「愛してる」
「…………」
胸に顔を埋めた櫻が寝息を立て始めた頃、紅蓮は詰めていた息をようやく吐き出した。
────女衆の入れ知恵だったのか……
やたら色っぽい服だったのは、胸元の色香で紅蓮を誘うため。
懐かしい座り方をしてきたのは、あの頃との違いを紅蓮に自覚させるため。
抱きついてきたのは、“1人の女性”になった自分の成長を、紅蓮に気付いてもらうため。
全部全部、紅蓮のため、だった。
「……櫻」
その先の言葉は、まだ言えない。なのに、君は。
「……ん、おにいちゃん」
そう言って、顔を上げるのだ。
「悪い、起こしたか」
「ん……だいじょぶ」
「櫻」
「……? なぁに?」
「ちょっと、起き上がれるか?」
二人して起き上がって、枕元の燭台に明かりを灯して。
「お兄ちゃん?」
「……なぁ、顔、よく見せて」
「???」
彼女の顔を両手で包んで、柔らかな頬をムニムニと弄った。「んむぅ〜」と言いながら素直に弄られてくれる櫻に、紅蓮は少し笑ってしまう。
そして。
「──綺麗になったな、櫻」
「……っ、ふぇ?」
「綺麗だよ、凄く。大人になったな、櫻」
ずっと、贈りたかった。
認めてあげたかった。
必死で追いつこうとするその姿が、いじらしくて、可愛くて、愛おしくて。
彼女が伸ばすその手を引いて、骨が軋むほど抱き竦めたくて、艶やかに色づくその唇に口付けたくて、たまらなかった。
でもそれは、きっと気の迷いなのだと封じ込めた。
自分の身の回りに女性がいなかったのは確かなのだし、この想いは【恋心】ではないのだと言い聞かせた。
ましてや、彼女には“兄”として接してきたのだ。
『お兄ちゃん』
彼女がそう呼ぶたびに、キリキリと胸が痛くなりながら兄の顔をした仮面を被った。
『お兄ちゃん』なんて呼ばないで。
そう呼ばれてしまうと、“そう在らなければ”と思ってしまう。
だから、『やめないか』と言った。告げるには早過ぎたけれど。とっくの昔から、櫻を見る目は妹を見るものじゃなかった。色を孕んで、押し殺しきれない激情を伴って、言葉にできない衝動を纏わせて。
伝わってほしい、気づいてほしい。
そう願いながら見つめていた。
けれど、彼女の唇が『お兄ちゃん』という言葉を紡ぐ度に、現実に引き戻された。
────そうだ、俺は櫻のお兄ちゃんなんだから。…………こんな感情、抱いていちゃ、いけない。
律して、制して、唇を噛み締めて、噛み切って。
血の味が滲む口で、【家族への愛】の言葉を囁いた。兄が妹を褒めるような、色の無い無償の愛の言葉を、口にした。
心の中では、ずっとずっと想っていた。
ねぇ、櫻。
「櫻」
「な、ぁに?」
櫻が壊れない程度に抱き締めると、櫻は驚いたように身体を硬くして、けれどすぐに紅蓮の背中に手を回してくれる。
「櫻。──櫻、さくら」
「おにぃ、ちゃ」
「もう呼ぶな、それ」
「──ぁ」
何も聞かずに抱き締め返してくれるから、意識されて無いんじゃないか、なんて不安になる。
「呼んで、櫻」
「…………っ」
「ねぇ、櫻」
「…………」
「呼んでくれたら」
体を離して櫻と視線を合わせた。蕩けた甘い瞳が、ねだるように紅蓮を見つめる。
「ちゃんと、あげるから」
涙の幕が張る櫻の瞳は、驚くほど綺麗で。
「……………………ぐ、れん……っ、んぅ…………」
櫻の口から、櫻の声で、その言葉が紡がれた瞬間。紅蓮は彼女の唇を奪った。
紅蓮の背中に縋りついた櫻から、鼻に抜けるような甘い声が響く。
思考が蕩けて、視界がぼやけて、少しの罪悪感が脳裏を掠めて。でも、それを払拭するくらい心地よくて、離れたくなくて。離したくなくて。
「…………っぁ、あの、ぐれ……んん……」
「さくら、くちあけて」
「ん、んんっ…………」
とんとん、と紅蓮の胸を櫻の細い腕が叩く。
名残惜しく思いながら唇を離せば、顔を真っ赤にしながら荒い呼吸をする櫻が、涙を溢しながら紅蓮を見ていた。
「……いや、だった?」
急に心配になってそう聞けば、櫻は首を振りながら答えてくれる。
「や、じゃ……なぃ……」
「そっか」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
櫻は俯いて、着たままだった大陸の衣装をじっと見つめる。とっても綺麗な、柔らかな衣装。
きっと今、自分の顔は真っ赤だ。だってこんなに暑いもの。
泣きたいわけじゃないのに目には涙が溢れていて、聞いたこともないくらい、心臓がものすごい音を立てていて。耳元で鳴っているんじゃないかってくらい、大きな音がする。
「──さくら」
「……っふぁうぃ!!」
「落ち着け」
「ぁぅ……」
「──櫻、少し、風にあたろうか」
「……ぅん」
紅蓮も着流しを着たままだったので、それに羽織を引っ掛けて、障子を開けた。
そういえば自分は今どこにいるのだろうかと思えば、櫻も何度か訪れたことのある、紅蓮の家の一室だった。
冷静になって見回せばそこは板張りの部屋で、中央の囲炉裏がまだ温かさを残している。何故かそこに、布団も敷かずに二人はそのまま寝ころんでいたのだ。
そうだと気付くと気恥ずかしくなって、櫻は紅蓮と共に玄関に向かいながら、なぜここで寝ていたのか問うてみる。
からからと玄関を開けながら、紅蓮は何とも形容しがたい、微妙に気まずそうな顔になった。
雲のない月夜、月明かりを照明にゆったり歩く。
「……冷えてないか?」
「うん」
すり、と紅蓮の温かい手が櫻の頬を撫でる。
「お前、甘酒を飲んで酔っ払って眠っちゃたの、覚えてるか?」
「……うん」
実は少しだけ演技だったけれど、酔っていたのは事実だし、眠くなって寝てしまったのも事実だ。そこは素直に頷いた。
「あの後、お前何しても全然離れてくれなくて。でも外で寝るには涼しいし──ってことで、仕方なく連れ帰った。診療所でもよかったけど、楓さん、先生の介抱で手一杯だったから。仕事を増やすのも悪いと思って」
「……なんだか、ごめんなさい」
「いや?連れ帰ること自体は負担じゃなかったから。……でも俺も酒が入っていたからさ、家に着いたら眠くなって。気付いたら布団も敷かずにその場で寝てた」
「お兄ちゃんもお酒が入ると眠くなるんだ」
「今日からは櫻も、だな」
「…………うん」
祝宴の賑やかさが嘘のように静かになった村の道を、二人で並びながらのんびりと歩いて進んでいく。
どこに向かっているのか櫻にはわからないが、曲がり角や分岐に差し掛かると紅蓮が迷わず進んでいくので、目的地があるのだろうと紅蓮に従ってついて行く。
その、とき。
「…………っ!」
「…………櫻」
紅蓮がする、と櫻の手を取った。幼いころは散々繋いでいたはずなのに、櫻の中に明確に恋心がある今、手を繋がれると……飛び上がるほど、驚いてしまう。
「お、にいちゃ」
「そうじゃなくて、ちゃんと呼んで」
「……ぁ、えと……ぐ、紅蓮」
そう、正解。
そう言って静かに微笑んで、またゆったりと歩き出す。
「…………櫻の手は温いな」
「おに……ぁ、ぇっと…………ぐ、ぐれん、の、手も……あったかくて、気持ち、いい……よ」
「そっか」
短い一言に喜びの感情が含まれているのだと感じ取って、その事実に嬉しくなる。
『初対面の依頼人からは感じが悪いと言われる』と聞いたことがあるが、長い間一緒にいると、声色や表情を見ただけですぐにわかるようになる。
櫻になら“わかる”ことが、すごく嬉しかった。
「うん!…………ぁ……っん……」
嬉しくて嬉々とした表情のまま紅蓮に視線を向ければ、不意打ちで軽く口づけられる。ぽかんとした顔で紅蓮を見つめ返せば、櫻も見たことがないくらい溢れる色香と愛情を含んだ満足そうな表情で、愛おしそうに櫻を見つめていた。
「……ならいいんだ」
────なに、それ……
そんな表情、見たことない。
見たことのない表情に、また、いとも簡単に心を奪われてしまう。
それって、なんだか、すごく──
「……ずるい」
「何が?」
「……不意打ち、私ばっかりやられてる」
「…………」
────そりゃあまぁ、身長差的にも櫻が俺に不意打ちは難しいだろうな。横になっている時ならともかく。
紅蓮はそう思うのだけれど、櫻は自分ばかり不意打ちをくらっていることが不服らしい。なら、と。紅蓮は少し屈んで櫻の顔を覗き込んで言った。
「──不意打ち、やってみる?」
「……………………する」
へぇ、するんだ。
それも紅蓮は意外だった。してもらえる分にはいくらでもしてほしいけれど。
櫻は紅蓮の胸に手をついて目一杯背伸びし、『直視するのが恥ずかしい』とでも言いたげにぎゅっと目を瞑って、真っ赤な顔を紅蓮の目の前に差し出す。
自分でする、と櫻自身が言っているのだから、とりあえず紅蓮は直立不動で櫻を見つめているのだけれど。
「……っ、……ぅ」
「…………」
背伸びした櫻の足がプルプルと震えて、つられて全身が震えている。
「……櫻」
「ま、まって……! する、自分でする、から……だから、ちょっとだけ、待って」
「……櫻、落ち着いて目ぇ開けろ」
「……っ、…………うぅ」
櫻の両頬を両の手のひらで包んで、むにむにうりうりと弄る。
「んむむ!ひょっひょまっふぇ!」
「ふふ、可愛い」
「んなっ!」
拗ねたみたいに唇を尖らせて、顔を真っ赤にした櫻が視線を逸らす。暗闇でもそうとわかるくらい、耳まで赤い。
「……ぜんぜん、できない……」
「無理に背伸びしなくていい。櫻、俺はそのままの、背伸びをしていない櫻の方が、ずっとずっと好きだ」
「……ぁ、ぇと」
「櫻、顔あげて」
「…………っ」
いつになく優しい顔をした紅蓮が、櫻を優しく抱き寄せて、そっと、口付ける。
「……ぁ」
「櫻」
「……」
「さくら」
「……ぅん」
「さくら、好きだよ」
ずっと、欲しかった。
紅蓮のことを”紅蓮“と呼ぶ、正当な理由と、立場が、ずっとずっと欲しかった。
それが、今。
「わ、たし……も」
今、目の前に。彼自ら、差し出してくれていて。
「わたし、も……紅蓮が、すき」
差し出されたのは、何気無いもの。
愛おしくて、大切で。けれどとても、ささやかなもの。
「ずっと、ずっと前から、紅蓮のこと、すきだったの」
贈った言葉は酷く不恰好で、でも、貴方だけに伝えたい、特別な言葉で。
「紅蓮のこと、”お兄ちゃん“じゃなくて、ずっと”紅蓮“って呼びたかった……!」
受け取ったささやかな宝物は、とても綺麗で、美しくて、尊くて。
私が受け取ってもいいのか、戸惑ってしまうけれど。
「──うん。俺も、櫻に”お兄ちゃん“って呼ばれるたびに、”紅蓮“って、呼んでほしかった」
貴方自身が、私に受け取ってほしいと、そう、希ってくれるのなら。
「……ぅん、ごめん、ね」
「謝らないで。櫻の口から聞くのなら、“ありがとう”にしてくれると、俺は嬉しいよ」
私は、喜んで──綺麗で、美しくて、尊いこの宝物を、受け取ることができるの。
「ありがとう、紅蓮」
「……うん、その言葉の方が、ずっと嬉しい」
「でもやっぱり、ごめんね。紅蓮のこと、すごく待たせちゃった」
櫻がまだ12歳だったあの日、紅蓮からの切実な告白を受け取ったあの時は、彼が言った言葉の意味をよくわかっていなかった。
理解っていなかったから、謝らせてしまった。随分と待たせてしまった。
今ならば、どれだけの想いがこもった言葉だったのか、理解るのに。
「謝ることじゃない。でも凄く、我慢したんだ。色々と。……さっきはごめんな?怖かっただろ」
「……っ」
激しく口付けあったことを思い出して、櫻がまた真っ赤になる。目がぐるぐると回って、もごもごと口を動かして、慌てているのが目に見えてわかるので、紅蓮としてはとても面白い。
「でも、外に出て正解だった」
「……?」
「……ほら、いい月夜だ。今夜は満月だぞ」
実はすでに辿り着いていたのは、村からちょっとだけ離れた小高い丘にある、一本の枝垂れ桜の巨木。ちょうど櫻たちの位置からだと、桜の向こうに大きな満月がある。
「春霞の青空の下で見る桜も綺麗だけど、俺は月夜の桜の方が好きなんだ」
「…………きれい……」
「ここの桜を見に、子供の頃は夜中に抜け出してきたんだ。眠気に勝てなくて、根っこの間で眠って、翌朝風邪をひいたりな」
「ふふ、そんなことあったんだ」
「子供だからな。──今はやってないぞ」
「ふふっ、わかってるよ、……紅蓮」
月明かりが翳ったと思ったら、目の前に紅蓮がいて。
「……ん」
また、しっとりと甘く口付けられる。
「好きだよ、櫻」
「ぅん、私も、すき」
「…………」
「…………」
「…………あーーーー、やっっっと言えた。明日はジイさんから尻尾で叩かれるかもな」
「えっ、なんで?」
「『儂の大事な孫娘に手を出しよって』とか言いそうだろ?」
「あー、あぁ……」
やりそうでは、ある。
「じゃあ、明日は紅蓮とずーっと一緒にいるね」
「???」
「そしたら、おじいちゃんも尻尾で叩けないでしょ?」
可愛い孫娘に当たっちゃうかもしれないし?
いたずらを思いついた子供の顔でそう言えば、珍しくきょとんとした顔の紅蓮が破顔する。
「……いいな、それ。さすがは櫻だ、ジイさんの扱い方をわかってる」
「いつもは使えないけどね。時々しかやらないから効果があるの!……って、島田のお姐さんが言ってた」
あの胸元を大胆に開けた格好をした女性の姿を思い浮かべ、紅蓮は急に苦虫を噛み潰したような表情になった。
大陸で遊女をやっていた女性だ。櫻に何を吹き込んでいるんだか……しかもなんだ『お姐さん』って。
「お前はほんとうに……あの人に何を吹き込まれてるんだ」
「ふぇ!?」
「あ?」
「ななななななな、なにも、ふ、ふきこまれて、なんか、ないよ!!!」
どう考えてもおかしい。
絶対に何か吹き込まれている。
そう確信した紅蓮は、くるりと踵を返して島田の家に向かって大股で歩き始める。
「…………ちょっと島田のヤツ締めてくる」
「ふぇえええ! だ、駄目駄目!」
「お前は俺の娘でもあるんだ。俺の娘になんてこと吹き込んでやがるアイツ……!」
「なにも吹き込まれてないって言ってるのに!」
「じゃあそのやたら胸元の開いた服はなんだ? 肩に香油を塗り込んでいるのは? 気付いてないと思うなよ櫻!」
「みゃ!」
抱き締めたときに香る、甘ったるくて色っぽさのある、嗅ぎ慣れない香り。櫻がそんなものを持っているはずが無いから、きっと女衆の誰かが持っていたものだろう。
「櫻に香油はキツすぎる。櫻自身の香りで十分なんだよ」
「あ、ぁわわ」
「大体なんだ、あんなに細くて背も低かったのに、知らないうちに綺麗になってさ。仕事で出かけている間に女衆とも仲良くなってるし、他の獣狩とも仲良くなってるし、料理だってできるようになって」
「ぐ、ぐれん……?」
「国中回ったってこんないい女そういないだろ?それが目の前にいるって……まったくさぁ」
「……紅蓮が壊れちゃった」
「壊れてない。常に思ってるから」
「ひょえ」
櫻は真っ赤になりながら紅蓮の話を聞いていた。全部全部褒め言葉に聞こえてしまって、照れるなと言う方が難しい。好きな人からこんなに褒められてどうすれば照れずにいられるものか、誰かにご教授願いたいものだ。
────やっぱり島田のお姐さんかな。
結局、こういった話で櫻が頼るのは村の女衆なのだ。だって、櫻の恋の先生たちばかりだから。
「──はぁ。冷えてきたな、櫻、戻ろう」
「うん」
紅蓮が差し出す手を取って、彼に微笑みかける。櫻のその姿を見た紅蓮は、ふっと目を細めた。
「? どうしたの?」
「…………櫻、『花影』って言葉、知ってるか?」
「かえい?……ううん、知らない」
「花影って、月の光に照らされた花の影って意味なんだ」
「……うん」
「いま、櫻の真後ろに月がある」
櫻が振り向けば、そこには確かに満月がある。暗い夜、枝垂桜が月明りに照らされていて、すごく綺麗だった。
「櫻の花影だな、って。そう、思っただけ」
「…………っ」
「帰ろう。明日の朝起きられなくなる…………いや、大半の一家は起きられなさそうだけど」
「??? なんで?」
「二日酔い」
「ああ……」
櫻も納得してしまった。
紅蓮は下戸ではない。が、強くないし飲むと眠くなるからほとんど飲まない。
櫻も非常に弱いことが判明したから、今後飲むことが無いように紅蓮が制限しないと。他の男に擦り寄って寝られたら、紅蓮はその男を殴りそうになるかもしれない。
「ちゃんとお布団で寝たいな」
「櫻はすっかり布団が気に入ったな」
「洞窟で寝てたんだよ? お兄ちゃんから貰った毛布なんて、天才の発想だと思ったもん」
「そうだよなぁ、冬は大丈夫だったのか?」
「毛布を貰ってからはそれにくるまって移動してたよ」
「え、動きにくくないか?」
「あったかいんだもん。お兄ちゃんの匂いもするし。でも毛布を貰う前までは、狼さんの巣穴に混ぜてもらってぬくぬくさせてもらってたの」
「山のみんなの孫娘だったんだな」
「うん! 紅蓮と同じだよ。紅蓮も、村のみんなが両親でしょう? 話す人みーんなが『みんなの息子』って言ってたもの」
「……そっか。……あ……山のみんなの孫娘を急にここに連れてきたから、山のみんな心配してるかもな?」
「……あ、そうかも」
「元気になったんだし、挨拶に行こうか」
「そうする! おじいちゃんも一緒にね」
手を繋いで、枝垂桜と満月を背負って二人は歩く。
思い出す過去は冷たいけれど、今この瞬間、二人は寒さなんて感じないくらい温かい。
心も、身体も、お互いの気持ちで満たされて。
何も持たない二人だった。
家族も、家も、名前も、なにもかも。
周囲に恵まれて、支えられて、守られて、愛されて。
何も持たない二人は、周囲に守られた二人になった。
紅蓮はふと、隣で楽しそうに歩く櫻を見つめる。
何度も何度も、一緒に朝を迎えて、夜に眠った。
それほど時間を重ねても、櫻の歩幅を覚えたのはここ最近だ。普通に歩いているともう少し歩幅は大きいのだけれど、紅蓮と話しながら歩いているときだけ、櫻の歩幅はほんの少し狭くなる事にも。
その事実に気が付けたことが、凄く嬉しい。
周囲に支えられながら育った青年は、自分がここで生きていても良いのかわからないまま生きていた。
周囲に支えられながら育った少女は、自分以外の全てを知らないままに生きていた。
生きる理由もわからず生きていた青年は、“何も知らない”少女に出逢い、文字通り世界が変わった。
自然が世界の全てだった無知な少女は、“世界を教えてくれる”青年に出逢い、文字通り世界が変わった。
守ってあげたくなった。
そばにいてほしくなった。
けれど、お互いの手を取り合って、また世界が変わった。
守りたくなった。
そばにいたくなった。
何かをしてあげたいのではなく、したくなった。
何かをしてほしいのではなく、したくなった。
自分の我儘を、見つけた。
何も持たなかったのに。持っていなかったのに。
周囲に背中を押され、自ら手を伸ばし合って、手を取り合って。
貴女の形をした未来は、いつだって目の前にあった。未来に手を伸ばすのは、やっぱり怖くて、苦くて、苦しくて、目を逸らして。気付かないふりをした過去に戻ることは、もう二度とできないけれど。
でも。
櫻は紅蓮の腕にぎゅっと抱きついた。
もう二度と戻れないから、もう二度と離すことが無いように。離れないで、離さないから。伝えたい言葉は、伝えられる時に伝えるから。
周りの人間から見たら、可哀想な境遇の二人だった。本人たちはそう思っていなかったけれど、周囲からすると、可哀想な子達だった。幼い頃から、何も持たない可哀想な子達だった。
けれど、何も持たない、まっさらな子供達だからこそ。
柔らかで、ぎこちなくて、不格好だけれど二人らしい、そんな希望に満ち溢れた未来を歩けるのだろう。
目的地がどこか、どこに向かっているのか。そんなことは誰にもわからない。誰にもわからないから、現在がとても愛おしくて、こんなにも輝いて見える。
「ねぇ、紅蓮」
「うん?」
「──大好き」
「────不意打ち、喰らった」
「ほんと!?」
「ほんと」
紅蓮は櫻の嬉しそうな笑顔を、絶対に忘れないように、一瞬一瞬全てを記録するように、脳裏に焼き付ける。
獣狩なんて仕事だ。いつどうなるかわからない。だから、伝えられる時に、伝えたい言葉を伝えよう。
「……櫻」
「ん、なぁに?」
だから、緊張で高鳴る心臓の音には少し耳を塞いで。
不器用な言葉を、櫻の耳元に囁いた。
「 」
最終話です。
最後までお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
やさしくて、やわらかくて、ちょっと切ないけれどあたたかい物語。楽しんでいただけたでしょうか?書いていた私は非常に楽しかったです。
娘同然に育てていた妹のような女の子を、だんだん恋愛対象として見てしまう紅蓮くんの葛藤が描きたかったのですが、大蛇と櫻ちゃんの異種族間の家族愛のお話にもなりましたね。
自分史上最も納得のいく作品になりました。
プロット制作の段階で泣いてしまった作品はこれが初めてです。そのくらい、思い入れのある作品になりました。
本編はこれで完結ですが、気まぐれにSSも投稿しようと思います。ふと思い出したときにでも、遊びに来てくださるとうれしく思います。評価やいいねをしていただけると更に更に喜んで、飛び跳ねながらSSを書くことになると思います。
最後に、読んでくださった貴方へ。
私の作品と出会ってくれてありがとう。
出会って、ここまで読んでくださって、ありがとう。
明日からの貴方が、一瞬一瞬を大切に、輝き続ける今を胸を張って歩んでくださることが、私の喜びです。
どうか笑顔を忘れずに。貴方の笑顔は、この物語よりもずっと、多くの人を幸せにする力を持っているのですから。
だからどうか、忘れないで。
この世界に、貴方以上に価値のある人間はいないんです。
貴方がいてくれるだけで、貴方が私の物語を読んでくださっただけで、私はこんなにも幸せなのですから。
だから、ありがとう。
明日以降も、貴方が笑顔でいられますように。




