第1話その6
都市の外は昼間の銀世界とは打って変わった灰色の世界だった。灯りなどどこにもなく、ヘリの外はゾッとするほどの暗闇に包まれていた。ライトに照らされた地表は粉雪でも舞っているのか霞んで見えていた。
生命に凶悪な牙を向くこの世界で、身一つで生きられずとも後付けの力で生きていける人類は脆弱なのか強靭なのか。
バイザーに表示されている目的地までの距離は営々と減り続けている。50kmを切ったところだ。
機体を掌握したフロネシスにより、カメラやセンサーなどでアイスィの探査を行っているが今のところ補足出来ていなかった。花の発見地点に向かっていると言う前提で動いているが、もしその予想が外れていたとしたらアイスィを見つける事は不可能となる。ヘリの探査範囲などこの広大過ぎる大地に比べたら、点のようなものでしかないのだ。
距離が10kmを切った。アイスィはまだ見つからない。フロネシスもセオも口を開かなかった。両者とも酷く焦っていた。既に何度も言っているが、殲滅課に失敗は許されない。過程は無価値、結果こそ全て。
だから、と言う訳ではないが、その数分後にアイスィの補足に成功した時に2人が歓声を上げてしまった事は無理からぬ事だろう。そして無線をオンにしていたイオンが、2人の声に体をビクつかせた事も仕方の無い事だろう。
「おっとすまん。アイスィの補足に成功した。不意を打たれた時のために、お前は中で待機しててくれ」
『分かりました』
ライトで照らされた時点で逃走を諦めたのか、アイスィは降下して来るヘリを見つめたまま動かなかった。後部ハッチを向け着地。セオはSWHを手に取り、開かれたハッチから降りた。
その胸元には嬰児のように抱かれたガラスケースがあった。その中には純白の花。不釣り合いでありながら、絵画のように見えた。
「フローネ、周波数を合わせてくれ。……聞こえるか?」
『ええ、聞こえます。殲滅課の方々ですね』
「そう言うそちらはアイスィだな?」
『フローネ、確認してくれ』
『そうです、私はトルフの管理AIアイスィです』
『OK、シグナル全部一致したわ。偽装もなし』
「罪状は言うまでもないな。御同行願おうか」
『もちろんです。しかしこの花を帰す事だけはやらせて下さい』
凡百のAIと変わらぬ抑揚のない声。しかしその声にはどこか、色のようなものがあった。感情がないのではなく、感情表現の仕方が分からないだけの人のようだった。イオンと似ている、とセオは思った。
「なぜその花に固執する? まさかアーロン氏の唱えた仮説と言うのは本当なのか?」
『ええ、彼が言った事は本当の事です。彼女は電波のようなものを用いてコミュニケーションを取っています。彼女の種に限定したものではなく、この惑星の固有種の特性なのかもしれません。貴方が仰った都市の外で四足種を見たと言うのも、恐らく彼女の助けを聞いたのでしょう』
周囲に目を走らせてみると、遠方の方に複数の生体反応が確認出来た。原生生物だろう。囚われの姫を助けに来た騎士と言った所か。
「そして彼女の助けを聞いたお前はどうにかして研究を中止させようとしたのか」
『そうです。何かおかしいですか? 何故ただ平穏に生きていた彼女が、人間と言う何の関係もない存在に殺されなければならないのですか? 確かに人間は長い歴史の中で、己の生存のために多くの動植物の命を奪っています。それは生存と言う至上の目的のための正しい手段です。しかし彼女は違う。彼女は人間の生存競争に関わっている存在ではない。その彼女の命を研究のためだけに奪うと言う行為は、冒涜に等しい行為だ。何様のつもりだ、お前たちは』
アイスィの言葉に込められている感情がはっきりと伝わって来る。とても有り触れたもの。怒り。大切な存在を奪おうとする者達への、激しい怒り。
「……そうだな。確かに何様だって言いたくなる。人は力を付け過ぎた。何でも思い通りのままに出来ると思っていた。だから滅亡の危機に瀕した」
自分達が解明出来ないものはない、プロメテウスの技術を得てそれをさらに独自に発展させた人類はそう驕っていた。未知への警戒心がなくなっていたのだ。
だが同時にその未知への探求心があったからこそ、人類は発展を続けて来た。アイスィの言葉はそれを全否定するものだったが、セオはそれを正す気はなかった。話しの流れから自分の意見を口にしているが、事件と何も関係ない上に今の言葉にはより重大な点があるからだ。
「話を戻そう。アイスィ、君の動機は理解した。しかし1つ言わせてほしい。君が言うな、と」
『何?』
突然の言葉への疑問。そして自らの言葉に絶対の自信でも持っていたのか、否定された事への不快感。
会話を進めていくたびに、アイスィの感情は豊かになっている。あまり良い状況だとは言えないが、上手くいけば思考の迷宮に陥れ、自己閉鎖モードに出来るかもしれない。
「君の言い分では、生存目的以外では命を奪ってはいけないそうだけど、では何故|アーロン・マクレーンを殺した?」
『先程言ったはずだ。彼女を殺そうとしたからだ』
同じ事を聞かれた事に対する苛立ち。それだけ。矛盾に気が付かない。合理性の塊であったはずの管理AIは、何があったのかと問い質したくなるほど愚かになっていた。
「舌の根も乾かぬ内に言った言葉を撤回するのか。お前は言ったはずだ、生存目的以外命を奪ってはいけない、と。アーロン氏はお前を殺そうとしたのか?」
鋼鉄の扉に閉ざされ、鋼鉄の番人に守られるAIを殺せるはずがない。
長年仕事や苦楽を共にし、仲間だと言える存在を殺そうとするはずがない。
『ちが……!』
自分への殺意を否定しようとして、ようやく矛盾に気が付く。自分が彼女のためにアーロンを殺害した事に。目を逸らしていたのか本当に気が付かなかったのかは定かではないが、今セオによりその事実がアイスィに突き付けられた。
—生命を自然の摂理以外が奪う事は許されない。だから彼女を助けた、だからアーロンを殺した。では何故生命を奪う事は許されない事なのに私はアーロンを殺したのだ。それは彼が彼女を殺そうとしたからでだから私は彼を殺して彼女を助けようとして生命を奪う事は許されない事でだから彼女を殺そうとした彼を殺して殺して殺して殺して殺殺殺殺殺殺殺殺殺――――。ワ タ シ ハ カ レ ヲ コ ロ シ タ―
アイスィが突然ガタガタと激しく震え出した。アンドロイドに乗り込んだAIが思考の迷宮に陥った時の反応と言うのを、セオは今まで見た事がなかった。そしてあまり見たいものではなかった。
本来AIは思考の袋小路に至る事などない。それは矛盾を矛盾と理解し、答がない事を知っているから。だからどのAIも矛盾した質問をされれば、「それは矛盾しています」と言ってさっさと打ち切ってしまう。だが同時にAIと言うのは質問に答えられない事を良しとしない。管理AIであれば世間一般の意見などを言い、A級であればそれを踏まえつつ自論も披露する。
アイスィは自分を正常だと認識していた。だから自らの動機に矛盾がないと思い込んでいた。本当に正常であったならば、セオに問われずとも自らの言葉の矛盾に気が付いたはずだ。……いや、そもそも正常であったならば人を殺そうなどとは思わなかっただろう。
自分を正常だと認識していた彼は矛盾を突き付けられてもそれが矛盾だと認識する事が出来ず、あるはずのない答を探し出した。やがて思考はループを始め、AIは崩壊していく。自己閉鎖モードとは崩壊を防ぐための機能で、クリーニングするまで再起動する事はない。
体の震えが不意に止まる。自己閉鎖モードに移行したのだろう。
震えていた間もずっと抱えていたケースが、氷の大地に落ちる。ただそれだけなのに、恋人の悲劇的な別れの瞬間を見てしまった時の、胸にしこりが残るような感覚を覚えた。
『機能停止を確認。自己閉鎖モードに移行したわ』
「そうか。……お前がアーロン氏を殺害したのはもっと簡単な理由だったんじゃないか?」
少し俯き、ピクリとも動かないアイスィに言う。長年仕事を共にして来た仲間を殺してしまうほどの、そしてとても有り触れた理由。
「その花を『彼女』事を愛していたんだろう。だから守ろうとした」
彼にとって花は慈しみの対象でも嬰児でもなく、愛しさを感じる想い人だったのだ。
AIが「愛」などと言う人にとって当たり前の感情を理解出来るはずがなかった。だがもし凶行に及ぶ前に、自分の感情に気付いていたならこうはならなかったのだろうか。
そんな考えがチラリと脳裏を過ったが、すぐに意識して打ち消した。悲劇の後のifはいつでだって虚しいだけなのだ。
ケースを拾い上げる。この花は自分を外に連れ出した存在をどう思っているのだろうか。救ってくれた白馬の王子か、それとも理解出来ない異形の存在か。セオはせめて助けてくれた事に感謝の念ぐらいは抱いていて欲しいと思った。例えそれが何の意味も持たない願望だとしても。
『その花はどうするの?』
「研究所に返そうと思う」
『それはどうして?』
「オレがアーロン氏の方に肩入れしてるからだ。志半ばで殺されて、部下までもそれを達成出来ないってのはあんまりだと思うからな」
『その花が助けてって言っても?』
ケースを眼前に掲げる。確かに今まで目にした事のない美しさを放っている。研究所で見た時とは違い、間近で見る事でそれがさらに分かった。これがストレスで枯れていく様を見るのは辛いものがあるだろう。
ケースを揺らす。ケースの内側にぶつかり、幽かな音を立てる。ただそれだけ。止めてくれ、とも、ここから出してくれ、とも何も聞こえない。
「生憎とオレには何も聞こえないな。聞き取れない奴の言葉を理由にするのは無理だ。聞こえるか?」
『確かに微弱なシグナルのようなものは感知出来るわ。ただ類似例はないし翻訳アルゴリズムもないし、何も聞こえないわ。何でB級のアイスィが聞き取れたのか甚だ疑問だわ。リミッターにしろこの事にしろ、綿密な調査が必要ね』
アイスィを抱え上げようとしたが、機能停止に伴いAERASの関節が全てロックされていたため出来なかった。イオンに声を掛け、ケースを持っててもらう事にした。
「セオさん」
「どうした?」
背後から脇の下に手を通し、引き摺りながら運ぼうとしていた彼にイオンが声を掛けた。
「愛って何ですか?」
全く予想していなかった彼女の質問に、思わず手が滑る。姿は見えないが、フロネシスも目を丸くしていた。
「私はラボにいた時、絶対に人殺しはダメだって言われて来ました。戦っている時は死なないために人を殺しました。アイスィが抱いた愛と言うのは人を殺してしまうようなものなんですか?」
その質問にセオは少し待てと伝え、アイスィを機内に持ち込み床に横たわらせる。
「愛に限らず、感情ってのは強弱によって多彩な面を見せる。その中でも愛ってのはそれがより顕著な部類だ。きちんと周囲が見えているなら、世界が踊ってるように見えるらしい。逆に相手しか見えなくなってしまうと、世界が憎くなってくる。アイスィはまさにその状態だったわけだ」
「何故です?」
「もしその想い人に不幸が訪れた時、相手自身に原因があれば普通はそれを改善させようとする。だが強くなり過ぎた奴は、その場合であっても世界が周りが悪い、と思う。そして世界を変えるために、平気で周囲を傷付ける。恋は盲目って言葉は、よく捉えた言葉だ」
「愛と言うのは悪いものなのですか?」
その質問が彼女の口から出たのは、至極当然の流れだろう。予想して然るべき事だが、セオはメットの内側で困り顔になる答えに窮していた。分からないからだ。15の時に志願と言う名の強制懲役を受け、青春の全てを戦争に捧げた。死を見過ぎた彼は、特別な存在を作る事を止めた。大切な存在は自分にとって大切なだけで、世界にとってはそうではない。世界は不公平だ、と言う者がいたがセオは逆だ、と冷めた目で見ていた。見も知らぬ者達と同じように等しく死が与えられる。ならば作れば辛いだけ。
だから彼は愛する者がいた仲間の事を話す事にした。
「それは全く違う。これはオレの昔の仲間の事なんだが、女性の部隊長に惚れててな。相手には全く気がないのに、何度も交際を申し込んでた。それに根負けしたのか惚れたのか、OKしたんだ。それからはあっという間に相思相愛。周囲の目を気にしてんだかしてないんだか分からなかったな」
同じ日の内に複数回アタックした事もあったな、と彼は少し懐かしく思った。妬みや僻みの声も上がったが、本気で言っている者は1人もいなかった。何故だったかと考えてみるが、すぐに思い至る。2人を見ていると、見ている側も気持ちが弾んでいたのだ。
愛と言うものは、当然一方通行では成立しない。かと言ってお互いに通じ合っていれば周囲などどうでもいい、と言う訳でもない。
「……良いものは見てる側も幸せにしてくれる。愛ってのはそう言うもんだと、あの人達を見て思った」
彼の言葉をイオンは自分なりに理解しようとしているようで、地面に視線を向けたまま沈黙していた。1分ほど経ちようやく顔を上げた彼女は、ポツリと呟いた。
「……よく分かりません」
「だろうな。取り敢えず分かっておいて欲しいのは、愛は悪い感情なんかじゃないって事だ」
「……アイスィの愛は悪いものだったんですか?」
ハッチの方へと歩きながら彼女は問うた。
「あいつの言葉を聞いてイオンはどう思った?」
愛する者さえ無事ならば他はどうでもいい。聞く者によって胸に去来する思いは様々だろう。一途だと言う者もいれば、狂っていると恐れる者、咎める者と千差万別だ。
アイスィの言動を全て思い出していくと、彼女の胸中に湧き上がった感情は不快感だった。独善的な行為を繰り返す彼の姿は、嘗て自分を所有していた者達の下卑た笑い声や、自分達が世界の中心であるかのような振る舞いを思い出させた。
花の声が聞こえない彼女からすれば、アイスィは周囲の迷惑も考えずにただ自分のやりたい事だけをやっている自分勝手な存在にしか思えなかったのだ。もしかしたら花は助けを求めていなかったかもしれない。
自分だけが良ければ良い、と言う考え方は自分が世間と隔絶しても生きていけると勘違いしているものの考え方だ。誰とも関わり合いを持たずに生きていく事など不可能な事。それを正しく実践すれば待っているのは「死」だけ。
彼女はその事まで理解した訳ではないが、少なくとも自分本位な考え方に不快感を覚えたのは確かな事で、同じ存在にはなりたくないと強く思っていた。
「……イヤな考え方だと思いました」
「どんな思考を経てそれに至ったのか、きちんと覚えておくんだ。それはお前だけの意見なんだからな。さあ街に帰るぞ。渋滞が解消されてるといいんだが」
コックピットに入りローターの回転数を上げていく。雪を散らしながらゆっくりと上昇を開始。
飛び去ろうとする機体を原生生物が追おうとするが、すぐに引き離されていく。彼らの耳に聞こえていた、助けを求める悲痛な叫び声はやがて風に掻き消されたように聞こえなくなった。
*
『さてと、何で私が怒ってるかは分かってるわよね?』
花を研究所に届け、徒歩でホテルに疲労困憊で帰宅したセオを待っていたのは、フロネシスによるお説教だった。大の男がベッドの上で正座させられ、立体映像のAIに説教されている光景はかなりシュールなものだった。
『貴方がイオンの見本にならなきゃいけないのに、貴方が命を軽視するような指示を出しちゃダメでしょ!』
彼女が憤慨しているのはリニア内外の追跡劇で、民間人が犠牲になってしまう可能性のあった指示を出した事だ。トラウマにより指示に反抗すると言う事が出来ない彼女は、セオだけでなく誰に言われたとしても殺人を躊躇なく実行するだろう。しかし「殺人は悪い事」と言う事を刷り込まれた彼女はその度に精神への負担を強いられているのだ。だからこそ周りの人間がそれを踏まえた上で接していかなくてはならないのだ。
セオの指示はそう言った観点から見ても出してはいけないものだった。
「すまない、確かに軽率な指示だった」
『イオンの事を抜いたとしても殲滅課として問題ありよ。貴方がただの職員だったらこうも煩くは言わないけど、今はイオンの保護者なのよ? 何故人殺しがいけないのか説明出来なきゃいけない立場でしょ! と言う訳で、はい』
差し出された彼女の掌からリストが浮かび上がる。顔を寄せてみると、それが本のタイトルだと分かる。ざっと見ただけでも30以上のタイトルが並んでいた。
「これは? 似たタイトルが多いな」
『ここ10年小中学校の道徳の授業で使われた、生と死が題材のもののテキストデータよ。全部読んで』
長過ぎた戦争は人の命に関する価値観を狂わせるには十分過ぎた。護るために戦場に身を投じたのに、死が当たり前になりいつしか誰が死んでも涙を流さなくなった。重症化し感情自体が希薄となり機械のようになってしまう者もいた。社会復帰支援センターにいる患者の中でも特に治療の難度が高い部類だった。
しかしより厄介なのは軽症者―比較すればの話だが―の存在だ。治療自体は簡単な方ではあるが、彼らの場合は発見が困難なのだ。彼らには重傷者のような分かり易い変化がなく、日常会話も問題なく出来てしまうために本人も周囲も異常だと気付けないと言う事態が起きていた。度合いにもよるが、放置してしまった結果、家庭崩壊してしまうと言うケースもあった。
そのため社会復帰支援センターでは帰還兵に対して精神科での診察を呼び掛けているが、自分は大丈夫だと思い込んでいる者が多く、あまり成果は見られていなかった。
セオは軽症者の中でもかなりマシな部類だった。自分の価値観に異常があると自覚しているのだ。しかしそれでも緊急時には自分含め命を軽んじるような行動を取っていた。何も思わない訳ではないが、それでも躊躇なく指示を出し、自身も実行してしまうだろう。今それを指摘されるまではイオンに悪い影響を与えてしまうと言う事にも気付いていなかった。
このような仕事に就いていて何を、と思うかもしれないが、フロネシスはだからこそ命を尊さを分かっていて欲しかった。命を奪う事に何も感じなくなってしまったら、もう手遅れなのだ。そうなってしまってはもう幸せを望む事は出来ない。もう人が生きた証さえ残せずに死んでいく時代は終わったのだ
『私は貴方達に幸せになって欲しい。そのためには当たり前の事を思い出さなければいけない。だからこれで命の大切さを思い出して』
「……殲滅課のお母さんにそこまで言われちゃ、気合入れるしかないな」
『失礼ね、課の中じゃイオンと同じくらい若いわよ』
*
街の混乱は収束しつつあった。備えあれば憂いなしとでも言うのか、アイスィ不在でも交通機関や金融機関などを動かすための訓練が役に立っていた。今後代わりAIが来るのかまだ未定だが、統一連合からの使者が来るだろう。警察や公共機関や報道機関の人間に対して緘口令と言い訳をしに来るのだ。政府の人間はとにかく自分達へと矛先が向きかねない混乱を非常に嫌うものだ。
今回の事件はAIが自然に暴走した訳ではないが、それでもAIありきの状況に対し疑問の声が上がるはずだ。扱いに関する結論は簡単には出ないだろうが、規制に関して変更が出るかもしれない。しかしその結果がどうあれ民衆はそれまでと何ら変わりなく生活してくだろう。
彼らに限らず、管理級AIに感謝しながら生活している人などほとんどいない。人は誰かが目に見える形でサービスを提供すれば感謝の念を抱くが、目に見えないAI相手にはそれが当たり前と言う意識さえ抱かなくなる。だから何が自分達の生活を支えているのかをすぐに忘れてしまう。ましてや彼が同じ街の住人だと認識している者など、アーロン亡き今となっては皆無。
だが皮肉な事に、アイスィがいなくなって初めて街の人々は都市管理級AIの存在の大きさを知り、ようやく感謝の念を抱く。
しかしそれも僅かな間の事だ。1カ月もすればその状況に慣れ、AIの存在を再び忘れる。後任が来れば変わった事にさえ気が付かず、手際の良さを称えながら享受するだけ。彼らにとってAIの名などどうでもいい事なのだ。
確かに彼はこの街にいたはずなのに、まるで初めからいなかったかのよう。忘れ去られてすらいない。誰の記憶にも留まらない。2度と目覚める事のない彼がそれを憂いる事はない。だからこれはセオの自己満足でしかないが、愛に生きたAIがいたと言う事を覚えておく事にした。