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恋人までの距離  作者: Gemini
【本編】
1/8

10年前の距離

 ――君が、ナッちゃんだね。僕は星野涼介、よろしくね。

 そう言って、その人は腰を屈めて、私の目を見てにっこりと笑うと、右手を差し出した。

 初めて会った時のことを、まだ幼かった自分がはっきり覚えているのは、そう言って靴を脱いで廊下に上がったその人の脚元を見ると、靴下の色が左右で違っていたから。

 おかしくて、くすっと笑うと、不思議そうな顔をして「なんで笑うかな」と言った。

「だって、くつしたの色が右と左で違うよ」

「ああ、ほんとだ」

 自分の足を見て苦笑いを浮かべ、「たまに、やっちゃうんだよね」と照れているかのように頭をポリポリとかいて、「全部同じ色の靴下にすればいいんだよな」と、言ったけど、それから十年間、彼は全部同じ色の靴下にすることはなく、徹夜明けだったり、考え事に没頭すると、時々違う色の靴下を履いていた。

 あの、最初に会った時の照れ笑いみたいな顔が、自分よりも凄く年上の人なのに、なんだか可愛いなあと思った。

 もちろん、その人の前でそんなことを言ったことは一度もないけど。



 七歳の秋に、父が事故で亡くなった。

 当時の私には、人が死んでしまうことの意味がよく判っていなかったのだと思う。

 黒い服を着た人達が泣き崩れているのを、ただ呆然と見ていた。

 その中で、母は必死に泣くまいと堪えていて、そして家に帰って、私が寝た後に食堂のテーブルに突っ伏して泣いていたのを、トイレに起きた時に偶然見かけた。

「ママ、だいじょうぶ?」

「大丈夫よ、でも、今日だけは泣かせて、明日からは、しっかりするから。そしてパパが心配しないように、ナッちゃんを守るから」

「わたしは、だいじょうぶだよ」

 そう答えたら、母は無理に笑い、泣き笑いのようなぐしゃっと崩れた顔になったことを憶えている。

 その時はまだよく判っていなかった。

 死んでしまった人には二度と会うことができないということが。

 寂しさはじわじわとこみあげてくるということを。


 専業主婦だった母が、奈津と二人で生きて行くために選んだ道は、外に働きに出ることではなく家に下宿人を置くことだった。

 父は東京生まれの東京育ち、先祖代々文京区に住んでいて、祖父が建てたので、年季は入っていたけれど、都内としてはかなり広い部類に入る家に家族三人で住んでいた。

 その年季の入った家に少し手を入れて、賄い付の下宿を始めると、母は母の姉、つまり伯母と私の前で宣言をした。

「そうしたら、今みたいに家にいられて、専業主婦みたいな仕事をしてナッちゃんと暮らしていけるでしょう?」

「下宿って、今時そんな需要があるの?」

「あるわよ、この辺は大学が多いもの。その中には自炊するのが面倒だから賄い付きの下宿がいいと思うような学生さんがいる筈」

 うちの近くには幸いなことにコインランドリー付きの銭湯だってあるし、大きな古い木造の下宿だって残っているんだもの、絶対大丈夫と母はきっぱりと言い放った。

「大丈夫、パパだって天国で見守っていてくれるわ」

 余程不安な顔をしていたのだろう、母は私をみつめると、にっこりと笑って頷いた。

 ――うん、だいじょうぶ、パパがきっと見ていてくれる。

 実際は、生命保険と事故の賠償金があるから大丈夫、なんとかやっていけると思ったと、後に母から聞いた時はがっくしと膝を降りそうになったけど。

「女子学生専用にするの?」

「そんなことしないわよ、女の子でも男の子でも家に下宿したいという学生を受け入れるつもり」

 そういう家庭的なものを好むのは絶対男の子の方だから、きっと男の子の方が多いでしょうけどねと、どんなリサーチをしたのかは知らないが、やけに自信たっぷりだ。

「でも、女の二人暮らしで男子学生を住まわせたりしたら、危ないんじゃないの?」

 常識人の伯母は眉を顰めた。

「女だけの世帯の方が危ないわよ。それぞれの部屋のドアに鍵もつけるし、うちに下宿するのは東大の子が多いだろうから、そんな子たちに変質者なんていないわよ。大丈夫、なんとかなる」

 母は力強く頷いた。

 まるで、自分に言い聞かせるみたいだった。


 下宿屋を始めて、最初の年に五人の下宿人が家にやってきた。

 母の読み通り、全員東大の男子学生で「家から歩いて通えて、朝晩の食事付きだもの。絶対下宿人は来ると思っていた」と母は胸を張った。

 一、門限は深夜零時。それ以降は閉め出す。

 一、お風呂は近所の銭湯に行くこと。家の風呂は使わない。

 一、食事をキャンセルする際は必ず連絡すること。ただし、食事を食べなくても返金はしない。

 一、洗濯は銭湯のコインランドリーですませること。家の洗濯機は使ってはいけない。

 一、部屋での不純異性交遊は禁止

 これが、うちの下宿で生活する際のルール。

 八歳の頃の自分には「不純異性交遊」の項目だけがわからなくて、これはどういう意味かと尋ねると、「要するに、彼氏彼女を連れ込むなってこと」母は困ったような顔をして教えてくれた。


 最初に来た五人の下宿人の中で、涼介が特別な人になったのは、初めて来た時に見せた間抜けっぷりが、その時だけではなく、度々見られたからなのだと思う。

 朝、ぼーっとした顔で二階から降りてきて、いきなり、食堂の鴨居にしたたかに額をぶつけて「痛いっ」って叫ぶことも、一週間に一度はあったような気がする。

 何かやらかした後に、情けなく笑う顔が、年上なのに、たぶん凄く頭のいい人なのに、何だか親しみやすくて、一番話しかけやすかった。

 だからだと思う、テストで悪い点を取ってしまったことも、彼には素直に話すことができた。

 担任の教師から「次は頑張って」と声をかけられ、受け取った答案用紙は八歳の子供には大層ショッキングな点数で、頭が真っ白になるという感覚をたぶん初めて味わった。

 ――どうしよう、こんな点数……。

 学校からの帰り道、ぐるぐると頭の中をどうしよう、どうしようというフレーズが駆け巡る。

 ママに見せたらどんな顔するかな?

 パパがいなくても、ナッちゃんを立派な大人にするって張り切っているのに、それなのにこんな点数。

 玄関の門の前で、大きなため息をつき、途方に暮れていた。

「ナッちゃん、どうして家に入らないの?」

 俯いていたから、そのスニーカーの靴の先しか見えなくて、声をかけられはっとして顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべていた涼介がいた。

「さんすうの、テストの点が、わるくて……」

 言葉に出して言うと、鼻の奥がツンとしたけど、下宿の学生さんの前で泣いちゃいけないと、なんとか我慢した。

「何点だったのかな?」

「よんじゅってん」

 声に出して言うのも屈辱的だった。

「念のため聞くけど、五十点満点で?」

「ひゃくてん、まんてんだもん」

 泣いちゃいかんと思っても、情けなくて涙が出た。

「みせてごらん」と彼が右手を差し出した。

 ランドセルを肩からおろして、中からテストを取り出して、俯いたまま「はい」と差し出した。

「ああ、掛け算か……ナッちゃんは気管支炎で入院してたもんなあ……」

 そうなのだ、入院している間に九九を全部覚えることができなくて、退院してすぐのテストで、まだ覚えていない掛け算の問題がたくさん出てしまったのだ。

「教えてあげるよ、さんすう。タダの家庭教師をやってあげる」

「いいの?」

 よほど勢いよく顔をあげたのだろう、彼は奈津の顔を見ると、にっこりと笑って、おっ、いい笑顔と言い、付け足した。

「チビちゃんは特別だから。いつもお母さんのお手伝いしていて偉いもんな」

「こんな点数取ったんだから偉くない」

「偉いよ、算数の点数なんておチビが勉強すればすぐ百点取れるさ」

「チビって言うな」

「おっ、元気が出たな、奈津さん」

 大きな手で頭をくしゃっと撫でられた。

 チビと言われ怒ったら、奈津さんとまるで大人の女性のように呼んでくれたことが嬉しくて、くすぐったくて、ふにゃっと顔が崩れた。


 約束通り、涼介は奈津が判らなかった掛け算を教えてくれた。

 とは言っても、とにかく九九はひたすら暗記なのだけど、彼は家の廊下ですれ違いざまに「二×八は?」とか「七×八は?」なんて聞いてきて、油断できたものじゃない。

「じゅ、十六!」答えが合うと、にっこり笑って「正解」と頭を撫でてくれた。

 大きな声を出して九九を言ってごらん。

 苦手な段は書いて、声を出して覚えてごらん。

 アドバイスしてくれるから、奈津も母が洗った茶碗を布巾でふきながら、母を相手に九九をつらつらと唱えて、八十一個、完璧に言えるようになった。

 九九を覚えたと、お墨付きを貰うと、今度は掛け算というものがどういうものなのか、手近にある一円玉などを使って、掛け算を教えてくれた。

 その教え方は、家庭教師のバイトをしているだけのことはあり、学校の先生よりもずっと上手だと感じられた。



 次に算数の答案用紙が返ってきた時は、前回と打って変わり、弾むような足取りで、スキップでもしたくなるような、そんな浮かれた気持ちを押しこめて家まで帰った。

 家に駆け込むなり、食堂のテーブルを机代わりにして家計簿をつけている母の元に駆け寄って「みてみて」とランドセルをおろして、答案用紙を取り出すと胸を張って母に差し出した。

「ナッちゃん、すごいわ」

 答案用紙を見た母の顔は、ぱあっと花が満開になったように綻んで、その母の笑顔を見ただけで、誇らしいようなそんな気持ちがこみあげて、早く涼介にも見せたくなった。

「よく頑張ったね。今日のおやつはドーナツだから早く手を洗ってらっしゃい」

 ドーナツ、その単語を聞いて、心に羽が生えたみたいに気持ちが浮上して、洗面所までかけて行き、大急ぎで手を洗い、うがいをした。

 ――もう、病気なんてしない。

 算数だって遅れてしまうし、ママにも心配かけるから。


 おやつの母お手製のドーナツを頬張り、牛乳を飲む間も、涼介にこの答案用紙を見せたくて、まだ学校終わらないのかなと気持ちが急いてドーナツが喉につまり、胸をトントン叩くと母が「ゆっくり食べなさい」と笑いながら言った。

 ドーナツを食べ終えても涼介は帰ってこなくて、食堂のテーブルで家計簿をつける続きに取り掛かった母を横目に見ながら、ランドセルから漢字のドリルを取り出した。

 今日は、帰りが遅いのかな?

 この点数見たら、ママみたいに褒めてくれるかな?

 いつ玄関の引き戸が開くのか、そわそわと落ち着かない。

 ガラガラと玄関の引き戸が開く音がして、「ただいまー」という涼介の間延びしたような帰宅を告げる声がして大慌てで母に見せた後に、テーブルの上に置いたままにしておいた答案用紙をひっつかんで、玄関まで小走りに駆けて行った。

「おかえりなさい!」

「おお、ナッちゃん、今日はずいぶん威勢がいいな」

 まるで子犬が走って来たみたいだったよと言葉を添え、眼鏡の奥の目が、にっこりと笑っている。

 ふん、と鼻息荒く「これ見て」答案用紙を差し出した。

 きっと、この時の私は鼻の穴が膨らんでいたと思う。

「へえ、百点か、頑張ったね」

 髪をくしゃっと大きな手で撫でられ、だらしなく頬が緩んだ。

「よく頑張ったから、ご褒美にお菓子でも買ってあげるよ。散歩がてら出かけようか」

「でも、星野さんは今帰って来たばかりでしょ?」

「構わないよ、ナッちゃんと散歩するのも楽しそうだ」

 行く!即座に答えると、ママに言っておいでと、くすっと笑われた。


 奈津が暮らしているのは、東京のど真ん中なのに、戦火を免れた戦前からの建物がまだ残っている。

 樋口一葉ゆかりの地としても有名で、今はもう一葉が生活した家は残っていないのに休日にはカメラを片手にした観光客も珍しくない。

 人がすれ違うのもやっとという狭い路地を縦に並んで歩く。

 前を歩く人の背中が大きいなあと思う。

 母とも伯母とも違う背中――父ともこうやって歩いたことを思い出した。

「この辺りはさ、古い建物が残っていて、凄いよなあ……」

 樋口一葉が通ったという、旧伊勢屋質店の古い木造の建物と土蔵を見ながら涼介が感慨深げに言った。

「そうかな?ピカピカの新しいマンションの方がすごいじゃん」

「ピカピカのマンションも凄いけどさ、古い建物にはそこに住んでいた人たちの息遣いが感じられるんだよ」

 言われても、なんだかよく判らずに首を捻った。

 ここなんて、今はお札に描かれているくらい偉くなった樋口一葉が、まだ作家として食べていけなかった頃に通ったんだよ、と力説されても、奈津にはピンとこない。

「そっか、まだ『たけくらべ』も習ってない時期か」

 失敗した、とでも言うように首を傾けて苦笑いする顔を見て、自分はまだ全然物を知らない子供なのだと言われたようで、気持ちが萎みそうになった。

「ナッちゃんの家もさ、お祖父さんが建てた古い家だよね?」

「そうだけど……」

「縁側の柱にナッちゃんのお父さんが小さかった頃の背丈が刻まれていたりして、今はもう会えない人にも、会えるようなそんな気がしない?」

「する!パパにもこんな小さな頃があったんだーって思う」

 縁側の右の柱には父の背丈が刻まれていて、左の柱には奈津の背丈が一年ごとに刻まれている。

 あの大きかった父が、小さい頃、奈津と同じように背中に柱をつけて、祖母に背丈の記録をつけていて貰っていた、そんな想像が容易にできた。

「そうそう。そういうのは、今のマンションの部屋じゃ難しいからね。それに、縁側の廊下も飴色で、ナッちゃんがいつも雑巾がけしているからピカピカで、そういう所も僕は好きなんだ」

 いつも頑張って雑巾がけしているから、それを認めて貰ったことがたまらなく嬉しい。

「僕は、これからこういう古い建物の研究をするんだ」

 語るその人の眼鏡の奥の目がきらきらと希望に満ちているかのように見えた。

 そうすると、いつもそこにあり、見慣れている景色の筈なのに、それ自体が光を放っているようで、奈津にとっても特別なものに感じられた。

 手押しのポンプも、古い木造の建物も、古びていて、ただそこにあるものだったのに、特別なものに変わっていった。

「あ、猫だ」

 ふと見ると、道路の横で猫が気持ちよさそうに寝ていた。

「ほんとだ、可愛いなあ」

 涼介も猫を見つけると、笑みを浮かべてそろそろと猫に近付いて行く。

 目を覚ました猫が、動かずにずっと様子を窺っているのを見て、涼介が手を伸ばして抱き上げると、「ニャーッ」と猫は嫌がって涼介の顔を引っ掻いて逃げていった。

「痛てえ……」

 涼介が情けない顔をして顔をこするから、見せてと言って顔を見る。

「血が少し出てるよ」

「これくらい、かすり傷だから大丈夫だよ」

 そう?問い返すのと同時に「星野君?」と綺麗な女性が声をかけてきた。

「あ、岩田さん。どうしてここにいるの?」

「この近くに住んでいるから、それより、その顔どうしたの?」

 猫に引っかかれたんだよ、ドジねー、笑い合い会話する二人の間には奈津には入り込めない親密な空気があった。

「絆創膏持ってるから貼ってあげる」

「いいよ、たいした傷じゃないし」

「ばい菌でも入ったら大変だよ」

そう言うと、岩田は持っていたバッグの中をゴソゴソと探り、絆創膏を出して、涼介に「ちょっと屈んで」と言うと、頬に絆創膏を貼った。

 ――やだ、触らないで。

 なんだか判らない、胸にむかむかとした感情がこみ上げてきた。

「妹さん?」

 奈津をちらりと見て、岩田が涼介に問いかけた。

「違うよ、下宿のお嬢さん」

「そうよね、たしか星野君の実家は北海道だったものね。おまけに妹さんにしても年が離れすぎているし」

 ナッちゃん、この人は大学で同じ学科の岩田さんだよと、その女性を紹介する。

 岩田の奈津を見下ろす目、口角をあげて微笑む口元が優越感を覚えているかのように見えて、胸のむかむかが酷くなってくる。

 憶えている限り、初めてどす黒い感情の芽生えに自分自身が一番戸惑った。

 それが「嫉妬」という言葉なのだと、気付いたのはもっと後のことで、この後、何回も味わうことになるなんて、この時は知らなかった。

 ――早く大人になりたい。

 樋口一葉の話にも、古い建物の話にもついていけるようになって、このお姉さんみたいに綺麗にお化粧して……この人と対等になりたい。


 知らない女性に彼の顔を触られたことにはムカついたけど、絆創膏が貼られた顔は、同級生の男の子みたいに見えて、ちょっとだけ可愛いと思った。


 その日の夕ご飯、涼介だけはおかずが一品多かった。

 どうして星野君だけおかずが多いのかと、不満顔の他の下宿人に「ナッちゃんの家庭教師代のかわりよ」と母は文句を笑顔で封じ込めた。

 奈津に勉強を教えると、おかずが一品増える――下宿人の間で認識され、奈津は無料の家庭教師を確保することができ、それがこの後、大いに役立つことになった。


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