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魔法が使えないと笑った殿下へ。私には花があります  作者: 花詠


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破棄の夜、私は泣かなかった

 蝋燭の光が、まるで息をするように揺れていた。


 王宮の大広間。シャンデリアに灯された数百の炎が、集まった貴族たちの宝石を照らし、その全てを金色に変えている。音楽が流れ、ドレスが翻り、笑い声が絶えない——華やかな春の夜会は、今まさに最高潮に達していた。

 イリス・ヴァンフォードは、その端に立っていた。

 白を基調としたドレスは装飾も宝石も最小限で、流行の型からも少し外れている。けれど生地の織り目には古い紋様が細かく刻まれており、公爵令嬢にふさわしい品のある一着だった。

 しかし彼女の心は、とうに別のところにあった。窓の外、王宮の庭園に目をやると、月明かりの中にひっそりと白い花が咲いているのが見えた。


 (スズラン。花言葉は——「幸福の再来」)


 前世の記憶が、ふいに囁く。十七年前、この世界にイリスとして生まれる前。日本という国で、小さな花屋を営んでいた記憶。毎朝仕入れた花の名前と言葉を、帳面に書き留めていた記憶。

 その記憶は今も鮮明で、まるで昨日のことのように思い出せた。


「…ヴァンフォード嬢」


 声がした。

 振り返ると、人垣が割れていた。

 第二王子クロード・アスフォデルが、こちらに向かって歩いてくる。短く刈り込まれた金の髪は癖があり、どれだけ整えても毛先がわずかに跳ねる。すっと高い鼻梁、郁びた琥珀の瞳。日差しを浴びたように温かみのある頬が、青年らしい血色を帯びている。整った顔立ちの中で、少し幅の広い顎だけが無骨さを残していた——それがかえって、令嬢たちの目を引くのだとイリスはずっと思っていた。薄いピンクの唇は今、かすかに引き結ばれている。


 イリスの婚約者。——いや、今夜までの、元婚約者。


 彼の隣には、淡い桃色のドレスをまとった令嬢が寄り添っている。男爵家の令嬢、セレスタ・ベラドナ。肩の辺りで柔らかくカールした黒髪、くりくりとした大きな瞳、ふっくらとした頬——誰もが思わず微笑み返したくなるような、愛らしい顔立ちをしていた。社交界で「春の薔薇」と称される、高い魔力と愛らしい笑顔の持ち主。


 (ベラドンナ。綺麗な花だ。でもその果実は、毒を持つ)


 イリスは心の中だけで呟いた。二人は足を止め、目の前に立っていた。


「クロード殿下。本日の夜会は——」

「ああ、ちょうどよかった」


 クロードが遮った。声に、笑いが混じっていた。

 大広間の音楽が、ぴたりと止んだ。貴族たちが息を詰める。静寂が、波のように広がる。

 クロードはそれを楽しむように、一拍置いた。


「イリス・ヴァンフォード。貴様との婚約、破棄する」


 ざわめきが起きた。

「やはり……」「魔力のない令嬢では」「ヴァンフォード家も終わりね」


 クロードは令嬢たちの反応を確かめるように周囲を見渡してから、イリスに視線を戻した。その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいる。


「九年間、婚約者として扱ってきたが——正直、限界だ。魔力ゼロの欠陥品を王妃にするわけにはいかない。わかるだろう、イリス」


 名前を呼ぶとき、まるで虫でも払うような軽さだった。

 隣のセレスタが、申し訳なさそうな顔をして俯いた。上手い演技だとイリスは思った。


「お前のことは哀れだと思っている。生まれつき魔力がないのは、お前のせいではないからな」


 哀れ。

 その言葉を、クロードは大勢の前で、笑いながら言った。

 貴族たちの間から、くすくすという忍び笑いが漏れた。扇で口元を隠す令嬢たち。視線を外す男たち。誰も助けない。誰も止めない。

 イリスは、動かなかった。

 クロードの目を、真っ直ぐに見た。その目に浮かぶのは、嘲りと、優越感と——それから、かすかな期待だった。


 (泣くと思っているのね)


 縋って、懇願して、みっともなく泣き崩れる。それを期待している目だった。大勢の前で、自分がいかに正しい判断をしたかを証明したいのだ。

 だから——イリスは、微笑んだ。


「……承知いたしました」


 イリスの声は、驚くほど穏やかだった。


「殿下のご決断を、尊重いたします」


 クロードの笑みが、わずかに揺らいだ。

 予想と違う反応に、一瞬、何と言えばいいかわからなくなっている——その表情を、イリスは見逃さなかった。


「な……話はそれだけだ。お前には、相応の場所があるだろう」


「ええ。——そうですね」


 イリスの心の奥がふっと切れた。


「私にも、やることがありますから。」


 さっと別れの挨拶をし、くるりと踵を返す。ドレスの裾が白く広がる。誰も引き止めなかった。引き止める理由が、誰にも見当たらなかったのだ。



 大広間の扉を抜け、冷えた廊下に出た瞬間、イリスは静かに息を吐いた。

 震えは——なかった。

 泣きたい気持ちも——不思議なほど、なかった。

 あるのは、長い間水の底に沈んでいたものが、ようやく浮かび上がってくるような感覚だった。


 (ようやく、終わった)


 婚約が決まったのは八歳のときだ。魔力が「ゼロ」と鑑定されたその日、父は顔色を変え、母は泣いた。王家との縁談は破談になると誰もが思ったが、王妃の鶴の一声で「公爵家との繋がりは保っておけ」と婚約は継続された。

 それから九年間、イリスは「欠陥品」として生きてきた。魔法も使えず、特別な才能もなく——そう、周囲には、見えていた。

 廊下の窓から、庭園のスズランがまだ見えた。


 (幸福の再来。——ええ、そうかもしれない)


 イリスは手袋を外し、窓の桟に指先で触れた。石の冷たさが心地よかった。頭の中で、すでに計画が動き始めている。明日には荷物をまとめ、父に話をして——


「ヴァンフォード嬢」


 声がした。

 振り返ると、廊下の暗がりに人が立っていた。

 壁に背を預け、腕を組んでこちらを見ている。長身で、肩幅が広い。暗がりでもわかるほど、全身から「場慣れした者」の静けさが漂っている。


「...泣かなかったな」


「泣く理由がありませんでしたので」


 イリスは答えた。警戒しながらも、声は穏やかに保つ。


「そうか」


 それだけだった。

 男の声は低く、感情がなかった。侍従でも騎士でもなさそうな、質素だが上質な夜会服。腰に剣を帯びていないのに、なぜか剣を持っている人間に見えた。

 蝋燭の光に照らされて、その顔が少しだけ見えた。無造作に切り揃えられた焦げ茶の短髪。整っているのに表情がなく、感情を読ませない顔立ち。暗がりの中でもはっきりとわかる、深い緑の瞳——針葉樹の森の奥のような、暗くて静かな色をしていた。

 男は壁から離れ、イリスの前を通り過ぎようとして——ふと足を止めイリスを見た。暗がりでも、その目が鋭いことはわかった。値踏みするような目ではなく——何かを確かめるような目だった。


「……辺境に来るつもりがあるなら、声をかけろ」


 低い声で、それだけ言った。


「ヴァルク・エリカだ。お前の父親は知っている」


 そしてそのまま、夜の廊下へ消えていった。

 イリスはしばらく、その場に立ち尽くした。

 辺境伯ヴァルク・エリカ。名前は聞いたことがある。北の荒野を治める、魔力を持たない異例の辺境伯。王都の貴族社会からは距離を置いており、今夜の夜会に来ているとは思っていなかった。

 なぜ彼が、ここにいたのか。

 なぜ、まるで待ち構えていたように、声をかけてきたのか。

 そして——

「お前の父親は知っている」とはどういう意味か。


 (…………不思議な人)


 窓の外で、スズランが風に揺れた。

 幸福の再来。


 イリスは小さく笑って、歩き始めた。王宮に来るとき乗ってきた馬車が待っているはずだ。帰ったら荷物を整えなければ。それから両親に——


 (なんと伝えよう)


 婚約破棄されました、では説明が足りない。辺境に行きたいと伝えれば、反対されるだろうか。それとも、婚約を破棄されてしまった私にはもう価値はない、と切り捨てられるだろうか。あっさり私を切り捨てる父を想像できてしまうのが、少し悲しかった。


 でも、心が、不思議なほど軽かった。


 九年間、ずっと重かった何かが、今夜初めて肩から降りた気がした。


 (ようやく、私の物語が始まる)


 廊下の先で、蝋燭が一本、静かに揺れた。

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