第2話その2
彼らは今から40年ほど前にアメリカの一般的な家庭で生まれた。兄の名はコルプス・フロル、弟の名はメンス・フロルと言った。
利発な子供であった彼らに期待を寄せた両親は、様々な分野の本を買い与えていた。その中でも彼らは特に興味を示したものは、人体に関する本だった。将来は研究者だ、と喜ぶ両親はその2人の目が尋常でない事に終ぞ気付く事が出来なかった。
彼らが初めて異常な行動を起こしたのは中学生の時の事だ。古典から新書まで人体に関する書物を読み漁り、学者にも劣らぬ知識を蓄えた彼らは実物を見たいと思うようになっていた。そして彼らは綿密な計画を立て実行に移した。浮浪者を拉致し、解剖を行ったのだ。写真からは得られぬ本当の臭い、感触、色、味を知った彼らはその魅力に感動し涙し興奮した。その興奮っぷりは普段寡黙な彼らが両親に「今日世界で一番綺麗なものを見た」と捲し立てるように話してしまうほどだった。その興奮を原動力に彼らはそれまで以上に勉学に励み、中高大を2人とも首席で卒業すると言う偉業を成し遂げ、予てからの目標であった国立の研究所に就職した。
彼らはそこで遺伝子調整人部門に配属される事となる。遺伝子調整の際に生じる先天的障害のリスクの軽減など、メキメキと頭角を現していき彼らは若くしてユニットリーダーに抜擢されていた。その上人当たりもよく、端正な顔立ちであった彼らは男女のどちらからも人気があった。しかしその順風満帆場な生活とは裏腹に、彼らは常に何かが違うと感じていた。それを知ったのは、アウターの報道を偶然テレビで目にした時だった。醜悪な化け物になってしまった人間を見て彼らは絶頂し、声高に叫んだ。アウターを制御出来れば人はより生物として進化出来る、と。呆然とする周囲の目など見えないかのように、彼らはその有用性を示すための論文に取り掛かり始めた。しかしすぐに頓挫してしまう。アウターを直に見た事がないからだ。そのため彼らは遺伝子調整人のメンテナンスを行うと言う名目で最前線基地へと赴いた。
一日に何度も搬送されてくる負傷兵。遺伝子調整兵士も義体兵士も普通の兵士も関係なかった。そしてKIA。時にはアウターとなっていたと言う報告も聞いた。だからこそ彼らは思いをより強くした。化け物に負けてはいけない、化け物などになってはいけない。
メンテナンスの傍ら、彼らは遺伝子調整兵士と義体兵士に次ぐ強化兵士の計画案を纏め、計画書を作成していった。数カ月後に国連本部に提出された計画書は大きな議論となった。それまでの強化兵士計画以上に人の尊厳を貶しめる内容だったのだ。AIの間でさえ意見が割れ、喧々諤々の議会が続き結論を出すまでに相当な時間を費やしたが、最終的には承認される事となった。
この計画には2つの目標があり、コルプスとメンスのそれぞれがリーダーを務め、並行して進行していった。現場での混乱や批判による計画の頓挫を避けるために、計画は厳重な警戒の下極秘裏に行われた。コルプスの計画は比較的早い段階で成功し、実験部隊が実戦投入されている。部隊は非公式であるため公式な戦果は存在しないのだが、少なくとも軍の幹部達が満足する成果は上がっていた。これに気を良くした幹部は、メンスの計画も成功させるために予算を大幅に引き上げ人員確保にも積極的に協力していった。この計画も成功すれば戦争の終結も可能だと考え、更には戦後の己や国の立場に思考を巡らせていた。しかしそうはならなかった。それどころか自らの命さえ失ってしまったのだから。
何が起きたのか、現在でも分かっていない。計画は極秘裏に進められており外部には何も記録がなく、チームで取っていた記録も全てサルベージ不可能となるほど物理的にも電子的にも徹底的に破壊されてしまったのだ。分かっている事はメンスが逃亡し、今も行方を晦ませていると言う事だけだ。軍は彼を反逆罪として指名手配している。一方の兄であるコルプスは口外させないため事件の後すぐに投獄され、今も冷たい空間を満喫していた。
*
「何故こんな所に?」
「そりゃ実験しかないでしょ。彼がどんな実験を行っていたのか、軍が全力で隠蔽してるから詳しい事は分からないけど、その実験で事故を起こしたのは確実。恐らく彼は失敗した実験を成功させたいんだろう。ところで……」
アクセルは少年とセオの会話の一部を聞いていた。だからセオが件の人物に心当たりがある素振りを見せていた事について尋ねようとした。が、彼もメンスがどんな人物は聞き及んでおり、それと関係があるとしたらどんな関係性なのか想像が自然と出来た。
「その少年はどうするつもり?」
だから何も聞かない事にした。必要があれば人のトラウマだろうとコンプレックスだろうと、一切の躊躇いなく抉るが好き好んでいる訳ではないのだ。
「相当複雑になっているスラム街を歩くには、案内が必要でしょう」
「確かに人海戦術が通じる所じゃないからね。動けるメンツを招集するから待っててくれ」
そう告げるとアクセルはエレベーターへと向かった。
「……俺殲滅課の人ってもっとおっかない人だって思ってた」
「概ねその認識で正しいな。殲滅課ってのは、戦争が終わって食いっぱぐれた奴らのための最後の受け皿だ。オレだってその1人だ。今回は偶々さ。偶然あの男が関わっていたからだ」
「でも俺の話を聞いてくれたじゃないか。警察は浮浪者の言う事だからって、まともに取り合ってくれなかった。俺達だって好きで身を堕とした訳じゃないのに! 兵隊さんを助けるのは分かるよ! でも俺達にも手を差し伸べてくれたっていいじゃないか! 戦争は終わったのに何も変わらないんだ……」
切実な叫びだった。ただ助けてくれと言う叫びが、心を抉る。だが個人の胸に響いても、国は動かない。否、動けないのだ。
通常国家間で戦争が起これば、戦勝国は敗戦国から金を引き出しそれを基に荒れた国内を整えていく。しかしアウターとの戦争には戦勝国も敗戦国もないのだ。費やされた費用は一銭も戻らず、疲弊したまま国は自国の立て直しを行わなければならない。故に優先順位を付けなければまともに復興が出来ないのだ。インフラの復興と帰還兵への補償を優先し、難民や孤児達は後回し。個人による炊き出しやボランティア団体の健康診断などが行われているが、根本的な解決にはならないし、金銭的な事情も出て来る。だが、だからと言って心身共に傷付いた帰還兵を放置して対応、となれば困窮者が変わるだけだ。
この問題に正解はない。何かに肩入れをすれば何かが割を食う。
だが、それでも子供だけは幸せに暮らしてほしいと願うのは、まともな生活を送っている者の傲慢な思いなのだろうか。
*
薄暗く、淀んだ空気が充満する地下の空間。ネズミとゴキブリが行き交い、使用されず得体の知れない液体が垂れ流しになり腐った下水。普段は光と侮蔑の眼差しから逃げる者しかない掃き溜めに、場違いな機材と男がいた。拘束具の付いた寝台や心拍数を計るようなものなど、こんな汚れた場所には不釣り合いなものだった。
男達はきちんとした服を着ていた。だがその顔にはおよそ品性と呼ばれる物がなかった。彼らは兵隊崩れだ。戦中に食い扶持を稼ぐために入隊し、特筆するような技術も持たないため終戦と共に僅かな退役金を渡され除隊させられていた。身形こそきちんとしているが、汚穢に満ちたこの空間が最も似合う存在だ。
そんな粗暴な連中しかいないなか、ある男だけは雰囲気が全く異なっていた。きちっと折り目の付いた黒のスーツを着こなし、整髪料で整えられた白髪交じりの髪は後ろへと流されている。荒みきった目をした兵隊崩れとは違い、理知的な光を宿していた。そしてそれ以上に純粋な子供のような好奇心が見て取れた。何が楽しいのか、ニコニコと朗らかな笑みを浮かべていた。
メンス・コルプス。何もかもが場違いな男だった。
「うん? 何だか騒がしいねぇ。どうしたんだい?」
下水の脇にある側道の奥から男女の言い争う声が聞こえて来た。女声は高くまだ10代のものだった。間もなく浮浪者と思われる集団をライフルで武装した男達が連れて来た。浮浪者達は垢で汚れた顔でも分かるほど青くなっていた。
「どうしたんだい、そんな女の子相手に怒鳴ったりなんかしちゃって」
「このガキが兄貴を逃がしちまったんですよ。逃げた方も振り返りもせずにあっと言う間に逃げちまいまして」
「ほう、それはまたどうしてだい? 普通は妹や女の子が逃げると思うんだけど」
「え、さあ? 兄貴が尻に敷かれてたんじゃないっすか?」
「……君は実にバカだねぇ。それらしい理由も思い付かないなら発言しない方がいい。自分がバカだって言い触らしてるようなもんだ。僕はね別にバカは嫌いじゃないんだ。僕は才能の有無に限らず必死に生きようとする人間は大好きだけど、君のように思考を忘れてしまったようなバカは反吐が出るほど嫌いなんだ。自分のバカをそんなに宣伝しないでくれ」
内心で愚痴りながらの発言をスーツの男は嗤うでもなく、只管に見下していた。笑みは姿を隠し、ゴミを見るような目付きに男の心に寒いものが走った。
「で、正解は何かな?」
「……兄貴の方がここの道も覚えてるし、体力だってある。助けを呼べるかもしれない」
「そのまま逃げちゃうって事は?」
その言葉に侮蔑の響きはなく、まるで子供が親にふとした疑問を訊ねているようだった。だが誘拐され、武装した男達に囲まれた少女の不安を煽るには十分だった。泣き出したっておかしくはない。しかしその少女は泣かず喚かず、強い意志の籠もった声で言い返した。
「生まれてからずっと一緒なんだ。どんな性格かなんて嫌ってほど知ってる! だから逃がしたんだ! だからあんたらなんて怖くない!」
「このガキっ」
こんな事に加担している者に相応しい器しか持たない男は、少女の言葉にいとも容易く激昂し、ライフルのストック打ち付けしようとした。男の仲間達は下卑た笑みを浮かべながら眺め、浮浪者達は自分に火の粉が掛からないようにと身を縮こまらせるだけ。
小柄な少女に当たれば無事では済まない。退役したとは言え、元軍人の男に殴られれば怪我は免れない上に一撃で終わらない可能性さえあった。こうした手合いは非力な存在を嬲る事でちゃちなプライドを満たすのだ。
死の恐怖が少女の心身を雁字搦めにし、逃げる事も軽率な発言を後悔する事さえも出来なかった。間もなく訪れる凄惨な場面に男達は期待し、浮浪者達は恐怖した。振り上げられたストックが、それなりの力で振り下ろされた。
「君さぁ、何をしてるのかな?」
その一撃を止めたのは、メンスであった。全力でないとは言え、自分の一撃をただの科学者に止められた事に口を開け間抜けな顔で驚いていた。そしてすぐにその表情は怪訝なものになった。鷲掴みにされているライフルが動かないのだ。
「な・に・を・し・て・い・る・の・か、と聞いてるんだけど。僕は脳みそをどこかに置いて来たようなバカ相手に時間を無駄にしたくないんだ」
「あ、えっと、このガキを殴ろうかと」
男は言葉を言い切れなかった。メンスの拳が顎を撃ち抜いたからだ。白目になり呆けなく倒れた。
「何故こんな年若くも助かるために兄を逃がすなんて発想の出来る素晴らしい子を、君のような生きている価値のないクズが殴ろうとするんだね? もし死んでしまったらどうする気だったのかな? 重大な損失だよ。未来の担うのはこう言う勇敢で優秀な子供なんだから。ここに連れて来たのだって乱暴するためでも殺すためでもないんだ。より優秀になってもらうためなんだから。そこをきちんと理解してほしいな。君達のようなバカに求められるのは、雇い主の言う事に素直に従う事と勝手な行動をしない事。それとも小学生に言うように伝えなきゃ理解出来ないかね?」
男達はメンスから形容の出来ない恐怖を感じていた。ただの老けた科学者だと思っていたし、浮浪者のような死んでも問題ない者を集めさせた時点で、人を殺す事に躊躇しない種類の人間だと認識していた。だが全く違った。メンスは少女が未来を担うべき存在だと言った。言葉自体は理解出来る。だが誘拐した少女に対して言う言葉なのか。あまりに矛盾した行動と言動。だが、口先だけの言葉ではない。彼は自分の実験が彼女のためになると本気で思っているのだ。
「分かったかね?」
「わ、分かりました」
「それはよかった。しかしこれだけ大人が雁首を揃えていると言うのに、誰一人としてそこの少女を助けようとしなかったのは一体全体どう言う事かね? 卑しい生活を続けていると精神まで卑しくなる? そんな事はない。現にそこの少女は自らが残り助けを呼ばせに兄を逃がすと言う、強かな精神を持っている。つまり君達は生まれながらにして卑しい精神の持ち主だったと言う訳だ。んー面倒が起きなために君達みたいなのを集めたんだが、この少女に会えた事以外は失敗だったかなおっとそうだ。君の名前を是非教えてもらいたいんだ。あ、嫌なら構わないよ。嫌がる事を強制するつもりはないから」
少女に向ける態度だけが異なっていた。眼差しには欣欣然と尊敬の光が満ち、命令出来る立場にいないような気遣い。モノクロとカラーとにはっきりと分かれていた。極端な態度に全員が息を呑んだ。
「……アキラ・オーリック」
「僕はメンス・フロル。科学者だよ。一応アウター関連では第一人者だと自負してるよ」
その言葉に空間が凍り付いた。男達はメンスが何者であるか知らなかった。十分な報酬を出すと言われ、名前さえ確認しなかったのだ。尤も確認したとしても思い至らない可能性の方が高いのだが。
「アウターって……父さんが戦ってた敵……」
「そう地球の総人口を10億にまで減らし、幾多の国を消滅させ、人類を絶望の淵に叩き込んだ憎き怨敵。人類は奴らに勝つために道徳と倫理観を捨て去り、人間を改造し続けた。でも勝てない。まだ勝てない。僕は憤慨した。あんな奴らに負けてなるものかと。だからあいつらを食った。食って我が物にしようとした。我が兄の計画は実を結び、戦果を挙げた。だが残念ながら僕の計画は失敗に終わり、しかも終戦してしまった。でも諦めてなるものか、僕は絶対に成功させる。こいつらは人類を変える事が出来るんだ。アキラ君のような人間をさらに優秀に出来るんだ!」
天を仰ぎ神に宣告するように叫ぶメンス。誰もが呑まれていく。疑問を持つ事さえ出来なかった。
「でも、アウターは全滅したって」
そんな中メンスに圧倒されながらも当たり前の疑問を口に出せたアキラは、彼の評した通り強かな精神を持っていた。
「誰もそんな事は言っていないんだ。ただ勝っただけだと。口伝では尾鰭が付いてしまう。だから僕が今ここで真実を話そう! アウターは全滅などしていない! 今も生きているのさ!」