恋人までの距離
最後の一週間だから、ゆっくりと過ぎてくれたらいいのにと願っていても、時間はいつもと同じように、むしろいつもよりも早く過ぎてくようなそんな気がした。
やらない後悔と、やってしまった後悔はどちらの方が大きいのか。
この一週間、繰り返し考えた。
――好きだと告白して玉砕したら、今までのいい思い出もなくなってしまうのかな?
だとしたら、玉砕して気まずい関係になってしまうより、このままの方がいい。
そうすれば、彼の中で可愛い妹分がいたなという微笑ましい思い出だけは残るだろう。
その記憶は時間の経過とともに、薄れるものだとしても……お互いに嫌な思いをするよりは、ずっとマシな選択に思えた。
金曜日、学校から帰宅すると、標準服という呼び名の制服からカットソーとジーンズという部屋着に着替え、いつものように台所で夕食の準備を始めた母の元へと手伝いに行く。
奈津が台所に入り、エプロンをつけようとしたら、大根を切っていた母が手を止めて「今日は福永君も星野君も出かけるみたいだから、ナッちゃんは手伝わなくていいわよ」とにこやかに言った。
――ああ、そうだ。あの綺麗な人とブルーノートに行く日だった。
思い出したら、顔が強張りそうになった。
「どうしたの?この前の模試でB判定になったこと、まだ気にしているの?」
「ん、そんなことない」
母に心配かけちゃいけないと、即座に首を横に振って否定する。
実際そんなことは、今はどうでもよかった。
「ただいまー」
玄関の引き戸がガラガラと開く音の後、聞き覚えのある、間延びした声が聞こえた。
研究室からブルーノートへと直行するのだろうと予想していたから、もしかしてブルーノート行きは中止になったのだろうかと、そう思ったら勝手に身体が動いていた。
「おかえりなさい、今日はお出かけじゃなかったの?」
「出かけるよ、着替えに戻っただけ」
「ブルーノート行くために、わざわざ着替えるの?」
ドレスコードなんてないのに?
「そう、面倒くさいよなー」
そう言いながら廊下を歩き、二階への階段を昇るトントンという足音を聞きながら、胸が苦しくなった。
浅ましくも、一瞬、行かないのかと期待したのに、彼はわざわざ着替えるという。
少しだけ膨らんだ胸の中の風船が、弾けて粉々になった気がした。
しょんぼりとした気持ちを抱え、台所に戻り、母に自分の部屋で勉強しているから手伝いがいる時は呼んでと声をかけてから、自室に行った。
いつもなら、食堂のテーブルで勉強する奈津も、さすがにそんな気にはなれず、一人で気持ちを立て直したかった。
とりあえず、椅子に座り深呼吸を繰り返す。
――あの人のために、わざわざ着替えて行くの?
頭の中から、その疑問を追い出そうとしても、浮かんでは消えるその繰り返し。
雑誌には恋は楽しいもののように書かれているけど、全然そんなことないじゃない、苦しいことの方が多いじゃないかと、何かに八つ当たりしたくなる。
コンコンと部屋をノックする音の後に「奈津さん、いる?」と彼の声が聞こえた。
「いるよ、どうぞ」
返事をしてたちあがると、部屋のドアを開け、涼介が入って来た。
「このスーツだと、ネクタイはどっちがいいと思う?」
めったに見ない紺色のスーツ姿の彼が、両手にネクタイを持ち首のあたりに当てて見せる。
「ネクタイまでしていくの?」
「自分は会社帰りに直行だから、僕にもそれっぽい格好で来いってさ」
どうして、あの人と会う時の服を私が選ばないといけないの?
二人は家の近所で偶然会った後、恋人同士になった――その付き合いが、いつ始まり、どれくらいの長さで、いつ別れたのかも、まだ幼かった奈津にはよく判らないけど、二人が一時期付き合っていたということだけは、確かだった。
胸がじりじりと焼け焦げ、心臓がつぶれるかのような錯覚を覚えた。
「こっちの水玉の方かな」
紺色のスーツに薄いブルーのクレリックシャツという組み合わせに、紺地に白い小さな水玉模様が爽やかで、この格好の彼と過ごすのが自分じゃないことは悲しいけど、似合うと思う方を指差した。
「やっぱり?僕もこっちかなとは思ったんだけど」
「面倒だって言いながらも、ネクタイの柄を気にしたりして、そこまでしても行きたいんだね」
自分でもこんな皮肉めいたこと言いたくなかった。
楽しんできてと、送り出せたらどんなにいいかと思っても、できなかった。
「約束したし、彼女にもなかなか会えなくなるしね」
奈津の内心の蟠りになどまるで気付いていない涼介は、じゃあ行ってくるよと踵をかえす。
ここで、腕を掴んで「行っちゃやだ」と子供みたいに駄々をこねたら、行かないでくれるかな。
そんなみっともない想いが脳裏をよぎった。
でも、言えずに彼の背中を見送って、そっと部屋のドアを閉じた。
母と二人きりでの夕飯の後、風呂に入り、さすがに勉強しなきゃと思う。
涼介が出て行った後、何も手につかず、無駄な時間を過ごしてしまっていた。
通学用の鞄の中から、ペンケースと下敷を取り出して、本棚から英語の長文読解の問題集を抜き出した。
机の上に問題集を広げ、深呼吸してから英文を目で追っていくけど、内容が全然頭に入ってこない。
わざわざ着替えてから出かけるなんて、まだ彼女に未練があるのかな。
結局、英語の問題集を開いても、数学のチャート式の参考書を開いても頭に浮かぶのはそのことばかり。
フランスに行くのに、焼け木杭には火がついちゃったり、覆水が盆にかえっちゃったりするのかな……。
――そんな、筈はない。
奈津はひとりごちて、首をぶんぶんと横に振った。
これから離れ離れになるのが判っていて、また付き合いが復活なんてする訳がない。
涼介は奈津のものにもならないけど、あの人のものにもならない。
そう、私のものになんてならない……。
自分の初恋が弾けて消えてしまうのを感じ、何かを失う時の痛みを噛みしめていた。
音楽もかけていない、静寂につつまれた部屋に、階下から静かにカラカラと玄関の引き戸が開く音が聞こえた。
彼が帰って来た、認識した瞬間、弾かれたように椅子からたちあがった。
トントンと階段を昇る足音に、何故だか知らないけど、息を顰め、彼が自分の部屋の前を通り過ぎると大きく息を吐いた。
時計を見ると十時過ぎ、確か1stステージを観に行くと言っていたからライブを見終えて、軽くお酒でも呑んで帰宅したと思われる時間……何も、なかったんだよね?
喉元になにかが、せりあがってくるような、そんな感覚を覚えた。
もう、居ても立っても居られなくなり、気付いたら彼の部屋の前にいて、ドアをノックしていた。
どうぞ、という返事が聞こえドアを開けると、スーツのジャケットをハンガーにかけていた彼と目が合って、目が合うと柔らかな笑みが零れた。
彼の部屋に足を踏み入れる。
以前は床にも本が積み上げられていたけど、もうトランクルームに預けたり、後輩にあげたりした後で、本棚の本も、床の上の本も全部なくなっていて、機内に持ち込む荷物と机の上の模型が残っているだけで、部屋はがらんとしていた。
本当に、あと三日でいなくなるんだ……そう思うと胸がつぶれてしまいそうだ。
「おかえりなさい、楽しかった?」
「ああ、演奏も素晴らしかったし、食事も美味しかったし、楽しかったよ」
「そう、わざわざ着替えてまで行った甲斐がありましたね」
「やけにこだわるね」
「別に……」
別にって顔してないよ、彼は奈津を一瞥すると、くすっと笑って椅子に座り、細い指先できゅっとネクタイを緩めた。
その姿が、見慣れなくて、仕草が男の人っぽくて、胸がきゅっと苦しくなった。
「前にも言ったけど、僕がフランスから帰ってきて、その時に奈津さんがまだ行きたいと思うなら、いくらでも連れて行ってあげるよ」
「うそ、絶対嘘だ」
「嘘じゃないよ、何で嘘だなんて思うわけ?」
「だって、フランスに行っている間に、どうせ私のことなんて忘れるでしょ?」
「十年も一緒に生活したのに、忘れる訳ないだろ?」
そんな風に思われていたなんて心外だと、苦笑いを浮かべながら言い添えた。
奈津のことを忘れることなんてないと言ってくれて、帰ってきた後のことも約束してくれたのなら、これ以上踏み込むことなんてできなくて、あと一歩の勇気が出なくて、言葉を詰まらせた。
「奈津さんは、僕にどうして欲しいの?」
どうしてって、彼女にして欲しい。
その、綺麗な指に触れたいし、自分にも触れて欲しい。
でも、そんなこと言えない。
だとしたら、嫌われなくて、いい子だったと思われることが唯一の残された方法だということは子供なりに判っているつもりだった。
「奈津さん、素直になって」
「私は素直じゃない?嫌い?」
「普段は素直なのにね、今は素直じゃない。でも、嫌いじゃない、嫌いになんかならないよ」
「岩田さんは素直?好き?」
「彼女は素直じゃない、でも、嫌いじゃない」
どっちも同じ、嫌いじゃないんだ……。
「何でそういう方向に話がいくんだろう、もっと他の話があるような気がしていたんだけど、僕の思い違いだったのかな?」
「何でって、気になるからに決まってるでしょう?」
「だから、どうして気になるんだろう?そこをちゃんと話してくれないと」
私達の視線が探るように絡み合った。
どうすればいいのか判らずに、視線を外して、がらんとしてしまった部屋を見回した。
その間も、彼は辛抱強く奈津が話すことを待っていた。
「言って、奈津さん」
「言えない、言ったら、楽しかった思い出まで悲しいものに変わりそう」
「怖がらないで、言って。どうしても奈津さんから言わないといけないんだ」
彼の真剣な声に堰き止めていたものが、外れて、想いが溢れだしてきた。
「好きなの、星野さんのことが、好き」
やっと言えたと安堵する気持ち。
言ってしまったと、後悔する気持ち。
ない交ぜになり、立ち尽くしていると、座っていた彼が立ち上がり、気付いたら彼の腕の中に包まれていた。
彼の腕の中はとても温かくて、母とも友達とも違う匂いがした。
とても、いい匂いが……。
「やっと言ってくれた。このままフランスに行かなきゃいけないのかと覚悟してたよ」
いつもより近くで、耳に響く彼の声に、うっとりとした心地になり、彼が伝えてくれる言葉に耳を傾けていた。
「どうしても君から言ってもらわないといけなかった。僕は君よりも十三も年上でこれから離れることが判っていて、立場上僕の方から待っていてとはとても言えなかった」
「つまり、その言葉の意味するところは?」
「つまり、奈津さんが好きってこと」
「本当に?」
「本当に、だんだんと身長が伸びてきて、女性らしくなってきた君が眩しくみえるようになって、もうとても『ナッちゃん』なんて呼べなくなった」
いつからか、なんて判らない。
僕はロリコンじゃない、なんてこれでも随分悩んだと、そもそも好きじゃなかったら、休日に遊園地に連れて行ったりしないよ、奈津さんも少しは男性心理を学んだ方がいいねと彼から紡がれる言葉を、呆然と聞いていた。
「なんだ……同じ気持ちだったんだ……」
奈津が小さく呟いた言葉に、涼介がふっと笑った。
「君は、これから大学に入ってどんどん世界が広がって、色んな人と出会うよ。僕と恋愛するよりも、ずっと楽な恋愛だって待っている。それでも二年待つつもり?」
「待つ、絶対待つから」
「これからは、傍にいて欲しい、寂しいと思っても傍にはいてあげられない。本当にそれでもいいの?」
「そっちこそ、フランスに行ったら金髪碧眼の綺麗なお姉さんだってきっといるのに、私みたいな子供でいいの?」
「奈津さんがいいんだよ」
柔らかい声で告げられて、顎に手をかけられ、彼の顔が近付いてきた。
唇に、彼の唇の感触がして、これがキスというものかと、その心地に気持ちが蕩けそうになった。
一度、唇が離れて、また角度を変えて唇を重ねる、啄むように、何度も、何度も。
身体に力が入らなくなってきて、彼のシャツの腕にしがみつくと、彼の顔が離れていった。
奈津さんのことが好きだよ、そう告げた人の眼鏡の奥の黒い瞳が、いつもより潤んでいるように見えて、お腹のあたりがきゅっと疼いた。
大きな手で頬に触れられ、熱いため息のようなものが口から漏れた。
あの知的な瞳に見つめられるのは、天にも昇るような、ふわふわとした心地だけど……。
「……これで、終わり?」
「へっ?」
「だって、ここは普通、ベッドに押し倒したりとかしないの?」
「はあ?ここで、そんなことできるわけないだろ」
下にはおばさんもいるんだし、彼は珍しく慌てた様子で付け加えた。
「ママはテレビを見てるだろうから気付かないよ」
「それでも、無理」
「どうして?友達の中には彼氏の部屋で下の階に親がいる時に初体験を済ませた子もいるよ」
「ここは不純異性交遊禁止じゃなかった?」
「大家の娘がいいって言ってるから、いいの、だいじょうぶ」
そう言い放つと、奈津は自分のカットソーの裾に手をかけた。
「ここで脱ぐなっ、大丈夫じゃないっ、だめだってば、条例違反になるしっ!」
「じょうれいいはん?なにそれ?」
物騒な言葉の響きにカットソーの裾にかけていた手が止まった。
「十八歳未満の青少年との性行為は東京都の条例で禁止されてます」
奈津さんは、まだ誕生日がきてないから十七歳だろ、立派な法律違反だからと彼は言葉を付け足した。
「だって、高二の夏休みに済ませちゃった子もいるよ?」
「だめ」
「私、そんなに魅力ない?」
「そうじゃない、一応、これでも我慢してんの。なんで、そんな今日のうちにお手軽に済まそうとするわけ?」
「だって、男の子はヤラせてくれない女の子のことなんてすぐ飽きて別れちゃうって友達が言ってたし」
奈津の言葉に、涼介は大きく息を吐くと、進学校だから真面目な子ばかりだと思ってたけど、意外と今時の子が多いんだなと呆れとも感心ともつかない口調で呟いた。
「やりたい盛りの高校生と一応我慢のきく大人を一緒にしないように」
「星野さんは、しなくても平気なの?だって、男の子って溜まるとか、平気で言うし」
「だーかーら」
「やりたい盛りの高校生と一緒にするなってこと?」
「そういうこと。それに、奈津さんのことが大切だから、これからフランスに行かなきゃいけないって時に、そんな無責任なことできないよ」
「これからフランスに行くからっていうのもあるんだけど……」
だから、何か約束ごとみたいな、大切な契約の印が欲しい、このままだとあやふやなまま放り出された気持ちがする。
うまく伝わるかどうか判らないけど、自分の気持ちを精一杯言葉にした。
「セックスは大事なことだけど、契約の印になんてならないよ。もし、そうならこの世の中から不倫とか浮気なんて単語なくなると思わない?」
「そう言われてみると、そうかも……」
「それに、僕はおばさんにきちんと言えないような、そんな付き合い方はしたくないんだ」
どうせだったら、胸を張って、僕たち付き合ってますって、言いたくない?
添えられた言葉に、素直な気持ちで「うん」と頷いた。
「じゃあ、今日から、私は星野さんの彼女だと思っていいの?」
もちろん、と彼はいつものように笑みを浮かべると眼鏡を外し机の上に置き奈津のことをもう一度引き寄せた。
眼鏡を外した、大好きな黒い瞳を見て、それだけで、胸が高鳴る。
彼の顔がまた近付いて、唇と唇を軽く重ねたあと、唇に触れたままで、「口を開けて」と囁かれた。
言われるままに、口を開けると、柔らかいものが口の中に入ってきて、これがディープキスというものなのかと、ただのキスよりも強い刺激に、自分の心臓の音がうるさく聞こえて、またお腹のあたりがきゅっと疼いた。
どうしていいのか判らずに、されるがままに舌をなぞられ、軽く吸われ、そうすると甘い痺れが背中に走り、初めての感覚に戸惑った。
もう身体に力が入らなくて、彼の胸のシャツをぎゅっと握って、身体を預けた。
いいように口腔内を弄ばれ、頭がくらくらしてきて、息も苦しくなって、彼の胸をドンドンと叩いた。
「く、くるしい……息ができない」
チュっというリップ音の後に唇が離れると、プールからあがった直後みたいに、ぜいぜいと肩で息をした。
「鼻で息をすればいいんだよ。まだキスもできないくせに、その先に進もうとするなんて生意気なんだよ」
涼介は意地悪な顔で笑うと、また奈津を引き寄せ、そっと髪を撫で始めた。
ここまでゆっくりだったんだから、これからも僕らなりにゆっくりと進めばいいさと、温かい胸の中で囁きを落とされて、うん、と素直に頷いた。
これが彼の匂いなんだ、キスってこんなに甘いんだ……好きな人の胸の中は心地よくて繭に包まれているみたい。
しっかりとしたリズムを刻む、涼介の心臓の上に手を置いていると、何も怖い物などないと、そんな気持ちがもてた。
月までと同じくらい離れていると思っていた涼介との距離は、ゼロになった。