かけるけど、星野君のご飯、頼んでいいわよね?」
ウィンクして茶目っけたっぷりに言う母に、うんうんと力強く頷いた。
「朝ご飯も、昼ご飯も、夜ご飯も全部私が作るから、ママはゆっくりしてきて」
「ふふ、今日は福永君も、もう出かけちゃったし、ナッちゃんも頑張って」
「が、がんばる」
「……変なことで頑張らなくていいからね……星野君の胃袋をがっちり掴むのよ」
「胃袋?」
「そう、男の人は、胃袋をがっちり掴まれることに弱いんだから、パパだってそうだったのよ」
「へえ……」
昔から結婚式のスピーチで有名な三つの袋の話があってね、と更に熱弁を振るいそうな母に「待ち合わせの時間大丈夫?」とツッコミを入れると、時計を見て「あ、大変」とバタバタと出て行った。
浮き浮きとしている母の様子に、母にも大切な人ができて良かったと心から思えた。
出来上がった生地をオーブンに入れ焼いていると、バターと砂糖を使った焼き菓子特有の甘い良い匂いが台所に漂い始め、奈津の胸は幸せで気持ちで満たされる。
――美味しそうな、甘い匂いだけで幸せになれるって、単純だなあ。
チンと、出来上がりを知らせる音がして、天板を取り出した。
まだ熱々のクッキーを、「あちっ」と言いながらつまみ、フーフー息を吹きかけて一口齧る。
サクっという音の後に口の中に甘さとレモンとキャラウェイの爽やかな香りが広がって、我ながら良くできたと思う。
「ふわぁー」
という間の抜けた欠伸の声が聞こえ、食堂を見ると、彼が頭をぶつけることなく鴨居の下を潜ってきた。
手には模型が入ったガラスケースを抱えている。
「おはよう、朝からいい匂いだね」
匂いに釣られて起きてきたのかと、笑いたくなった。
「クッキー焼いたの、明日、持っていって貰おうと思って。一枚食べる?」
彼が頷いて、ガラスケースをテーブルの上に置いたので、まだ少し熱いクッキーを一枚とって、渡すと彼が受け取り一口齧る。
「うん、美味しい、甘すぎなくて、爽やかな香りがする」
この粒々は何?
クッキーの断面を見て、彼が不思議そうに首を捻った。
「キャラウェイシードを細かくしたものだよ、それが爽やかさの正体です」
そう、キャラウェイの効用は爽やかな風味を出すこと。
ヨーロッパではキャラウェイは人や物を結び付けておく力があると信じられていて、昔は惚れ薬の材料にもなったらしい。
でも、そんな豆知識、彼は知らないだろうし、教えない。
おまじないをかけた奈津だけの秘密。
「あ、そうだ。奈津さんに頼みたいことがあるんだ」
「ん、なに?」
「この模型、預かっておいてくれない?」
「これって、五月祭の時に展示していた、あの模型だよね?」
最後まで涼介の部屋にひとつだけ残っていた精巧なサンピエトロ大聖堂の模型、これを本当に自分が預かっていいのかと、奈津は戸惑った。
「そう。船便とかで送るのも破損するかもと思うと怖いし、研究室に置いておくのも誰かに持っていかれるかも知れないと思うと不安だし」
その点、奈津さんなら安心だと柔らかに笑った。
「任せて、二年間、しっかりと預かっておくから」
「よろしくね」
「じゃあ、朝ご飯の用意するね」
でも、その前に、クッキーと模型を預かるお礼が欲しいな。
ここで、キスして欲しいなんて、自分から言っちゃってもいいのかな……。
どうしよう……迷った挙句、彼を見上げた。
「もう、奈津さん、そういうの反則だから」
ふっと笑った後に、眼鏡を外して、テーブルの上に置くのを見て、自分の意図するところが伝わったのだと、内心やったと思った。
涼介の手が頬に触れ、背の高い彼が屈んで、柔らかい唇が重なってくる。
唇を挟み込むようにキスされて、角度を変える時に慌てて息継ぎをした。
まだ、息継ぎがうまくできない。
軽く唇を啄むようにされ、キスが終る。
「奈津さん、他の男にそんな目をしたらダメだよ。あと、キスが下手だからって、他の男と練習するのもダメ」
額と額をくっつけて言われたことに、うん、と素直に頷いた。
いつもの古びた家の食堂なのに、どうしてキラキラと輝いて見えるのか、奈津はとても不思議だった。
***
教師が黒板に書いていく文字をノートに写しながら、ふと気になって外を眺めた。
窓際の奈津の席から、澄み切った青い空を見上げると一筋の飛行機雲、その雲の先には豆粒みたいな大きさの飛行機が見え、咄嗟に腕時計を確認した。
彼は十時二十五分発のパリ行きに乗ると言っていた。
あの飛行機なのかな、遠ざかって行く飛行機の姿を目で追いかけた。
恋人までの距離は、日本とフランス間の距離。
飛行機に乗れば十三時間、地球から月までの距離よりも断然近い。
奈津は、言い聞かせるように頷くと前を向き、黒板に書かれた文字と教師の説明に意識を戻し、私はここで自分のできることを精一杯頑張るからと、自分の胸の中にいる大切な人に語りかけた。