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短編小説

早退させていただきます。もう、悪役令嬢キャラには疲れました

作者: おでこ
掲載日:2026/02/28

本作は、全八章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


    第一章 このキャラ、もう疲れた





 このキャラで、十七年間生きてきた。


 もう、やめたい。


 夜の自室は静かだった。窓の外に月が出ている。カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い線を引いていた。


 私はベッドの端に腰かけて、その線をぼんやりと見ていた。


 疲れちゃったよ……。


 声に出したわけじゃない。ただ、胸の奥でそう思った。思ったら、止まらなくなった。


 皆が望むから、続けてきた。それだけだった。


 誰かのためにやってきたわけじゃない。家族が喜ぶから、取り巻きが期待するから、殿下が満足するから。求められたから、応えた。ただ、それだけのことだった。


 五歳のとき、笑い方を教わった。冷たく、見下すように。そういう笑い方が、ヴァルドラン家の令嬢には必要だと母が言った。


 七歳のとき、平民の子に意地悪をしたら褒められた。それが正解なのだと思った。


 十歳のとき、こっそり読んでいた本を取り上げられた。見知らぬ国を旅する少女の物語だった。どこへでも行ける、誰にでもなれると、その子は笑っていた。令嬢が読む本じゃないと言われた。続きが、今でも気になっている。


 十二歳のとき、婚約が決まった。殿下のお役に立ちなさい、と言われた。


 皆が喜ぶように動いてきた。それだけだった。十七年間、ずっと。


 ……ふと、思い出した。


 五歳の頃の記憶。小さな男の子と、庭で遊んでいた。どろんこになって、笑いながら走り回っていた。あのとき私は、ただ笑っていた。作った笑い方じゃなかった。ただ、楽しくて、笑っていた。


 あの子は、引っ越してしまった。あの日から、ずっと寂しかった。


 ……あの頃は、ただ笑っていたな。


 窓の外の月が、少し動いた気がした。私は目を閉じた。


        ◇


 翌朝、学園に来た。校門をくぐる前に、一度息を吸う。それからスイッチを入れる。目を細める。顎を少し上げる。扇をゆっくりと開く。これで完成だ。


 食堂に入ると、リナが友人たちと昼食を取っているのが見えた。平民出身の首席合格生。この学園では有名な存在だ。明るくて、誰にでも愛想がいい。


 取り巻きたちが「エリーゼ様、リナがまた……」と囁いた。


 私はリナの前で立ち止まった。「平民が貴族と同じ席で食事をするのは、いかがなものかしら」


 取り巻きたちが「そうですわ!」と声を上げた。


 リナが困ったような顔をした。今にも泣きそうな、そういう顔。


 (……今日も、同じ流れだ)


 ふと気になって、リナの目を見た。


 (目の動きが、ほんの少しだけ早かった)


 困ったような顔になる前の、ほんの一瞬。計算しているような、そんな動きだった。


 遠くで、クロード殿下がリナの方へ足を向けるのが見えた。


 (……また)


 いつも通りだ。でも、いつも通りだとわかっていても、少しだけ、胸のどこかが引っかかった。


 私は殿下の婚約者だ。なのに殿下の目は、いつもリナの方を向いている。


 怒りではない。嫉妬とも少し違う気がする。ただ、どうして、と思う。殿下のために動いてきたつもりだった。殿下が満足するように振る舞ってきた。それが婚約者の役割だと、ずっとそう思ってやってきた。


 なのに、どうして。


 殿下が守りたいのはリナで、私ではないのか。


 (……まあ、いいか)


 すぐにそう思った。どうでもよくなった。怒る気力もなかった。ただ少し、虚しかった。


 ……考えても、答えは出ない。


 私は踵を返した。


        ◇


 午後の授業でリナが優秀な回答をした。教師が褒めた。周囲が感心した。


 私は小さく鼻で笑った。「平民が少し頭が回るからといって、はしたないものね」


 取り巻きたちがくすくすと笑う。リナがまた、困ったような顔をした。


 (……また同じだ)


 視線を窓の外に向けた。青い空が見えた。なぜだか、今日はそれが少し遠く見えた。


        ◇


 放課後、取り巻き令嬢たちとの茶会。


 テーブルを挟んで向かい合っていると、取り巻き筆頭のフローラが顔を赤くして言った。


「本当に腹立たしいですわ。平民のくせに殿下の前であんな振る舞いをして。絶対に何か悪いことをしているはずですわ。証拠を集めて、一気に叩きつけてやりましょう!」


「そうですわ!」「賛成ですわ!」


 取り巻きたちが一斉に同調した。


 私は紅茶のカップを持ったまま、窓の外を見ていた。


 (……本当のことを、知りたい)


 怒りからではなかった。ただ、あの目の動きが気になっていた。本当のことが何なのかを、自分で確かめたかった。


「……私も調べましょう」


 私はそれだけ言った。「さすがエリーゼ様!」取り巻きたちが沸いた。


 (みんなは感情で動いている。でも私は、ただ事実を知りたいだけだ)


 紅茶を一口飲んだ。少し、冷めていた。





    第二章 決行前夜





 調べ始めると、すぐにわかってきた。


 リナという少女は、見た目通りの人間ではなかった。


 私が独自に集めた証言と記録を並べてみると、一つの像が浮かんだ。


 複数の男子貴族に、同時に「あなただけです」と囁いていた。エルヴィン男爵令息には「学園でいちばん頼りにしています」と手紙を送り、同じ週にクラウス子爵令息には「あなたのことしか見えていません」と廊下で耳打ちしていた。その両方の場面を、私は別々の機会に目撃していた。


 それだけではなかった。


 男子貴族から贈り物を受け取っては「大切にします」と笑い、翌月には別の男から同じものを受け取っていた。学園の茶会で令嬢たちの悪口を言いふらし、孤立させてから「私だけが味方ですよ」と近づいていたという証言もあった。


 そしてクロード殿下。殿下が「守りたい」という気持ちを持ちやすい性格だと見抜いた上で、困った顔を何度も使い分けていた。殿下が近くにいるときだけ、泣きそうな表情になるのを、私は何度も観察していた。


 (……全部、計算だったのか)


 書類をまとめながら、私は少し虚しかった。怒りではなく、ただ虚しかった。


 取り巻きたちの書類にも目を通した。でっちあげだらけだった。裏付けのない話、誰かから聞いた噂をそのまま書いたもの、日付が矛盾しているものまであった。


 (これは、大丈夫なのかしら……)


 二種類の書類を重ねて、引き出しにしまった。窓の外は暗かった。





    第三章 早退させていただきます





 翌日、学園の大広間に生徒たちが集まっていた。


 今日のこの場は、リナへの最大の言葉をぶつける場面のはずだった。証拠を突きつけて、公の場で断罪する。それが今日の段取りだった。


 私は中央に立っていた。証拠書類の束を手に持っていた。


 視線が刺さった。前からも、横からも、後ろからも。広間を埋めた生徒たちの視線が、全部こちらに向いていた。


 (……また、同じ場所に立っている)


 リナが少し離れたところに立っている。クロード殿下が壇の端で腕を組んでいる。取り巻きたちが私の後ろに並んでいる。全員が、私の言葉を待っていた。


「リナ、あなたのこれまでの行いについて、証拠がここにあります。読み上げさせていただきますわ」


 書類の束を持ち上げた。取り巻きたちが「そうよ!」と囃し立てた。

 私は最初の一枚を手に取った。フローラたちが用意したものだった。


「まず、三月の茶会にて──リナがお茶をこぼした件について」


 読み上げた。取り巻きたちが「そうよ!」と声を上げた。

 リナが困ったような顔をした。「エリーゼ様……私、何かいけないことを……」

 震える声だった。クロード殿下が少しだけ眉をひそめたが、まだ口は挟まなかった。


 私は次の一枚を取った。


「四月の食堂での──」


「それはどこの誰が書いたものだ」


 クロードがようやく口を開いた。「名前も出所もない書類を、そのまま読み上げるのか」


 広間からくすくすという笑いが漏れた。


 (……確かに。フローラたちのものには、出所がない)


 私は次の一枚を取った。また、フローラたちのものだった。日付が曖昧で、「聞いたところによれば」という書き出しで始まっている。


 (……これも、使えない)


 私は淡々と読み上げた。でも途中でクロードがまた遮った。リナがまた「そんな事実はありません」と涙目で言った。取り巻きたちがまた「信じてください!」と叫んだ。広間がざわめいた。


 私はまた次の一枚を取った。また読んだ。また遮られた。


 (……何をしているんだろう、私は)


 ふと、そう思った。

 読み上げながら、頭の隅でそんな言葉が生まれた。


 何をしているんだろう。


 また次の一枚を手に取った。でっちあげの書類が、まだ何枚かある。その下に、私が自分で調べたものが挟まっている。事実の記録。日付も場所も証言者の名前も、全部揃っている。


 『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』


 これを読めば、広間の空気は変わるかもしれない。


 (でも)


 私はその一枚を持ちながら、少し止まった。


 (……なんで、私がこれをやっているんだろう)


 怒りからじゃない。リナが憎くて証拠を集めたわけじゃない。ただ本当のことを知りたかっただけだ。それだけのことだった。


 なのに今、私はここに立って、遮られながら、笑われながら、一枚ずつ読み上げている。


 これは何のためだ。

 誰のためだ。


 (……疲れた)


 じわりと、そう思った。疲れた。本当に、心の底から。もうずっと前から疲れていたのに、今日ここに来てまた疲れた。


 フローラが「エリーゼ様!次を読んでください!」とまた囁いた。


 私は手の中にある書類を見た。

 自分で調べた、本物の証拠。


 (……読んでも、また遮られる。また笑われる。また「でっちあげだ」と言われる)


 そしてまた次を読んで、また遮られて、また笑われて。


 それを、いつまで続けるんだ。


「エリーゼ様!」フローラの声が少し大きくなった。


 私は書類の束を、静かに下ろした。


 パサ、という乾いた音がした。


「……え?」フローラが声を上げた。「エリーゼ様、まだ──」


 扇を閉じた。パチン、という小さな音が広間に響いた。


 その音でざわめきが止まった。誰もが息を呑んだ。広間全体が、一瞬で静まり返った。


 私は深く、丁寧に、お辞儀をした。

「気分が変わりました。申し訳ございませんが……」



「早退させていただきます」



 誰も言葉を返せなかった。

 クロード殿下が「は……?」という顔をした。リナの表情が崩れかけた。ほんの一瞬だけ、計算じゃない顔が覗いた。取り巻きたちが顔を見合わせた。


「エリーゼ様、ちょっと──」


「あとは、皆さまにお任せいたしますわ」


 くるりと背を向けた。扉へ向かって歩いた。


 後ろから「エリーゼ!」と声が飛んできた。聞こえていた。でも足が止まらなかった。「待て」という声もした。止まらなかった。


 扉を開けた。出た。静かに閉めた。


 廊下に出た瞬間、光が目に入った。


 (……ああ)


 こんなに明るかったんだ、ここ。


 廊下の窓から差し込む昼の光が、こんなに白くて、こんなに静かだったことを、いつから気づかなくなっていたのだろう。


 私はしばらく、その光の中に立っていた。扉の向こうがうるさかった。でも、ここは静かだった。


 風が廊下を通り抜けた。それだけで、少し息が楽になった。


 (……もしこれが物語の話ならば、ここで私がはっきりとモノ申せば大きく動いたのでしょうけれど)


 そんなことをぼんやりと思った。特に感慨もなく。すぐに消えた。


 私はただ、廊下を歩いた。


        ◇


 私が去った後の広間で、書類が床に散らばっていた。私が書類の束を下ろした拍子に、何枚かが滑り落ちていた。


 静まり返った広間の中で、クロード殿下の取り巻きの一人、セドリックという男子貴族が、それを拾い上げた。パラパラとめくった。


 ある部分で、手が止まった。


 表情が、変わった。


        ◇


 屋敷に戻ると、静かだった。


 母はいなかった。父もいなかった。使用人が「お帰りなさいませ」と言っただけだった。


 私は自室に入った。扉を閉めた。


 ベッドに腰かけた。窓の外を見た。昼の空が青かった。


 (……や~めた)


 声に出したわけじゃない。ただ、心の中でそう思った。


 やめた。


 やっと、やめる決心がついた。


 怒りも、悲しみも、不思議となかった。ただ、終わった、という感覚だけがあった。コップの水が十七年かけて満杯になって、今日ようやく全部こぼれた。そういう感覚だった。


 (これからどうなるんだろう)


 取り巻きたちは離れていくだろう。殿下との婚約も、どうなるかわからない。


 (……でも、もう、どうでもいい)


 そう思って、少し驚いた。


 殿下のために動いてきた。殿下が喜ぶように、殿下の役に立つように。その気持ちは本物だった、と思う。でも今は、それがひどく遠いことのように感じる。疲れ果てたら、何もかもが等距離になった。婚約も、家族も、取り巻きも、全部同じ遠さになった。


 家族は怒るだろう。学園での評判も、きっと悪くなる。


 (……それでも)


 窓の外の空が、やけに広く見えた。


 今まで気づかなかったけれど、空ってこんなに広かったんだ。こんなに青かったんだ。


 私はしばらく、その空を見ていた。


 (……まあ、いいか)


 短い独白だった。でも、それだけで十分だった。


 なんとなく、少しだけ、前を向ける気がした。





    第四章 全部、降りる





 翌日から、「キャラ」を降りた。


 高慢な言葉をやめた。冷たい目をやめた。扇の使い方も、作り物の笑い方も、全部やめた。廊下を普通に歩いた。誰かとすれ違っても、何も言わなかった。


 取り巻きたちが困惑した。「エリーゼ様、どうされたのですか」「いつものエリーゼ様じゃないみたい……」


「別に」と言って、歩き続けた。


 数日後、フローラが来なくなった。また数日後、もう一人が来なくなった。気づけば、全員いなくなっていた。


 フローラが一度だけ廊下でエリーゼに声をかけようとした。でも言葉が出てこなくて、顔を伏せて通り過ぎた。私はそれを見ていた。


 (……謝ろうとしたのかもしれない)


 追いかけなかった。


 リナ側の令嬢たちが廊下で囁いているのを聞いた。「あれだけのことをしてきて今さら」「何か企んでるんじゃないの」


 クロード殿下とも、目が合わなくなった。私は一人になった。


 (……静かで、悪くない)


 廊下を一人で歩きながら、そう思った。怖いかと思っていた。でも怖くなかった。むしろ少し、楽だった。


        ◇


 数日後、クロード殿下に呼び出された。


 応接室で向かい合うと、殿下は真剣な顔で言った。


「エリーゼ、改めて正式に伝える。リナへのこれまでの行いを鑑みて、婚約を解消させていただきたい」


 殿下は用意していた言葉を告げた。正義の側に立って、悪を裁く。そのつもりだった顔だった。


 私は静かに聞いた。聞き終えてから、ゆっくりと口を開いた。


「……一つだけ、聞いてもいいですか」


「なんだ」


「私がこの五年間、殿下の婚約者としてやってきたことは、殿下の目にはどう映っていましたか」


 殿下が少し、黙った。


「……リナへの振る舞いは、褒められたものではなかったと思っている」


「そうですね」と私は言った。「でも、私は殿下のためにやっていたつもりでした。殿下が王族として恥ずかしくないように。殿下の周りを、ふさわしい形に整えたくて。それが婚約者の役割だと思っていたので」


 殿下が、少し目を伏せた。


「……それが正しかったかどうかは、今はもうわかりません。ただ、そういうつもりでいたということだけ、知っておいていただけたら」


 私はそれだけ言った。


「婚約破棄の件、承知いたしました」

「私からも、そうお願いしようと思っておりましたので、ちょうどよかったです」


 殿下が固まった。「……ちょうどよかった?」


「はい。ちょうどよかったです」


 二回繰り返した。殿下が何か言おうとした。でも言葉が出てこないようだった。用意していた正義が、どこかへ消えていた。


 私はお辞儀をして、部屋を出た。


 (これで全部、終わった)


 殿下はしばらく動けなかった。部屋の中で、一人立ち尽くしていた。


        ◇


 その夜の夕食の席で、両親の顔色がいつもと違った。


 父が口を開いた。「エリーゼ。今日、クロード殿下から正式な書状が届いた」


 母が続けた。「婚約解消ですって!ヴァルドラン家との婚約を、正式に解消するとおっしゃっているのよ!」


 母の声が、みるみる高くなった。「あなた、一体何をしたの!殿下との婚約がどれだけ大切なものか、わかっているの!?」


「このヴァルドラン家が、どれだけの恥をかくと思っているんだ!」父も声を荒げた。「王家から婚約解消を申し入れられるなど、前代未聞だぞ!」


 私は箸を置いた。


 父と母が同時にまくし立てた。「今すぐ殿下にお詫びを!」「何か手を打たないと!」「あなたのせいでこの家が──」


「……もう、結構です」


 私はそれだけ言った。


 両親が、止まった。


「なんだと」父が低い声で言った。


「結構です、と申しました」


 父が立ち上がった。「エリーゼ!今何と言った!」


「聞こえていたはずです」


 母が「この子は……!」と声を上げた。「ヴァルドラン家の恥さらしめ!あなたがちゃんとしていれば、こんなことには──」


「お母様」


 私は母を見た。


 (この子は……こんな目をしていたか?)


 母が口を閉じた。父も、何か言いかけて止まった。


 今まで一度も見たことのない目だった。怒っていない。泣いていない。ただ、静かに、真っ直ぐに、前を向いている。


 誰も何も言えなかった。


 私は席を立って、頭を下げた。それから部屋を出た。廊下を歩きながら、胸の奥が不思議と静かだった。


        ◇


 ある放課後、廊下を歩いていたら前方に人だかりができていた。


 新しい転校生が来たのだと、朝から学園中がざわついていた。ヴァイセンベルク公爵家の嫡男が、家の事情でこの学園に籍を置くことになったという話だった。


 広間での朝のホームルームで、その人物が前に立った。


 背が高かった。落ち着いた目をしていた。飾り気のない所作で、ただそこに立っているだけなのに、妙な存在感があった。


「ルーカス・ヴァイセンベルクです。家の都合でこちらにお世話になることになりました。よろしくお願いします」


 短かった。それだけだった。広間がざわめいた。女子生徒たちが顔を見合わせて「格好いい……」と囁いた。


 私はその様子を遠目で見ながら、特に何も思わなかった。今の私には、新しい転校生に興味を持つ余裕もなかった。


        ◇


 廊下を歩いていたら、その転校生が女子生徒に囲まれていた。


「ヴァイセンベルク様、授業はいかがでしたか」「はい」


「一緒にお昼はいかがですか」「結構です」


「放課後は──」「失礼します」


 三語で全部乗り切っていた。


 リナがその輪に近づいていった。いつもの笑顔で、いつもの立ち居振る舞いで。


「ヴァイセンベルク様、転校してきたばかりで不安なこともあるかと思います。私でよければ何でも──」


「必要ありません」


 ヴァイセンベルクはリナの言葉を遮った。振り向きもしなかった。


 リナの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。


 (……珍しい)


 リナに塩対応できる男子生徒を、この学園で見たのは初めてだった。私はそのまま廊下を歩き続けた。


        ◇


 ある日、中庭のベンチに一人で座って本を読んでいた。


 最近、ここで過ごすことが多くなっていた。誰もいない。静かだ。それだけでいい。


「……一人か」


 声がした。顔を上げた。ヴァイセンベルクが立っていた。


「……ええ」


「なぜ」


「……特に、理由はありません。一人の方が静かなので」


「そうか」


 それだけ言って、ヴァイセンベルクは近くの別のベンチに腰を下ろした。


「……あなたも一人でよろしいのですか。女子生徒たちが探しているようでしたが」


「知っている」


「……それでここに?」


「静かな場所を探していた」


 私は少し、彼を見た。それ以上、どちらも喋らなかった。風が吹いた。木の葉が揺れた。不思議と、居心地が悪くなかった。


「ヴァルドラン家の令嬢だな」しばらくしてから、ヴァイセンベルクが言った。


「そうです」


「孤立しているのに、気にしていないように見える」


「……気にしていません」


「なぜ」


「……もう、やめたいことをやめただけなので」


 ヴァイセンベルクがこちらを見た。何かを考えているような目だった。でも何も言わなかった。


「……あなたは」と私は言った。「なぜ、私に話しかけたのですか」


「気になった」


「……何が」


「孤立しているのに、どこか、清々しそうに見えたから」


 私は少し、驚いた。清々しい、という言葉を、人から言われたことがなかった。「さすが」「完璧」「怖い」そういう言葉なら何度でも聞いた。でも、清々しい、は初めてだった。


「……そうでしょうか」


「ああ」


 ヴァイセンベルクはそれだけ言って、また前を向いた。私も前を向いた。中庭の花が、今日もきれいだった。


        ◇


 ある放課後、廊下の角を曲がろうとしたとき、向こう側からリナの声が聞こえた。


「……あの令嬢がおとなしくなって、やりやすくなったわ」


 くすくすという笑い声が続いた。私は足を止めた。


 (……やっぱり)


 怒りは来なかった。ただ、確認した、という感覚だけがあった。


 (今は、いい。でも覚えておこう)


 私は静かに踵を返した。





    第五章 証拠が動く





 それから数日が経った。


 廊下でセドリックと目が合った。クロード殿下の取り巻きの一人。あの広間で書類を拾った男だ。


 セドリックが、少し複雑な顔をして私を見た。何か言いたそうだったが、何も言わずに通り過ぎた。


 (……何?変な顔)


 私はそれだけ思って、歩き続けた。


 (私は関係ない。もう降りたのだから)


        ◇


 放課後、図書室に入った。棚を眺めていたら、一冊の背表紙が目に入った。手に取った。ページをめくった。


 見知らぬ国を旅する少女の物語だった。十歳のときに取り上げられた、あの本によく似ていた。


 (こういう時間が、好きだった)


 ベンチに腰かけて、ページをめくり始めた。静かな部屋に、ページをめくる音だけが響いた。


 しばらくして、足音がした。


 顔を上げると、リナが立っていた。


 いつもの笑顔だった。でも目が、少し違った。何かを探っているような、そういう目だった。


「エリーゼ様、最近お顔を見かけなくて心配していましたわ」


 リナが言った。柔らかい声だった。


「……そうですか」


「婚約のことも、耳に入りました。大変でしたね」


 そう言いながら、リナは私の表情を見ていた。動揺しているかどうかを確かめようとしているような、そういう見方だった。


 (……何を確認しに来たんだろう)


 私はリナを見た。それから、また本に視線を戻した。


「ご心配なく。ちょうどよかったですので」


「……え?」


「婚約のことです。こちらからもそうしようと思っていましたので」


 リナが少し、黙った。想定していた反応ではなかったのだろう。


 私は本のページをめくった。話は終わった、という意思表示だった。


 リナがもう一度何か言おうとした気配があった。でも結局、何も言わずに去っていった。


 (……やっぱり、確かめに来たんだ)


 私は本に視線を戻した。


 旅する少女は、今日も知らない国を歩いていた。


        ◇


 数日後、学園内の空気がいつもと違った。廊下でひそひそ話が増えた。視線が、私ではなくリナの方に向いていた。フローラが青ざめた顔で私の前を通り過ぎた。


 (……何かが起きている)


 その日の午後、広間の方向から人の声が聞こえた。私は廊下の端を歩きながら、中をちらりと見た。


 リナがいた。クロードがいた。セドリックをはじめとした男子貴族たちが、書類を手に立っていた。


 (……ああ)


 すぐにわかった。あの書類だ、と思った。


 足を止めなかった。そのまま歩き続けた。図書室へ向かった。本の続きが、読みたかった。





    第六章 崩れる夜 ―リナ視点―





 今日も、うまくやれるはずだった。


 リナはそう思っていた。


 あの悪役令嬢はもういない。ヴァルドラン家のエリーゼは、あの奇妙な早退以来すっかりおとなしくなった。孤立して、一人で歩いている。


 (ざまあみろ)


 内心でそう思っていた。あの高慢な令嬢が一人になって、清々する。


 もっとも、あの令嬢がいなくなったことで少し計算が狂った部分もある。エリーゼに意地悪をされて、クロードが助けに来る。その流れがなくなった。いわば「悪役令嬢ボーナス」が消えたのだ。そのぶん、別の形でクロードの注目を引かなければならない。少し手間が増えた。


 まあ、それくらいどうにでもなる。


 クロードは使いやすい。「守りたい」という気持ちが人より強い。困った顔を一つ見せれば、すぐに動く。エルヴィンは贈り物が豊かだ。クラウスは家柄がいい。それぞれに使い道がある。全員を上手く回せば、この学園での立場はいくらでも強くなる。


 (平民だからって、なめないでよね)


 頭一つ分、周りより賢く動いてきた。それだけのことだ。


 広間に入ったとき、空気が違った。


 クロードの表情が、いつもと違った。セドリックをはじめとした男子貴族たちが、リナを見る目が、いつもと違った。温かくなかった。何かが、引いていた。


「リナ、ちょっといいか」


 クロードが言った。


「もちろんです。どうされましたか、クロード様」


 リナはいつも通りの笑顔を向けた。クロードが書類を差し出した。「これを見てくれるか」


『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』


 受け取った。ページをめくった。


 手が、止まった。


 (……これは)


 エルヴィン男爵令息に送った手紙の記録。「あなただけが頼りです」という言葉とともに、日付と場所まで書かれていた。


 同じ週に、クラウス子爵令息に廊下で耳打ちした記録。「あなたのことしか見えていません」という言葉。これも日付と場所つきで。


 別のページには、男子貴族から受け取った贈り物の一覧。名前と日付と品物の種類まで。


 全部、書いてあった。


 (誰が……誰がこれを)


 頭が、白くなった。


「リナ、これは本当のことか」


 クロードの声が、遠かった。


 (落ち着いて。いつも通りにすれば。困った顔をして、涙をこらえて、そうすればクロードはまた私の味方になる。いつもそうだった。それでうまくいってきた)


 リナは顔を上げた。困ったような顔を作ろうとした。


 でも今日は、その顔が出てこなかった。


 (なぜ。なぜ出てこない)


 手が震えていた。


「リナ」


 クロードの声が、また来た。今度は少し、冷たかった。


「ちょっと待ってください!」


 リナは声を上げた。「これ、でっちあげじゃないですか!あの悪役令嬢が私を陥れようとして作ったものでしょう。なんで今更あの女の言うことを信じるんですか!あのエリーゼという令嬢が、どれだけ私を目の敵にしてきたか、皆さまご存知でしょう!」


 広間がざわめいた。


「リナ……」クロードが眉をひそめた。


「そうですわよ!あの書類は嘘だらけのはずですわ!毎日毎日嫌がらせをして、陥れようとしてきた女が作ったものを信じるなんておかしいでしょう!」


 でも、広間の空気は変わらなかった。


 セドリックが静かに口を開いた。「リナ嬢。この書類の中に、私自身が目撃したものが含まれている。エルヴィンとクラウスも、それぞれ自分が実際に受け取った言葉だと確認している」


「私がこれを見て最初に疑ったのも、でっちあげじゃないかということだった。でも調べた。一つ一つ確かめた。本物だった」


「俺も……俺も同じことを言われてたのか」


 別の男子貴族が呟いた。


「そんな……そんなの、おかしいですわ!」


 リナは書類を見た。記録の精度が、異様に高かった。日付も、場所も、言葉の細部まで。他のページを見た。裏付けのない記述。曖昧な日付。


 (これはでっちあげだ。でも、このページだけは違う。このページだけが、本物だ)


「嘘です!全部嘘!」


 いつもの冷静さが、崩れ始めていた。「こんなの信じる必要なんてないでしょう!私は何も悪いことなんてしていない!あの女が勝手に私を嫌って、でっちあげを作って──」


「リナ」


 クロードが、ゆっくりと口を開いた。「俺に言ってくれたことも、エルヴィンに言ってくれたことも、クラウスに言ってくれたことも、全部同じ言葉だったのか」


「それは……っ」


「俺だけだと思ってた」


 クロードの声が、小さかった。傷ついている声だった。


 リナの中で、何かが焦った。このままではまずい。クロードを失うわけにはいかない。この場を収めなければ。


「クロード様、誤解です!私が一番大切にしているのはクロード様だけです。あなただけです。他の人たちとは違います。信じてください」


「……リナ」


「本当です!あの書類は偽物です。あの令嬢が私を嵌めようとして──」


「その書類」セドリックが静かに言った。「出所がわかった。大半は、フローラ嬢たちがでっちあげたものだ。でも一部だけが違う。精度が全然違う」


 セドリックが書類の一枚を持ち上げた。「こちらの記録は、ヴァルドラン嬢が独自に調べたものと見られる。日付も証言者の名前も、全部実際に確認が取れた」


「だから言ってるじゃないですか!あの女が──!」


「リナ嬢」


 セドリックの声が、静かだった。「ヴァルドラン嬢が証拠集めに加わったのは、フローラ嬢たちが発案した後のことだ。そして、フローラ嬢たちの書類とヴァルドラン嬢の書類は、全く別物だ。フローラ嬢たちはでっちあげを作った。でもヴァルドラン嬢は……事実だけを書いた」


 広間が、静まり返った。


 リナは書類の端に目が止まった。小さな文字があった。


 エリーゼ・ヴァルドランの筆跡だと、リナにはわかった。几帳面で、丁寧で、一文字一文字がきちんとしていた。


 (ずっと、見ていたのか)


 ぞっとした。


 食堂でのあの視線。授業中のあの冷たい笑い。廊下での、あの目。全部、ただの悪役令嬢の振る舞いだと思っていた。


 (観察されていた? ずっと、私が)


「もういい」


 クロードが言った。声が、平らだった。


「リナ、俺は……俺はリナのことを守りたかった。でも、俺だけじゃなかったんだな」


「クロード様、違います!私は本当に──」


「もういい」


 静かな声だった。でも、それが一番怖かった。


(やめて。そんな顔をしないで。困った顔を見せれば、あなたはいつも動いてくれたじゃない。なんで今日は動いてくれないの)


 クロードが、半歩だけ下がった。


 たった半歩だった。でもその半歩が、今まで感じたことのない遠さだった。


 リナは俯いた。


 困った顔が、出てこなかった。涙が、出てこなかった。


 初めて、武器を全部失った気がした。


 計算が、全部崩れた。


 誰かが言った。「そういえば、ヴァルドラン嬢は今日、図書室にいるそうだぞ」


 図書室。本を読んでいる。


 (……知らないのか)


 自分がここで崩れていく間、あの令嬢は図書室で本を読んでいる。何も知らない顔をして。いや、実際に、何も知らないのかもしれない。


 ただ調べたかっただけで、ただ知りたかっただけで、使うつもりなど最初からなかったのかもしれない。


 (それが……一番こわい)


 意図して仕掛けられたなら、まだわかる。でも違う。


 あの令嬢はただ、本当のことを知りたかっただけだ。それだけのことが、こんなふうに機能した。


 (ずっと見られていた。全部、見透かされていた。なのに、あの令嬢は今、図書室で本を読んでいる)


 リナは広間の床を見つめた。


 何も、出てこなかった。





    第七章 ありのままで





 エリーゼは図書室で、本を読み終えた。


 旅する少女は、最後に知らない国の朝を歩いていた。自分の足で、行きたい場所へ向かっていた。


 (……いい話だった)


 本を閉じた。学園がざわついていることは、うっすら感じていた。でも、関係なかった。


 (私はもう、降りたのだから)


 棚に本を戻した。背表紙を一度だけ撫でた。また来よう、と思った。


        ◇


 廊下を歩いていたら下級生が荷物を落とした。何も考えずに拾って渡した。


 下級生が目を丸くした。「あ、ありがとうございます……」


 (……普通のことをしているだけなのに)


 あのキャラの後遺症だ。少し苦かった。でも、今からでも遅くないとも思った。


 授業で隣の席の生徒がつまずいていた。小声で教えた。「え、いいんですか」という顔をされた。


 (……少しずつ、でいい)


        ◇


 放課後、中庭に来た。


 ベンチに座ると、しばらくしてヴァイセンベルクが来た。いつものように、少し離れた別のベンチに腰を下ろした。


 どちらも喋らなかった。風が通り過ぎた。木の葉が揺れた。


「……静かだな」ヴァイセンベルクが言った。「そうですね」


「お前はいつもここにいる」「あなたも、いつも来ますね」「静かだから」


 そうですね、ともう一度言おうとして、やめた。なんとなく、少し、笑えた。


 ヴァイセンベルクがこちらを見た。「笑ったな」


「……少し、おかしくて」「何が」「毎回同じ会話をしている気がして」


 ヴァイセンベルクが少し間を置いた。「……そうかもしれない」


 また沈黙が来た。悪くない沈黙だった。


「……ヴァルドラン、と言ったな」「はい」


「名は」「エリーゼです」


 ヴァイセンベルクが少し、目を細めた。「やはり……エリーゼ」


 何かを確かめるように、もう一度呟いた。


「……ルーカス、という名前に、心当たりはないか」


 私は少し、止まった。「ルーカス……」


 どこかで聞いた名前だった。遠い記憶の中で、誰かが呼んでいた名前。


「……五歳のとき、一緒に遊んでいた男の子が、そういう名前だったような……」


「そうか」


「……まさか」


 私はヴァイセンベルクを見た。ヴァイセンベルクも、私を見ていた。


「十二年ぶりだな」


 静かな声だった。私は少し、言葉を失った。


「……どろんこになって走り回った、あの庭の」「ああ」


「……知っていたのですか。ずっと」「転校してきてすぐにわかった。でも、言い出せなかった」


 私はしばらく、ルーカスを見ていた。十二年。あの日から十二年。随分大きくなった。でも、その目の奥に、あの頃と同じ何かがある気がした。


「……私のことを、覚えていたのですね」


「忘れるわけがない」


 短い言葉だった。でも、迷いがなかった。


 私は前を向いた。中庭の花が、夕暮れの光の中でゆれていた。


 (……こんなところで、再会するとは)


 胸の奥が、じわりと温かかった。


        ◇


 帰り道、ルーカスが隣にいた。


 幼馴染と判明してから、なぜか自然に、一緒に歩くようになっていた。


「……中庭で笑っていた」


「……そんなに変でしたか」


「いや。よかった」


 しばらく、沈黙が続いた。夕暮れの道に、二人の影が伸びていた。


「……聞いたぞ」ルーカスが言った。「広間で君が早退したときのこと。学園中の話題になっていた」


「そうでしょうね」


「……あの場で、そのまま全部読み上げることもできたはずだ」


「そうかもしれません」


「でも、やめた」


「……気分が変わったので」


 ルーカスが少し、笑った気がした。声には出なかった。でも、横顔が少しだけ緩んだ。


「……今のお前の方が、ずっといい」


 エリーゼが少し、止まった。


 (……今の私の方が)


 今まで誰も言わなかった言葉だった。「さすが」「完璧」「ヴァルドラン家の令嬢らしい」。そういう言葉は何度も聞いた。でも、今の方がいい、は初めてだった。


 今の私。孤立して、婚約も解消されて、悪評だけが残った。そんな今の私の方が、ずっといい。


 その言葉が、じわりと胸に沁みた。


 エリーゼは前を向いた。少し、口の端が上がった。自分でも気づかないくらい、小さく。


「……そうでしょうか」


「ああ」


 それだけだった。二人で並んで、歩いた。空が、夕焼けで染まっていた。


 十七年間、このキャラを演じてきた。演じさせられてきた。


 それはもう、終わった。


 今は、ただ歩いている。ありのままで、歩いている。


 隣に、十二年ぶりに見つけた幼馴染がいる。


 今日は、少しだけ足取りが軽かった。


 頬が少し熱い気がした。それはきっと、夕暮れの空気が温かいからだ。


 そういうことにしておこう。


 今は、まだ。





    第八章 エピローグ




 

 学年末の祝賀パーティー。

 会場は、進級を祝う生徒たちの高揚感に包まれていた。

 本来なら、私はこの会場の中心にいたはずだった。


 ふわりと広がるドレスを纏い、困ったように眉を下げて見せれば、クロード殿下や高貴な騎士様たちが競うように私をエスコートしてくれたはず。でも、今の私の周りには、冷たい空気だけが流れている 。


(……どうして。どうして誰も私を見ないの?)


 あの断罪劇の日から、私の「武器」はすべてガラクタになった。

 エリーゼ様が残したあの「事実の記録」は、学園中に広まっていた。日付、場所、そして私がそれぞれの殿方に囁いた甘い言葉の数々 。それがあまりに正確だったせいで、私がどんなに「あれは誤解です」「エリーゼ様に嵌められたんです」と涙を流しても、誰も信じてくれなくなった 。


 今の私の一番の絶望は、虐められることではない。「透明な存在」として扱われることだ。


「リナ嬢、少しよろしいですか」


 声をかけてきたのは、かつて私のためにエリーゼ様に詰め寄ってくれた男子生徒の一人だった。私は即座に、鏡の前で何度も練習した「今にも泣き出しそうな、儚げな笑顔」を浮かべる。


「はい……私、皆さんに顔向けできるような立場ではございませんが……」


 これまでの成功体験が、私に最高の演技をさせる。けれど、彼の目は少しも揺れなかった。それどころか、憐れむような、あるいは軽蔑するような冷めた視線が私を貫いた。


「いえ、事務的な連絡です。君が受け取った贈り物の返還、あるいは相当額の弁済についての最終確認です。……あと、その顔。もうやめた方がいいですよ。みんな、その表情が『計算』だと知っていますから」


 彼はそれだけ言うと、ゴミを見るような目をして去っていった。

 心臓がドクンと跳ねる。私の最大の武器だった「困った顔」が、今や「私は嘘つきです」と宣伝する看板に変わってしまったのだ 。


 会場の入り口がざわついた。

 現れたのは、エリーゼ様と、ヴァイセンベルク公爵家のルーカス様だった。


 エリーゼ様はもう、以前のような高慢な笑みを浮かべてはいなかった。扇も持たず、着飾ることもなく、ただ自然な微笑みを浮かべてルーカス様と談笑している 。その姿は、今の私よりもずっと美しく、そして何より「自由」に見えた 。


 視線が、一瞬だけ重なった。

 私は反射的に、被害者を装う悲しげな瞳を向けた。本能が、彼女の罪悪感を煽ろうとする。


 けれど、エリーゼ様は私を見て、ふっと優しく目を細めた。

 怒りも、勝ち誇ったような色もない。まるで、道端に咲く名もなき草花を眺めるような、どこまでも無関心で、穏やかな視線。


「……っ」


 言葉すら交わさず、彼女はそのまま通り過ぎていった。

 今の私にとって、彼女に罵倒されるよりも、その「関心のなさ」が何よりも深く胸を刺した。彼女はもう、私の土俵にさえ立っていない。私がどれほど演技を磨こうと、彼女に届くことは二度とないのだ。


 パーティーの音楽が鳴り響く中、私は一人、会場の隅に立ち尽くしていた。

 どれほど涙を流しても、誰の袖も引けない。

 どれほど言葉を重ねても、誰の心も動かせない。


 自ら作り上げた嘘の檻の中で、私はこれから、ただの「リナ」として生きていかなければならない。誰も信じてくれない、真っ当な言葉だけを紡ぐ、退屈で孤独な人生を。


 窓の外には、エリーゼが「広い」と感じた青い空がある。

 けれど、リナにはそれが、あまりに遠く、冷たく感じられた。

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「早退させていただきます。もう、悪役令嬢キャラには疲れました。」、いかがでしたか?


今作は、私自身が一番力を入れて書き上げた渾身の一作です。

本来なら断罪されるはずの悪役令嬢が、「疲れた」と勝手に早退してしまう……。そんな自由なエリーゼを書いている間、私自身もとてもワクワクしていました。


物語の後半、リナの視点についても「計算高い彼女にとって、何が一番の罰になるだろう?」と考え抜き、物理的な罰ではなく、自分の武器が一切通用しなくなる「孤立」を描きました。


スカッとした!と思ってくださったり、エリーゼとルーカスの今後がもっと見たい!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)や感想で教えていただけると、本当に飛び上がって喜びます。


実は、この二人の物語をさらに深掘りした「連載版」の構想も膨らんでいます。

皆様の応援が、次の物語を紡ぐ最大の力になります!


また他の作品、あるいはエリーゼたちの続きの物語でも、お会いできることを楽しみにしております^^

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