現在の距離
いつ、恋に落ちたかなんて、そんなのは判らない。
これがきっかけだと、はっきり判る人っているのだろうか。少なくとも私の場合は、はっきりとしたきっかけなんてない。
毎日の暮らしの中で、いろんな話をして、一緒に怒ったり、笑ったり、同じ感情を共有しているうちに、少しずつ少しずつその人のことが胸の中に大きくなっていった。
雪がしんしんと音もなく降り積もるみたいに、堆積していって気付いたら、その人のことで一杯になっていた。
彼から見たら、自分はどうしようもなく子供で、てんでお話にならないということも判っていた。
彼の笑った顔、眠そうに欠伸をする様子、靴下の色が左右で違っていたり、眼鏡がないって大慌てで探した挙句に胸のポケットに入っていたり、そんなことすら、どうしようもなく惹きつけられて、とにかく全部が好きなのだ。
何度も鴨居に頭をぶつけるし、部屋の中は本や建築の模型だらけでも。
時々、彼女らしい人がいることを匂わせるようなことがあっても。
胸の中に積もった思いは、溶けてなくなってしまうことなんてなかった。
そして、自分で持っている語彙では表現できない感情を知る、それは、彼の仕草や言葉に胸がきゅんとするということ。
この感情は未だにどう表現していいか奈津は知らない、ただ、胸のあたりがきゅーんとするとしか言いようがないのだ。
家に下宿する東大生は学部三年生でやってくる。
彼らは一、二年の頃を駒場で過ごし、三年になって本郷に移ってくるのだ。
奈津からしてみたら、制約の多い下宿暮らしなんて不自由じゃないのかと思えるのだが、母の言うように家庭的な雰囲気を味わいたいのか知らないが、下宿には常時定員の上限である五名の学生がいた。
大概の学生は、家で二年間生活し、学部卒業と共に巣立っていく。
――星野さんも、きっと来年でいなくなる。
彼がきて、一年がたっていた。
そう思うと、小さいなりに、胸がきゅーっと締め付けられる思いがした。
「僕は院に進学するので、来年以降もここでお世話になりたい」
彼が母にそう言った時、ほっと胸を撫で下ろしたものだった。
でも、修士課程が終ったら、きっと出て行く。
博士課程が終ったら……毎年、更新の時期の時期が近付くと、薄氷の上にいるみたいな、そんな気分だった。
ここを出て行ったら、父のように二度と会えなくなる。
だって、自分は身内でも何でもない、ただの下宿屋の娘だから。
そのことを考えると、息が苦しくなるけど、それを解決する方法なんてみつからなかった。
奈津の心配をよそに、彼は博士課程を終えて、博士研究員になり、その後、助教と順調にキャリアを積み重ねても、まだ家にいる。
それは、とても喜ばしいことだったけど、同時に不思議で、彼に正直に質問をぶつけてみたことがあった。
「星野さんは、もっと自由に一人暮らしをしてみたいと思わないの?」
下宿の生活って、不自由じゃないの?
門限だってあるし、お風呂は銭湯、洗濯はコインランドリーだもん。
「うーん、駒場にいた頃、アパートで一人暮らしだったんだけどさ、そっちの方が 食いっぱぐれる事も多くて、よっぽど不自由だったよ。ここは、おばさんの作るご飯も美味しいし、風呂に入れとか口うるさいけど可愛い妹分はいるし、居心地がいいんだ」
口うるさいは一言余計だよと、唇を尖らせたら、「悪い、悪い」と口では言うものの、全然悪びれないで奈津の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
居心地がいい、その一言は天にも昇るくらい嬉しいけど――やっぱり、妹がいいところなんだ……。
そして、ずっと恐れていたことが現実になった。
高校二年の冬、彼が母に六月からフランスに行くからここを出て行くと告げた。
なんちゃら海外派遣プログラムとかいうのを利用して、二年間、パリ第四大学に留学させて貰えることになったと。
西洋建築史を研究している涼介にとって、パリへの留学はずっと希望していたことで、奈津もそのことは知っていた。
――ついにきたか……。
覚悟はしていたけど、自分の中でガラガラと何かが崩れて、胸の中にぽっかりと穴があいた気がした。
「おめでとう、よかったね」
「ありがとう、奈津さん」
お願いだから、笑顔が不自然にみえませんように――懸命に笑みを浮かべて祝福の言葉を言うと、彼は満面の笑みを浮かべた。
もう、この『奈津さん』と自分のことを呼ぶ、柔らかい声も聞けなくなるのか……。
小学生の頃は『ナッちゃん』と呼ばれていたのに、いつの頃からか『奈津さん』と呼ばれる回数が増えて来て、今ではいつも『奈津さん』と呼ばれる。
みんなが私のことを『ナッちゃん』と呼ぶから、涼介だけの特別な呼び方――それも、もう聞けなくなる。
切なくて、苦しくて、でも、これで良かったのだと自分を納得させた。
不思議と涙は出てこなかった。
それは、覚悟していたからというのもあったけど、まだ本当の意味での喪失感を味わっていないからだということを、奈津は七歳の頃に学んだ。
会いたい人に会えなくなる寂しさは、本当にその人がいなくなってから、じわり、じわりと胸の中に溜まっていき、日常のふとした瞬間に思い出しては悲しくなるのだ。
フランスか……大人だったら、飛行機に乗れば十三時間。
でもただの高校生には遠い、東京とパリって何キロ離れているんだろう。
それでも、私と彼との精神的な距離よりも近いかもしれない。
私と彼との間の距離は地球と月くらい離れているように思えた。
冬の終わり、下宿から三人の学生が巣立っていった。
そして、春が始まるのに、新しい学生は入って来なかった――母は新たに下宿人の募集をしなかった。
これも、奈津が覚悟していたことのひとつで、『今年は新しい学生さんの募集はしないから』と母から聞き、「判った」とだけ答えた。
母は、父が亡くなって以来ずっと独身だったけど、大切な人ができたのだ。
それはとても喜ばしいことで、母の新しい恋を応援するつもりだけど、寂しくもあった。
涼介がフランスに行き、もう一人残った学生は四年生、彼が卒業する時、この下宿は、自分はどうなっているのだろう?
深く考えるのは怖かった。
五月に入り、涼介がフランスへ行く日が近付いてきた。
この三か月、奈津は彼のことを諦めよう、もう無理だと自分に言い聞かせ続けていた。
それでなくても、今年は高校三年生、冬には大学受験が待っている大切な時期だ。
女手ひとつで、ここまで育ててくれた母のためにも、憧れ、追いかけ続けた背中に少しでも追いつくためにも現役で国公立大学に現役で合格するのが大目標なのだから。
五月の第二日曜日、朝からとてもいい天気で、窓を開け、真っ青な空を見て、爽やかな風を頬に感じながら、こんな日に勉強しなきゃいけないとは……ため息まじりで、受験生の悲哀を密かに噛みしめた。
食堂の窓を細く開け、時々聞こえる近所の人の話声がざわざわと遠くに聞こえて波の音に少し似ていると思った。
テーブルの上に数ⅡBの青い参考書を広げ、ノートに例題を書き写し問題を解いていく。
食堂で勉強するようになったのは、小学生の頃からで、ここで勉強していると、通りかかった下宿の学生が判らないところを教えてくれるからだった。
しんと静まりかえった台所で、シャープペンシルの音だけがカリカリと小気味いいくらいに響く。
その音にまじって「ふわぁー」と気の抜けた声が聞こえた。
「おはよー」
食堂の入り口を見ると、涼介が欠伸をしながら頭を低くして鴨居を潜るところだった。
――今日は頭をぶつけなかった。
ここでの生活ももう長いのに、彼はまだ油断していると時々鴨居に頭をぶつけていた。
起き抜けで、髪がぼさぼさで、ふぁーなんて気の抜けた声を出して欠伸をしても様になるんだからずるいと、食堂に入ってきた彼を見て思う。
「もう、十時過ぎてるのに、おはよう?」
「こんにちは?」
「んー、おはようかな、やっぱり……」
首を傾げる奈津に、そうでしょ、おはようでしょ、と眠そうな声を出しながら笑う。
「朝ご飯頼んでいいかな?」
うん、と返事をして参考書を閉じて立ち上がると「勉強中悪いね」とやっと寝起き状態から目覚めつつある声で言った。
「おばさんは?」
「デートに出かけた」
「福永君は?」
「もうとっくに出かけたよ、こんな時間まで呑気に寝てるのは星野さんだけ」
福永君というのが、もう一人我が家に残っている今年四年生になった下宿人。
彼の朝ご飯の支度を終えた後、母は現在の彼氏とのデートにいそいそと出かけていった。
うちは賄い付きではあるけど、その中には日曜の夕ご飯は含まれないので、今日はゆっくり楽しんできてと、朝、母を送り出したのだ。
味噌汁を温め直している間に、ベーコンエッグを焼き、母が用意しておいた糠漬けと、ひじきの常備菜を小皿に盛り付けて、お盆に乗せ「どうぞ」と涼介に差し出した。
「ありがとう」
彼が新聞に目を落としたまま、味噌汁のお椀に手を伸ばしたので、新聞を取り上げた。
「新聞読みながら食べるのはダメ、それに起きたら顔くらい洗ってきたら?」
「口うるさいなあ、お袋みたいだ」
「こんなグータラな息子を産んだ覚えはありません」
「言うなあ……でも、旨いよ、このベーコンエッグ」
いつでも嫁にいけるな、付け足された言葉に胸がツキンと痛んだ。
当たり前だ、固すぎる黄身も柔らかすぎてトロっと流れる黄身も好きじゃないという、あなたの好みに合わせて作っているんだから、でも、そんなことは言えなくて胸の中に言葉を仕舞いこむ。
いつでも嫁に行けるなんて、言ってほしくなかった。
僕のお嫁においで――そんな言葉なら嬉しいのに。
「嫁になんて行かないもん」
「そっか、これから大学受験するっていう子に嫁は失礼だったかな。しかし、小学校二年の時に算数で四十点取って半べそかいていた子が僕の母校を目指すようになるとはね」
「それは黒歴史だから言わない約束でしょ?」
「それは、星野先生が教えてくれたおかげだから、とは言わないの?」
「星野先生のおかげです、いつも感謝してます」
よろしい、満足そうに片方の眉をあげて笑うと、彼が食堂に持って来ていたスマホに着信音がした。
涼介は表示を見ると、ご飯を食べていた手を止め、画面をスライドさせて電話に出た。
ああ、来週はまだ日本にいるよ。
へえ、ブルーノートか、いいね。
楽しげな話し声に、誰と一緒にブルーノートに行くのか、想像すると、胸が抉られるみたいに痛い……。
往生際の悪い私は、諦めようと自分に言い聞かせても、まだ全然諦めることなんてできていなかった。
来週の約束をして通話を終え、またご飯を食べ始めた涼介に「ブルーノートに行くの?」と精一杯な平静な声で尋ねた。
「うん、暫くは会えないし、一緒に行こうって誘われてさ」
「誰から?」
「大学の同期、ほら、前もここに来たことがある岩田さん」
奈津さんも会ったことがあるだろう?
不意に内臓がねじれるかのような感覚が襲った――この感覚ならもう知っている。
八歳の時に初めて味わったあの感覚は度々奈津を苛んだ。
「私も行きたかった」
「高校生にはまだ早いよ、二十歳を過ぎて、酒を呑めるようになってからの方が楽しいから、そうしたら連れていくよ」
「嘘、自分はフランスに行くくせに」
「二年で帰るし、帰ってきたら奈津さんは二十歳、ちょうど酒が呑める年齢になっている」
「……そうだけど」
「不満そうだね」
だって、二年先の話なんて。
――フランスに行っている間に、私のことなんて忘れちゃうでしょう?
パリで、大好きな古い建物の研究しているうちに、遠い日本にいる下宿屋の娘のことなんて忘却の彼方だよ、絶対そうだ。
言えない想いがぶすぶすと胸の中に燻って、発火してしまいそうだ。
「ご飯食べたら、出かけようか?」
「私と?」
「他に誰もいないでしょ?」
「旧岩崎邸とか、旧古河庭園とか?」
「違うよ、それは僕の趣味で奈津さんを連れて行ったところでしょ。そうじゃなくて、奈津さんの好きなところ、遊園地でも、映画館でも、買い物でも」
ブルーノートはまだ無理だから、にっこりと笑みを浮かべた顔を向けられて、燻っていたものはいきなり消火され、風船がついたみたいに気分が上向いた。
「ゆ、遊園地……?」
「もう、こんな時間だから、東京ドームシティとか、花やしきみたいな近場じゃないと無理だけどね」
それとも、勉強が忙しくて出かけられないかな?
そんな言葉を付け足されて、ぶんぶんと首を横に振った。
「ドームシティと花やしき、どっちにしよう……」
ドームシティだと絶叫マシンがあるから、どさくさに紛れて「怖かったー」なんて抱きついたりできるかも。
でも、浅草も捨てがたい。
花やしきのすぐ近くには浅草寺もあるから仲見世を二人で歩いちゃったりして、彼の建築についての薀蓄だって聞けそうだ。
あの、薀蓄を聞くのもたまらなく好きだ。
――ああ、どっちにしよう……。
「ドームシティと花やしきで、そんなに頭を抱えて悩むとは思わなかった」
くすっと笑われて、あなたのせいで悩んでいるのだよと一瞬イラっとした。
「ほら、悩んでいる間にもどんどん時間は過ぎていくよ」
「は、花やしきに行きたい」
「了解、奈津さんならそう言うと思った」
彼はそう言って、にっこりと笑うと、急いで食べなきゃと、残っているご飯を食べ始めた。
涼介が朝ご飯を食べ終えると、食器を洗い終えてから、自分の部屋に行き着替えを済ませた。
鏡に全身を映してチェックして、顔はこのままでいいのだろうかと、じっと自分の顔を見た。
奈津が通っているのは都立の進学校で、メイクして登校するような生徒はいない。
でも、地下鉄に乗っていると、たまに髪が少し茶色だったり、目の周りが黒々としている他校の女子生徒を見かけ、涼介の周囲の女性もきっと綺麗にお化粧している人ばかりだろうし、自分ももうちょっと何とかした方がいいのかなと思い、お小遣いでファンデーションなどのメイク用品を買ってみた。
買ってみたはいいが、まだ自分の顔で実験したことがない。
うーん、下手に塗って失敗するのも怖い……。
コンコンとドアをノックする音の後に「奈津さん、まだー?」と間延びした声が聞こえた。
慌ててドアを開け、もう少し待ってと涼介に言うと、奈津を見て「もう着替え終わってるみたいだけど?」と怪訝な顔をする。
「メイクがまだなの」
「メイク?今まで化粧なんてしたことなかったじゃない」
「いや、もう高三だし、そろそろ、そういうこともしようかと……」
「そのままで、十分可愛いよ。そのうち、大人になると、面倒くさくても時間なくても化粧して出かけるようになるんだから、すっぴんで出かけられるのは今だけの特権だよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
ほら、早くと急かされて、慌ててバッグを掴んで部屋を出た。
玄関で靴を履きながら、化粧するようになっても、目の上を青く塗ったり、目の周り黒くしたり、ああいうのは奈津さんには似合わないからねと涼介が言った。
そうか、彼は所謂ナチュラルメイクというものが好きなのか、情報ひとつゲット、心の中のメモ帳にまたひとつ涼介情報を追加して、もうすぐフランスに行くんだからそんなの意味ないじゃんと、自嘲気味に思った。
諦めようなんて思ったって、嫉妬もすれば、こうやって浅ましく彼の好きなものを覚えようとしている。
自分は本当に往生際が悪い。
玄関に鍵をかけ、家の前の細い路地を駅に向かって歩き出した。
「あ、マルだ」
路地の曲がり角のところに、茶色の猫が寝そべっていた。
角の高野家の飼いネコのマルは、猫の種類には詳しくないので、よく判らないのだが血統書つきのネコらしい。
そんな血統書付の猫には珍しく、彼はたまに外に出ているが、テリトリーは狭く家の半径五十メートルくらいのところに結界があるかのように、遠くには行かない。
人懐っこいマルは、奈津たちを見つけると静かに近付いてきて、奈津の足に身体を擦りつけてきた。
「マル、元気そうだね」
――可愛いなあ……。
足に身体を摺り寄せたマルを撫でると気持ちよさそうに目を細めた。
「かわいいなあ」
涼介も手を伸ばし、そして抱き上げるのを目の端に捉え「ダメ」と奈津が叫ぶのと「ニャー」と猫が叫ぶのがほぼ同時、その後に「痛っ」という涼介の声。
猫は涼介の腕をすり抜けて、凄い勢いで家の中に入って行った。
「もぅ……マルは人懐っこいけど、抱っこは嫌いなのに」
「そういえば、そうだった」
本当に抜けてるんだから……見せてと言うと涼介は腰を屈めた。
「血が少し出てるよ」
高い鼻の、横に一文字、すーっと引っ掻き傷ができていた。
「これくらい平気だよ」
「ダメ、ばい菌が入ったら大変だよ」
バッグをゴソゴソと探って、ポーチから絆創膏を取り出した。
あの時から、ずっと出かける時は絆創膏を持っていた。
外出先でちょっとした怪我をして、自分や友人のために使うことはあっても、彼に使うことは初めてで、やっとお前の出番がきたねえと感慨深いものがある。
「ちょっと屈んで、眼鏡外して」
眼鏡を外すと、印象的なつぶらな瞳が直接見えて胸が弾んだ。
自分よりずっと年上の、しかも男性相手に『つぶらな瞳』という表現ってどうよ?
そう思わなくもないけど、そうとしか言いようがないのだ。
知的で、吸い込まれそうな黒い瞳――奈津の大好きな優しい目。
抑えていた好きという想いが溢れ出てきそうで、慌ててその想いに蓋をして、絆創膏を貼り付けた。
やっぱり、あの時と同じ、整った落ち着いた顔立ちなのに、どこか可愛くて、にやりと頬が緩みそうになるのを堪えた。
どうして、自分は演劇部じゃなくて、天文部に入ってしまったんだろう?
それはね、五時に下校するという校則のもと、普段は観測ができない天文部は幽霊部員になっても許されるからだよ。
――つまらない自問自答だ……。
アトラクションで怖がって、抱きつくなんて芸当は本当に怖いか、相当の演技力が必要だということを奈津は学習することができた。
カタコトと古めかしい音をたてて走るローラーコースターは、ある意味怖いけど、それは思わず笑っちゃうような怖さで、これで抱きつくのは不自然だし、一時期本物が出ると噂になったお化け屋敷は怖いと思う前に終わってしまった。
チャンスは園内に唯一ある絶叫マシンのスペースショットだけど、一気に地上六十メートルまで上がるのが逆に爽快で、落ちる時もGのかかり方が気持ちいいくらいだった。
こんな時に「あー怖かった」と言って涼介の腕にしがみついて、上目遣いに怖がるフリもできないなんて。
――だめだ……ダメダメだ。
がっくしと肩を落としそうになる奈津をよそに、「あー楽しかった」と涼介はどこまでも呑気だ。
「久しぶりに大声出して楽しかったよ」
「私も、楽しかった」
「そっか、楽しんでくれて良かった。帰りに浅草寺寄って、どこかで夕飯でも食べようか?」
「うん!」
沈んだり、浮かんだり、我ながら呆れるくらい単純だ。
花やしきの帰りに寄った浅草寺では、本堂の前にある常香炉でもくもくと立ち上っている煙を手で頭にかけるようにして、大学に合格しますようにと、少し早い合格祈願をした。
観光客で賑わう仲見世のあちこちの店をひやかしながら、背の高い彼より半歩下がって歩いた。
奈津の視線の先には彼の空いている左手。
日頃の涼介を見ていると不器用に見えるのに、実際の彼はとても器用だ。
細い指先でとても精巧なバロック様式の門の模型を作ることもできる。
その、器用な指に触れたくて、自分にも触れて欲しくて、空いている左手に自分の右手を繋ぎたい。
無邪気に、何にも判らない振りをして、はしゃいで彼の腕を取って歩くことができたら、どんなにいいだろうと思うけど、今更しっかり者からのキャラ変更なんてできなくて、悶々とするばかり。
だいぶ日が長くなってきたけれど、段々と太陽が傾いて空の色が青い色から瑠璃色にオレンジが混ざったような色を含んでくる。
一緒にいられる時間はあと僅か……一週間と少しだけ。
こんなに近くに彼の手はあるのに、遠くて届かないのがもどかしい。
手を繋ぎたいって言ったら驚くかな、嫌がるかな、それとも手を繋いでくれるかな?
一番困るのは「どうして?」と聞かれること。
好きと言えなくて、手を繋げなくて、一緒にいられるのは嬉しいのに、胸がきゅっと苦しくて、どうしようもない想いを抱えて彼の半歩後を歩いていた。