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4話

グルルルル〜……。

静寂を切り裂いた、あまりにも正直な音。

目の前の獣人の少女は、自分の腹が鳴ったことに気づくと、はっとしたように顔を赤らめ、さっと両手で腹を押さえた。その拍子に、ふさふさの狼のような尻尾が、バタリと力なく地面に落ちる。


警戒と空腹。その二つの感情が、彼女の大きな琥珀色の瞳の中で必死にせめぎ合っていた。

俺はと言えば、緊張よりも先に、ある種の既視感を覚えていた。

この、飢えと疲労で限界を迎え、助けを求めることすらできずに追い詰められた顔。ブラック企業時代に、無理な納期の前で倒れそうになっていた後輩の顔と、不思議なくらいよく似ていた。


理不尽な環境で、ただ生きるために必死になってもがいている。

それだけで、彼女が少なくとも悪い人間――いや、悪い獣人ではないことだけは、なんとなく分かった。


俺はゆっくりと両手を上げて、敵意がないことを示す。


「……落ち着け。あんたをどうこうしようって気はない」


俺の言葉に、少女の狼のような耳がぴくりと動く。それでもまだ、彼女の体からは警戒心が解けていない。視線は、俺と、俺の後ろにある黄金のピーナッツの木とを、不安そうに行き来している。

どうやら、このピーナッツに引き寄せられてきたのは間違いないようだ。これだけ離れていても分かるほどの、何か特別な匂いでも放っているのだろうか。


「腹、減ってるんだろ」


俺は問いかけながら、ピーナッツの木に近づき、一番大きく実っていた黄金の莢を一つ、ぷちりともぎ取った。その瞬間、少女の肩が大きく跳ね、喉をごくりと鳴らすのが見えた。


俺はゆっくりとした動作で彼女に近づき、五歩ほど手前で立ち止まる。そして、持っていた黄金のピーナッツを、手のひらの上に乗せて、そっと差し出した。


「食うか?」


少女は俺の行動が信じられない、という顔で固まっている。差し出されたピーナッツと、俺の顔を何度も見比べる。その瞳には、まだ拭いきれない疑いの色が浮かんでいた。


まあ、無理もないだろう。

見知らぬ男が、いきなりこんな荒野の真ん中で、食べ物を差し出してくるんだ。毒が入っていると疑うのが普通だ。


だが、空腹はあらゆる理性を麻痺させる。

再び、彼女の腹から「きゅぅぅ……」と、さっきよりも弱々しい音が鳴った。それが最後の一押しになったらしい。

少女は意を決したように、震える手で、俺の手のひらの上から黄金のピーナッツをひったくった。そして、俺から距離を取ると、まるで宝物でも扱うかのように、その黄金の莢を両手でそっと包み込む。


俺は黙って、その様子を見守っていた。

少女はしばらく葛藤していたが、やがて耐えきれなくなったように、固い殻を必死に割り始めた。

そして、中から現れた黄金色の豆を、おそるおそる、小さな口へと運ぶ。


カリッ。


その瞬間、少女の琥珀色の瞳が、信じられないものを見たかのように、カッと大きく見開かれた。

動きが止まる。

数秒の静寂の後、少女はまるで我に返ったかのように、残りの豆を夢中で口の中に放り込み始めた。


「……んっ、んぅ……!」


頬袋をいっぱいに膨らませ、夢中で咀嚼する。その目からは、いつの間にか大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちていた。

よほど腹が減っていたのだろう。そして、よほど美味かったのだろう。


俺が初めてこのピーナッツを食べた時も衝撃を受けたが、彼女の反応はそれ以上だった。

そして、奇跡は彼女の身にも起きた。


「……あ……」


ピーナッツを飲み込んだ彼女の体から、ふわり、と淡い光が立ち上った。

それはすぐに消えたが、変化は明らかだった。

まず、疲れ切っていた顔に、血の気が戻っている。カサカサだった唇には潤いが生まれ、何より、生気のなかった瞳に、力強い光が宿り始めていた。ボロボロの服から覗く腕の、痛々しいほどだった擦り傷も、いつの間にか綺麗に消えている。


「な……なに、これ……からだが……あったかい……?」


少女は自分の両手を見つめ、信じられないといった様子で体をさすっている。

その様子を見て、俺は改めて自分のスキルの異常さを再認識した。これはもう、ただの農業スキルじゃない。生命そのものに干渉する、神の領域の力だ。


少女はゆっくりと立ち上がると、俺の方へ向き直り、そして、深々と、頭が地面につきそうなほど腰を折った。


「あ、あの……! ありがとうございました……! 助けて、いただいて……!」


さっきまでの警戒心はどこへやら、今はただただ感謝と畏敬の念が、その全身から溢れ出ていた。


「いいってことよ。それより、名前は? 俺はユズル。見ての通り、しがない人間だ」

「わ、わたしは……フェン、と、言います……」


フェンと名乗った彼女は、まだ少し緊張しながらも、しっかりと俺の目を見て答えた。


「フェン、か。あんた、なんでこんな場所に一人で?」


俺がそう尋ねると、フェンの表情がふっと曇った。尻尾も力なく垂れ下がる。どうやら、あまり思い出したくない事情があるらしい。


「わたしの村……ずっと日照りが続いて、作物が、何も採れなくなって……」

「……」

「それで……口減らし、のために……村を、追い出されました……」


途切れ途切れに語られる彼女の境遇は、あまりにも過酷なものだった。

作物が育たない土地。そして、生きるために仲間を切り捨てるしかない、追い詰められた人々。

それは、ある意味で俺を追放した王国の姿と、そして利益のために平気で社員を切り捨てるブラック企業とも重なって見えた。


「そうか……。あんたも、追放組か」

「え……?」

「俺もだよ。役立たずだって言われて、この荒野に捨てられたんだ。お仲間だな」


俺が自嘲気味に笑うと、フェンは驚いたように目を見開いた。

まさか、こんな奇跡の作物を作れる人間が、自分と同じ「追放された者」だとは思ってもみなかったのだろう。

だが、その一言で、俺たちの間の最後の壁が取り払われた気がした。


「……」

「……」


気まずい沈黙が流れる。

フェンは行くあてがない。このまま荒野をさまよえば、また飢えて倒れるだけだろう。

俺は、といえば、話し相手ができたのは嬉しい。一人での生活は、自由で最高だが、少しだけ寂しいのも事実だった。それに、彼女が狩りでもできるなら、食生活は格段に向上する。


俺は意を決して、口を開いた。


「なあ、フェン」

「は、はい!」

「あんた、行くあてがないなら……ここに住まないか?」

「え……?」


フェンが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。


「見ての通り、食い物(野菜)だけは有り余ってる。寝床も、昨日作ったばっかの新品だ。俺が寝床と飯を提供する」

「……」

「その代わり、と言っちゃなんだが……。あんた、狩りとかできるか? 正直、そろそろ肉が食いたい」


俺の提案に、フェンはしばらく呆然としていたが、やがてその言葉の意味を理解すると、琥珀色の瞳を潤ませ、わなわなと震え始めた。


「い、いんですか……? わたしみたいな、役立たずを……ここに、置いてくれるんですか……?」

「役立たずはお互い様だろ。それに、これから役に立ってもらうんだからな」


俺がニッと笑って見せると、彼女の瞳から、ついに堪えきれなかった涙がぼろぼろと溢れ出した。


「……はいっ……! はいっ……!」


何度も、何度も、彼女は力強く頷いた。

それは、絶望の淵から救い上げられた者の、魂からの肯定だった。


こうして、俺の荒野でのスローライフに、最初の仲間が加わった。

一人と一匹の、奇妙な共同生活。

それが、どんな日々になるのか。この時の俺は、まだ知る由もなかった。



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