第4話その6
一ヶ月掛かりました。待っていた人がいたらすいませんでした。
いなかったら? 知らんなあ……
粘り気の付いた墨汁の罠は見事に作動した。全員が建物内に入りシャッターを下ろすと、張り付けられていた糸にバケツが引っ張られ、落ちた。
AERASの性能は人を遥かに上回る。隠れている人間を探し出し、銃弾から装着者を防ぎ、数倍のパワーを発揮する。それゆえ、AERASがあれば対人の作戦を失敗する事はまずない、と言う認識が広まっていた。AERASを簡単に破壊するアウターとの戦いが、その認識を更に強固なものにしてしまったのだ。そしてAERASに対する信頼はいつかし己への自信に変貌していく。しかしそんなものは自信などではなく、ただの驕りでしかない。
だから気付けない。AERASならば気付けぬものはないと思っているから、至極単純な罠に気付けない。突然の衝撃と視界を塞ぐ何か。慌てて拭おうとするが、手にも付着しており汚れを広げてしまうだけだった。焦りが更なる焦りを生む。狭い視界の中で、何かが動く。次の瞬間、先程とは違う強い衝撃を感じる。バイザーには右前腕部にダメージの表記。すぐさま詳細を表示させると、光学兵器によるものだと確認された。そして走り去る音。
――自分が虚仮にされている。情報部で指折りの実力を持つケイン・マクスウェル直属のユニットに抜擢された自分が、こんな単純な罠に嵌り、襲撃者を逃してしまった。実績を上げなければと言う焦燥感と、一番槍を任されたにも拘らず先達の前で無様な姿を晒した事を恥じた若き将校は汚名を返上しようと躍起になってしまった。
バイザーの表面がスチームで洗浄され視界が確保されると、一目散に駆け出した。
「待て、ジャック!」
部隊長の静止も聞かずに走り出した。
*
襲撃部隊の全員が特製の墨汁を被った時、AERASの性能を熟知しているセオだからこそ稚拙な対応に気付いた。AERASのバイザー内外には汚染対策として、一定以上の面積が汚れた際にスチーム機能が作動し洗浄するようになっている。だから今回のケースで初めにすべきは身を隠す事だ。だが彼らはその場で汚れを拭おうとしていた。AERASの機能を熟知していないのか、突然の出来事に浮き足立っているのか。何れにせよ、この部隊はまっさらな新人、若しくは戦後に入隊した者達で構成されている可能性が高いと判断出来る。
事実、この部隊はケインが自由に動かせる部隊として、半ば洗脳に近い教育を施した者達で構成されていた。彼の炯眼により見定められた者達で、その実力は折り紙付きだ。しかし彼らは実戦を経験した事がなかった。態々戦後に入隊した者だけで構成したのは、自分の価値観を植え付けたいと言う思惑があったからだ。その洗脳は特殊生体兵である鏡花を殺す事で完了するはずだった。誤算はセオと言う存在だけ。
遮蔽物から身を乗り出し、1発だけSWHを低出力で撃つ。直撃。しかし表面には傷が付いていなかった。貫通しない出力ではあったが、焦げ目も付かないとなると話は違う。
「コーティングされてる。こりゃますます敵さんの武器を貰わにゃならんな」
塗布されている特殊な塗料が蒸発する事で光学兵器を防ぐ。何故全く普及していない光学兵器対策を施した機体を持っている理由は不明だが、厄介な事になったと胸中で愚痴る。
しかし目的は達成出来た。走り出した自分を追うように重い足音と静止の声が響く。すぐに足を止め、振り返る。足音はもうすぐそこまで来ている。今から彼が行おうとしているのは生身且つ素手でのAERAS制圧だ。角を曲がった時、人体は遠心力により内側に傾く。その際により強い力を掛ける事で、転倒させる事が出来る。ここで使用されている拘束用バンドを使えば、少しの間は行動不能にする事ができ、火器を奪える。
もちろんそれは理論上の事で、ましてや相手はAERASを着用している。タイミングを少しでも間違えば、こちらが容易く制圧される。ギャンブルらしいギャンブル。ハイリスクハイリターン。肌を刺激するプレッシャー。生きるか死ぬか。神経が昂る。
暗い廊下に微かな影が差す。黒いAERASが姿を現す。ブーストされた速力でもバランスを崩さずに曲がり切る技術は大したものだった。最大稼働のPSFによる身体能力向上は、生身との差があり過ぎ熟練者でもバランスを崩す事が多い。ましてやこんな短い距離を全力疾走し、直角に曲がるとなればまず壁に追突する。セオとて若い頃に散々失敗して覚えた事だ。この隊員は自分にはない才能がある。しかし経験が浅い。故にAERAS万能主義に疑問を持てない。AERASと近接戦をやろうなどと言う発想が出ない。逃げた相手がすぐそこで待ち伏せていると思えない。
突然横合いから伸びて来た腕にギョっとしたジャックは、体と思考が一瞬だが、致命的なタイミングで止まった。内側に傾いた体を、腰を落とし体重移動させながら全力で引く。彼は慌てて足を付きバランスを取ろうとするが、流れるように行われる動きに間に合わず顔面から床に落ちる。セオは懐から、錯乱した患者を拘束するために使用される、磁力を用いた一対の拘束具を取り出した。U字型の磁石のような形のそれを両足首の外側から嵌め込み、スイッチを入れる。彼はすぐに起き上がろうとしたが、足が動かなかった。パニックになっている彼はセオの居場所より自身に何が起きたのかを確認していた。拘束具を何とか外そうとするが、スイッチが見辛い上に義体を抑え込むために使用される拘束具はAERASとは言え、容易に外せるものではない。
四苦八苦している彼を尻目に、床に投げ出されているライフルを手に取る。ガチャ、と言う音で自分が持っていたライフルが手元にない事に気付く彼。取り返そうとするが、足を縛られた状態で動けるはずもなくまたも倒れ込む。焦りが焦りを呼ぶ。
「動くなよ。最大出力でこの距離なら頭をぶち抜ける!」
鋼鉄の鎧を着ているはずなのに、丸裸で戦場に立たされたような恐怖。腕で振り払えば簡単に吹き飛ばす事が出来る。足を縛られていようと、自身の身体能力を以てすれば攻撃する事が出来る。セオの威圧と言葉に恐怖した彼にはそれが出来なかった。背嚢から弾倉を取られても、何もする事が出来なかった。
振り返りセミオートで牽制射撃し、部隊の足を止め走り出す。
「武器取れたか?!」
「お前の方こそ準備出来たのか?」
「おうよ! でだ。俺達の勝ちの条件は何だ?」
「仲間が来る事だ。オレ達には発信機が埋め込まれている」
未だ発生した事はないが、正式な手続きを経ずに出動要請が出た場合に迅速に対処するために課員の居場所を把握しておく必要がある、と言う理由で埋め込まれた腕部に埋め込まれた発信機。しかしそれは名目でしかなく、実際には非番の時でさえ火器の携行を許可され、AERASも着用出来る課員をいつでも殺せるためのものだった。埋め込まれている場所も心臓であり、在職・退職に関わらず課員達には一切知らされる事のない極秘事項。
「……で、そりゃどれぐらい掛かるんだ?」
「人手があればすぐにでも。なければ死ぬ」
コルネリウスが床に油をぶち撒ける。ここにあるありとあらゆる物を使っての時間稼ぎ。生き残るためには1秒でも稼ぐ必要があった。
階段を上る。踊り場に達した所で悲鳴と金属の衝突音が響く。全環境対応を名乗るAERASには、もちろん悪路を走破するためのスパイクが常備されている。しかしON・OFFは着用者が操作するものであり、今回のように気付かずに油を踏めば容易く滑る。広範囲にぶち撒けた油の海から脱出するのはさぞかし大変だろう。それに加えてSWHの連射。至近への着弾に、隊員達はそこが油の海と言う事を忘れ咄嗟に回避しようとする。その行動が更に立て直しを遅くする。
先程セオが態々叫んだのはSWHならAERASを抜けると言う事を、他の隊員達にも知らせるためだった。
「おめぇスゲェな。生体兵ってのはどいつもこいつもこんなレベルなのか」
「従軍して生き残った奴らならこの程度は思い付くさ。AERASとは長い付き合いだからな。メリットもデメリットも分かってる」
階段からブラインドショットで再び牽制。
「この調子なら何時間でもいけんじゃねぇのか?!」
「……」
もちろんそんな訳がない。彼らは掛け値なしに優秀だ。今でこそ混乱している事で罠に嵌っているが、冷静さを取り戻した時使える手はなくなる。そもそもAERAS着用者を相手に動揺を与える手段自体が少ないのだ。そしてその手段を使えば使う程に彼らの警戒心は増し、冷静さを取り戻していく。正面からの撃ち合いになればまず敵わない。
手回しである程度まで下ろしておいた防火シャッターを潜り、最後まで下ろし切る。
セオがコルネリウスに手を差し出すと、渋々と言った様子で携帯端末を渡した。ジャミングが行われている今、通信機としての役割は果たせないが様々な機能がそれを補ってくれる。
シャッターの横にある扉のノブが捻られる瞬間に合わせ端末を扉の前まで滑らせる。すると音量を最大にした端末から大音量の銃撃音が発せられる。閑散な廊下に響き渡るそれはセオ達からすれば耳を塞ぎたくなるだけのものだが、扉の向こうからすれば突然分厚い弾幕を展開されたようにしか聞こえなかった。その勘違いをより強固にするため、鉄製の扉に向け数発撃ち込む。しかしすぐに気付かれる事だ。そしてそれに気付けば、数が少ないが故の策だと言う事にも気付く。ここから一気に攻勢に出るだろう。
これだけやって10分も経っていないのだ。心底嫌になる。
ここからがようやく本番。命をチップに始まるギャンブル。敗北の許されない勝負。負ければ失うのは自分の命だけではない。妹分も、心に傷を負った戦友達も殺される。それだけはさせない。させてなるものか。幸福への道を歩み出した者を、傷に苦しみながらも一歩を踏み出そうとしている者を、殺されてなるものか。
*
コルネリウスを取り逃がしたゴア達は、付近の防犯カメラから痕跡を探そうとしていた。しかし余程警戒心が高いのか、どこのカメラにも映っておらず、聞き込み調査と言う地道な方法での捜査を余儀なくされていた。そんな折だった。セオの反応が消失したと言う連絡が入ったのは。
「はあ?! セオの反応が消えたって、あいつが死ぬ訳ないでしょ!」
「姐さん! 滅多な事言うもんじゃねぇっすよ!」
ハッとして振り返る。メットを外しているイオンの眼が酷く揺れていた。彼女にとって世界はセオありきのもの。彼が死んだ、と言われまるで足元が崩壊していくような錯覚に陥っていた。
『安心してイオン。私から受け取った情報だと、直前までバイタルに何ら異常はなかった。そもそも死亡したとしても反応が消えるなんて事はないのよ。つまり発信機が壊されるような衝撃を受けたか、受信が妨害されているか、のどちらかよ。で、セオがいた場所の周囲で電波障害が起こってるの』
『君達にはそこに行って欲しいんだ。どうにもコルネリウスとも無関係ではないっぽいしね。少し前から国連の情報部のタカ派共が騒がしくなっててね、きな臭い動きをしてるんだよ。新設部隊に随分と力を入れてるみたいだし。後何対策なのか、対光学兵器用コーティング剤も購入してるねぇ。まあ中心人物見れば狙いは何となく見えて来るけどね。迷惑な潔癖症だよホント。アウターと切った張ったしてたのは自分じゃないってのに』
「何で情報部の事なんか知ってんすか」
『借りとか弱みってのは、こう言う時に役立つモノなんだよと。特に自分の所の組織と仲の悪い組織の人に作るととても役立つから、覚えておくようにそう言う訳で急いでね。僕、部下に死なれるの嫌だから。後、これから殴り込みに行くからしばらく通信しないでね』
広域平和維持機構・アルカディア支部殲滅課課長アクセル・ブローン。戦中はアメリカ軍の情報部に所属。アウターの情報を持ち帰るため、幾度となく戦場で血を流し、死を看取り続けた彼は、その中年のテンプレートを集めたような外見とは裏腹にとても強かった。
「え……」
不穏な言葉を残し、課長の声は途切れた。
「……さあ行くわよ! そこのプレイボーイ! 車貸して!」
「誰の事ですか! 車はあちらにあります!」
「ありがとう!」と投げられたキッスを、飛んで来たゴキブリを避けるがの如く回避する警官。
AERASで入るには少々手狭なため、ルーフを引き千切りオープンカーにする。投げ捨てられたルーフを見て警官が呟いた。
「変な車が走ってるって通報が入りそうだな……」