江戸川君の靴
「戸田君の真実」、「村上君のリアル」の続編です。
語学の講義で前の席に座っている江戸川君の靴はいつも汚れている。
黒いコンバースは履きこみすぎて、底が擦れていてところどころに穴が空いている。
江戸川君が目立つのは、前髪が顔の半分を隠しているせいだけではない。
彼が40人の受講者の中で、唯一の男の子だからだ。
文学部ならではの砂漠の王様ごときハーレム状態だけど、江戸川君はちっとも嬉しそうではない。
こういってはどうかと思うけど、僕を殺してくださいみたいな自虐的なオーラが漂っている。
外見は不思議系だけど、唯一の男の子にクラスメイトはやっぱり興味を持つわけで、私も例外ではない。
江戸川君は、なんで、スペイン語の講義を取っているんだろう。
聞いてみたいけれど、前に一度話しかけてみたら、すごい勢いで逃げられた。
その時、江戸川君は、いつものコンバースと違った靴を履いていた。
ピカピカ磨かれた黒い革靴を「すごく綺麗だね」と褒めたら、無言で逃げられてしまった。
女の子が苦手なのかもしれない。
今日はスピーチをした。
江戸川君の声はぼそぼそとしていて、ほとんど聞き取れなかった。
残念な気分で帰ろうとしたら、教室の入り口が混雑していて出られない。
何事かと思って覗いてみたら、見覚えのある顔が見えた。
今日は珍しくマフラーをしてないので、美のオーラがギラギラしている。
後ろのドアからこっそりと出ていこうとしたのに、寸前のところで見つかってしまった。
可愛い女の子達に囲まれているのだから、私なんか放っておいてくれればいいのに。
戸田君は人混みをかきわけて、こちらにやってくると、私の腕を掴んだ。
「今日は、2限で終わりでしょ。どっか遊びにいこうよ」
悲しいかな、全然嬉しくない。
戸田君は同じ大学だけど、他学部だ。
なぜ、私の時間割を、しかも3限の講義が休講になったことまで知っているんだ。
私は内心の怯えを顔に出さないようにしながら、戸田君の腕を振り払った。
「無理だよ。これから、サークル見学に行くんだから」
「サークル?もう、2年の冬だよ」
「そうだけど。1年生の時に入りそびれてしまったから、就活で忙しくなる前に何かやりたいなと思ってるんだ」
戸田君はふーんと呟いた。
「じゃあ、俺も行く」
な、なんですと。
15分後、私は、サークル棟の前に立っていた。
戸田君も一緒に。
「で、どこのサークルを見学したいの。テニス以外のサークルなら、どれでも見学していいよ」
なぜ、戸田君が許可を出すんだ。
「なんで、テニスはダメなの?」
「テニスサークルは、テニス以外のことをするサークルだから。そして、俺がいるから、あんたには必要ない」
「よく分かんないけど、頼まれたって、テニスなんかしないよ。スポーツは嫌い」
「そういえば、高校の体育で、ハードル全部倒してたね」
戸田君は、一人で思い出し笑いしている。
気持ち悪い奴め。
ホント余計なことばかり、覚えている。
「わざとだよ。それに、世界的な陸上選手だって、ハードルを倒すんだから」
「最近の織田ユージって、親父くさいね」
それは、私も賛成だ。
世界陸上の解説のコメントがいちいち親父くさかった。
「もう年じゃない。ドラマもつまらなかったし」
「俺、見てない」
そんなことを言い合いながら、私達が向かった部室は、スペイン文化研究会。
しかし、部室の中を覗いてみると、誰もいなかった。
部室の扉に貼ってあった紙には、活動は月一回と書いてあった。
これは、さすがにちょっとね。
次にやってきたのは、文芸サークル。
ロシア文学のマニアックトークについていけず、断念。
読書家じゃなくて、すみませんスキー。
その次は、手芸クラブ。
女の子達から馬鹿にキラキラした目で見つめられると思ったら、後ろに立っている戸田君のせいだった。
居心地悪いから嫌だと戸田君が言って、無理やり部室から連れ出された。
別に一緒に入部するわけじゃないんだから、いーじゃん。
中庭で休憩しながら、どうやって戸田君を撒こうかと考えていた時、軽快な音楽が聞こえてきた。
ラテン系の音楽につられてたどり着いたのは、タンゴサークルだった。
ダンスなんか踊れないけれど、スペイン語を習っている者としては興味があるので、覗いてみることにした。
めちゃくちゃスタイルのいい、赤いドレスを着た女性が黒いシャツを着た男性と踊っていた。
腰が揺れて、脚が上がって、ぴったりと密着する男女。
ふわああ。
見てはいけないものを見てしまった気がした。
女性のワインレッドのハイヒールと男性の黒い革靴がまばゆいほど輝いていた。
音楽が止んで、踊っていた黒いシャツの男性と目が合った。
突然、その人の顔色が変わって、練習場から逃げるように出て行ってしまった。
前にも、こんな風に逃げられたような。
既視感があると思っていたら、思い当った。
あの人、江戸川君だ。
前髪をオールバックにしていたけれど、絶対に江戸川君だった。
どうして、逃げるんだろう。
「かっこよかったのに」
「誰が?さっきの奴が?」
戸田君の不機嫌オーラ出まくりの声がした。
おっと、口に出してしまったようだ。
不本意だけど、放っておくと後が怖いから、一応説明しておこう。
「さっきの人、江戸川君っていうんだけど、語学のクラスが一緒なの。いつも前髪下ろして、俯いているから、別人みたいだなって驚いちゃった。タンゴって、すごいね」
「タンゴのせいかもしれないけど、それだけじゃないよ」
「どーいうこと?」
「江戸川君は、赤いドレスの人に惚れているんだよ。めちゃくちゃ好きだって、顔に書いてあっただろう」
急に踊っている時の二人を取り巻くねっとりとした雰囲気を思い出した。
なんで、恥ずかしいんだろう。
「私、ピカピカ光る靴ばっかり見ていたから」
苦しい言い訳をすると、戸田君は面白そうに私を眺めていた。
無表情だと思っていた戸田君は、いまや別人のように憎たらしい表情を見せる。
「まあ、そういうことにしておこうね」
戸田君は、私の手を取った。
「踊る?それとも帰る?」
「帰るよ」
力なく答えると、戸田君は勝ち誇ったように笑った。
サークルに入れなかったので、暇な週末は、戸田君と一緒にアントニオ・バンデラスの映画を観に行った。
映画を見ている間にキスされたので、ポップコーンを頭にぶちまけてやった。
教訓:
靴を見て、何かを知った気になるのは間違いだ。
戸田君は、江戸川君のタンゴやアントニオ・バンデラスから何も学ばない私を嘆かわしいと言った。