前編
飲酒は一種の自傷行為だ、と馬鹿真面目なヤツが語っていたことを思い出す。旨く偽装された神経毒を体内に流し込み、頭も身体もじわりじわりと麻痺させて、死に向かう速度を少しだけ速める儀式。酒を飲んでいるのは馬鹿か、もしくは自分自身が嫌いな奴だけだ、とその友人は吐き捨てていた。
その指摘はあながち間違いではないだろう。
酔いが回ってきた頭で、オレは目の前にある木杯をなんとなく眺める。氷がほんのりと溶けた琥珀色の液体には自分の顔がーー狼の頭が映っている。
それは酔いが見せる幻などではない。現実だ。
しかし牙を剥き出しにして、気味の悪い顔を浮かべる姿はどうみても悪夢じみていた。
「なんだなんだ、あいも変わらず、自分が不幸でたまらないよーって背中をしているね。オヤブン」
年季の入った扉が、ギイィと開く音がする。酒場に不釣り合いな甘ったるい匂いが鼻をくすぐった。
ヤツが来たらしい。顔が少しむずがゆくなる。
反射的に浮かんだ悪態を、振り返りもせず告げた。
「あまり明るい声を出すな。頭に響く」
「え、別に普通なんですケド。努めて明るくなんてしていませんし。……まあ、オヤブンに会えて少し心が浮き足立ってるかもしれないけどさ。あ、マスター、ミルク一つ頂戴ね。ぬるめのやつ」
肩ほどまで伸びた桃髪をなびかせ、さも当たり前のようにオレの隣にあるカウンター席に座った男ーーリリックは、端正な顔面を歪めた。
「うわ、またメチャクチャ度の強い酒飲んでるじゃん。いくらお酒に強いからって。そんなに毎日、バンバン飲んでたらいつか倒れるよ」
「別に構わんだろ。こちとら倒れたくて飲んでんだ」
酒に含まれる成分が、微量な毒が、肉体を確実に犯していく。毒に強い耐性のあるオレの身体にとって無意味な行為と知りながらも、しかし自身の身体を傷つけているという事実にほの暗い喜びを覚えるのだ。
「その自己破滅願望的なものは理解できなくもないけどさ、しかし相変わらず暗いね親分。やっぱり僕の苦手なタイプだ」
木製のカウンターに頬杖をつき、リリックは行儀悪くオレの話を聞いている。深紅の瞳はオレの目をじっと見て離さない。
「お前は相変わらず底抜けに明るそうだ。……しかし、こんな時間にオレのところに来るってことは依頼か」
「オヤブンは話が早すぎて少し寂しいよ。もっと雑談しよう?」
「暗殺か、戦場か、護衛か。さっさと言え」
深夜。街の大通りからは遠く離れた酒場の『隻眼亭』。
入り組んだ路地の先にひっそりと構えていることもあり、なにも知らない人間が辿り着くことはまずない。オレとリリックのような汚れ仕事を行う人間が集う場所となっている。
表の冒険者ギルドと比較して『闇ギルド』なんて呼ぶヤツもいるが、別に組織でもなんでもない。ここに来るようなヤツは皆、どこにも属さないはぐれモノだ。
「はぁ……オヤブンに魅了が通じないことが、たまに辛く思えるよ」
ため息をつく目の前の男、リリックはサキュバスだ。なかでも稀少なインキュバスであり、男でありながらサキュバスと同等ーーいや、サキュバス以上のチャーム能力を持つ。
顔も身体も一見すれば美しい少女にしか見えないが、その性格も性遍歴も実際のところは凄まじい。
「うるさい。大体、男も女も問わず、ほぼ毎日のように宿屋で盛っているヤツに言われてもな。お前を求める奴などこの街を埋め尽くすぐらいいるだろう」
「ちょっと、あんまり昔の話を持ち出さないでよ。そりゃあ前は毎晩のようにシてましたケド? オヤブン一筋の今は、一人で慰めてるんだから」
「そうかい。同じセリフをいったいどれだけのヤツに吐いたんだろうな」
「自分から口説いたことは無かったよ。オヤブンが初。……街を歩いているとどうしても声をかけられるんだよね、魅了もかけてないんだけど」
マスターから差し出されたホットミルクをちびりちびりと飲むリリックは、唇の端に残った白い液体を舌で艶めかしく舐め取りながら呟いている。
「まあ、オヤブンにだけはいまもバンバンかけてるんだけどね、魅了」
「おぞましい事を言うな……噛みちぎるぞ」
「それって狼男なりのキスの暗喩?」
銀貨を指で飛ばし、ヤツの額にぶつけて黙らせた。
「いったぁああああああああ! ちょっとからかっただけじゃん! ほんと、すぐに手が出るんだから!」
「オレは今、チップを渡しただけだ。ほら、さっさと早く依頼内容を言え」
「……絶対に今度、寝込みを襲ってやる」
いじけているリリックの顔を肴に、度の強い酒を一気に流しこんだ。
◆◇◆◇◆◆◇◆◇◆
街の近くにある洞窟に陣取った盗賊団の壊滅。
要は殺人が依頼だった。
暗殺や護衛ほど気を遣わなくていいうえに、戦場ほど長期に渡る仕事というわけでもないため、個人的には歓迎だ。依頼料も悪くない。
おまけにターゲットが社会悪であり、諸々の軋轢を全く気にしなくていいのも楽なところだった。依頼を終えた後も色々な因縁を付けられる貴族絡みなどと比べれば非常にマシな部類である。総じて、良い仕事だった。
しかし、森林を歩くオレの足は少し重い。
街から今に至るまで、ずっと付かず離れずの距離を保って付いてくるやつがいるからだ。
構うのも面倒だったので無視を決め込んでいたのだが、しかし盗賊団のアジトも近くなってきた。
いい加減、話しかけることにする。
「なんで付いてくるんだ」
「お小遣い稼ぎ」
駆け寄り、オレを見上げるリリックは満面の笑みで呟いた。頭をすっぽりと覆うようなフード付きのロングコートを身につけている。目立つ桃色の髪は完全に隠せているのだが、しかしコイツ特有の濃厚な甘ったるい匂いはいつもと変わらない。香水などはつけていないというので、恐らくはサキュバスの種族特性的なものなのだろう。
しかし、こいつの『お小遣い稼ぎ』にも困ったものだ。
「またか。……お前、戦闘は苦手だっただろう」
「苦手って。オヤブンと戦ったら負けちゃうけど、でも足をひっぱるつもりはないよ。後ろで応援しながらサポートする」
「いつも言っているが、いらん。オレ一人で十分だ」
「どんな大群を前にしても、オヤブンなら同じ事言いそう」
「助けを借りるなんざ御免だからな」
「またそうやって他人を遠ざけて」
悪い癖だよ、とリリックは言う。
しかしオレの経験上、仲間をつくったところでロクなことにならない。背中を預けるなどゾッとする。ナイフをいきなり刺されて終了だ。少なくともオレはそうだった。
「誰かを信頼なんてできるわけないだろ」
「それは僕も同意。だけど、一人でできることには限度がある。それに信頼じゃなくて信用……利用ならオヤブンにもできるでしょ」
「悪いが不器用なんでな。お前みたいに策謀や裏切りを画策することは無理だ」
「ひどい言い草だね。ま、今回の依頼でオヤブンの実力を利用するのは事実その通りだけど」
「開き直ったな」
分かっていたことではあるので別に驚きはしない。それに、リリックが今回のように小遣い稼ぎと称してオレの依頼に付いてくるのは珍しいことではない。
あるいは、リリックが受けた依頼にオレが駆り出されているとも言えるか。
「でもオヤブンは、僕がどんなに酷いことをしても、僕の事を本気で遠ざけたりしないでしょ」
頭の後ろに手を回し、あっけらかんとリリックは呟く。
楽観的な発言、というわけでもない。
あまり認めたくないことだが、コイツが持ってくる依頼によってオレの生活はかなり助けられている。
表のギルドから多くの恨みを買っていて、依頼を受けることすら不可能な身の上にあるオレにとって、コイツが持ってくる依頼は貴重な収入源の一つだった。
ゆえに本気でリリックの提案を撥ね除けることはできない。
その発言は間違っていない。いないが、リリックのにやにやとした表情が癪に障るので、表だって肯定はしない。
「……口よりも足を動かせ。置いていくぞ」
「はいはい、オヤブン」
「それと前から言っているが、親分なんて呼び方は止めろ」
別にリリックはオレの弟子でもなければ子分でもない。無論、血の繋がった家族などでもない。にも拘わらず、リリックはオレの事を馴れ馴れしい口調で『オヤブン』と呼ぶ。
気に障るとまではいかないものの、その呼び名に歯がゆさを感じるのも事実だ。頭の奥がむず痒くなる。
「えぇ……。だってオヤブン、名前教えてくれないし、兄貴とも師匠とも旦那とも呼んじゃいけないって言うし。もう、なんて呼べばいいのさ」
「名前を呼ぶなってことだ」
馴れ馴れしくするな、と暗に言っているのだが。
「視線と背中で意思疎通、信頼関係にドキッとしちゃう」
「オレはお前の想像力がたまに恐くなるよ」
もういくら対話を重ねたところで改善するのは無理だろう。
早くも疲労感を感じながら、左斜め上ーー木の枝に乗った状態でこちらに弓矢を向けていたゴブリンに懐のナイフを投擲。首を一刺しにして絶命させる。
「……僕は、オヤブンの索敵能力が恐いね」
「なんだ、見逃したほうが良かったか?」
その場合、照準先にあったリリックの身体には矢が刺さっていただろうが。
「お前の場合、矢の一つ程度刺さったところでどうともないだろうがな」
「なんか僕を怪物みたいに言うの止めてくんない。助けてくれたことには感謝するけどさ」
「有り難く思ったのなら金を寄越せ。言葉などいらん」
ありがとう。
助かりました。
そんなものに意味はない。報酬は物でなければならない。
金の催促のために後ろへと手を伸ばすと、そっとリリックの手が置かれた。振り返ると、潤んだ瞳でこちらを見上げている。
「身体で支払ってもいい……?」
オレは背中の獲物を振り上げた。
「首か、心臓か。好きな方を選べ」
「そういう意味じゃないんだけど!」
頭に一撃。軽く拳を振り落とす。
「ぜったい、ゴブリンの矢より痛いってぇ!」
「なら軽々しく言葉を吐くな。身体で払うなどとな」
冗談にしてはタチが悪い。
「……自分の事を棚に上げてよく言うよ。それに僕がどんな生活を送ってきたのか、知ってるくせに」
「だとしてもだ。身体は洒落でかけていいものではない。ましてや、オレなどというバケモノにな」
「バケモノって……」
ーーそんな風に自分を貶めるのは止めなよ。
ーーそれに、冗談なんかじゃないんだけどな。
オレの獣耳は小さな呟きを拾った。
幻聴か、聞き間違いか、あるいは目視できる程の距離にある盗賊団のアジトーーそこにいる誰かが漏らした声か。
なんにせよリリックのものではないだろう。無視だ。
「……目的地が見えてきた。そろそろ気を張れ」
「難聴」
「聞こえないな」
「聞こえてんじゃん」
尻尾でリリックの口を巻き、塞ぎ、黙らせた。
「……むぐっ! むぐぐ……ぐーっ!」なにやら暴れているが、そのまま窒息死してくれると、こちらとしては助かる。
冷静に、落ち着いてアジトの様子を観察することができるからだ。
さて、仕事を始めよう。